「やめて」・にげて・はなして。身内から子どもへの性犯罪:被害者から加害者になった私・犯免狂子が精神治療から学んだこと

4歳から父の猥褻・母の体罰が「愛情表現」と教わり、混乱の吐口としてきょうだいに性的・精神的な加害をしていことを治療中に自覚。3つの気づき:①家庭内で子どもへの性犯罪が、加害者の「無自覚」のうちに起きている。②性被害を否定することは、自己防衛本能が正常に作用しているからだが、否定し続けても苦しみは増す一方である。③被害を認めて精神治療を初めないと、被害者も「無自覚」のうちに自他を傷つけ加害者になってしまう可能性が高い。精神疾患「複雑性心的外傷後ストレス障害(C-PTSD)」歴35年以上。

『犯免狂子』

 

⚠︎注意

気分や体調が悪くなると感じたら、直ちに読み進めることを止めて、ご自愛ください。

 

あらすじ

4歳以降、父親からの強制わいせつや、母親からの体罰などが「愛情表現だ」と刷り込まれた著者が、身近な人を虐待してしまうほどに感情のコントロールが効かない症状を含む精神病(複雑性心的外傷後ストレス障害/C-PTSD)を治療しながら、安楽死を遂げるまで、性被害と性加害の経験を語り、学びを発信することで、子どもの心身が尊重される社会に貢献する道のりを綴る自伝的セルフセラピー。

プロローグ

 

こそばゆい感覚で目が覚めると、パンツの中で手が動いていた。

真暗闇の中でその手は、右側で寝ているはずの父親から伸びていた。

寝ぼけてるのかな。それともお母さんと勘違いしてるのかな。でもお母さんのそこには毛が生えている。やっぱり寝ぼけてるんだ、と思い直した。

それなら手を振り払えばいい、と寝返りを打つように、左側で寝ていた母の方を向いた。

するとその手はパンツの真後ろを握り締めた。

!? 

体と思考が一瞬、硬直した。起きてる?寝てない?なんで?お母さんは寝てる。次の瞬間、その場に居ても立ってもいられなくなり、なるべく素早く、でも誰も起こさないよう静かに気をつけながら、どうにかベッドから抜け出し、トイレに駆け込み、便器のレバーを押し、流れる水の音量に焦った。

自分の寝室のベッドに入り、トイレを使うために起きたんだ、そう考えながら、眠りについた......はず。

翌朝「お父さんにメゴメゴしてもらったんだって?よかったねぇ」と母親から言われながら、ギュッと抱き寄せられた。

という話を子どもがしたら、信じられるでしょうか。

少なくとも私は、信じませんでした。信じられませんでした。

 

「恵まれた環境」

私は1980年代にアメリカで、日本人の両親の間に生まれました。

「帰国子女?」と、よく質問されるので、日系米国人2世と予め言及させていただきます。

両親は1970年代、東京にあった英語の語学学校で出会ったそうです。

女優並みの美人だった20代前半の母に一目惚れした父は30代前半。

自動車整備の会社を売却して、その資金で世界中を放浪するいわゆるバックパッカーを数年間続けながら、母に手紙を書き続けたそうです。

父が最終的に辿り着いたのが東海岸屈指の大都市。お金を使い果たしホームレス同然の状態で、日本食レストランに雇ってもらい、皿洗いから、ウェーター、バーテンダーからマネージャーへと出世。

母は片親の父の反対を押し切って、駆け落ちしたそうですが、この話は子供心にも意外でした。生真面目な母親のイメージに反しているような行動に思えたからです。

ハワイで2人きりの結婚式を挙げ、そこで授かったハネムーンベビーがお前だと、父から何度聞かされたかわかりません。

私が生まれた日は小雪の夜、家族や友達に一刻も早く知らせたくても未明だったため、電話ができず、いてもたってもいられなかった心境を、父は目を輝かせながらよく語りました。

名前は、父がバックパッカー時代に見たヒマラヤ山脈を染める朝日から閃いて、女の子が生まれたらつけようと決めていたそうです。

授かる前から望まれていた娘であることは疑う余地もありませんでした。

母でさえ、もともとは子供に興味なかったそうですが、私が生まれたことで「自分の子供は可愛いものなんだ」と気が変わったのだとか。

2年後と3年後には弟が誕生。母親曰く、私は弟たちの面倒をよく見る姉だったそうです。私はほとんど泣かず、聞き分けのいい子で、育て易かったので、弟たちが泣き続けてるのを心配してドクターに相談したら「赤ちゃんは泣くのが仕事です」と言われたそうです。

弟たちが生まれてからしばらくして、都心部から車で1時間くらい離れた郊外の住宅街に転居。都心部は今よりも治安が悪かったためらしいです。

育った家は、4LDKと地下室がある二階建ての一軒家。大きなカエデの木がある芝生の庭が前と後ろにあり、小鳥やリス、夏には蛍も飛んでいました。

父は通勤に遠くなったためレストランを辞め、家から車で約30分のところに日本食品店を開業。その地域は、裕福なユダヤ人や、日本の大企業から出張で短期的に住んでいた日本人家族が多く住むエリアでした。

私は幼稚園の時から土曜日だけ日本語補習校に通っていたのですが、私のことを地域で唯一の日本食品店の子どもとして知らない人は少なかったと思われます。

「いいわね、お菓子を一杯食べれて」とお客さんから言われる度に反応に困りました。店に陳列されているものは、あくまで商品。私たちがそれを食べさせてもらえることはほとんどありませんでした。

小学生の頃、マヤ遺跡とケイマン諸島のカンクーンへ家族旅行に行った時、巨大なジップロックにあらゆるお菓子の詰め合わせを父が一人分づつプレゼントしてくれたことが一度ありましたが、その時の感激は忘れられません。

お菓子は滅多に与えられなかった訳ですが、日々の食事は、一般家庭より上質だったという感覚がありました。

普段の食卓には母親の手作りご飯が並びました。野菜が多い和食が中心でしたが、和洋折衷なにを食べても美味しかった。

庭では野菜も育てていて夏は糠漬けも出してくれました。3時のおやつも手作り。焼きプリンや、ドラ焼きも餡子から作ってくれました。誕生日のケーキもスポンジからホイップクリームまで全てが手作りでした。

刺身の盛り合わせは、すき焼きの時は父親が腕を振るってくれました。

父の兄である伯父も板前で、幼い頃は一緒に住んでいたことがあり、魚の旨い部位や食べ方を目の前で教えてくれました。

外食は年に数回。近所の町中華レストランや、ちょっと足を伸ばして中華街で本格的な飲茶をいただいたり、ピザをテイクアウトしたりすることはありました。ピザの時だけはコカコーラを飲みました。

 

「お前を飲兵衛にするのが夢なんだ」と父親は、子供の頃から頻繁に言っていました。

子どもだからまだ早いという食べ物は一つもなく、幼い頃から私の好物は、海鼠、鮑の肝、鰻の肝など酒の肴のようなものばかり。

甘いものより断然、苦味や磯の香りを感じられて食感が独特な生物が特に好きでした。

酒の美味しさを理解したのは先のことですが、正月の時に初めて盃をいただいた時は、嬉しかった。子供なのに特別な日はお酒を少しなら口にしていいという、一般常識とは違う体験ができたことを誇らしく思いました。

父は自営業の日本食品店で、テイクアウト用の巻き寿司やパーティー用の握り寿司も作っていたので、新鮮な食材が常備されている状態でした。

雲丹などの高級食材も仕入れ値で食べられましたので、上質な物とミョウバンが強すぎる物の違いも噛み分けていました。

両親は年末になると毎年、お客様のためにもお節料理を、仕込んでいました。

大金持ちの屋敷で開催されるパーティーのケータリングをすることもありました。

私が食べることに目がなかったのは、父親の職業柄、母親の食いしん坊ぶり、伯父が板前と魚屋だったことの他、父方の母が富山県にあった料亭の娘だった影響も大きいです。

例えば、子どもの私が祖母と母と蟹のフルコースを頂いている側で、隣の席の子どもはお子様セットを食べさせられていたのを哀れに思いました。

私はお子様セットで誤魔化されたことは一度もなく、それが誇りでした。

アメリカでは毎日、朝は母親と子供たちで食べ、昼は母の弁当などをいただきました。夜7時頃には5人家族揃って手を合わせて元気よく「いただきます!」と言ってから食べ始めるのは、父親が憧れていたというルールでした。

私は夕飯の時、底なし沼のように食べました。ご飯を何杯もおかわりし、米粒一つ、汁の一滴も残さず平らげました。よく食べることを褒められました。

そして「ご馳走様」を言うと毎晩、正露丸を飲みながらトイレにこもりました。その度に、私はなぜお腹が痛くなるまで食べてしまうのだろう?過食症?でも過食症は、痩せたい人がダイエットのために食べては吐くことを繰り返すイメージだったから、自分は違うと思っていました。私は痩せの大食い。ご飯が美味しいから仕方がないと納得していました。

小学生の頃、ハゲワシに狙われている餓死寸前のアフリカ人の子どもの写真を見せられ、「世の中には食べられなくて死ぬ子どもが大勢いる」と教えられました。その子達に比べたら、自分は恵まれていると思いました。私ができることはご飯を残さず食べることだ。食べさせ甲斐があるとよく言われ、喜ばれていました。

食べものは、孤独も埋めてくれました。

弟たちと一緒になって悪ふざけをしていたら、年上の友達から「お姉ちゃんでしょ」と怒られ、ショックで弟たちと距離を取り始めました。

それまで呼び捨てされていたけど、その日から「お姉ちゃんと呼びなさい」と命令しました。

弟たちと無邪気に遊べなくなって孤立していましたが、味見と称して特別扱いを受けることで優越感を覚えることができました。

母がイカの塩辛を作る際、イカの嘴を食べさせてもらえるのは私だけでした。

通称トンビというコリコリした食感が独特なこの珍味は一杯から一つしか取れない希少部位。

イカの塩辛に二杯使っていたので、私は二つとも食べさせてもらっていました。

食卓には絶対たどり着かない特別な味覚体験は、退屈な日々のハイライトでした。

「早く大人になるためには」

ある日、母親が他の大人と世間話をしていた際、私は隣で興味深く聞いていました。母は主に聞き手で意見がないようしたが、私はウズウズしていました。とうとう話題が恋愛なった時、小学校一年生だった私は片思いしていた同級生Lの話をしたくなり、声を発した瞬間「大人の話ッ!」と言い放った母の鬼面に、私は凍りつきました。

子どもは言いたいことがあっても話すことができないんだ、と学びました。

別の日、Lと兼ねてから遊びたかった私は、母の目を盗んで、近所に住む彼の家へ歩いて行きました。Lの家の前で彼と挨拶を交わし、幸せな気持ちになったのも束の間。急に姿を消した私の行方を心配した母に間もなく見つかり、彼の目の前で叱られ、この上ない屈辱を味わいました。

何も知らない母は後日、彼が教科書を借りに来た時「Lが来たわよ」と呑気に呼びましたが、私は仏頂面で彼にそっけない態度を取りました。そんな自分が嫌でした。

 

毎日毎日、母が学校に迎えに来て、そのまま家に直行し、ずっと家事の手伝いばかりだった私は、早く大人になって話を聞いてもらいたい・やりたいことがしたいと思っていました。

「どうすれば大人に早く近づけるだろうか」と考え、行き着いた答えが「働く」でした。

そして10歳の誕生日、寝室のベッドに座っていた父親の足元に跪き「仕事を手伝わせてください!」と頼み込みました。

土下座は時代劇かなにかで覚えました。頭を下げる途中、自分の大袈裟な態度に脳内が一瞬ざわつきました。でも、子どもという圧倒的な不利な立場を補い、断られる余地を少しでも減らすために、全身全霊で大人の真似をするしかないと思い、額を床につけました。

それからは現地校も補修校もない日曜日は毎週、朝から晩まで父が経営していた食料品店で仕事しました。

ある日、日本語学校の同級生で何度か一緒に遊んだことがある女の子が、ローラーブレードを履いたまま、店に入ってきました。

スイスイと店の中を滑っていく彼女の自由さに比べ、自分が惨めになり、その時だけはレジを打たなくてもいいように、隠れました。

店は大体夕方ごろになると暇になり退屈でしたが、家にいるよりはマシでした。

ある日、お客さんの一人であるユダヤ人女性から「うちで働かないか」とスカウトされました。

各地にある宴会場で、イベントに合わせて会場を飾りつける仕事で、手先が器用な私は得意な作業でした。

土日祝日、年末年始はかき入れ時で、深夜まで働くこともありました。

休憩はおろか食事は移動中、父が作った巻き寿司を食べることがある程度。

それでも実家や父の店にいる時に比べものにならないくらい夢中になれたので、苦に感じることはありませんでした。

ただ一度、年末の深夜に帰宅し、母親のおにぎりを一口食べた途端、頬を伝った一筋の涙に驚いたことがあります。

空腹に気づかないほど、仕事に夢中だったようです。

「養子に欲しい」と当時、そのユダヤ人女性から言われたと、大人になってから母親から聞きました。

お小遣いはもらっていなかったけれど、働いたお金で貯金は溜まっていく一方でした。

欲しい服があっても、母親は顰めっ面で、私の好みを批判します。

お金はあるのに、中学生頃からか万引きをし始め、スリルを楽しむようになっていました。

「他人の不幸は蜜の味」

中二になって現地校に友達ができました。

中学に入ると、他の現地校から生徒が集まるので、世界が広がるはずなのに、中一の時は友達がおらず、日本語学校も母親がPTAをしたくない都合で、私が泣きながら抗議しても通わせてもらえなかったので、嬉しさもひとしおでした。

その子は、コロンビア出身の女子S。授業中、コアラってなに?って聞いてきた時、コアラを知らないことに私は驚いたと同時に、分からないことを恥ずかしがらずに認められて凄いなと関心しました。

中2の時、フランス語の授業で同じクラスになりました。

ある日、Sから電話があり、放課後に一緒に遊ぶようになりました。

Sは、義父との間に確執があり、よく怒鳴り合いをしていました。

ハロウィンの夜、外出を禁止されるも、2階にある自室から飛び降り鼻を折ってしまいましたがそれでも、外出した話を聞き、彼女を尊敬しました。

いくら血が繋がっていなくても目上の保護者に真っ向から反発する、Sの反骨心は、眩しかった。

Sはやがて不登校になりましたが、放課後よく彼女の家に遊びに行き、話を聞きました。

年上の友達が多く、オープンシークレットを初めて体験させてくれたのも彼女でした。

Sを通じて同級生のCと出会い、Cとも仲良くなりました。Cは母親がドラッグやアルコール中毒で、母親のボーイフレンドから暴力を振られながら、貧困生活を送っていたけど、離婚した父親に引き取られたという過酷な幼少期を話してくれました。

まるでドラマや映画のような波瀾万丈な内容に比べ、自分の人生がどれほど平凡かと思い、ただただ聞き手に徹していました。

他人の苦労話を聞くと、どこか楽になる自分がおり、永遠に聞いていられました。

17時頃、母親が車で迎えに来ると、ズンと気持ちが落ち込みました。

19時には一家揃って食べる夕食の準備があるし、食後はもう暗いということで外出できませんでした。

私が一日で楽しいと思えたのは学校が終わる15時から17時までのたった2時間。それも毎日ではない。

やっと気の合う友達ができたのに、あまりにも短すぎました。

「日本人の誇り倒壊」

The Rape of Nanking

「恋人へのDV」母ー女性性

 

「墓場まで持っていく」

 

YAZで死にかける

 

サイケデリックス三昧」

 

NOが言えない



「封印されていた怒り」

 

 



「ようちえん初日」

2022年1月27日の明け方、フラッシュバックした。

 

プリケー(アメリカの幼稚園)の初日、東京のおばあちゃんから贈られてきたばかりのぬいぐるみを両腕に抱えて行った時のこと。

 

赤毛ペルシャ猫のそれは、本物みたいに立派だったけど、スイッチを入れるとニャーニャー鳴き、保育園ではうるさく感じて恥ずかしくなった。

 

お腹に隠されているバッテリー入れの代わりに、なんでも隠せる深いポケットがあったらよかったのに。

 

それを持っていくことは二度となかった。



「嘘を初めてついた日」

 

幼稚園から帰ると、真っ白いケーキに透明のラップがふんわり掛けられていた状態で、ダイニングテーブルに置かれていた。

ラップの隙間から人差し指を突っ込んでホイップクリームを舐めた。

穴を見つけた母親から険しい顔で問いただされ、とっさに「ううん」と言った。

「嘘つきに育てた覚えはありません!嘘は泥棒の始まり!」と母親は怒鳴って、パーンっと頬を引っ叩き、ウォークインクローゼットに閉じ込めた。

頬の痛みよりも、母親の反応がショックだった。

泣きながら、ドアを少しだけ開けたけど、母親が怖くて出る勇気まではない。でも暗闇も怖いので、電気をつけた。

見渡すと、棚に置かれた布の下から画像が覗いていた。布を捲ると、苦しそうな表情の女性。裸で、何者かに痛めつけられているような女性ばかりの写真で埋め尽くされた雑誌の山が積み上げられていた。初めて見たにも関わらず、父のものだと悟った。

その瞬間、さっきまでの悲しい気持ちがスーッと引いた。

お父さんが本当のことを隠して嘘をついた時、お母さん、なんで喜んでいたの?

お父さんがやったことはやっぱり、よかった訳ないよね?

でも、まだ騙されているお母さんのことをどう信じればいいっていうの?

 

「悪夢」

腹痛や風邪の時は、両親の寝室にあるキングサイズのベッドで寝た。

その都度、必ず、頭の中で同じ口論が繰り返される。

なんで、お母さんを間に挟んで寝るようになったんだっけ?

だって、昔はお父さんとお母さんの間で誰が寝るか弟たちと取り合いになってたじゃん。

ジャンケンして、勝った時はあんなに嬉がっていたのに。なんで?

......。

でも、アレは悪夢でしょう?

だったら、お父さんとお母さんの間で寝ればいいじゃん。

なんで、お母さんを間に挟んで寝るようになったんだっけ?

......。

だから、アレは悪夢でしょう?

永遠に埒が明かないので、羊を数えてみたりしたけど効果はなかった。



「両親と対決」



安楽死

 

「浮気」

弟たちは幼児期、よく下半身を丸出しにして走り回っていました。

私はある日、何を思ったか、両親の寝室のベッドの上に座った状態で下半身を露出していた2歳の弟の男性器を人差し指で突っつきました。

すると弟はケラケラと笑いました。

私はその反応に驚いて、もう一度、同じことをしました。

弟は同じ反応。

弟の反応は私にとって衝撃的でした。

我が家では、まともな性教育を受けた覚えはありませんでしたが、男の子の「おちんちん」が女の子の「おまた」に匹敵する場所くらいの認識はあったと思います。

その場所を他人に触れられて笑える神経が、私には不思議でたまりませんでした。

父親から下半身を触られた私の反応と全く異なっていたからです。

小学校

そんな母親について最も鮮明に覚えている記憶は、小学生低学年の頃。

私が算数の勉強で、時計の読みを間違えると、母親は「なんでわからないの!?」と怒鳴って、手のひらでパーン!と私の頬を打ちました。

痛いことよりもなによりも、母の声と顔と手が怖くて、涙と同時に出る大量の鼻水を啜り、呑み込み続けました。

母親はお構いなしに怒鳴り続けましたが、私はなんでそこまで怒られなくてはならないのか理解できず、勉強どころではありませんでした。鼻が詰まり、みぞおちからくる痙攣が治らず、ヒックヒックと声が漏れてしまうのを抑えられませんでした。

時計の勉強を小学生1年の頃にしたとすると、私は8歳くらいだったということになります。でも38歳になった今も「時計ー読めない=体罰」という計算式の理解には苦しみます。

九九の時も同じように、怒鳴られ、叩かれました。恐怖のあまり、肝心な?勉強に集中できませんでした。

時計と九九を除けば、成績は総合的に優秀な方でした。算数だけは苦手意識が根付きましたが、皮肉なことに中高で、数学は全科目で唯一上級クラスに入れられていました。

 

小学生低学年の頃、私のコンプレックスは「子どもであること」でした。「子どもだから、話を聞いてもらえないんだ」と解釈していたからです。

ある日、母親が他の大人と世間話をしていました。話題が恋愛の話になった時、私は片思いしていた同級生の話を聞いてもらいたくて、声を発した瞬間「大人の話ッ!」と鬼面の母がピシャリと言い放ち、私は凍りつきました。

私も早く大人の会話に参加したい。「どうすれば早く大人になれるだろうか」と考え、行き着いた答えが「働く」でした。

そして10歳の誕生日、寝室にいた父親の足元に跪き土下座をして「仕事を手伝わせてください!」と頼み込みました。それから現地校も補修校もない日曜日は毎週、朝から晩まで父が経営していた食料品店で仕事を始めることができました。

土下座は時代劇かなにかで覚えました。頭を下げる途中、脳内が一瞬ざわついたのを覚えています。でも、子どもという圧倒的な不利な立場を補い、断られる余地を少しでも減らすために、全身全霊で大人の真似をせねばならないと思い、額を床につけました。

しかし仕事を始めようが何をしようが、母親の地雷がどこに落ちているかは依然として予想不可能でした。ある時から私は「お母さんから嫌われているんだ」と納得することで、平常心を保つ訓練を始めました。

 

そんな母親が、私にではなく、父親に怒ったことがありました。

ある夏の日「もう、いやらしい!娘の胸を除くなんて!」と突然、母親が怒鳴りました。

突然の大声にびっくりした私が父の方に目をやると、彼は罰が悪そうに首をすくめていました。

その時、私はノースリーブを着ていました。発育する前でそれまで自分の胸を意識したことはありませんでしたが、その時、不快感を覚えました。

同時に、驚きました。

母親が「そーゆーことを嫌がる人なんだ」ということが、意外だったのです。

 

志○けんの番組を家族5人揃って両親の寝室にあったテレビで見ていた時期が小学校中学年くらいまでありました。胸を剥き出した大勢の女性達を触ったりして笑いを取る『バ○殿』、女性の部屋へ勝手に侵入して恐怖心を覚えさせて笑いを取る『変○おじさん』。

ある時、父親が「志○けんもくだらないな」と苦笑していたのを聞いて、え?と思いました。それを子どもに見せる父親のことはどう解釈すれば良いというのでしょう。

いずれにせよ、私には「わいせつ行為=面白い」という認識が着実に植え付けられていきました。

その後、保護者の間で問題視されていた「ク○ヨンしんちゃん」のマネをして、無抵抗の弟達の性器にマーカーで落書きをしました。私はそれを「面白い」と思ってやりました。

2回目に同じことをしようとした際、弟達は嫌がって逃げました。その時の私の心境は「つまんないな、前はやらせてくれたのに」と裏切られたような気持ちにさえなりました。

かつて父親から性器を触られ恐怖を覚えた私も、数年後には認知の歪みがこれほどまでに進行していたのです。

「ク○ヨンしんちゃん」にしても「バ○殿」にしても「変○おじさん」にしても「評判は悪いけど、ふざけてるだけで悪気は無さそうだから憎めないキャラクター」であり、歴とした「犯罪行為をしている」という認識は子どもの頃はありませんでした。それは、自他との境界線を尊重する根本的な性教育を全く受けていない代わりに、わいせつ行為の情報が日常に溢れ返っていたからでした。

それに「性的なこと=面白い」と解釈できれば、不快な思いをさせられた父親に対する負の感情を最小限に抑え、自分がされたことを「大したことではなかった」と過小評価できたのでした。

そうやって、私の問題行動はどんどんエスカレートしていきました。

小学校高学年、漫画で「カ○チョウ」や「電○あんま」の模写を見つけると、弟達に一回づつ行いました。やってみて面白いという感覚はありませんでした。でも「姉」として弟達よりも上に立っていたいという根深い欲求は多少満たされたのだと思います。

弟達の上に立ちたいという感覚が芽生えるきっかけの出来事がありました。幼年期の頃、私が弟とじゃれ合っているうちに、調子に乗って乱暴がエスカレートした際「やめなさい!お姉ちゃんでしょ!」と年上の友達に叱られました。

このことがショックで、弟達から物理的・精神的な距離を置くようになり、家の中でもますます孤立していきました。そして「お姉ちゃん」はなにかと我慢しなくてはならないことが多いなら、少なくとも弟達を従わせないと益々不利だと思いました。それまでは名前で呼ばれていましたが「これからは『お姉ちゃん』と呼びなさい」と命令したのを覚えています。

弟達は双子のように仲が良く、放課後は近所の同級生と毎日のように遊んでいました。私は土曜日に通っていた日本語学校には親友が一人いましたが、平日の現地校には一緒に遊ぶほど仲の良い友達がおらず、孤独で退屈でした。

そんな弟達の間に割り込もうと、一人を味方につけ、もう一人を仲間外れにして、長期間いじめたこともあります。

その後、仲良しの二人を「ゲイだ」と何度も冷やかしました。また鍋の時、私の好物の一つであった白子の味を占めさせないように「食べたらゲイになるよ」と脅したりしました。

言葉の暴力による精神的ないじめは、中高生もしくは短大生の頃までも続いたように思います。ある日「もうやめて!」と末っ子の弟が初めて怒りを顕にしたことで、私は我に返りました。弟達がそれまで強い不快感を無言で耐えていたことに気付き、言動を改めました。

中学校

Sが中退した後も、放課後は彼女の実家に遊びに行き、そこで出会った色んな人の話を聞き、視野が広がりました。

親の離婚率の高さ、家庭内での性犯罪をはじめとする暴力の激しさ、ありとあらゆるドラッグ(アルコールやタバコも含む)の乱用者の多さ、貧困の酷さなどの内容には、目を見張るものがありました。

まるで映画でみるような彼らの波瀾万丈な人生を聞いていると「私の人生はなんて平凡なんだろう」「私の話なんか取るに足らない」などと思えました。

私の両親は離婚の危機はなさそうだし、拳で殴られたりアザまではできたりしてないし、父親はタバコ中毒くらいだし、母のご飯を毎日三食美味しくいただいているし。

ある日、Sから告白されました。幼い時に、親戚の男性(おじ)から「モレスト(痴漢行為)」をされたことを。

この時も、私は聴き手に徹し、自分の話は口にしませんでした。「アレはただの悪夢」と処理されていたので話すことがありませんでした。

それに仮に現実だった場合、「実父」というより血縁が近い「直系血族」が同等な行為を犯した場合は深刻さが一層増す気がして、そのようなことが脳裏を掠めただけでも思考停止になったといった方が的確かもしれません。

また、友人が強姦されたという話をSから聞いた際は、「私は強姦まではされていない」と、自分の記憶が万が一現実だった場合に使える過小評価の切り札を用意しました。

周囲から性被害の話を聞く度に「アノ記憶」が蘇りましたが、私はこのように様々なアングルから言い訳を編み出し、それらを巧みに駆使して認めようとはしませんでした。



私は陽が落ちた後も友達と時間を共にしたくて、自宅には帰りたくありませんでした。でも、我が家には「夕飯は毎日、家族5人揃って合掌し、一斉に『いただきます!』元気よく言ってから食べる」という父親が設けたルールがあり、物心つく頃から守られてきました。

そのためだけではないかもしれませんが、母親は陽が暮れる前には必ず、迎えにきました。私にとってはこの時間が来るのが憂鬱でした。母の車が見え、友達を後にしなくてはならない時は毎回、屈辱的な思いでした。

夕食は、父親が仕事から帰ってきた後、19時頃に食べ始めた気がします。母の手料理は和洋折衷どれも美味しく、父親もお造りや鍋物などの時、腕を振るってくれました。

うちの家系は代々、飲食業だったという影響も大きく、食べることに対して貪欲な一家でした。

私の曽祖父は富山県で料亭を営んでいたと祖母からよく聞いていましたし、伯父は板前でした。父はレストランのマネージャーなどの経験を経て日本食料品店を自営し、一般庶民から富裕層まで幅広いお客さんのために特注の料理を提供したりしていました。

なので中流階級で育ちながら、食生活においてはその限りではないと感じる場面が多く、「私は恵まれた家庭で育ったのだから文句は言えない」と思わざるを得まないところがありました。

制限が多すぎる家庭だと感じていましたが、食欲に関しては唯一無制限。私が美味しく沢山食べると、食べさせ甲斐のある子だと言って、大人達は喜んでくれました。赤ちゃんの時から、大人が奮発して嗜むような高級食材を惜しみなく与えられ甘やかされていたそうです。小学生の時、たまの外食に「お子様ランチ」などを勧められたことは一度もなく、大人と同じコース料理を当然のように食べさせてもらったことを、子供ながら誇りに思っていました。父親は私を「飲兵衛に育てるのが夢だ」とよく言っていて、お酒の醍醐味も小学生の頃から少しづつ覚えていきました。

私は長子であった上、父親が結婚前から望んでいた待望の女の子。子どもに興味がなかったという母も私が生まれた時は、「自分の子は可愛い」と思えたそうで、機嫌の良い時は父と口を揃えて「やっぱり女の子は可愛いねぇ」などと言っていました。私は弟達に比べた時に、両親から特別な愛情を受けているという感覚がありました。それが苦しいのは、両親の愛情が強すぎるほどに大きいからなんだと、恩知らずな自分のせいにしました。

私は毎晩、底なし沼のように食べました。ご飯を何杯もお代わりし、米粒一つ、汁の一滴も残さず平らげました。

小学生の頃からハゲワシに狙われている餓死寸前の子どもの写真を見せられ、「世の中には食べられなくて死ぬ子どもが大勢いる」と教え込まれました。その子達に比べたら、自分は相当恵まれているのだから、何時も文句を言ってはいけないと思っていました。

そして毎晩、食べ過ぎてお腹を壊しました。正露丸を飲みながら下痢をするということを繰り返しながら「私はなんで毎晩、苦しくなるまで食べてしまうのだろう?」と自問してから「それは、お母さんのご飯が美味しすぎるからだ」と自答し「それならしょうがない」という結論に至っていました。

少なくとも毎晩、家族全員揃って夕飯を食べていた高校生くらいまでは、続いていた気がします。

当時は「摂食障害=痩せるために吐く人」というイメージがあり、痩せの大食いで吐くことが嫌いな自分には該当しないと思っていました。

過食症であった可能性に気づいたのは30代後半になってからです。自覚し始めた「躁的防衛」という症状に関連するため、発覚しましたが、そのことはまた後述します。

中学校3年の頃から高校3年にかけては人生で最も辛い時期なので、まだ書く気になれないので、

高校

男関係

何があっても「墓場まで持っていく」

短大

 

責任をとって彼氏

仕事一筋

遠い国への夢

人生を変えた一冊『ザ・レイプ・オブ・南京

アイデンティティ倒壊

日本の大学に進学

大学

伯父の死

祖父の死

祖母の男尊女卑

父親の男尊女卑

政治専攻

教育基本法

憲法第9条を守る会

中国語

2007 GABA

初のカミングアウト

当時の彼氏にカミングアウト

2008 アメリカ訪問、当時の彼氏と別れる

断髪

PB振込

カウンセラーSADかも?

2009年、現在の彼氏と出会う

DVがやめられない、母の呪縛

休学、沖縄

退学届

卒業3月

2010ピースボート

社会人

メトロポリス

ハプニングバー

台湾

激務

パニックでカウンセリング

低容量ピルで臨死



人生リセット

漢方

ヴィパッサナー

リストラ

代替医療での精神治療

フリーランス一本

日本のヒッピー

OZ

土用、陰陽五行説

アーユルヴェーダ

 

スリランカ

オープンシークレット

オレゴン

 

ラブワゴン

NOが言えず散財する癖

ゲシュタルトセラピーWS

2018年5月 ゲシュタルトセラピーのグループWSで、初めて手応えのある治療を受けた。幼児期に受けた性被害を説明しながら涙と鼻水が溢れ出た。ファシリテーターが「お父さんへの怒りを言葉にして」と言われ、私は「え?私は母親に対して怒っているんですけど」と困惑。無理やり言ってみた「父親に対する怒りの言葉」もどこかぎこちなかった。その後、私が「父親の行為を虐待だとは思っていない」と言うと、心なしかファシリテーターがキョトンとした表情をしたのが印象的で、私は何かおかしいことを言っているのかもしれない、あれは虐待という認識でいいのかもしれないと思うきっかけになった。傍観者一人の無神経な言葉を受け傷つく場面もあったが、いずれにせよ、泣いたことで気持ちが少し軽くなったのを感じた。

 

2018年8月 ゲシュタルトセラピーの個人カウンセリングで私は、インナーチャイルドや家族全員を登場させて対話。インナーチャイルドに「ありがとう」と初めて伝えることができた(心はこもっていなかったが、頭で考えて感謝を伝えた:「被害当時、あなた(4歳の私)はベストな選択をしたつもりだった。お母さんに相談しなかったのも、私の居場所を確保しようとしてくれたからだった。ありがとう」。数日後、自宅で私はインナーチャイルドの顔を表情豊かに書くことができ、大人になった自分と会話をさせることができた。それまでのインナーチャイルドの絵は後ろを向いていたり、仮面を被っていたり、のっぺらぼうだった。

 

補足:ファシリテーターの何気ない指摘が印象に残った。曰く「インナーチャイルドの立場で話す時は正座になり、大人の立場で話すと胡座になる」。緊張をしていた4歳の時と、現在の私では人格が真逆に変わってしまった事実を踏まえると、腑に落ちるものがあった。

 

クリニックで「解離性障害」と診断

ゲシュタルトセラピーでICと対話

ICの顔が描けるようになった「幸せになってもいい?」

クリニックで「複雑性心的外傷後ストレス障害」と診断

月経前増悪(PME)を自覚 

セルフセラピー再開

アダルチルドレンの自助グループ

近親姦自助グループ

著名なフェミニストの主張に疑問

 

NSJ

ハワイでフリーズ

母と向き合う

父と向き合う

トラウマだった生まれ故郷へ

弟に謝罪

鬱 

鬱からの躁

二股

NM

コロナ疎開

NM

クリニックで「うつ病」と診断

現在

彼氏へのケジメ

精神クリニック通院

経済的な不安

アメリカ最大級のスラム街住民らに共感

安楽死の準備

 

母のLINEをブロック

 

「母親が一時的に日本に来るらしい」ことを、東京にいる弟から聞いたのは2023年の4月下旬から5月上旬の頃。

 

アメリカに住んでいる母が来日することは滅多ないけど、来ても会うことはないだろうな、と私は思った。

 

なんせ最後にやりとりしたのは2019年の冬。

 

私の誕生日、母親からのLINEメッセージを開くと

ペンギンの群れがオナラでハッピーバースデーツーユーのメロディを奏でるGIFだった。

 

下品にもほどがあるが、それが我が家の特色でもあるので、仕方なく冗談で返した。

 

「なんでわかったの?」

 

すると流石、母。

 

「臭ってきたから」

 

私はこう思った

 

「臭いのはお前らの方だよ」

 

でも返信する気も起きず、そのままにしていたら、4年半が経過していた。

 

コロナ中も母親からの安否確認、一切なし。

 

これは、画期的なことなのである。

 

というのは、私の母親はとにかく心配性で、過干渉で過保護(自分は我が子に暴言・暴力を振るうくせに)だったからだ。

 

過去に私と連絡を取れないと大騒ぎして、他の家族を巻き込んで安否確認をさせたりする人だった。

 

じゃあ、なぜ、母親が何年も連絡をしてこないかというと、答えは明快。

 

私がその年の春、実家に出向き、母親に告白したからだ。

 

幼児の時から父親から猥褻をされていたことを。






私は当時、母のことや、色々なことが重なり、切羽詰まって、ゲシュタルトセラピーを予約






朝、母親からLINE に連絡がきた

 

Hi 元気?

 

私はパニックになった。

 

なんて答えていいかわからなかった。

 

咄嗟に弟2人に連絡。

 

2人の返信は相変わらず早かった。






ニューヨークにいる弟は電話をかけてきてくれた。




 

番外編

結婚・出産について

 

結論:私は子供を生まない・育てない。

 

 

恥の多い人生を送って来ました。しかしそんな私も、4歳で父親から性被害を受ける前までは純粋無垢な幼児でした。

 

 

まだ何の罪も犯していない魂が、この世に生み落とした肉親の手によって穢される。その記憶に苛まれながら恩に着せられ、肉体が滅びるまで、自他を傷つけながら生き地獄を彷徨う。

 

 

これほど残虐な世の中で生き続ける意味などあるのか。この不条理をどうしても受け入れられず、もがいていました。

 

 

だって、世の中には幸せそうな人もいるじゃないですか。なぜ私はあの人達のように人生を謳歌できない運命になってしまったのでしょう。

 

 

 

こんなはずじゃなかった......。

 

 

 

 

 

 

こんなはずじゃなかった......!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「物事は私に対して起こっているのでなく、私を通じて起きている。」

 

 

 

 

 

 

 

 

そのことに気づくと、視界が少し開けた気がしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4歳の私が父親から犯され、隣にいた母親に助けを求められなくするための条件は、私が誕生する遥か昔から揃っていたことを歴史が教えてくれました。「児童虐待への無関心」「男尊女卑の伝統」「近親姦の合法性」などなど……。犯罪の温床が大事に育まれてきたことを。

 

 

もはや、私に直接害を加えてきた父と母だけで負える規模の罪業ではなく、先祖が代々人間社会で継承してきた負の遺産。その先祖の血を受け継いだ私に、そのツケが4歳の時に回ってきただけの話であり、いつ起きてもおかしくない状況だったのです。

 

 

ということは、縁起でもありませんが、私に起きた災難は、いつ誰に起きてもおかしくないということです。

 

 

私も20歳くらいまでは漠然と「25歳くらいになったらお母さんみたいに母親になるのかなー?」と思っていました。でもある時「世の中が変わらないまま出産・子育ては危険すぎる」と思い、選択肢を蹴りました。子どもに私みたいな経験をしてほしくない・そのリスクを取るのことさえ恐ろしいと思ったからです。

 

 

その後もわたしの想いは強まっていて、何の迷いもありません。

 

 

一方で、親や保護者から尊重されて育って心が健やかな子供や、逆行を乗り越えた若者や大人を見ると、世の中捨てたものじゃないなと思います。

 

 

こういう人たちが増えれば人間社会も変わるだろうと、希望さえ芽生えます。

 

 

なので、子供を産む・育てること自体に反対なのではありません。機能不全家族出身で、自他への正常な愛し方を知らない私には「無理です」とやらない選択を明確にしているという訳です。

 

 

その代わり、私は出産・子育てにかけなくていい時間を、よそ様の子どもへの性的虐待をはじめとする暴力が減り続ける未来を想像・創造することに費やします。誰の子であれ、私のような経験をしてほしくない想いは変わりません。

 

 

「出産・子育て」に対して楽観的になり過ぎるのは考えものですが、私のように悲観的になる必要があるとも思っていません。「子供の権利」「あらゆるジェンダーの権利」など今まで足りな過ぎた意識の変化は、気づかないほどゆっくりですが、起きていることもまた事実です。

 

 

それでも私は子孫を残すことより、統を絶ち負の連鎖を断つことを優先した方が、自分のためはもちろん、世のため・地球のためになると確信しています。

 

 

これは歪んだ愛情で育った私が辿り着いた母性本能のカタチなのだと解釈しています。

 



あとがき

恥の多い人生を送って来ましたが、4歳で性被害を受ける直前の私は純粋無垢でした。

まだ何の罪も犯していない魂が、この世に生み落とした肉親の手によって穢される。その記憶に苛まれながら恩に着せられ、肉体が滅びるまで、自他を傷つけながら生き地獄を彷徨う。

これほど残酷な世の中で生き続ける意味などあるのか。この不条理をどうしても受け入れられず、もがいていました。

だって、世の中には幸せそうな人もいるじゃないですか。なぜ私はあの人達のように人生を謳歌できない運命になってしまったのでしょう。

こんなはずじゃなかった......。

 

 

 

 

 

 

こんなはずじゃなかった......!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「物事は私に対して起こっているのでなく、私を通じて起きている。」

 

 

 

 

 

 

 

 

そのことに気づくと、視界が少し開けた気がしました。

 

 

 

 

4歳の私が犯され、早急に助けを求められなくするための条件は、私が誕生する遥か昔から揃っていたことを歴史が教えてくれました。児童虐待への無関心、男尊女卑の伝統、犯罪の温床が大切に育まれてきたことを。

 

もはや、私に直接害を加えてきた父と母だけで負える規模の罪業ではなく、先祖が代々人間社会で受け継いできた負の遺産。その先祖の血を受け継ぐ私にそのツケがあの時に回ってきただけの話であり、いつ起きてもおかしくない状況だったのでしょう。

 

そして縁起でもありませんが、私に起きたことは、いつ誰に起きてもおかしくありません。子ども達に私みたいな経験をしてほしくない・そのリスクさえ取らせたくないから、私は子供を生まないと決めています。

 

でも、悲観的になってるだけでは埒が明かない。

気づかないほどゆっくりだが、変化は起きているのもまた然り。

親に尊重されて育った元気な子供・若者・逆行を乗り越えて大人になった人を見ると、世の中捨てたものじゃないなと思うこともある。こういう人たちが増えれば人間社会も変わるだろうと、希望さえ芽生えてくることもある。

子供を産むことに反対しているわけではなく、訳ありの私には「無理です」とやらない選択を明確にしているだけです。

 

私は子育てにかけなくていい時間を、よそ様の子どもへの性的虐待をはじめとする暴力が減り続ける未来を想像・創造することに費やします。誰の子であれ、私のような経験はしてほしくない。

 

大量虐殺ができたのに、原爆が作れたのに、月に行けたのに。

なのに呼吸法、「NO」が言える性教育、護身術、共感力を育む非暴力コミュニケーション、安楽死の選択ができない訳がない。

 

単純にやってこなかっただけなんだから。

やろうと思えばできるってこと。

自分の意識を変えるために「私ならできる」と唱えることなら今からでもできる。

心がこもっていなくても「できる」とだけ言ってみてる。

大丈夫。

それくらいならできる。

「できる」と言えたところで、今すぐできることは限られるが、

言い続けることで自分を騙し続けられば、

「できない」と思い込んでいた時よりは、できるようになる。

そう信じて「できる」と死ぬまで言い続ける。

それが今の私なりの答え。

 

まとめ

両親の間

(本来は最も安心できるはずの場所)で、

寝ている最中

(本来は心身共に最も安らぐはずの状態)、

父親

(本来は最も信頼できるはずの存在)から、

性器を勝手に触られる猥褻

(自分の最も大事な場所の侵害)を受け、

逃げましたが、

(自己防衛本能が作動)

翌朝、母親

(本来は最も信頼できるはずの存在)から

「お父さんからメゴメゴしてもらったんだって、よかったねぇ」

と抱き寄せられ、

(自分の感覚や感情や認識を否定)

本心

(不快感、恐怖、混乱)を

完全に無視された記憶を、

自ら否定することから始まった私の人生が、

4歳以降いかに狂ってしまい、

性加害者にまでなってしまったことが、

家族以外の人との交流、

両親の束縛から逃げたことや、

精神治療の過程などで、

少しづつ明らかになったという実話です。

 

幼児期から成人した後まで、

虐待を「愛情表現」と主張する両親から受け続けながら、

被害を現実として認めることができず、

逃げることも他人に助けを求めることも大幅に遅れ、

精神疾患(C-PTSD複雑性PTSD)を35年以上患っています。

 

現在進行形で、あらゆる症状に苦しまされてわかったことを3点に要約すると:

 

①家庭内で子どもへの性犯罪が、加害者の「無自覚」のうちに起きている。

 

②性被害を否定することは、自己防衛本能が正常に作用しているからだが、否定し続けても苦しみは増す一方である。

 

③被害を認めて精神治療を初めないと、自分も「無自覚」のうちに加害者になってしまう可能性が極めて高い。

 

これらは実体験に基づく気づきですが、決して珍しくない人類共通の社会問題であることが調べるほどに明らかです。

 

性被害を認めるまで

 

幼児の時から父親にされてきたことを「性虐待」として認識できたのは、私が30代半ばに受けたセラピーで、父親への怒りを封印していることが明らかになってからのことでした。

 

23歳の頃、性被害について話してくれた男性につられて、自分の記憶について初めて話しましたが、まだ自分の記憶を否定している部分がありました。

 

10代の時、門限を破る私に母が何時間も説教し、私の顔を引っ叩く度に、父親からの猥褻に関するフラッシュバックの頻度が増しましたが、事実だとすれば墓場まで持っていくと決心しました。

 

保育園児の私が初めて嘘をついた日、母親から頬を打たれ、お仕置きにされたクローゼットの中で、猥褻な雑誌の山が目に入り「お父さんがついた『嘘』はなんで『よかった』の?」と冷静になって涙が引いたのを覚えています。

 

このように、性被害を受けた証拠が増える度に、あらゆる方法で無意識的に事実を否定してきました。

 

・記憶を否定(悪夢であり現実でない)

・心的操作(負の感情を感じないよう過食する)

・考える隙を作らない(仕事に没頭)

・矮小化する(大したことではない・体に傷を負った訳ではない)

・他人と比較する(もっと辛い人がいると自分に言い聞かせる)

・麻痺する(私は気にならない人間と思い込む)

・加害者の弁護(両親は私に愛情を持って育ててきたと言っている)

 

自分の性被害を事実と認識できず否定しているうちに、様々な症状が現れましたが、当時はそれが症状だということもわかっていませんでした。

 

21歳で両親の元を離れ、ようやく自由になれたと思った矢先、交際を始めた彼氏にDVをしてしまう自分の言動が、過干渉で暴力的な母親そっくりなことに衝撃を受け、反省しているのに辞められず、自分の中に「治すものがある」と初めて自覚しました。

 

「副作用はない」と断言し、月経前不快気分障害PMDD)と誤診した男性医師から処方された低容量ピルYAZを服用していましたが、副作用で死にかけました。

 

その後は瞑想や漢方、精神作用のある植菌類などを用いた古今東西に伝承される民間療法を試しました。

 

潜在意識へ作用に手応えを感じたものの、それ以上に、自分のトラウマの根深さに打ちのめされ、治療は地道に続ける必要性を学びました。

 

彼氏へのDVを辞めるためには、母親への怒りを解消する必要があると思って受けたゲシュタルト療法では、父親への怒りを押し殺していたことが判明。

 

その後も、良かれと思った言動で、大切な人間関係を滅茶苦茶に壊してしまうことに落胆しながら、解決法を模索。

 

自分の存在に向けてきた呪いと憎しみを、両親に向けるという発想に救われました。

 

それでも状況が改善しなかったため、人生を根本からやり直そうと、最も恐れていたことを実行しました。

 

それは、両親の罪を問いただすこと。

 

『毒になる親』の著者スーザン・フォワードの勧めでした。

 

誰しもが憧れる南国に出向き、その清々しい空気とは対照的な重苦しい心の荷物を抱え、足をひきづりながら、恐怖でしかない実家へ届けに行きました。

 

個別に向き合い、まずは母親に告白しました。幼児から成人した後も続いた父親からの性被害について。

 

次に、父親に罪を問いただしましたが、責任逃れをしようとしたため、絶交。

 

両親から授かったゴミの山を下ろし、心の負担が若干軽くなったのも束の間。 

 

一番辛いことに向き合わざるを得ない心境になっていました。

 

それは、自分が年下のきょうだいに性的な侵害や、精神的な加害をしていた事実。

 

父親からの猥褻や、母親からの体罰が「愛情表現」と教わり、釈然としたことはなかったのですが、それを受け入れようと、その神経を理解しようと、年下のきょうだいたちに、自分がされてきたようなことをしていたのです。4歳から10代後半まで。

 

何が原因であれ、やったことは変えられません。

 

私はただの性被害者ではなく、私が最も嫌いな、みんなも大っ嫌いな性加害者になっていました。

 

私はその事実を一生、背負っていかなくてはなりません。

 

自分が忘れてしまいたいほど嫌だったことを、大好きなきょうだいにしていたという事実は、自分が性被害を受けていたこと以上に辛いことです。

 

きょうだいに謝罪し、許しを得ましたが、私自身が自分を許せません。

 

世界からいなくなってほしいと願う性加害者に自分がなっていた以上、早く死にたいと思っていますが、皮肉にも、きょうだいや彼氏がそれを望まないというため、すぐには実行に移せずにいます。

 

スイスで安楽死することは諦めていませんが、それができる日まで、自分の人生を見せしめにし、子どもの心身の健康が尊重される理想の社会に貢献すると決めました。

 

【私の宿命】

①自分が体験した性被害と性加害を洗い出す。

②精神治療を一生続けて、学びを発表する。

 

【具体的な事例/問題/対策】

父親は、幼児の娘に性犯罪を犯した自覚がなく、その後も猥褻行為を続けた

(娘に愛情があれば、一方的に性器を触っていいという正当化ができる思考回路)

→防犯の性教育/性犯罪者が正当に罰せられる裁判/性被害者が守られる法律の改正

 

・父親が正当化した性行為に混乱し、理解しようと、幼児の私は弟の性器に触れた

(性犯罪者の子が性犯罪者の予備軍になる危険性が高いのは、大人の言動を子どもは手本にするため)

→性犯罪者のマネをしないために、言葉が理解できる段階から自分の体を守る・他人の体を侵害してはならないという意識があり、言語化でき、実践できる大人が必要。

 

・猥褻が「面白い」「望ましい」とする情報にも影響され、きょうだいへの性加害は暴力的になった

子どものNOを尊重する包括的な性教育と法律が欠如している環境で、一方的な猥褻を肯定する漫画・アニメ・テレビ・猥褻媒体などの情報が溢れていると道徳観が狂い、犯罪が助長される

→防犯の性教育/法改正/猥褻メディアの規制:強制的な性行為を含むが、性犯罪を助長・加担する危険性を考慮する必要がある。

 

・母親も、私に体罰を加えた自覚がない

「昔は当たり前だった」という理由で、子どもを平気で叩き、自分の犯罪には無頓着

→ここまで認知が歪められてしまった心の傷を癒すために、感情を聞くことに長けたセラピストが必要。

 

・子どもは「大人に劣っている」という思考

子どもの感覚・感情・意見が無視・否定され続けると、自己を肯定できない人として成長し、生きるのが一向に苦しくなり、自ずと犯罪にもつながる。

→子どもに一人前の感情や人権があるということを知る。

 

・両親ともに、私を溺愛しながら虐待を続けた

虐待と愛情表現の違いが分からなくなって人間不信になり、他人にも愛情と称して虐待をしてしまう人間が出来上がる。

→親に愛情があったとしても、虐待行為は正当化されないことを理解する必要がある。

 

 

【私の理想な社会】

・全ての人間が包括的な性教育を通じて、自分の体の守り方と、他人の体の尊重の仕方を学ぶ。

・子どもや性被害者の人権が守られるように法律を改正する

・性被害者にアドバイスなどせず、感情に耳を傾けることができる人が増える

・性加害者の自主が相次ぐ社会現象が生まれるほど、牢屋でのセラピーが充実する。

精神障害者も死ぬ時くらいは苦しまなくていいように安楽死の選択肢がある。

 

アルバム:幸せの証

実家には、私専用の分厚くて重いアルバムがあるのですが、最初の方のページに、首が座ったばかりの赤ちゃんが満面の笑みで映っている写真があります。

 

「......これが、私?なにがそんなに嬉しいんだろう???」

 

と、物心ついた頃から全く実感が湧かず、むしろ不気味に感じたので、そういう意味では思い出深い一枚です。

 

ちなみに、このアルバムは5センチ以上の分厚さで、写真はほとんど父親が撮影したものなのですが、他のページを開く時も気持ちが悪くなっていました。

 

いずれにせよ、その写真は「幸せだった時期が私にもあった」という証拠ですし、このアルバム自体「愛されて育った」象徴のようなものなのです。

 

他にも家族での海外旅行とか、「自慢している」ときっと勘違いされるような経験もしていました。

 

でも「幸せな家庭像」は、なぜか自分一人の犠牲の上で成り立っているようにしか思えず、心は常に薄暗い靄がかかっているような重苦しい状態でした。

 

私に感謝の気持ちはなかったのか?

いえ、ありました。感謝していました。

でも、心の奥底は常に置いてきぼりだったのです。

 

側からみると幸せな家庭。

 

そのイメージが強くなればなるほど、心が荒んでいく感覚。

 

なんとなく、わかりますか。

 

...

弟の反応に驚く

幼児期の記憶で、弟に関して最も印象に残っている出来事があります。

 

2歳下の弟の性器を触った時に受けた反応に驚いた自分がいたという話です。

 

弟たちは幼児期、普段から下半身を露出して走り回っていたので、特別な光景ではなかったはず。

 

なのに、ある日の日中、私は何を思ったか、両親のベッドの上に座っていた弟の性器を人差し指でチョンと突っつきました。

 

すると、弟はケラケラと笑い、その反応に衝撃を受ける自分がいました。

 

(期待していた反応があったわけではないはずなのに)

 

そこで、今度は確認のためにもう一度、同じことを繰り返すと、同じ反応で、私の中でどうしても納得できないことが膨らんでいきました。

 

我が家では、包括的な性教育を受けた覚えはありませんが、男の子のおちんちんが女の子のおまたに匹敵する場所くらいの認識は自然にあったと思います。

 

その場所を、他人に勝手に触れられて笑える神経が、私には不思議でたまりませんでした。

 

父親から下半身を触られていた自分の反応と全く異なっていたからだと思います。

 

私の潜在意識では議論が始まっていたはずです。お母さんが言ったようにお父さんがしたことは「良かった」だったのだろうか。私たちの感覚がおかしかったのだろうか......。

 

小学生

私の母親は、女優やモデル並みの美貌を持つ人でしたが、そのことを一瞬で忘れさせるほど鬼のような表情をみせる人でした。

母親からの体罰

私が算数の勉強で、時計を読むのを間違えると、母親は「なんでわからないの!?」と怒鳴って、手のひらでパーン!と私の頬を打ちました。

 

痛いことよりもなによりも、なんでそこまで怒られなくてはならないのか全く理解できず、涙と同時に溢れる大量の鼻水を啜り、必死に呑み込み続けましたが、すぐに鼻が詰まり、みぞおちからくる痙攣が治らず、ヒックヒックと声が漏れてしまうのを抑えられない自を惨めに思いました。

 

母親はお構いなしに怒鳴り続けましたが、私は勉強どころではありませんでした。

 

時計の勉強は小学生1年の頃にするみたいなので、私は8歳でした。38歳になった今は流石に時計を読めるようになりましたが「時計ー読めない=体罰」という計算式の理解には苦しみます。

 

九九の時も同じように、怒鳴られ、叩かれました。恐怖のあまり、肝心な?勉強に集中できませんでした。

 

時計と九九を除けば、成績は総合的に優秀な方でした。算数だけは苦手意識が根付きましたが、皮肉なことに、中高での数学の授業は全科目で唯一上級クラスに入っていました。

 

...

大人のように働く10歳児

小学生低学年の頃、私のコンプレックスは「子どもであること」でした。子どもだから、話を聞いてもらえないんだと解釈していたからです。

 

ある日、母親が他の大人と世間話をしていました。話題が恋愛の話になった時、私は片思いしていた同級生の話を聞いてもらいたくて、声を発した瞬間「大人の話ッ!」と鬼面の母がピシャリと言い放ち、私は凍りつきました。

 

私も早く大人の会話に参加したい。「どうすれば早く大人になれるだろうか」と考え、行き着いた答えが「働く」でした。

 

そして10歳の誕生日、寝室にいた父親の足元に跪き土下座をして「仕事を手伝わせてください!」と頼み込みました。そして現地校も補修校もない日曜日は毎週、朝から晩まで父が経営していた食料品店で仕事を始めることができました。

 

土下座は時代劇かなにかで覚えました。頭を下げる途中、脳内が一瞬ざわついたのを覚えています。でも、子どもという圧倒的な不利な立場を補い、断られる余地を少しでも減らすためには、全身全霊で大人の真似をせねばならないと思い、額を床につけました。

 

しかし仕事を始めようが何をしようが、母親の地雷がどこに落ちているかは依然として予想不可能でした。ある時から私は「お母さんから嫌われているんだ」と納得することで、平常心を保つ訓練を始めました。

 

...

父親が胸を覗いていた

そんな母親が、私にではなく、父親に怒ったことがありました。

 

ある夏の日、ダイニングルームで「もう、いやらしい!娘の胸を除くなんて!」と突然、母親が父親に怒鳴りました。

 

突然の大声にびっくりした私が父の方に目をやると、彼は罰が悪そうに首をすくめました。

 

その時、私はノースリーブを着ていました。発育する前でそれまで自分の胸を意識したことはありませんでしたが、その時、とても不快感を覚えています。

 

同時に、驚きました。

母親が「そーゆーことを嫌う人なんだ」と知り、意外だったのです。

 

...

「性行為=面白い」洗脳

志◯けんの番組を家族5人揃って両親の寝室にあったテレビで鑑賞したことが何度かありました。

 

胸を剥き出した大勢の女性達を触ったりして笑いを取る『バ◯殿』、女性の部屋に勝手に侵入して女性に恐怖心を覚えさせて笑いを取る『変◯おじさん』。

 

ある時、父親が「志◯けんもくだらないな」と苦笑していたのを聞いて、え?と一瞬、耳を疑いました。我が子にそのような番組を見せているあなたはどうなんですか?と。

 

いずれにせよ、私には「わいせつ行為=面白い」という認識が着実に植え付けられていきました。

 

その後、当時から保護者の間で問題視されていた「ク○ヨンしんちゃん」のマネをして、無抵抗の弟達の性器にマーカーで落書きをしました。私はそれを「面白い」と思ってやりました。

 

2回目に同じことをしようとした際、弟達は嫌がって逃げました。その時の私の心境は「つまんないな、前はやらせてくれたのに」と裏切られたような気持ちにさえなりました。

 

かつて父親から性器を触られ恐怖や混乱を覚えた私も、数年後には認知の歪みがここまで進行していたのです。

 

「ク○ヨンしんちゃん」にしても「バ○殿」にしても「変○おじさん」にしても「評判は悪いけど、ふざけてるだけで悪気は無さそうだから憎めないキャラクター」であり、歴とした「犯罪行為をしている」という認識は子どもの頃はありませんでした。それは、自他との境界線を尊重する根本的な性教育を全く受けていない代わりに、わいせつ行為の情報が日常に溢れ返っていたからでした。

 

それに「性的なこと=面白い」と解釈できれば、不快な思いをさせられた父親に対する負の感情を最小限に抑え、自分がされたことを「大したことではなかった」と過小評価できたのでした。

 

そうやって、私の問題行動はどんどんエスカレートしていきました。

 

小学校高学年、漫画で「カ○チョウ」や「電○あんま」の模写を見つけると、弟達に一回づつ行いました。やってみて面白いという感覚はありませんでした。でも「姉」として弟達よりも上に立っていたいという根深い欲求は多少満たされたのだと思います。

 

弟達の上に立ちたいという感覚が芽生えるきっかけの出来事がありました。幼年期の頃、私が弟とじゃれ合っているうちに、調子に乗って乱暴がエスカレートした際「やめなさい!お姉ちゃんでしょ!」と年上の友達に叱られました。

 

このことがショックで、弟達から物理的・精神的な距離を置くようになり、家の中でも孤立していきました。そして「お姉ちゃん」はなにかと我慢しなくてはならないことが多いなら、少なくとも弟を従わせないと益々不利だと思いました。それまでは名前で呼ばれていましたが「これからは『お姉ちゃん』と呼びなさい」と命令したのを覚えています。

 

弟達は双子のように仲が良く、放課後は近所の同級生と毎日のように遊んでいました。私は土曜日に通っていた日本語学校には親友が一人いましたが、平日の現地校には一緒に遊ぶほど仲の良い友達がおらず、孤独で退屈でした。

 

そんな弟達の間に割り込もうと、一人を味方につけ、もう一人を仲間外れにして、長期間いじめたこともあります。

 

その後、仲良しの二人を「ゲイだ」と何度も冷やかしました。また鍋の時、私の好物の一つであった白子の味を占めさせないように「食べたらゲイになるよ」と脅したりしました。

 

言葉の暴力による精神的ないじめは、中高生もしくは短大生の頃までも続いたように思います。

 

ある日「もうやめて!」と末っ子の弟が初めて怒りを顕にしたことで、私は我に返りました。弟達がそれまで強い不快感を無言で耐えていたことに気付き、言動を改めました。

中学生

他人の不幸は蜜の味

小学校卒業後は、地元の中高一貫校に進学しました。小学校の時よりも広範囲の地域から生徒が通うため、世界が広がりました。

 

中学校2年になると親友ができました。コロンビア人のSは、卑猥な発言で笑いを取ろうとするひょうきんな子でしたが、義父との仲が悪く、頻繁に家出をし、交際男性を取っ替え引っ替えしていました。

 

Sは校外での交流関係も広く、彼女の知り合いの多くは、いわゆる「非行少年・少女」と日本では呼ばれる要因を持っていました。

 

法律も文化も違うアメリカの基準からみると「非行」はちょっと言い過ぎな場合もなきにしもあらず。

 

ただ聞く限り、家庭内に問題を抱えている人が大概で、私とも波長が合うようでした。

 

Sが中退した後も、放課後は彼女の実家に遊びに行き、そこで出会った色んな人の話を聞き、視野が広がりました。

 

親の離婚率の高さ、家庭内での性犯罪をはじめとする暴力の激しさ、ありとあらゆる物質(アルコールやタバコも含む)の乱用者の多さ、貧困の酷さなどの内容には、目を見張るものがありました。

 

まるで映画で観るような彼らの波瀾万丈な人生を聞いていると「私の人生はなんて平凡なんだろう」「私の話なんか取るに足らない」などと思えました。

 

私の両親は離婚の危機はなさそうだし、拳で殴られたりアザまではできたりしてないし、父親はタバコ中毒くらいだし、母のご飯を毎日三食美味しくいただいているし。

 

そうやって、私は自分の家庭の闇には一切触れないための言い訳を蒐集することで、現実逃避できました。まさに他人の不幸は蜜の味。私は貪るように吸収しました。

 

ある日、Sから告白されました。幼い時に、親戚の男性(おじ)から「モレスト(痴漢行為)」をされたことを。

 

この時も、私は聴き手に徹し、自分の話は口にしませんでした。「アレはただの悪夢」と処理されていたので話すことがありませんでした。

 

それに仮に現実だった場合、「実父」というより血縁が近い「直系血族」が同等な性行為を犯した場合は深刻さが一層増す気がして、そのようなことが脳裏を掠めただけでも思考停止になったといった方が的確かもしれません。

 

また、友人が強姦されたという話をSから聞いた際は、「私は強姦まではされていない」と、自分の記憶が万が一現実だった場合に使える過小評価の切り札を蓄えました。

 

周囲から性被害の話を聞く度に「アノ記憶」が蘇りましたが、私はこのように様々なアングルから言い訳を編み出し、それらを巧みに駆使して認めようとはしませんでした。

 

何があっても「墓場まで持っていく」と心に決めていたからです。

 

...

無自覚な過食症

私は陽が落ちた後も友達と時間を共にしたくて、自宅には帰りたくありませんでした。でも、我が家には「夕飯は毎日、家族5人揃って手を合わせ、一斉に元気よく『いただきます!』と言ってから食べる」という父親が設けたルールがあり、物心つく頃から守られてきました。

 

そのためだけではないかもしれませんが、母親は陽が暮れる前には必ず、迎えにきました。私にとってはこの時間が来るのが憂鬱でした。母の車が見え、友達を後にしなくてはならない時は毎回、屈辱的な思いでした。

 

夕食は、父親が仕事から帰ってきた後、19時頃に食べ始めた気がします。母の手料理は和洋折衷どれも美味しく、父親もお造りや鍋物などの時、腕を振るってくれました。

 

うちの家系は代々、飲食業だったという影響も大きく、食べることに対して貪欲な一家でした。

 

私の曽祖父は富山県で料亭を営んでいたと祖母からよく聞いていましたし、伯父は板前でした。父はレストランのマネージャーなどの経験を経て日本食料品店を自営し、一般庶民から富裕層まで幅広いお客さんのために特注の料理を提供したりしていました。

 

なので中流階級で育ちながら、食生活においてはその限りではないと感じる場面が多く、「私は恵まれた家庭で育ったのだから文句は言えない」と思わざるを得ないところがありました。

 

制限が多すぎる家庭だと感じていましたが、食欲に関しては唯一無制限でした。私が美味しく沢山食べると、食べさせ甲斐のある子だと言って、大人達は喜んでくれました。赤ちゃんの時から、大人が奮発して嗜むような高級食材を惜しみなく与えられ甘やかされていたそうです。小学生の時、たまの外食に「お子様ランチ」などを勧められたことは一度もなく、大人と同じコース料理を当然のように食べさせてもらったことを、子供ながら誇りに思っていました。父親は私を「飲兵衛に育てるのが夢だ」とよく言っていて、お酒の醍醐味も小学生の頃から少しづつ覚えていきました。

 

私は長子であった上、父親が結婚前から望んで止まない待望の女の子でした。子どもに興味がなかったという母も私が生まれた時は、「自分の子は可愛い」と思えたそうで、機嫌の良い時は父と口を揃えて「やっぱり女の子は可愛いねぇ」などとよく言っていました。私は弟達に比べた時に、両親から特別な愛情を受けているという感覚がありました。それが苦しいのは、両親の愛情が強すぎるほどに大きいからなんだと、恩知らずな自分のせいにしました。

 

私は毎晩、底なし沼のように食べました。何度もご飯をお代わりし、米粒一つ、汁の一滴も残さず平らげました。

 

小学生の頃からハゲワシに狙われている餓死寸前の子どもの写真を見せられ、「世の中には食べられなくて死ぬ子どもが大勢いる」と教え込まれました。その子達に比べたら、自分は相当恵まれているのだから、何時も文句を言ってはいけないと思っていました。

 

そして毎晩、食べ過ぎてお腹を壊しました。正露丸を飲みながら下痢をするということを繰り返しながら「私はなんで毎晩、苦しくなるまで食べてしまうのだろう?」と自問してから「それは、お母さんのご飯が美味しすぎるからだ」と自答し「それならしょうがない」という結論に至っていました。

 

小学生の頃から高校生くらいまでは毎晩、家族全員揃って夕飯を食べていたので、長年続いていましたが、当時は「摂食障害=痩せるために吐く人」というイメージがありました。なので、痩せの大食いで、吐くことが嫌いな自分は該当しないと思っていました。

 

過食症であった可能性に気づいたのは30代後半になってからです。自覚し始めた「躁的防衛」という症状に関連するため、発覚しましたが、そのことはまた後述します。

 

...

無限のセランドレイプ

中3から高3にかけて人生で最も辛い時期だったので、今はまだ書ける気がしません。

 

当時の精神状態

死体の写真を集めたウェウサイトや雑誌を見るのが趣味でした。気弱な人には直視できないような酷く悲惨な写真を無限に見てもたじろぐことない自分は鋼の精神を持っていると思えました。

 

音楽で響いたのはヘヴィメタルでした。マリリンマンソンやスリップノットなどの歌詞を熱唱していました。不条理に対する怒りは音楽を通じて発散することができたようです。

 

書けないことが多数

中学生以降、私の人生を語る上では外せないことが色々と起きましたが、日本の法律が変わらないと書けないことが沢山あるので、残念ながらここでは割愛します。

高校生

「墓場まで持っていく」決心

 

短大

責任をとるために男性と交際

短大で知り合ったその男性は私のタイプでは全くなかったのですが、共通の趣味があり、男友達として尊敬していました。しかし男性から感じる切実な好意を私は拒否することができず、自分から性行為を率先し、その後、自分の行動に責任を取るように交際を申し込みました。

 

なぜ、こんなアベコベなことをしたかというと、背景には父親の口癖がありました。父親はよく「男女の友情関係はあり得ない」という趣旨のことや「女は受け身だ」と言っていました。そのため、男性の好意を拒否したら、友情関係も消滅するという恐怖心が私に植えついていました。また反抗心から、とにかく「受け身にはならない」と決めていました。受け身の反対は「積極的」「自発的」。男友達との友情を保てないなら、せめて自分から積極的に性行為をしようと思ったのです。しかし、あわよくば巷で噂のセックスの快感とやらを覚えられると言う期待さえも裏切られ、呆気なく終わった行為に虚無感しか覚えられず、自分が汚れたような感覚にも襲われました。

 

恋人としては好きでもない男友達との友情を失うことへの恐れから、本当はしたくもない性行為を積極的に行い、虚しさしか残らないのに交際を申し込んだという、メチャクチャなことを震えながらやり遂げました。彼との性行為はその時が最初で最後でした。子供が欲しいわけでもなかったのですが、性行為をしない言い訳として「子供を産むまでしたくない」と伝えました。その際、男性から「尊敬できる」と言われ、私は頭がおかしくなりそうでした。え?じゃあ、あの時、性行為をしなくてもよかったってこと?私はこの頃、まだ自分のことを他人に話せるような精神状態ではありませんでしたので、男性に確認したりはしませんでした。

 

しかし男性と別れた一年後、今の彼氏に出会った時も「男はセックスさえできればいい獣だ」という父親によって長年培われた根強い固定概念は拭いきれていませんでした。

 

仕事一筋

 

遠い国へに行きたい夢「世界一幸せだ国ブータン」「世界一周の船上クルーズ」

人生を変えた一冊

『ザ・レイプ・オブ・南京第二次世界大戦の忘れられたホロコースト〜』(アイリス・チャン著)の洋書を読んでいなかったら、私は日本に移住していませんでした。

 

この本は、日本帝国軍がアジア諸国を侵略した歴史と、その歴史的事実を隠蔽しようとしてきた戦後日本の姿勢などが英語で初めて書かれた画期的なノンフィクション本です。

 

私は短大生だった21歳の時にこの本を読んで衝撃を受け、「日本人」としてのアイデンティティが音を立てて倒壊したのを覚えています。

 

それまでの私は「あの子は日本人だから関わりたくない」とアジア人の生徒から陰口を言われた経験が中学生の時に一度あったくらいで、日本がアジア諸国を侵略したということはうっすら聞いたことがある程度でした。

 

私は日系アメリカ人の二世ですが、日本で生まれ育った両親によって「日本人」として育てられ、アメリカにある日本語補習校にも幼稚園から中学校まで通っていました。でも広島・長崎で原爆の被害を受けたことについては教えられても、日本が加害者だった歴史については一言も教わりませんでした。アメリカの現地校では、ナチスドイツによるホロコーストの歴史は徹底的に学ばされますが、日本人が犯した大虐殺については学びませんでした。

 

私は、家庭や日本人コミュニティでは「意見をはっきり言うから日本人らしくない」と批判され、アメリカでは「アジア人」として見下されたり「日本人だからちょっと他のアジア人より上」に見られたり、アジア人の一部からは「日本人」だからと言って毛嫌いされたりしてきました。両親からは中国人を馬鹿にするような言葉を何度も聞いたことがあり、私は仲の良い中国人の友達がいたものの、どこか差別意識を持つようになっていました。正直、どのコミュニティーにいても至らない存在で孤独でしたが、「日本人は他のアジア人より上」という位置づけは、両親から植え付けられた「日本人」としてのプライドと調和したので、私が自尊心を保つための手段の一つでした。

 

でもこの本を読んだ途端、それさえもが粉々に崩れ落ちました。「日本人」という看板を背負うということは、ドイツ人がナチスを連想させる以上に、残虐な侵略者というイメージがついて回るということ。しかも、ドイツ人は歴史を反省しているけれど、日本人はそれをなかったことにしようとしている。この差にも気づかずに「経済発展」を掲げてのうのうと生きる様は「裸の王様」そのもの。「恥知らず」とはこのことだと思いました。

 

私みたいな人間は一部の人からは「非国民」とか「愛国心が足りない」などという批判を浴びる対象だということは知っています。が、私は日本の良いところもたくさん知っていますし、本当は日本のことを純粋に好きでいたい。でも、それまでの自分も含め日本人の多くが過去の過ちを顧みない姿勢は醜くで愚か過ぎる。日本の全てを否定しているのありませんが、日本の良いところまで台無しにしてしまうほど致命的な欠点だと思うのです。

 

本当に日本のことが好きだったら、どんなに酷い過去でもその歴史も知ろうと思うのが自然だと私は思うのですが、なぜ日本人の多くは南京大虐殺731部隊のことに無関心だったり否定しようとするのでしょうか。ここのところがとても不思議でなりません。

 

私は日本の隠蔽された歴史を学ぶためにアメリカから日本に拠点を変え、東京にある大学に入って学び始めました。

 

そして、日本の闇を研究するための東京の大学への進学が、窮屈で窒息しそうな実家を出る片道切符になりました。

 

大学

祖母の男尊女卑と、父親の男尊女卑

政治専攻:教育基本法憲法第9条を守る会

FCCJ

中国語

2007 GABA

初めて性被害について声が出た

当時の交際男性にもカミングアウト

2008 アメリカ訪問、交際男性と別れて身が軽くなる

断髪

PB振込

大学のカウンセラー「季節性感情障害(SAD)かも?」

2009年 現在の彼氏と出会う

彼へのDVがやめられない、母の呪縛

休学、沖縄

退学届を父親が阻止

「最後の親孝行」なけなしの貯金をはたいて大学卒業

2010年 世界一周クルーズ船の通訳:自分が好きなことを思い出した

ヴィパッサナ瞑想のことを知る

 

311後

英字雑誌の編集部

アングラの世界

『セックス放浪記』/SM系ハプニングバー勤務/エログロナンセンス(幼少期から気になっていた『ガロ』系漫画蒐集)/フリークスに共感

香港の大手メディア会社からオファー

台湾支部で激務

パニックでカウセリング

低容量ピルで臨死

人生リセット

イライラの処方を漢方で

ヴィパッサナー瞑想

リストラ

代替医療での精神治療

治療中に猥褻に遭う

恐怖で日本に戻る

フリーランス一本

日本のヒッピー

NOが言えない

オーストラリアでモヤモヤ

土用、陰陽五行説

アーユルヴェーダ

 

NOが言えず、スリランカでモヤモヤ・散財

オレゴン日食/自称「強姦魔の息子」男から猥褻/夢実現

 

ラブワゴン(NOが言えず)で散財・人間関係倒壊

ゲシュタルトセラピーWS

父親に初めて怒りをぶつけるぎこちなさ

A精神クリニックで「解離性障害」と診断

インナーチャイルド(IC)と対話

ICの顔と表情が描けるようにな、吹き出しで会話

「幸せになってもいい?」にICは無言、会話終了

B精神クリニックで「複雑性心的外傷後ストレス障害」と診断

月経前増悪(PME)とC-PTSDを自覚 

セルフセラピー再開

アダルチルドレンの自助グループ

性被害者の自助グループから言われたこと

近親姦自助グループ

効果/主催者からの差別発言に疑問

著名なフェミニストの主張に疑問

NSJ再び

 

NSJ人間関係崩壊

ハワイでフリーズ 

両親に罪を問いただす

トラウマだった生まれ故郷へ

弟に謝罪

鬱からの躁

違和感大有りのDV男に浮気・二股

NM/躁的防衛、炸裂

 

DV男確定

コロナで疎開/彼氏と関係が悪化

彼氏の人相が変わっていた

NM/〇〇アレルギー悪化

1月1日から3月31日まで毎日泣いた
過去の浮気を全て話した

 

現在

彼氏へのケジメ

C精神クリニック診断「うつ病

人生で初めて仕事への意欲を完全に失う

経済的な不安で身動き取れず

アメリカ最大級のスラム街住民らに共感

障害年金

安楽死の準備

 

番外編

結婚

結論:経済的な必要に応じて、老後にするかも。

出産

結論:私は子供を生まない・育てない。

 

恥の多い人生を送って来ました。しかしそんな私も、4歳で父親から性被害を受ける前までは純粋無垢な幼児でした。

 

まだ何の罪も犯していない魂が、この世に生み落とした肉親の手によって穢される。その記憶に苛まれながら恩に着せられ、肉体が滅びるまで、自他を傷つけながら生き地獄を彷徨う。

 

これほど残虐な世の中で生き続ける意味などあるのか。この不条理をどうしても受け入れられず、もがいていました。

 

だって、世の中には幸せそうな人もいるじゃないですか。なぜ私はあの人達のように人生を謳歌できない運命になってしまったのでしょう。

 

こんなはずじゃなかった......。

 

 

 

 

 

 

こんなはずじゃなかった......!

 

 

 

 

 

 

 

 

物事は私に対して起こっているのでなく、私を通じて起きている。

 

 

 

 

 

 

 

 

その言葉を聞いて、視界が少し開けた気がしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4歳の私が父親から犯され、隣にいた母親に助けを求められなくするための条件は、私が誕生する遥か昔から揃っていたことを歴史が教えてくれました。「児童虐待への無関心」「男尊女卑の伝統」「近親姦の合法性」などなど……。犯罪の温床が大事に育まれてきたことを。

 

もはや、私に直接害を加えてきた父と母だけで負える規模の罪業ではなく、先祖が代々人間社会で継承してきた負の遺産。その先祖の血を受け継いだ私に、そのツケが4歳の時に回ってきただけの話であり、いつ起きてもおかしくない状況だったのです。

 

ということは、縁起でもありませんが、私に起きた災難は、いつ誰に起きてもおかしくないということです。

 

私も20歳くらいまでは漠然と「25歳くらいになったらお母さんみたいに母親になるのかなー?」と思っていました。でもある時「世の中が変わらないまま出産・子育ては危険すぎる」と思い、選択肢を蹴りました。子どもに私みたいな経験をしてほしくない・そのリスクを取るのことさえ恐ろしいと思ったからです。

 

その後もわたしの想いは強まっていて、何の迷いもありません。

 

一方で、親や保護者から尊重されて育って心が健やかな子供や、逆行を乗り越えた若者や大人を見ると、世の中捨てたものじゃないなと思います。

 

こういう人たちが増えれば人間社会も変わるだろうと、希望さえ芽生えます。

 

なので、子供を産む・育てること自体に反対なのではありません。機能不全家族出身で、自他への正常な愛し方を知らない私には「無理です」とやらない選択を明確にしているという訳です。

 

その代わり、私は出産・子育てにかけなくていい時間を、よそ様の子どもへの性的虐待をはじめとする暴力が減り続ける未来を想像・創造することに費やします。誰の子であれ、私のような経験をしてほしくない想いは変わりません。

 

「出産・子育て」に対して楽観的になり過ぎるのは考えものですが、私のように悲観的になる必要があるとも思っていません。「子供の権利」「あらゆるジェンダーの権利」など今まで足りな過ぎた意識の変化は、気づかないほどゆっくりですが、起きていることもまた事実です。

 

それでも私は子孫を残すことより、統を絶ち負の連鎖を断つことを優先した方が、自分のためはもちろん、世のため・地球のためになると確信しています。

 

これは歪んだ愛情で育った私が辿り着いた母性本能のカタチなのだと解釈しています。

 

あとがき

 

大虐殺ができたのに、原爆が作れたのに、月に行けたのに。

 

なのに「NO」が言える性教育、共感力を育む非暴力コミュニケーション、安楽死の選択ができない訳がない。

 

単純にやってこなかった人の方が多かっただけなんだから、やればできる。

 

自分の意識を変えるために「私ならできる」と唱えることなら今からでもできる。

 

心がこもっていなくても「できる」とだけ言ってみる。

 

大丈夫、それくらいならできる。

 

「できる」と言ったところで、今すぐ何かが変わることはないかもしれないが、「できる」と言い続けることで自分を騙し続けてみて、「できない」と思い込んでいた時よりは、できるようになった(こともある)。

 

そう信じて「できる」と言い続ける。

 

この生き地獄で見つけた唯一の希望「安楽死」を遂げるまでは。

 

年表

【1983(0)】 長女としてアメリカで誕生

1984(1)】

【1985(2)】 弟の誕生

【1986(3)】 弟の誕生

【1987(4)】 父親から強制わいせつを受けた/弟にわいせつを加えた

【1988(5)】 Pre-K(現地の幼稚園)

【1989(6)】 日本語補習校幼稚園/Kindergarten 1   

【1990(7)】 日本語補習校幼稚園/Kindergarten 2

【1991(8)】 小学1/1st grade  

【1992(9)】 小学2/2nd grade 

【1993(10)】 小学3/3rd grade/父の店で働き始める

【1994(11)】 小学4/4th grade  

【1995(12)】 小学5/5th grade 

【1996(13)】 小学6/6th grade 

【1997(14)】 中学1/7th grade

【1998(15)】 通信教育/8th grade/セカンドレイプ

【1999(16)】 中学3(卒業)/9th grade/セカンドレイプ

【2000(17)】 10th grade/セカンドレイプ

【2001(18)】 11th grade/セカンドレイプ

【2002(19)】 12th grade/地元の短期大学(勤労学生)/セカンドレイプ

【2003(20)】 地元の短大/セカンドレイプ

【2004(21)】 短大/「けじめをとるため」に男性と交際/セカンドレイプ

【2005(22)】 短大/人生を変えた一冊『ザ・レイプ・オブ・南京』/東京の大学

【2006(23)】 大学/通訳・翻訳フリーランスのキャリア開始

【2007(24)】 大学/英会話教師開始

【2008(25)】 大学/アメリカ訪問・当時の交際男性と別れた/大学のカウンセリング

【2009(26)】 大学/今の彼氏と出会う/彼へのDVを辞められない/休学

【2010(27)】 退学届の件/大学(「最後の親孝行」卒業で散財)/世界一周船上通訳ボランティア

【2011(28)】 英字雑誌の編集部ハプニングバー夜勤/PMDDと勘違い・誤診

【2012(29)】 会社員in台湾で激務/不安障害につきカウンセリング

【2013(30)】 台湾/低用量ピルで臨死/人生リセット/漢方/生活習慣改善

【2014(31)】 台湾/初ヴィパッサナー瞑想

【2015(32)】 台湾リストラ/代替医療の精神治療/日本

【2016(33)】 オーストラリア(NOが言えない)/陰陽五行説アーユルヴェーダ

【2017(34)】 スリランカ(NOが言えない・散財)/オレゴン(夢実現)

【2018(35)】 ラブワゴン散財&人間関係崩壊/ゲシュタルトセラピーWS「父親への怒り」/Aクリニック初診「解離性障害ゲシュタルトでICと対話/Bクリニック診断「複雑性PTSD」/月経前増悪(PME)自覚/セルフセラピー/近親姦自助グループ/NSJ

【2019(36)】 NSJ人間関係ぶち壊し/鬱から躁/DV男と浮気/コロラド

【2020(37)】 DV男とコロナ疎開/オンライン心理カウンセリング/コロラド 

【2021(38)】 「強迫性性行動障害(セックス依存症)」自覚/Cクリニック診断「うつ病」/不眠症/引越し

【2022(39)】 仕事への意欲壊滅/Incest: A Family Tragedy/Soft White Underbelly/罪滅ぼし/障害年金生活保護安楽死の準備中

 

 

「迷惑」カウアン岡本さんに怒る人と議論:ジャニー喜多川の児童性的虐待

ジャニー喜多川の性虐待を告発したカウアン岡本さんに対し、怒りを示している友人と議論しました。

 

 

友人の意見

①告発のタイミングが卑怯

ジャニーズ事務所のブランド力を利用する目的があり、性被害を受けると知りながら合宿に出入りし、売れた後になって15回も性被害にあったと告発するのは汚い。

ジャニー喜多川が生きているうち、あるいは芸能活動をやめてから告発するべき。


②事務所を罪に問うのはおかしい

ジャニー喜多川は死去しているので、今は事務所で被害者はいない。

③他のメンバーに迷惑

他のメンバーも性被害を受けていると告発することで、メンバーやその家族に迷惑がかかる。

 

私の意見:

①告発は自然の流れであり、早い方がいいけど、タイミングは自由

被害者に「完璧」を求めるなら、ジャニー喜多川が生きているうちに告発した方が......性被害を受けているその場で「やめてください」と言った方が......そもそもジャニーズに入所した後に、性被害の噂を聞いてネットで調べて知っていたくらいだったら、合宿所に行かない方が......賢明だろう。



でもカウアン岡本さんが、売れるために性行為を我慢したとしても、望んではいなかった性被害に対して、口を開けたタイミングでは事務所から独立していて、芸能活動を続けていることは、ジャニー喜多川と同罪にはならない。



そもそもカウアン岡本さんは暴露しようと思って告白をしたのではなく、ガーシーさんとの対談で、初めて自分に嘘をつかないで話そうと決めた際に、聞かれた流れで全部話したという趣旨をTikTok説明している。

 

そこから、文芸春秋から取材を受け、FCCJで会見をしたのも、真実を知りたいという国内外からの需要があるからだ。



カウアンさんらが売れるために自分の体を犠牲にしたことは、決して誇れることではないだろう。



でも芸能界の枕営業や、一般の若者の間でも買春など性的な搾取が蔓延していることは昨日今日始まったことではない。


現実の問題として受け止め、もっと包括的な性教育を大人も子どもも学ぶ必要がある。


それを果たしていない教育現場にも責任がある。


加害者に甘く、被害者に厳しい法律のあり方も問われている。


若者として、性被害者として、教育面でも法律面でも圧倒的に不利な立場にいながら、事務所の恩恵を受けたなら、性加害について黙っていろというのは、違う。

 

被害者として反省する面があったとしても、嫌だと感じた経験を話して、心の重荷を下す権利に時間制限などない。


事務所に所属している間、あるいはジャニー喜多川が生きているうちに告発できたら良かったのだろうが、事務所やジャニー喜多川から直接恩恵を受けているうちは、事務所を辞めて独立する覚悟がない限り告発できなかっただろう。

 

 

告発と同時に、売れるために性被害を我慢した事実を晒し、そこから生まれるだろう羞恥心や背徳感を覚えながら生きていかないとならないだけでも、カウアン岡本さんは十分対価を払ったのではないだろうか。

 

ジャニー喜多川や事務所の罪は計り知れない

ジャニー喜多川は死去しているので、今は事務所で被害者はいないという主張は論外。



仮にジャニー喜多川が死去した後に事務所での性犯罪がいっさいなくなったとしよう。

 

それでもジャニー喜多川が犯した膨大な性犯罪による社会への破壊力は計り知れない。


約60年前から告発が続いていて、カウアン岡本さんが現役の時点で被害者が数百人規模いるとしたら、合計では千人規模、件数にしたら1万回はくだらないだろう。

 

 

性犯罪が、特に人格が形成される途中の若者に与える精神的な損害は、明るみに出辛いからこそ深刻だ。

 

 

適切な精神治療を受けずにいると、鬱や自殺、他人への虐待に繋がるなど、被害が拡大する可能性が高い。

 

 

虐待は世代間連鎖を起こしやすいので、現役ジャニーズの子孫の何代も先までその影響が及ぶだろう。

 

 

しかも、ジャニーズ事務所が許されるという事例を作ってしまうと、芸能界のみならず、他の業界や家庭内でも、性被害を黙認する体質が定着してしまう。




情報を伝えることが本業であるはずのテレビ業界で、ジャニー喜多川の件がタブーとして扱われているのが際たる例だ。

 

 

③同意:他のメンバーの名前を公表したり、売れているメンバーのことまで言及するのは、やり過ぎ


他のメンバーも性被害を受けていると告発することで、メンバーやその家族に迷惑がかかるという意見に対しては同意だ。

 

 

カウアン岡本さんが自身の被害体験に限定して告発するのは自由。



けれど、被害を受けた他のメンバーの名前を上げたり、今売れている人たちはほとんど性被害にあっているとまでは、言わない方がいいと思う。

 

 

まだ被害に向き合えずに、ジャニーズで生計を立てようと割り切ることで精神を保っている人や、以前は所属していたというだけで、他人から興味本位の質問をされ、余計に苦しい思いをするかもしれない。



家庭を持っている場合は、家族にも迷惑がかかってしまうかもしれない。

 

 

癒しにつながる話し合いになればいいが、人間関係のもつれになってしまう可能性もある。

 

 

影響力を持てば持つほど、言葉の重みが増すことを考えると、他人の話は極力控えた方がいいだろう。

 

 

規模の大きさを語ることでより注目を集められるかもしれないが、自分一人の被害体験を話すだけで、十分。

 

 

一人でも多すぎるからだ。



自分の告発を後に続いてくれたらいいなという気持ちもわかる。



でも告白のタイミングは、個人的な条件や状況が複雑に重なって、ある時にできたり、できなかったりするもの。

 

 

むしろ今回一気に注目を集まったことで、否定するのに必死になって、自発的に話すタイミングを逆に逃した人も大勢いるだろうと想像する。


有名になったタイミングで、本名や顔出しして告白した方が、信用度が高いし、注目度が違うのは確かだけど、やり方次第で失うものも大きいだろう。

 

 

勢いに任せてそこまで考慮する余裕もなかったのかもしれないけれど、声を上げられない人が余計に苦しまなければと願う。

 

 

例えば、我が家では、性犯罪者が父親や私も含めて身内なので、人類三代タブーの一つである近親姦被害にあたり、性犯罪の中でも圧倒的にタチが悪い。

 

 

なぜなら、業界レベルをはるかに超えた人類共通の問題で、社会の基礎となっている家庭内で起きているにもかかわらず、監視が行き届かない。

 

 

だからこそ、より一層光を当てる必要があると痛感している。


でも著名人でもない私が、信用度と注目度を犠牲にしてでも、顔出しをせず、匿名で性被害・加害体験をブログに書いているのは、きょうだいに迷惑をかけられないからだ。

 

 

今はリーチ力に欠けるかもしれないが、死ぬまでの時間を使って、周りの人が自発的に告白できるような環境造りに貢献できればと思っている。

 

まとめ

友人は、とりわけ木村拓哉さんが好きで、娘さんたちまでにも迷惑がかかるのではないかと心配していました。

 

友人の意見は③がベースになっていて、感情的になり①と②を補足しているように聞こえました。

 

①と②は論外ですが、③の意見は単体で十分成立すると思います。

 

サムネ画像:Image by Irina L from Pixabay

ゲシュタルトセラピーでの気づきと変化

ゲシュタルトセラピーで、声と涙と鼻水を出し、心のデトックスができたことで得られた、気づきと変化について記録します。

 

 

今回の気づきと変化

 

自分を責めない理由

 

私が自己紹介をした後、ファシリテーターさんは「あなたは悪くない」と言いました。

 

そう思いたい部分もありますが、加害者になってしまった以上「私は悪くない」と言うことに抵抗があります。

 

ただ、どんな自分であれ、自分を責めないように気をつけないとなとは思います。

 

自分を責めることで、他人まで傷つけてしまう失敗を、繰り返さないために。

 

芯の通った自分

 

私の中にも「芯」があることに気づきました。

 

4歳の時に父親から猥褻をされた後、自分は魂の抜け殻になり、別人格の人生を歩んできた、と思っていたのですが、違いました。

 

私は、下腹部に不快感を覚え、抵抗し(FIGHT)、逃げ(FLIGHT)ました。

 

翌朝、母親から「お父さんからメゴメゴしてもらったんだって?よかったね」と言われ、抱き寄せられ、混乱のあまり声がでませんでした(FREEZE)。 

 

性被害の後、不快感や恐怖や混乱や怒りや人間不信を押し殺し、お父さんっ子になった(FAWN)のも、過食症になったのも、被害の記憶が事実なら墓場まで持っていくと誓ったのも、「仲良しの家族」のイメージを壊さないため、ひいては家族の中で自分の居場所を保つためでした。

 

私のちぐはぐな言動は、善悪があべこべな世界で、自己防衛本能が正常に作動していた証拠でした。

  

その過程で、きょうだいに性加害・精神的ないじめをしていたことは一生、悔やんでも悔やみきれません。

 

きょうだいに謝罪し、許しを得ても、自分が自分を許せません。

 

だから、子供に余計なことをして、私みたいな人間を増やさないで!と忠告したい。

 

子どもは、一人前の感覚と感情を持って生まれてくる。
大人には、そのことを忘れてしまった人が多い。

 

私が保育園も始まる前の幼い年齢で、父親の愛撫が「気持ち悪い」と感じ、執拗に下着を捕まれて「怖い」と感じたことは、他人から教わるまでもありませんでした。

 

一方で、両親の感覚はすでに鈍っていました。だから、父親は娘の性器を触ったし、母親は夫から簡単に騙されたのでしょう。

 

それなのに、母親は「子ども」だというだけで私を疑い、私の人格を否定し続けました。

 

私が初めて嘘をついた日、「嘘つきに育てた覚えはありません!嘘つきは泥棒の始まり!」と怒鳴られながら頬を打たれ、クローゼットの中にお仕置きにされました。その中で、猥褻な雑誌を初めて目にした際「お父さんがついた『嘘』はなんで『よかった』の?」と思ったのを覚えています。

 

母親が気づかないうちに私は、父親の言動から「嘘=よいこと」と間接的に教わっていたのでした。

 

「嘘で母親を騙す(喜ばせる)」手本を父親から示されていなければ、それまで疑いもなく全てを素直に吸収していた私の中に「嘘」という概念が生まれるわけがありませんでした。

 

お陰様で私の感覚も狂ってしまいました。父親からされたことを理解しようと、きょうだいの性器に触れました。

 

理解できないまま、きょうだいへの性器への接触は暴力的になっていきました。


全部、日本の子供向けのアニメや漫画、「お笑い」と称する猥褻な描写が満載のファミリー向け(?)テレビ番組の真似でした。


それらが「面白い」とされていることを理解しようとすることで、自分が受けた性被害を矮小化ようとしていたんだと思います。

 

こういう過程で、もともとは純粋無垢な子どもが、自分や他人の痛みに無頓着な”大人”に成長させられてゆくのだとしたら、

 

大人は、忘れてしまった感覚を、子どもの言動から思い出させてもらう姿勢が必要なのでしょう。

 

子どもから頼まれてもいないのに、無理やり教え込もうとするなんて痴がましい。

 

幼児の時から今まで、親や社会から強要や嘘の連続で惑わされ、同じ過ちを犯しながらも、自分の感覚や感情や記憶を頼りに軌道修正しようとしてきたという意味では、一つ芯が通った人間だったのだと気づきました。

 

 

ハグしてもいい? と聞かれたコト

 

セラピーの終盤、セラピストが私の目を見て「あなたにハグしたいのだけど、してもいい?」と聞いたので「はい」と答えました。

 

ハグをされると思いわず、子どものように、おいおいと大きな泣き声が出ました。

 

それまでは、静かに涙と鼻水を流すだけだったのに。

 

「ハグしてもいい?と聞いてくれたコトが嬉しかった」と伝えました。

 

接触への許可の確認があり、了承したうえでのハグは、心が安らぐものでした。

 

思い返せば、ハグは「なんとなく、しなくてはいけない」社交辞令のように捉えていました。

 

それに、落ち込んでいる時などは一方的にされることが多く、気を使わせているのではないかと、戸惑うことも少なくありませんでした。

 

ハグに覚える浅はかさが苦手でしたが、自分もまた「ハグをする=いいこと」という風に、久しぶりに会う人に好意を表すためにすることがありました。

 

母親からされたハグは、この世で一番、気持ちが悪いものでしたが、一方的な愛情表現を「良いこと」として受け入れざるを得ないという窮屈さが原因でした。

 

一方で許可を取ってくれる行為は、私の心や体を尊重してくれている証。

 

自分の体が尊重された経験が極めて少ないからか、新鮮な感覚だったので、余計に嬉しいと感じたんだと思います。

 

私もハグみたいな一見とても好意的に思える行動も、相手が関わる以上、許可を得ようと思い直しました。

 

両親にして欲しいこと

 

セラピストは、両親であるというテイのクッションを殴ったり、投げたり、怒鳴ったりして、今の気持ちをぶつけてみてと言いました。

 

「私は、暴力を受けて育ったので、別な方法がいい」と言い、考えた末、「精神治療と生活費の一生分を賠償金として支払ってほしい」と言いました。

 

でもいざ、言葉にしても、気持ちが入りません。

 

数年前、私が両親に罪を問いただした際、両親は罪を認めるようなことを言いながら、最終的には責任逃れをしました。

 

それまでは私を溺愛する素振りを見せていた両親は、手のひらを返すように私のことに無関心になりました。

 

なので、私はこれ以上、何を言って助けを求めても無駄だと感じているし、賠償金は両親が反省したのなら、率先して払うべきだと考えていることが明確になりました。

 

そして、両親に求めていることは、「ゲシュタルトなどのセラピーを受けて、我が子の心の傷に無頓着でいられるほど感覚が麻痺してしまった原因である、自らの心の傷を癒して欲しい」という願いでした。

 

私の場合、精神治療を続けるうえで、被害を受けたことを否定できなくなり、両親を問いただした後、今度は自分がきょうだいにした加害について謝罪しなければ、気持ちが悪いという心境になりました。

 

両親も各々が受けた被害ととことん向き合い、その悲しみと怒りの矛先を加害者に向けてみれば、我が子にした罪の意識を、正当化することはできなくなると思うのです。



セラピストに

 

セラピストがティッシュをくれた時「ああ、私はお母さんからティッシュをもらった記憶なんてなかったな」と思いました。

 

そして直ぐに、母も母親からティッシュをもらったことなんてないんだろうな、と連想しました。

 

母は幼児期、母親から置き去りにされ、顔さえも覚えていないと言っていたので。

 

でも、ティッシュをくれる人は、別に母親でなくても、血のつながった人じゃなくても、いい。

 

出会ったばかりの人でも、今ここの感情に耳を傾けてくれる人から、癒しを得られる。

 

それができるのが、セラピスト。

 

そう思ったら、私もセラピストになりたいと思いました。

 

先輩のセラピストの力を借りて、自分を癒すことを続けよう。

 

他人のセラピストになれるかどうかは、自分をどれほど癒すことができたかにかかっている。

 

もし、自分を癒すことで、他人をも癒せるようになったら、自分の人生をもう少し肯定的に捉えられるようになるのかな、という考えがよぎったけれど、こういう打算的な考えは好きじゃないと改めました。

 

私はただただ、自分を癒すことに専念する。それが正しく行われたかどうかは、嘘が下手な私の意識や感情がその都度、教えてくれるでしょう。

 

自分とのお祝い

 

セラピーの後「自分とお祝いとしたい」と思い、気になっていた居酒屋に、ぷらっと入れました。

 

普段、特に夜の外食はせず、消化にいいスープを自炊する程度なので、私にしてはとても珍しい行動でした。

 

イメージとしては、腹ペコのインナーチャイルドに食べたいものを聞いて、合意して、赤ワインで乾杯。

 

朝は納豆雑炊と、昼は卵かけご飯の小食だったのと、一仕事終えて食べるご飯は、美味しさもひとしおでした。

 

 



ゲシュタルト療法の効果と継続の必要性『キレる私をやめたい』

彼氏にキレてDV・モラハラを辞めるたい。そのために、母親への怒りを解消したい。


私はこういう想いで、田房永子さんのコミックエッセイ『キレる私をやめたい〜夫をグーで殴る妻をやめるまで〜』を2018年に読み、ゲシュタルト・セラピーの効果を知り、ワークショップと個人セラピーを1回づつ試しました。

 

結論から言うと、想像以上の手応えを感じました:

 

・ワークショップでは、押し殺していた父親への怒りが判明

・個人セラピーでは、インナーチャイルドと和解

・その後、インナーチャイルドと絵を通じて対話

 

ただ、私のトラウマは根深く、二回では足りなかったので、継続する必要があるということも分かりました。

 

田房さんは、過干渉で暴力的な母親からされたように、夫にキレて殴ってしまう。

私も、母親からされていたように、彼氏にキレて精神的に追い詰めてしまう。

 

「私は絶対に母親みたいにはならない!」と昔から誓っていたので、自分がまるで母親のようだと気づいた時はショックでした。

 

虐待児は、親になって我が子に虐待をする「世代間連鎖」が起きやすいことは知っていましたし、原因は母親にあると確信していました。

 

ちなみに母は幼児の時に突然、母親がいなくなったそうです。父の口から聞いたことがありますが、我が家では誰もそのことに触れたことはなく、タブーでした。

母の母親への怒りは、娘の私に向けられているんだと理解していました。そして、私はその怒りを彼氏に向けてしまっているのだと。

 

だから「母親への怒りをどうにかしたい」と思ってワークショップに参加しました。

 

押し殺していた父親への怒りが判明ワークショップの際、幼児期より父親から受けた性被害や、母親から受けた体罰や精神的苦痛を、涙と鼻水と一緒に溢れ出す言葉で語りました。

 

一通り話し終わった際、ファシリテーターから「では、怒りをお父さんにぶつけてみてください」と言われ、戸惑いました。

 

母への怒りを解消したいのに、お父さんに?

 

釈然としないままに、父親への怒りの言葉を言ってみました。自分の言葉でないような感覚で、ぎこちなく、気持ち悪かったのを覚えています。

 

ワークショップの後、「でも父親からは『虐待』を受けたとは思ってないんです」と私が言うと、ファシリテーターが私の目を見たまま一瞬、絶句しました(「目が点になった」感じ)。

 

その一瞬の反応をみて私は(あれ、私なんか変なこと言ったかな。幼児期に父から性的なことをされたのはトラウマの原因だけど、暴行は伴ってないから「虐待」ではないのではという意味だったんだけど)と思いました。

 

そしてこの時から「虐待ではない」という言い訳をして、父親への怒りを感じないようにしていたのかもしれないと気づき始めました。

 

意外な展開でしたが、ワークショップが終わった後には、気持ちが軽くなっていました。

インナーチャイルドと対話・和解

手応えを感じた私は個人セラピーをすぐに予約。

 

家族ひとりひとりと対話し、最終的には幼児の私に「ありがとう」ということができました。

 

棒読みで心はこもっていなかったけど、頭で考えたら、言うことができました。

 

幼児の私が、気持ちを押し殺したことで、私は大人になってからも本心が分からずに苦しんだが、当時の私はベストを尽くしたのでした。家庭内に私の居場所を作ろうとするために。

 

それまでの私は昔の私を責めていました。

 

なんでもっと早く誰かに話さなかったの?

なんでもっと早く家を出なかったの?

なんでこんなに苦しまないといけないの?


両親に向けるべき怒りを、自分に向け、自分の存在を呪っていました。

後数日が経過し、セラピーでの気づきを書き残さずにはいられない衝動に駆られていました。

 

ペンを持って大きい画用紙に向かうと思いがけず、幼児の私の似顔絵が描けました。
しかも表情豊な顔が何通りも、面白いほどスラスラ描けたんです。

笑顔も描けた。

 

更に、幼児の私と、現在の私の似顔絵と吹き出しを使って、対話までさせることができました。

 

最後に私が言った言葉は「私もそろそろ幸せな人生を歩みたいんだけど、いいかなぁ」
幼児のわたしは複雑な心境になり何も言わなくなり、会話はそこで止まりました。

 

以前にも女児の絵を描いたことは何度もあったのですが、仮面被っていたり、後ろを向いていたり、のっぺらぼうだったりしていたので、自分であるという確信は持てなかったけのだけど、あれらはやっぱり幼児の私、インナーチャイルドだったのだろうと思いました。

 

この時、絵を描くこと自体、何年ぶりかわからないほど久しぶりでした。

 

昔はよく絵を描いていましたが、いつからか描けなくなっていたので、画期的なことでした。

 

私はファシリテーターに報告し、お礼のメッセージを送りました。


その後、「キレたくないのにキレてしまうあなたへ」という本が出版されました。

 

私のファシリテーターを担当をしてくださった、ゲシュタルトセラピーを日本で広める第一人者の岡田法悦さんの著書です。

 

本編に書かれた、ひとりでできるゲシュタルトセラピーの方法の中に、私が行ったこともいくつか紹介されていました。

 

子ども頃の自分に感謝すること、自分の絵を描いて話しかけることなど。

 

自分のフィードバックも役に立てたんだと思うと、嬉しくなりました。

 

効果的で、貢献までできたゲシュタルトセラピーですが、また受けようと思いつつ、その機会がないまま時間が過ぎ、今に至ります。

 

私はいまだに彼氏にキレたり、モラハラをしてしまいます。

 

鬱で動けないこともしょっちゅうです。

 

絶望感の中にいる時は、セラピーを受けて助かろうという気力もなく、ただただ死にたくなります。


私のトラウマは一回や二回のセラピーでは足りず、まだまだ継続する必要があるみたいです。

 

明日、予約を入れることができました。

4年ぶりのセラピーになります。

 

新たな気づきがありますように。

 

最後、ゲシュタルトセラピーの生みの親であるフレデリック・パールズ(Fritz Peris)の「ゲシュタルトの祈り(The Gestalt Prayer)」で締めくくります。

私は私のために生きる。
I do my thing.
あなたはあなたのために生きる。
You do your thing.
 
私はあなたの期待に応えるためにこの世にいるわけではない。
I am not in this world to live up to your expectations.
あなたも私の期待に応えるためにこの世にいるわけではない。
You are not in this world to live up to mine.
 
私は私。
I am I.
あなたはあなた。
You are you.
 
もし偶然が私たちを出会わせたなら、それは素敵なことだ。
If by chance we find each other, it's beautiful.
そうでなら仕方ない。
If not, it can't be helped.
 

 



紹介文献

キレる私をやめたい〜夫をグーで殴る妻をやめるまで〜田房永子
https://amzn.to/3EdTKNj

キレたくないのにキレてしまうあなたへ/岡田法悦

https://amzn.to/3k7qjor


母がしんどい/田房永子
https://amzn.to/3zcC29g


お風呂・シャワーに入れてますか?2週間ぶりの洗浄と心の変化

突然ですが、お風呂・シャワーに定期的に入れてますか?

 

毎日、じゃなくても、数日に一回とかでも。

 

私は、そこまで頻繁に入れないことの方が多いです。

 

この記事は、精神疾患複雑性PTSD)が原因で、お風呂・シャワーになかなか入れない私が、2週間ぶりにシャワーを浴びることができた経験から、身体の洗浄と心の健康の関係について実感したことを書いています。

 

不快に感じるかもしれない内容も含みますので、ご注意ください。

 

私が体を洗わなくなったきっかけは小学校低学年までに遡ります。

 

 

「風呂に入らない=汚い=女じゃない」

 

父親が、バックパッカーをしていた時代に知り合ったという女性、について言ったことが印象に残っています。

 

「あいつは風呂にも入らないで汚かったな。あれは女じゃない。」みたいなことを嘲笑いながら言ったんです。

 

その頃、小学校低学年だった私はピンときました。

 

(風呂に入らないで、不潔だったら、女として扱われないのか)

 

それから、私は何日間、お風呂に入らないでいられるか、ということに挑戦を始めました。

 

その癖は成人した後も染み付いて、何週間、下手したら1ヶ月以上から数ヶ月、体を洗わなくても「平気」になっていました。

 

夏、汗でびっしょりになって気持ち悪くても、乾いたら全然平気と思っていました。

 

実家で父親が入った後の湯船は、汚くて気持ち悪かったので、いつしかシャワー派になりました。

 

でもシャワーを浴びながら目を瞑ると、「背後で誰かに見られているような恐怖心」を感じていました。

 

いつまでだったか。少なくとも、実家に暮らしていた21歳くらいまでは。

 

実家を出た後も「怖いから風呂に入りたくないんだ」と彼氏に話したことがあります。

 

そんなんで30年以上、一年に何回シャワーを浴びる程度でした。

 

下着も取り替えないものだから、炎症を起こして、痛くなっていました。

 

強姦する人の神経

去年『南京戦:閉ざされた記憶を尋ねる元兵士102人の証言』という本の中で、日本帝国軍から輪姦されたことで性病を移された中国人の女児や成人女性をも日本兵たちは強姦し続けたという話を知り、意識が変わりました。

 

自分の身体を不潔に保つことで自己防衛できると、父親の言葉から閃いたけど、どんなに身体を不潔に保っても、意味がないんだ、と。

 

人の身体を侵害するような人はそもそも狂っていて、標的の体が不潔だろうが、性病にかかっていようが関係ないんだ。

 

父親は、バックパッカーとして世界中を旅行していたとき、女を買いすぎて貯金を使い果たしてホームレスになったと武勇伝のように話していました。

 

売春婦の多くは性的虐待の経験があると言われていますが、父親は私が生まれる前から、性被害者を性のはけ口として搾取していたことになります。

 

道理でまだ4歳の娘に手を出すようなイカれた獣だったんだと、納得せざるを得ません。

 

 

2週間ぶりにシャワーを浴びられるまで

 

そんな私が昨日、2週間ぶりにシャワーを浴びることができました。

 

最近は1週間弱に一回くらいのペースで入れるようになってきたので、2週間は流石に不快でした。

 

でも、ここんとこ鬱が悪化していて、それどころではなかったのです。

 

そんな中「話を聞くのが好きで精神科医になった」という医師の初診を受けられるという朗報があったことで、シャワーを浴びることができました。

 

その経緯を振り返ります:

 

 

もともと鬱で仕事への意欲が湧かず、困っていた。

物販で不労所得が稼げるようなればと思っていたが、不誠実なコンサルタントに出会い、興味を失った。

「やりたいことを見つける」ことを目的とした別のコンサルを受けたら「あなたはやりたいことをわかっているから、コンサルは必要ない」と言われた。

自分がやりたいことは、自分の性被害・加害経験を見せしめとして発信し、子どもへの性犯罪に注目を集め、性犯罪がなくなる社会に貢献することだと改めて自覚。

数年前から続けていたブログに本腰を入れようと、プロフィールを書き上げた時点で、自分の人生の悲惨さを思い出し、鬱が悪化。

鬱でベッドに横になりながらYouTube動画を漁っていたら、BBCのドキュメンタリー『J-POPの捕食者:秘められたスキャンダル』を発見。観てから感想文を書こうとするが、気持ちが複雑になりすぎて、言葉がまとまらない。

岡本カウアンさんの記者会見を拝見。言いたいことはたくさんあるはずなのに、言葉が上手に出てこないことに悶々とする。

中田敦彦さんのYouTube大学のジャニーズ児童性虐待の動画をみて、取り上げてくれてありがとうと思う反面、劣等感を覚える。

私は、性被害・加害の当事者として言及できることが沢山あるはずなのに、加害者としての罪悪感が邪魔をして言葉にならない(被害を加害の言い訳をしているように聞こえないだろうかという心配がある)。

自分の経験で、子どもへの性虐待に注目させて、社会のためになろうと決心したのに、自分の無力さに、がっかりする。

この件以外にも、賃貸の立退要請、隣の住人の生活音などストレスが何十にも相まっているので、日々の電話相談だけでは間に合わないと判断し、精神科医探しを再開。

「話を聞いてくれる医師に出会いたい」と最後に書いた問診票を見ただけで、クリニックの副院長の女医から拒否され、落胆。

「人の話を聞くのが好きで精神科医になった」という医師を見つけ、初診をお願いしたら、診察してくれるとのことで、希望が見えたタイミングでシャワーに入れた。

 

何も考えずに、体がスッと動いたことに、驚きました。

 

少しの希望でも気持ちが楽になる感覚と、身体を浄化しようとする行為は、比例するんだなということが、わかりやすく感じる瞬間でした。

 

 

 

 

精神治療で、最もハードルが高い難関は皮肉にも精神科医を見つけること(希望があるかもしれない話)

精神疾患を治療するうえで、最もハードルが高い難関は皮肉にも、

 

まともな相性のいい精神科医を見つけることだ

 

と常々思っているのですが、そういう人は少なくないのではないでしょうか。

 

今回、この件について少し、希望の兆し(相性のいい先生、見つかったかも)を感じられる出来事があったので、その経緯を書きます。

 

 

精神科医を転々としてきた

私は幼児期から成人まで続いた虐待が原因で、複雑性PTSDを患っています。

なので、トラウマ治療に強いと謳っているクリニックや、書籍を出しているような専門性の高い精神科医を中心に当ってきました。

が、医師の対応が酷いことが大半で、なかなか通院できず、精神科を転々としてきました。

精神科医Aは、「過去の話は聞かない」と言い切った後、独自の治療法について「読めばわかるから」と書籍を薦めてくる。

(頭で理解できる意識レベルのことで精神疾患が改善するなら、とっくに完治しているわい。

それに、治療法に少しでも手応えを感じたられたら、薦められなくても読みますとも。)

精神科医Bは、問い合わせしただけで「経験がない」からと初診を受け付けない

(経験がないと診れない?聴く力と想像力さえあれば、医師免許などなくても人を癒すことはできるに、その能力を使わずして、どうやって医者が務まるのだろう?)

精神科医Cは、別の患者のケースを長々と話し、比較する

(他人と比較する:これ一番、やっちゃいけないやつ。機能不全家族やトラウマ治療について執筆している文献の数と、人間としての成熟度は無関係であることを学ばせていただきました。)

精神科医Dは、処方箋なしで、どうやって治療をすればいいのですか?と聞いてくる

(「話を聞いてくれればいい」と伝えると、自助グループを紹介された。話をまともに聞く気もないのに、よく薬を処方できるな、と呆れる。)

精神科医Eは、15分と聞いていた診察時間を何の断りもなしに当日5分に削り、短い診察時間に「私たちも生活をしないといけないので」「初診料いただきますね」など険しい顔で言ってくる。

(鬱で日常生活もままならない私からすれば、生活できているだけで、羨ましいのに「話はほとんど聞いてもらえないけど、先生も生活しないといけないんだから、頑張って通院しよ!」ってならない。

前の主治医が退職し、久しぶりの再診だったので、初診料がかかることは知っていたし、この業務連絡の意味が不明でモヤモヤ。15分から5分に診察時間を削ったのに、初診料はしっかり取ることへの罪悪感による確認だと考えると納得できるが、どっちにしても酷すぎる。)

精神科医Fは、オンラインの問診票を見ただけで初診を拒否。その前に、「薬の副作用で死にかけた経験が怖いから処方薬は不要」と答えた問診票について受付と意味不明なやり取りあり。

受付「薬飲めないって書いてありますが、大丈夫ですか?」
私「大丈夫って何がですか?」
受付「処方箋を出すことがあるので」
私「薬は強制なんですか?」
受付「いいえ、違います」
私「なら、問題ないですよね?何に対して大丈夫と聞かれているか分からないのですが」
受付「少々お待ちください。先生に確認します」
私「はい(???)」
受付「お待たせしました。先生が診察できないと言ってまして……」
私「え?薬を飲めないからですか?」
受付「いいえ、そういうことではないです」
私「問診票を見ただけで、判断されたんですか?」
受付「はい…….」

問診票の最後に伝えたいことを自由に書ける欄があったので、私はこう書いていました:

「話を聞いてくれる精神科医に出会えることを願っています」

(患者の話を聞かないで、誤診したやぶ医者が処方した薬の副作用で、私は以前、死にかけたんですよ。そのリスクを避けたいから薬はいらないってるのに。

医療業界、国の公式な”売人”の集団にしか見えないのは、皮肉中の皮肉。)

精神科医に会うと、鬱が悪化することの方が多いので、新しい精神科医を探すのも、通院するのも、命懸け。

1回、2回は行けても、3回続いたことはまだありません。

 

三日坊主なんじゃないの?と思われそうですが、

 

地区町村の電話相談員には連日、話を聞いてもらっています。

 

繋がるまで何度も電話して、1日1回から3回くらい、いろんな窓口で。

 

相談員の方々は聴き手のプロで、下手なアドバイスなどはせず、相槌を打って耳を貸してくれます。

 

それだけで、気持ちが軽くなったり、頭の中が整理されたりして、本当に助かっています。

 

セラピーで経験できるような画期的な変化は期待できないにせよ、心理カウンセラーに1、2時間みっちり聞いてもらうのと同じような効果があります。

 

それでも私が精神科医を諦めず探し続けている理由はつまるところ、社会保障を受ける時に診断書がないと始まらないからです。

 

精神障害手帳、障害者年金。これらが受けられたら、経済的な負担や不安が少しは軽減できる気がします。

 

社会から見放された感覚も、人間不信も払拭できるかもしれない。

 

話しやすかった元主治医

 

実は、最後にお世話になったクリニックEの主治医は、初めて話しやすいと思える先生だったのですが、私が鬱で定期的に通えてない間に、退職されてしまいました。

 

代わりに院長が主治医になったですが、例の精神科医Eで、顔つきから言葉から全てが怖い。通いたいのに、通う気力がなくなる恒例のパターンに悩んでいます。

 

元主治医の行方を探るべく名前を検索したら、同姓同名の精神科医が在籍しているクリニックを発見。でも問い合わせたら、別人だということがわかりました。

 

一体どこへ行ってしまったのだろうと思い、元主治医の写真が消えているクリニックEのスタッフ紹介のページを眺めていたら、初めて見かける非常勤の精神科医Gの写真とプロフィールにピンときました。

 

まず笑顔が自然体。そして「経験豊富」っぷりを自慢する冷たい経歴ではなく、人間味が感じられる、メッセージが長めに綴られていました。

 

人の話を聞くのが好きな精神科医

精神科医Gの名前をネットで検索すると、地域のインタビュー記事を発見。

 

人の話を聞くのが好きで精神科医になったという趣旨が書いてあり、衝撃を受けました。

 

こんな先生がいるんなんて。

 

しかも最近、地方に新しくクリニックGをオープンさせ、オンライン診療もしているとのことだったので、早速問い合わせました。

 

クリニックE経由で先生のことを知り、ぜひ初診をしてほしいことを受付に伝えると、先生に確認して折り返し電話をくれるとのこと。

 

期待はしない。期待をしたら痛い目をみるから。

 

でも、希望を感じました。

 

鬱で2週間も入れなかったシャワーがすんなり浴びれました。

 

翌日と翌々日、クリニックGから着信があったけれど、折り返しの電話が出来ず、数日が経過。

 

折り返しができないのは、がっかりしたくないから。また断られたら凹む。

 

その気持ちを、電話相談員に聞いてもらいました。

 

20分話して、気持ちが少し楽になり、勇気が少し出て、その勢いでクリニックGに電話。

 

結論は、診てもらえる。しかも、非常勤のクリニックDで。

 

クリニックGは遠く、クリニックDは近いので、私はそのほうが助かるけど、主治医の院長(精神科医E)は不快に思わないか、と危惧していたけれど、心配ないという。

 

同じクリニック内で主治医が変わるのはよくあることだから、先生から院長に話してくれるとのこと。

 

本当か、信じていいのか。

 

期待したい自分と、期待をしないようにする自分がいる。

 

初診の希望日を受付に伝え、先生からの返事を待っています。

 

ジャニーズ児童性虐待:性犯罪の当事者が感じた安堵感、違和感、劣等感

ジャニーズと児童性虐待の問題を追っている間、色んな感情が複雑に込み上げていました。

 

すぐに言葉にできないもどかしさから、日々悶々としていましたが「中田敦彦YouTube大学」の動画がアップされた当日頃から、自分の複雑な感情に基づく意見がまとめられる気がしました。

 

安堵感、違和感、劣等感。

 

ひとつづつ検証してみます。

 

 

安堵感

まずは、安堵感。

 

中田さんは普段から、どんなに複雑なことも分かりやすく解説してくれています。

 

今回もより多くの人が児童性虐待について知り、理解し、より深く考えるきっかけになったと思います。

 

ジャニー喜多川の性犯罪疑惑に関して、約60年前から続く一連の流れを説明しているだけでなく、英語タイトル・字幕もつけ、世界中からコメントを受ける準備が整っているところも、抜かりないです。

 

実は私は「防犯のための性教育について授業してください!」と参考文献3冊くらいをコメント欄に書き込んだことがあったのですが、今回の動画で問題提起してほしかったことが言及されていたので、待ち侘びた末に胸をなでおろした感がありました。

 

とはいえ日本の性犯罪に関する刑法は、被害者とりわけ子どもを守っていないことが特徴的なので、絶望感極まりない話なのですが、現実を知ることから始めないとなりません。

 

例えばこんなことです。

 

被害者を守れていない性犯罪の法律を知る

まず、暴行などの脅迫が証明できないと、性行為に同意したとみなされるという、被害者にとって不利な法律があります。

 

性犯罪者は標的に接触するために、あらゆる方法で信頼関係を築こうとします。話し相手になったり、優しい言葉をかけたり、特別扱いをしたり......この作業は英語で「グルーミング(てなづけ)」といいますが、殴る蹴るなどの暴行が伴わなければ、嫌でも被害者が同意したことになってしまうのです。

 

13歳未満の子どもに対しては、いかなる性行為も犯罪です。でも13歳になった途端、性行為に同意できると法律で定められています。これが「性的同意年齢がいまだに13歳」という問題です。

 

日本の義務教育では包括的な性教育をしていないため、性行為に関するリスクを子どもたちは知らされていません。

 

性病、妊娠、中絶、子どもを育てることなどリスクが沢山あるのに、それを知らないまま、13歳になったら判断ができると法律で決められている。このことも義務教育で教わりません。

 

しかも、性犯罪に関する刑法が2017年に改定される前まで、男性は性被害者として認められませんでした。

 

そのため、性被害にあったジャニーズの男児たちは、ジャニー喜多川の罪を問えない状況だったのです。

 

ジャニー喜多川がやったことは法律上は”合法”だったという悍ましい状況でした。

 

こういう明らかにオカシイ世の中の構造となってる仕組み(法律)を変えるためにも問題意識を持つことが第一歩になります。

 

2017年の法改正は十分ではないにせよ、以前に比べて被害者の立場を盛り込めたのも、性被害者の当事者たちが法律家に現状の問題を伝えたからです。

 

意識や法改正の進歩は遅くても、変わっていることもあることを忘れずに、希望を持って行動するしかないことに気づかされます。

 

メモ:
性犯罪に関する法改正の運動は、一般社団法人Spring が重要な役割を果たしていて、より詳しいことが分かりやすくウェブサイトに書かれています。

 

黙殺する報道による共犯

 

今年2023年3月にBBCがドキュメンタリー『J-POPの捕食者: 秘められたスキャンダル』を放送した経緯についても触れていて、日本の報道の在り方が問われていることも示唆しています。

 

イギリスの人気司会者ジミー・サビルが2011年に他界した後、膨大な数の性加害を加えていたという被害者が続出しました。

 

でも彼がBBCという大きな公共放送の中で支配的な立ち位置にいたほか、イギリス王室からも絶賛されていたため、彼の性犯罪を扱うことがタブー視されていて、BBCの幹部が責務を問われる事態に発展。

 

メディアで権力を持っている人の性加害に対して、透明性のある報道が必要という認識の変化がBBCの中で生まれた延長に、今回のドキュメンタリーが制作されています。

 

「死に至るまで一切タブーとして扱われていたことが、死後ようやく検証できるようになったという苦肉の状況」と中田さんは言い当ててくれました。

 

アメリカではマイケル・ジャクソンの児童性虐待事件があり、MeToo運動が世界に広まりました。性犯罪は世界共通、人類の問題です。

 

そんな中、ジャニーズに所属していた岡本カウアンさんが2022年冬、ジャニー喜多川から被害を15歳から数年に渡り15回受けていて、事件の動画も持っているということなどを告白していました。

 

その後、週刊文春取材を受けたカウアンさんは、「日本のメディアからは黙殺されるだけ」とアドバイスされ、日本外国特派員協会(FCCJ)で外国人記者に向けて会見を開催。

 

他の被害者も声を出して欲しい旨を伝えたカウアンさん。

 

ジャニーズ事務所に対し訴訟を起こすか尋ねられた際、考えていないと答えられました。

 

訴訟を起こした方が、より多く報道され、他のメンバーたちも告白しやすくなるのでは?と思いました。

 

でも、すでに問い合わせが国内外から殺到しているらしく、新たな証言者も現れているのなら、ゆっくり検討してもいいのかもしれません。

 

またジャニーズ事務所のお陰で有名になれた手前、訴訟を起こしづらい心理も働いているのかなと察します。

 

でも事務所に感謝の気持ちがあることと、性犯罪を罰することは切り分けて考える必要があると思います。お金と権力があれば、暴力が黙認される社会を助長することになってしまうから。

 

違和感

真実を語ることが難しい社会を体現

違和感を覚えたのは、児童性虐待の「性」やchild sex abuse「sex」という言葉が「中田敦彦YouTube大学」の動画から抜かれていて、脱字ではなく意図的であると感じる点です。

 

「性的」な問題であるということをパッと見で隠して、穏便にしたいという心理が働いているのだと思うのですが、その気遣いは本来、不要だと思うのです。

 

性的な問題であることを「隠す」という発想や行動自体が、性犯罪を見えにくくしている原動と直接関係しているからです。

 

またジャニー喜多川は裁判で犯罪を遠回しに認める供述をしているので「あくまで疑惑である」と中田さんが何度も言う必要はなく、不自然に聞こえました。

 

中田さんの喋り方はいつもとは違い、非常に緊張していましたが、その理由を考えると、名誉毀損を恐れている可能性が大きいのではないかと思いました。

 

名誉毀損は権力者が罪を犯しても守られてしまう法律なので、なくした方がいいと思います。

 

いずれにせよ、真実を話すことはがどれほど覚悟が必要で、真実を話すことがどれほど難しい社会に私たちは生きているのか、ということが体現されている動画だと感じました。

 

劣等感

BBCのドキュメンタリーやカウアン岡本さんの記者会見を受け、大手メディアが取り上げない情報がネット上では次々と流れてきます。

 

大事なことなのですが、私は自分の無力さが浮き彫りになるようで、劣等感を感じていました。

 

私は性被害と加害両方の経験があり、当事者として言及できることが沢山あるし、子どもへの性犯罪に注目を集めて、子どもの心身が尊重される社会に貢献するという目的があります。

 

なのに、いざとなると、想いが複雑になり過ぎて、言葉がまとまらず、時間だけが過ぎていきました。

 

私は4歳から性被害を身内から受け続け、被害を認められるまで30年間以上かかり、昔から精神疾患を患っているのだから、健常者たちの仕事のスピードに勝てないのは当たり前だし、そもそも比べるのがおかしいとは頭では分かっているのですが、気持ちは焦っていました。

 

でも、時間がかかっても、そんな自分だからこそ感じることを書こうと思います。

 

犯罪行為に対してなぜ声を上げないのか

 

「犯罪行為に対してなぜ声を上げないのか」という問題ですが、ジャニーズじゃなくても、当事者ならわかると思うのですが、なかなか難しいのです。

 

まず「信じられない」という自己防衛本能が作動します。

 

信じざるを得なくなっても、今度は「信じたくない」という感覚が勝ります。

 

信じたくないために、思い出さないようにします。

 

記憶を消そうとしたり、問題を矮小化したり、あの手この手を使って意識を逸らします。それは無意識でやっていたりもするのです。

 

それには日々を忙しく過ごして現実逃避するのがとても効果的です。

 

ジャニーズJr.はデビューすると目まぐるしいスケジュールに追われると聞きますが、現実逃避するにはこの上ない環境でしょう。

 

「忙しい」という言葉は「心を亡くす」と書きますが、仕事や何かに没頭していると、トラウマ体験の記憶を押し殺しやすくなります。

 

「心を亡くす」ことができれば、信じられないことを信じずに一旦は無かったことにできるのです。

 

その方が楽だという錯覚から目を覚ましたら、何が待ち受けているか分からない恐怖があります。少なくともやっと手に入れた名声を、得体の知らないリスクを負ってまで捨てるには、よっぽどの覚悟が必要です。

 

人気者になるために、性被害を我慢し、性被害を忘れるためにも、忙しくしていないとやってられない。そうやって、辛うじて精神を保っている方々が少なくないのではないでしょうか。

 

ただある程度は保てても、いつか、押し殺していた感情が浮かび上がってきて爆発する可能性は十分にあり得ます。

 

その時に、話を聞いたり、必要に応じてセラピーをするなど、被害者の受け入れ態勢が、性犯罪の予防と同時進行で、社会に求められていると思います。

 

 

加害者が遠回しに罪を認める心理

加害者が罪を問いただされ際、遠回しに認める口調が特徴的で、その心理に解決策が隠されているように感じます。

 

ジャニーズ事務所側は「問題がなかったなどと考えているわけではございません」と、問題があったことを認めつつも、実際の対応は社内ヒアリングと相談窓口の設置に止まっているとTBS系やテレビ朝日系のニュース番組が、報じたそうです。

 

ジャニーズ喜多川も裁判で「彼たちはうその証言をしたということを、僕は明確には言い難いです。」と否定系で認めています。

 

私が父親を問いただした際も「やった覚えはいないとは言えない」みたいな言い方をしました。

 

なぜ、加害者は素直にストレートに「やりました。申し訳ございません」と言えないのか。

 

それは、加害者の中に罪悪感があるけど、認めてしまったら失うものが大きすぎると思い込んでいるからだと思うんです。

 

でもそれなら、もう少し上手に嘘を浮き通せばいいと思いませんか。

 

嘘をつき通せない、良心みたいなものが見えてきてしまっているのはなぜでしょう。

 

それは、加害者の中に、被害者の意識が認められないまま存在しているからだと思います。

 

意識レベルで、癒やされていない心の傷を十分に認められないまま、潜在意識では「被害者マインド(私は悪くない)」になっていることによる不一致から生じているようにみえます。

 

というのは、私自身、きょうだいにしていた性加害について、心の奥底に罪悪感はあったものの、日常的には自覚しておりませんでした。

 

でも自分が親から性被害者を受けたと認めることができて初めて、自分がきょうだいに対してした加害性と向き合わないとむしろ気持ち悪いという状況に陥り、きょうだいに謝罪しました。

 

加害者が自分の罪を理解するには、まずその加害行動に及ぶ前に経験した被害を十分に認める必要がある。

 

自分が受けた被害を感じられないまま、他人の痛みや苦しみを想像することは難しいからです。

 

ジャニーズ喜多川は裁判で「血のつながりのないというほどわびしいものはないと。という意味で、さびしかったからというのは、逆に、僕自身だったかもわかりません。」と供述したそうです。

 

正直、支離滅裂です。血のつながりがなくて侘しくて、寂しいから、性犯罪をしたってこと??と突っ込みたくなります。

 

ここで重要なのは「わびしい」「さびしかった」という言葉。これらの感情が、彼の中で犯罪行為を正当化する要因になったと捉えられます。

 

もちろん侘しさ・寂しさは性加害をする正当化にはなりません。

 

けれど、その寂しさに向き合うことをしなかったから、性加害が始まり、再犯は止まらず、被害は拡大していったのだと思います。

 

裏を返せば、その寂しさと向き合う必要があったということになります。

 

「血につながりがないことは侘しい」と言いながら、ジャニー喜多川には家族がいました。家族がいたにも関わらず、さみしさが和らぐことはなかったとも捉えられます。

 

ジャニー喜多川のさみしさを和らげるために必要だったのは、男児への一方的な性行為ではなく、セラピーやカウンセリングで気持ちを受け止めてもらう手助けだったのではないでしょうか。

 

加害者側のジャニーズ事務所の人たちも、被害者側のアイドルたちも、この事件に注目している社会の人々全てに共通して必要なもの。

 

それは、一人では言葉にしずらい感情に、ただただ耳を傾けてくれる存在なのだろうと思っています。

 

それは血が繋がっていない人でも、身近な人でなくても、面識のない電話相談の人でも、まだ出会っていない心理カウンセラーでも、話を聞いてくれる人なら誰でもいいんだと思います。

 

【Johnny's and Child Abuse】A series of child abuse cases by Japan's largest entertainment agency

www.youtube.com

 

性犯罪に関する法改正の運動は、一般社団法人Spring が重要な役割を果たしていて、より詳しいことが分かりやすくウェブサイトに書かれています。

 

「もっと辛い人がいる」という鈍器から心を守る

「他人の不幸と比較する」自己防衛本能が危害になる

「世の中には可哀想な人が大勢いて、彼らに比べたら私は恵まれている」

「アレは性虐待なんかじゃなくて、親の愛情が強すぎただけ」

「あの記憶は、ただの悪夢」

「他人の不幸と比較」したりして、自分が覚えた「嫌な感情や感覚」を過小評価する・正当化する・認めようとしない考えは、自分の心身がこれ以上傷つかないための自己防衛手段の一つ、だったようです。

だけどそれを続けていると、自分を守るどころか、ないことにしてきた心の傷が日常生活で悪さをし、人間関係を壊し、身体をも蝕んでいることに、気づいた頃には、その癖を直せなくなっていました。

心の傷というのは、身体の傷や障害とは異なり、目に見えない分、自他が想像する以上に重傷で、対処が遅くなり、悪化することが多い。

しかも、心に傷を負った人は、自他にそれを気づかせないことに長けています。

だから、昨日まで笑顔だった人が、ある日突然、自殺したりするのですよね。

当人にしてみれば、突然なことではなく、長らく死にたくて、やっと実行に移せたに過ぎないのに。

心の傷は他人はおろか、本人でさえ気づけないことがあるほど深刻なのに、一般的には身体の傷や傷害より軽く見られている傾向にあり、それが悪循環を生んでいるのもまた然り。

ようやく心の傷に気づいて、助けを求めた先でも、心無い言葉で傷つけられることも少なくありません。

他人からの「不幸の比較」は一律「マウンティング」

有名でベテランの精神科医にも、ソーシャルワーカーにも、自助グループの主催者にも「あなたよりもっと辛い目に遭っている人がいる」という趣旨のことを私は何度も言われてきました。

一時間も話しておらず、私の人生のほんの一部しか知らない人。それでも「医者」や「支援者」や「当事者」という立場の人に言われると、自分自身で過小評価するときと比較にならないほど傷つきます。

治療のためにと、勇気を振り絞って見せた傷に、いきなり塩を塗り込まれる訳ですから、味方だと思っていた人から。

他人を助けることを生業にしている人達が、人を傷つけるために一番効果的な言葉をよくも言えるな、と不思議でしたが、理由はこうだと思います。

「あなたより不幸な人を知っている」と思い言うことで、無意識にマウントを取り、優越感を感じることができるから。

人間ならきっと誰しもが持つこの愚かさは、どんなに立派に見える立場の人にもあるのだと想像すると、その理不尽な言動も腑に落ちます。

それじゃあ、どうしたらいいの。誰を信じ、頼ればいいの。

信じられるのは自分の感情と感覚だけ。

他人に頼ってもいいけど、裏切られる覚悟の上で。

気持ちを書きたくなったら書き、話したくなったら話す

思い返せば、頭で否定してきた気持ちを、恐る恐る文字や絵にして書き出すことが、トラウマと向き合う最初の一歩でした。

私がそのことを他人に初めて話せるようになるまで、最初の被害から20年はかかりました。

トラウマの記憶は、墓場まで持って行こうと決心していたので、同僚の男性に自然と話せた時は、自分でも驚きました。

きっかけは、彼が受けた性被害について話してくれたことでした。その時、私は封印してきた記憶について彼に話してみようという勇気が自然に湧いたんだと思います。

彼が男性だったというのも大きな要因でした。

女友達らが受けた性被害の話は、昔からよく聞いてきましたが、そういう時、私は自分の話をしようなんて思いもよりませんでした。

「私はレイプをされた訳ではないから、私が受けた強制わいせつは取るに足らない」と自分が受けた被害の記憶を過小評価したり、「でもあなたの加害者は親族であって、私みたいに実の父親(直系家族)ではないから」と深刻さの度合いに優劣をつけようとすることで、自分の話をしなくていい言い訳を頭の奥の方で、ほぼ無意識に作っていたんだと思います。

もし同僚が女だったら、いくら境遇が同じでもきっと話していませんでした。

それは私の頭で「女性が性被害に遭うのは特別珍しいことではない(+加害者は男性)」と思っていたからだと思います。だから男性も性被害に遭うということが当時は衝撃で、麻痺した自分の心を揺さぶったのでした。(この時、自分が年下のきょうだいに性加害をしていた自覚はまだ表面化していませんでした)。

彼に話した矢先に「でもただの悪夢かもしれないの」とすかさず、疑いの余地を残しました。幼児の頃から、父親から性的な言動を受けて気持ち悪かった記憶を認めるのは身の毛もよだつことなので、夢オチにして否定したくなるのも無理はありません。

でもその後、いろんな場所で自分のトラウマ体験を話し続けることで、「幼児期の性被害はただの悪夢ではなく、事実だった」と認められるようになりました。

自分が受けた被害を認められて初めて、ならば、自分がきょうだいにしたことも性加害だったと、自覚できるようになりました。

父親から受けた性被害が事の発端であったにせよ、自分が加害者になっていたことを受け入れるのは、この上なく辛いことです。

きょうだいには謝罪しました。

きょうだいは許してくれましたが、私自身が自分を許すことができません。私が自分の名前も顔も伏せているのは、きょうだいに迷惑をかけたくないと思うからです。

それがなかったら、自分の顔を晒して「私みたいな人間を増産させないように、子どもへの性行為をはじめとする人権侵害はやめよう」と見せしめになりたい。

ある有名な精神科医は「きょうだい間の性加害」を過小評価していましたが、私は先生の認識自体に根本的な問題があると感じました。被害者本人が少しでも不快感を覚えたら、それは紛れもない被害であり、性犯罪の破壊力は本人でさえ計り知れないことを私は身をもって経験してきたことだから。

私には30年余りの心の傷とモヤモヤが蓄積されている訳ですが、先述したように「もっと不幸な人と比較してくる人」というのがどこにでも何割かいて、そういう人に当たるリスクを負えるほど、私のメンタルはまだ強くありません。

そのため、知識は多いが聞くことが苦手な精神科医には通院できていません。

しかし「比較の声」は自分の中からも聞こえてくるので、身近なところから対策することにしてます。

聴き手のプロ「電話相談員」に気持ちを聞いてもらう


最近は電話相談(自殺防止のホットライン等)を頻繁に利用しています。

予約しなくても、家を出なくても、電話がつながりさえすれば、気持ちを吐露できる手軽さがあり、複数の電話相談室があるので、朝から深夜まで、一年中、利用できるのもありがたい。

電話相談員は基本、話を聞くことがメインのお仕事。この「人の話(気持ち)をただ聞く」というスキルが人間関係では超重要なのに、非常に希少だということに気付かされます。

相槌を打ってもらうだけで、不思議と気持ちが少しづつ楽になります。一生、誰にも話せないと思っていたことでも、頭のどこかで「取るに足らない」と思っているようなことでも話していい。

私は毎回、涙と鼻水が大量に出るので、手拭いを常備してます。

「もっと泣いていいんだよ、でも鼻はかんでね。」

幼児期から数年前まで、泣く時に鼻水を啜っていましたが、これはいけませんでした。

せっかく溜まりに溜まった感情と一緒に出せたモノを、私はわざわざ飲み込んでいたのです。

鼻が詰まり、呼吸が困難になり、頭がボーっとし、頭痛にもなっていました。今みたいに泣いてスッキリすることは一度もありませんでした。

思い返せば、小さい頃は今ほど泣いていなかったにせよ、私にハンカチやティッシュをくれる人なんていなかったので、鼻を啜る癖がついてしまったのは、仕方ありません。

でもある日、自己セラピーを実践中、その癖が治りました。ティッシュを使わず、ただただ涙と鼻水を厚手の紙の上にポタポタさせたていたら、水たまりがみるみるうちに広がりました。それを落ち着いてから計量器で測ってみたら30ml以上あり、驚きました。

こんな大量の涙と鼻水を飲み込んでいたなんて、体に良いはずがないと、視覚的にも痛感してから、その癖を治すことができました。

だから、小さい頃の私に鼻セレブか、きめの細かい麻綿のハンカチを手渡して伝えたい。

「もっと泣いていいんだよ、でも鼻はかんでね」と。

相談員も精神科医も「人間」、期待したら痛い目に遭う


電話相談員の中には、話を聞かず「でも、でも」と否定ばかりして、求めてもいないお門違いなアドバイスをする人も一人だけいました。

そうすると、電話相談するのも怖くなる訳ですけど、期間をおいてまた利用しました。幸い、あのような人に今のところ、再び当ることにはなっていませんが、覚悟するようになりました。

電話相談員も、精神科医ソーシャルワーカーと同じ「人間」。きっとストレスが相当溜まっていて、心に余裕が持てない日に、無理して出勤してしまったのだろうと想像します。

他人に頼る時は常に、そういうリスクが伴う可能性がゼロではないことを知っておくと、ハーム・リダクション(ダメージを最小限にとどめる)になるかもしれないという学びにはなりました。

聞き上手な人はレアキャラであっても確実に存在し、面識がなくても気持ちを否定せずに聞いてもらうことで、気持ちは少しづつ楽になることは実体験から言えますが、相手が人間である以上、期待は禁物です。

そして、自分自身の声や信頼していた人から「あなたの心の傷は大したことない、もっと不幸な人がいる」と言われたら、いくら悪気なさそうでも、「決してあなたの心を癒すためではない」ということを知っておくと心の鎧、少なくとも盾にはなるかもしれません。

映画『エブエブ』 の異次元な挑戦状。

Everything Everywhere All at Once. (2023, April 9). In Wikipedia. https://en.wikipedia.org/wiki/Everything_Everywhere_All_at_Once

 

機能不全家族のカンフーアクションSF系コメディー映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(2022)は色んな次元で画期的だ。

「マルチヴァース(多元宇宙:現実世界とは別に複数の宇宙・パラレルワールドが同時に存在するという概念)」で繰り広げられるユーモラスな演出のオンパレードとは裏腹に、その根底にあるテーマと向き合う姿勢は至って切実。

老若男女誰しもが経験し得る人間関係における問題。親世代が経験した心の傷が子供世代に連鎖する「世代間トラウマ」。

世知辛い世の中で無意味に思える人生に絶望しても、生き甲斐に気づくための「戦い方」を教えてくれる。

身近な人の「親切」に気づき、他人に共感し続けることで、自他ともに癒すことができる非暴力的な術。

その方法を終始、示し続けてくれるのは、頼りなさそうに見えるが、共感力があり、弱さを見せることを恐れない、直向きな男性・主人公の夫だ。

現実でも銀幕の世界でも主流で王道な対処法「目には目を」のアンチテーゼを、型破りな登場人物たちが挑んでみせてくれる。

2023年のアカデミー賞で監督賞、アジア人初のアカデミー賞主演女優賞助演男優賞などを含む計7部門で受賞し、史上最も多く賞を獲得した同作品。

白人至上主義が根強いアメリカで、人種差別が完全に払拭されたわけではないにせよ、過小評価されてきたアジア人の実力を大々的に認めさせたという意味でも感慨深い。

 

 

あらすじ

物語は、中華系アメリカ人移民女性のエヴリン(ミシェル・ヨー)が、人生のどん底にいるとこから始まる。夫ウェイモンド(キー・ホイ・クァン)に愛想を尽かし、厳格な父親が春節に訪れることにプレッシャーを感じ、娘ジョイ(スタファニー・シュー)がレズビアンであることを認められず母娘の確執は深まる一方で、経営しているコインランドリーの脱税が税務局員(ジェイミー・リー・カーティス)から指摘されようとしている。

そんな時、夫に乗り移った別宇宙の夫「アルファ・ウェイモンド」からある任命を言い渡される。それはマルチヴァースを破壊しようとしている別宇宙の娘「ジョブ・トゥパキ」を止めること。そのために「ヴァース・ジャンプ(別宇宙への飛び込み)」し、無数にある別宇宙のエヴリンの様々な術を取得し続けて戦う必要があるのだという。しかもヴァース・ジャンプは他でもない、別宇宙のエヴリンが発案したテクノロジーだ。

<ネタバレ>

別宇宙の税務局員、警察官、父親などとも戦うエブリンに対し、ジョブが開示する。自分と心を通わせてくれる母親を探しており、そのためなら理解してくれない無数にいる別宇宙エヴリンを何度殺しても構わないと。

ブラックホールのように全てを吸い込む漆黒の空洞、無意味と虚無感の象徴である「エブリシング・ベーグル」に入り、心中を測ろうとするジョブ。夫を刺してジョブの後に続こうとするエヴリン。

その時、銃で狙われているエヴリンの盾になりながら、ウェイモンドが叫ぶ「皆んな、戦うのをやめてくれませんか!皆んな怖くて、混乱しているから戦っていることはわかってます。僕も混乱しています。毎日、何が起こってるかわからない。自分のせいなのかなって思ったりもする……。でも、たった一つわかることは、親切になる必要があると言うことです。お願いします。優しくなって……混乱しているときこそ」。

この言葉は、敵の戦意を一瞬失わせ、エヴリンを悟りに導く。マルチヴァースで得た全ての力を駆使し、自分を襲ってくる人々を癒し始める。

驚いたウェイモンドが「何をしてるの?」と聞くとエブリンは「貴方のように戦ってるの」と答えた。

現実世界でもエヴリンは夫と和解し、娘の交際女性を受け入れ、そのことを父親に伝え、夫の説得力のおかげで税務署員から書類の再提出を許してもらう。

一方、自殺を一人でも実行しようとするジョブのように、現実世界で失望したジョイは、歩み寄ろうとする母親を突き放そうとする。

しかしエヴリンは、娘が自分を探し求めてくれていたことを認識した上で、娘のすべての行動に賛同できなくても、いつまでも一緒にいたいと思うことには変わりないことを、不器用な言葉ながら伝えることができ、母娘は仲直りした。

感想

私の人生と深い部分でシンクロする部分が多く、自分ごととして感情移入できる作品だった。

まず別宇宙へのヴァース・ジャンプは、極めて不快に見える変な行動や意識してできるという設定だが、これは「解離性障害(DID :かつて「多重人格」と呼ばれた精神疾患)」を彷彿とさせた。

解離性障害の原因の一つに、幼児期からの虐待などが挙げられる。苦痛に耐えられず意識が遠のき、代わりに別の人格がその状況に対応するという自己防衛の心理メカニズムである。

人によって別人格を全く認識していなかったり、あるいは自由に操ることができたりする。自分を守る人格が多い中、自分を攻撃する人格がいることもある。数百の人格を持つ人もいるが、それは宇宙の広さのように計り知れない。

私も解離性と診断されており、まるで別の人の人生を歩んできたような感覚がある。記憶がすっぽり抜け落ちていることも多い。

それは幼児期以降、父親からの性的侵害や、母親からの体罰や精神的苦痛を受け続けた上、誰にも相談したり助けてもらえたりしなかったことなどにより、別人格を形成しなければ、自分一人では現実を受け入れるのが辛過ぎたからだと推測される。

虐待が始まる以前の幸せだった記憶が1つでもあってもいいはず。なのに、そんな嘘っぽいことは全て無意味、というかのように抜け落ちている。

虐待後も、世間的には「恵まれた生い立ち」も、自分の沈黙の上に成り立ってると思うと胸のつかえが重く、苦しさと比例したからかもしれない。

ウェイモンドは「be kind(親切になって)」と説いたが、親切の経験や記憶がない人は、頭の中に自分を守ってくれる「親切な存在」を想像・創造し、その人格に成ることしかできない場合がある。

2歳以降、義父から性的虐待を毎日受け続けたにも関わらず、母親に助けてもらえず、計92人の人格を無意識に生み出すことで辛うじて生き延び、その経験を著書にしたアメリカ人女性トゥルッディ・チェイスの言葉を思い出した。

「the mind is so kind to you
(意識はとても親切)」

トゥルッディが初めて他の人格に気づいたのは、小さな子供の声が自分の中から聞こえた時だと言う。その後、寝室に他の人格が一斉に姿を現したが、「意識はとても親切だから、そこには7人しかいないように見えた。大人になって精神治療を受けているうちに、人数がもっともっといると知り、相当に気が狂ったんだと思った」という。

ヴァース・ジャンプを考案したのも、様々な技術を身につけるためということだが、現実世界のエヴリンがあまりにもストレス過多で、そこから意識だけでも避難させないと自分の心身を保つことができなかったからではないだろうか。

「残念ながら女児です」

これは彼女が誕生した瞬間に発せられた男性医師の不吉な発言。

生まれた瞬間から自分にはどうしようもないことで社会から残念がられる存在が、成長過程で苦労しないはずがない。

現にウェイモンドとの交際を父親から反対され駆け落ちし、幸せなひとときがあったにせよ、夫や娘など身近にいる人と「心を通わす術」を十分に訓練できなかった結果が、人間関係、家事や仕事に追われ混沌とした日々に表れている。

解離性障害を発症しないまでも、エヴリンのように別宇宙の自分を作り出さなくても、現実逃避をしたくなる気持ちは誰にでもあることだろう。

しかし不幸中の幸い、エヴリンには現実世界でも別宇宙でも、夫が必ず側で支えてくれていた。自分と心を通わせたいと願う娘がいた。色々あっても春節に訪れてくる父親がいた。

私は両親からは見捨てられたが、12年以上交際が続いている彼氏や、弟がいる。彼らがいなければ私は、ジョブのように、とうの昔に安楽死の道を選んでいた。

一度でも愛する者から裏切られ深く傷つけられた魂は、愛情を警戒し全てを破壊しようとする。

それは失う悲しみを二度と経験しないための防衛反応でありながら、棘となって自他ともに苦しみに導く厄介なもの。

棘を削る作業には、それまで経験した以上に深い愛情を受け続ける必要があるのだろう。

それを受けられないうちは、自分の脳内で作り出される別人格や別宇宙の自分、現実逃避や妄想、自殺などの方法をとるしかないこともあるかもしれない。

だからこそ、信頼できる生身の人間が精神的に側にいることは「有難い」ことなのだろう。

ウェイモンドはエヴリンに、エヴリンはジョイに「共感」という愛情表現を共有することができた。

これはジョイがエヴリンから、エヴリンが父親から受け継いだ「我が子の意志を尊重できない」という世代間トラウマさえ癒す力があった。

しかし、親切の方法を知らない人に親切を理解させることは至難の業なので、ウェイモンドのような「実践」と「根氣」も必要なのだろう。

言葉にするとあまりにも綺麗に収まってしまうが、その過程は同作品で描かれた程にカオスになることを想定しておくとよいかもしれない。

意見

娘ジョイ・ジョブの2役を勤めたステファニー・シューが助演女優賞に落選したことに釈然としない人が多いようだが私もそのうちの一人だ。

ジョイ・ジョブ役は、ステファニーにしかできない即興によるオリジナリティ溢れる演技が印象的だった。

代わりに受賞した税務局員役のジェイミー・リー・カーティスは、その演技以上に「キャリア」の長さ故に優先されたと指摘する声があり、一理あると感じる。

この不自然に見える流れも、女性より男性が、有色人種より白人が優位なアメリカの傾向に影響を受けるオスカー賞の伝統という文脈から見たら、なんら不思議なことではないのかもしれない。

ミシェル・ヨーは「アジア人で初めて主演女優賞を受賞した」とよく表現されるが、実は1936年、インド人とイギリス人の血を受け継ぐマール・オベロンが主演女優賞を受賞している。しかし白人からの差別を避けるため、アジア人のアイデンティティーを隠していたといわれている。

アジア人がどれほど差別されてきたかということは、助演男優賞を受賞したキー・ホイ・クァンの経歴からも明らかだ。

クァンは『インディアナジョーンズ』や『グーニーズ』で子役として活躍したが、成長するにつれて、同年代の役者がどんどんオーディションや仕事を受けているのに、アジア人であるがために役がなく、俳優の道を諦めざるを得なかったという。

有色人種は、白人ができることの2倍3倍の実力を発揮しても、公平に評価される機会がまだ少ないという不平等な社会で戦っている。

それを踏まえると、欧米文化へ盲目的に憧れを抱くことほど愚かなこともなく、アジア人として劣等感を覚える必要もない。

一個人として楽しくできることを続けながら、時代が追いつくのを待ち構えていればいいのではないかと改めて気付かされる。

「NO」と言う SATCサマンサ役キム・キャトラル不在の影響力

George Pimental - Flickr: 'Meet Monica Velour' 1, Canadian Film Centre


ニューヨークでキャリアウーマン4人組の恋愛模様を描く

ドラマ『セックス・アンド・ザ・シティ(SATC)』の

新シーズン『And Just Like That(『SATC新章』)』に、

サマンサ・ジョーンズの姿がないことへの違和感は半端なかったが、

その理由を知り、釈然とした。

 

サマンサ役の女優キム・キャトラル(以後キム)には

出演オファーがなかったとのことだが、

それはキム自身がサマンサ役を続けたくないことを

2016年から既に明確にしていたことが影響したようだ。

 

2017年に実現しなかった「劇場版SATC3」の台本にも

問題があったという。

 

ミランダの14歳の息子が、

サマンサの猥褻画像を受け取り、迷惑する」

というシーンが組み込まれていた。

 

紛れもない性犯罪である。

 

「サマンサというキャラクターにとって

意味のある話だとは思えなかった」

とキムはコメントしている。

 

「あなたに対する一番大きい誤解はなんですか?」と聞かれたキム。


「私がSATCのサマンサではないことね」と答え、
ジャーナリスト・スカヴラン(Skavlan)の番組で
会場が一斉に沸いた。

 

国際的に問題になっている
子どもへの性的表現の押し付けを拒否したキムは
本当の意味で「アダルト」「大人」である。

 

))

 

「NOと言うこと」

「NOと言うこと」についてキムがスピーチする動画があり、

彼女の人間性がわかりやすく出ていると思ったので和訳した:

 

私の私生活やキャリアなど様々な場面での舵取りをする際に、
とても大切にしていることについて共有したいと思います。

 

とても単純であると同時にとても複雑でもある言葉です。
その言葉は「No」です。

I want to share with you something that has been a tremendous help to me over the years in navigating my personal life and managing a career in all manners of situations. It's simple but at the same time, it's very complicated. It's a word and the word is "No."

No(いいえ)、自分には無理です。

No, that's not for me.

No(いやだ)、それはもう懲り懲り。

No, I've been there, I've done that.

No(いや)、いじられてたまるか。

No, I won't be bullied.

No(いいえ)、そのお給料ではお受けできません。

No, that salary is unacceptable.

No(嫌です)、あたなのホテルの部屋でミーティングすることを断ります。

No, we are not having a meeting in your hotel room.

そして私が一番気に入っているセリフは:
No(嫌だ)、楽しくない状況に一秒たりともいたくない。

And one of my favorites in particular:
No, I don't want to be in a situation for a moment that is not enjoyable.

「イエス」と言うことで解放感を覚えることもありますが、
「ノー」と言うことはとても強力なことです。

 

「ノー」という言葉は、
脳から口まで移動するのに困難な場合があります。
女性の権利や意見が簡単に聞き入れられない状況があるため、
この基本的な言葉「ノー」はますます重要です。

 

「ノー」ということは、
自分自身、自分の境界、
そして自分の目標を
定義するのに役立ちます。

 

それはあなたを創造的にし、
変化を受け入れることができます。

(省略)

過去に「ノー」と言うことは、
あなたの未来に「イエス」と言うことです。

結局のところ、あなたの人生の脚本家は
あなたは自身なのですから。

Now, while saying "yes" can be liberating, saying "no" well that's very very powerful. The word "no" has difficulties sometimes traveling from the brain to the tongue. There can be situations shockingly today where a woman's rights or opinion is not readily listened to, which makes this basic word "no" all the more important. "No" helps define yourself, your boundaries, and your goals. It keeps you creative and embraces. It embraces change. It can allow you to transition out of one chapter and believe that well there will be more exciting chapters to come. Saying "no" to the past is saying "yes" to your future. because ultimately you are the screenwriter in the movie of your own life.

このスピーチは、アメリカのエンターメインメント専門雑誌
『バラエティ(Variety)』が主催するイベント
「パワー・オブ・ウーマン(Power of Women)」で行われ、
エンタメ業界で活躍しながら
社会に貢献する女性を称える趣旨があるため、
「女性」という言葉が使われているが、
男性やその他のジェンダー
老若男女に共通して言えることだと、
個人的には思っている。


バラエティのインタビュー動画でもキムは
「No」という言葉を肯定的に捉えたうえで


「何かを決める時は、直感に耳を傾け、
自分が成長できるか、学ぶことができるか」

という判断基準を大事にしていると話している。

 

 

www.youtube.com

 

ちなみにキムは、子供を持たない女性の一人だ。

ある意味、出産や子育てに「NO」

という選択をしているということになるのだが、

 

「過去に、子供を持たないことによる

社会的な偏見について話したことがありますが、

今でもそのような偏見に直面していますか?」

 

という質問には、こう答えている。

 

「私は今も若い女性たちの指導をしているので、

母性的な面を表現していると感じています。

 

子供がいないからといって、

母性本能を持っていないわけではありません。

 

それは、女性だけでなく人間であることの一部です。」

 

www.youtube.com

 

私自身も子どもを持たない選択をしている。

その分、世の中の子どもたちが大人の餌食にされないように

育てる環境を想像・創造するために

時間を使えることを肯定的に捉えている。

 

原文 17:28

I know you have talked in the past about the stigma you say you face for not having children do you still face that are things changing

I continue to mentor young women, so I feel that part of me that maternal side of me is expressed and I still feel that is my role as a mother just because you don't have children doesn't mean that you don't have maternal instinct its just part o being part of human and not just female.

 

サマンサが登場しなかったことに関しては複雑な想いが残るが、

SATC新章では、過去シーズンよりも、

セクシャリティーの多様性や人種差別の問題などが

革新的に描かれているという意味では、

進歩していると感じる部分もあった。

 

そのことに関しては下記Vogueの記事で

分かりやすく説明されているので割愛する。

 

www.vogue.co.jp

 

 

 

アジア人人種差別をコメディーで斬るロニー・チェン 

FUNG BROS. - Michelin Star DIM SUM w/ RONNY CHIENG from The Daily Show (Crazy Rich Asians)

中華系マレーシア人のスタンドアップ・コメディアン*1 Ronny Chieng(ロニー・チェン)の動画を観て、爽快感を覚えた。

 

生きた英語に触れながら、アメリカのリアルを知りつつ、

スカッとしたい人にはオススメな動画*2だ。

 

アメリカの保守系テレビチャンネルFOX NEWSが中国人を馬鹿にするニュース番組を放送*3。それを受けて数日後、政治風刺番組「The Daily Show*4」でロニーが流暢な英語と中国語で華麗に論破。

 

腕力だけが取り柄で低脳な加害者に対して、知恵と知識で相手の愚かさを見せしめるその姿は、中国人でなくても清々しさを覚える。

 

「2016年大統領候補討論会*5で「チャイナ」という言葉が12回も使われたため、政治的な意見を集めるためにJesse Watters*6をニューヨークのチャイナタウンに送り込んだ」と番組の冒頭で司会者ビリー・オーライリーが言うのを見て、すかさずツッコミを入れるロニー:

 

Okay, first of all, let me get this straight.

先ず、はっきりさせてくれ。

They say "China" in the debate so you go to Chinatown? in New York?

討論会で「チャイナ」って言ったからってチャイナタウンに行かせるのか?しかもニューヨークの?

So when they mention Mexico, do you send someone to Taco Bell?

じゃあ、「メキシコ」と言ったら、タコベル*7で取材させるわけ?

Chinatown is nothing like China! They got nothing to do with each other. 

チャイナタウンと中国は全く別物だろう!その区別もつかないのかね。

That's like if they brought up women's rights, so I decide to go over to FOX News to get some opinions.

まるで「女性の権利」について討論したからと言って、僕がFOX NEWSに行って意見を聞きに行くようなもんだ。

Now, as dumb as that premise is, it is nothing compared to the idiocy that followed. 

この論理がどれほど馬鹿げているかはさておき、その後に続く愚かさとは比較にもならない。

By the way, we haven't added anything to this. This is the original footage from Fox News.

ちなみに、これから流す動画はFOXのオリジナルであって、僕たちは一切編集していないことを断っておきます。

 

動画を途中まで再生し、ロニーが論破:

 

What the hell was that? How was that on the news? In fact, how was that even on TV?

今のは一体なんだったんだ?ニュースと呼んでいいのか?よくテレビで流せたな。

I mean, everyone's been wondering who'll be the target of 2016's worst racism. I didn't even know Asians were in the running. 

2016年はどの人種が最もひどい差別を受ける羽目になるのか皆気になっているが、アジア人もその候補だったとは。

Oh and by the way, if you're gonna be racist, at least get your stereotypes right you ignorant sack of...

そして人種差別するなら、せめてステレオタイプ*8をもう少し的確に駆使してみろよ、どこまで無知なんだ。

Karate isn't Chinese, it's Japanese! And you're doing it in a Taekwando studio, which is Korean you jack-off...jack on, jack off, jack on 

空手はチャイニーズじゃねーし、ジャパニーズだし。しかもそれをテンコンドーの道場でやってるけど、テコンドーは韓国だろう、このマスかき野郎。ジャック・オン、ジャック・オフ......*9

And seriously Mr. Miyagi? Update your reference material. That's like me making fun of Americans for Saturday Night Fever and Mr. T. Yeah, real topical stuff buddy. 

しかも、いまだにミスター・ミヤギを引っ張る気?僕がアメリカ人を馬鹿にするためにサタデー・ナイト・フィーバー*10やミスター・T*11を持ち出すようなもんだ。古いんだよ、ネタが。

 

If you want to come at Chinese people, make fun of China's high pollution, or the fact that they censor most of the Internet, which in this case may actually be a good thing since no person in China will ever have to watch your garbage attempt at comedy!

中国人を馬鹿にしたいんだったら、中国の公害について突っ込むとか他に時事ネタがあるだろ?ネット検閲とかさ?いや、ネット検問に限って今回ばかりは功を奏していると言わざるを得ない。おかげで中国人は、お前らのコメディーに対するゴミみたいな試みを観ないで済むからな!

 

(FOXの人種差別動画の続きが流れる)

 

わざと英語を話さない年配のアジア人を捕まえて、アメリカと中国の政治についてカメラとマイクを向けて無理強いを迫るJesse Watters。

 

ロニー:

Hey asshole, they don't speak English. That's why they're silent.

オイ、英語を話さない人に取材してどうするんだ。

 

It's easy to make fun of someone when they can't respond. Here, I'll show you.

反応できない人を馬鹿にするのは簡単だ。どういうことか見せてやろうか。

 

(Jesseの静止画を写す)

 

Hey, douchebag. Why do you look like a guy who carries around a pack of roofies, just in case? 

オイ、意気地なし、なんで万が一のためにレイプ用の薬物を持ち歩いているような面してんだ?

 

And why do you look like you have hookers on speed dial?

なんで、娼婦の番号を短縮ダイヤルしているって面してんだ?

 

などと、 FOXの番組がどれほど愚かかということを披露した上で、実際にチャイナタウンで、取材をした映像を流すロニー:

 

This might come as a surprise but Chinese Americans do actually have genuine thoughts on this year's election. That's why I went to Chinatown to speak to people in a language they understood -- human. 

意外と思うかもしれないが、中国系アメリカ人は今年の選挙についてちゃんと意見を持っている。僕はチャイナタウンに出向いて、人々が理解できる言語、人間が使うヒューマン・ランゲージで話を聞いてきた。

 

(ロニーが、中華系アメリカ人らに中国語や英語で意見を取材)

 

ロニー(中国語):今年の大統領選挙についてどう思いますか?

男性A(中国語):今年の選挙は以前のものとは異なる。なぜなら、アメリカは移民を受け入れ、尊重する国だという認識だからです。

 

男性B(中国語):今回の大統領選挙の候補者は両方ともダメだから、僕は自分が立候補したい人物アルフレッド・E・ニューマン*12の名前を書くんだ。

ロニー(途中から英語):Wait, you understand American politics enought to lodge a protest vote?(ちょっと待って、あなたは講義表をアメリカの政治を理解しているんですか?)

男性B(英語):Definitely(もちろん)

 

女性A(中国語):アメリカと中国の関係はとても重要。アメリカは中国を友好国だと言っていたこともある。今は「敵だ」と言っている。それはとても危険なことです。

ロニー(中国語):なんでそんなにアメリカの政治について詳しいんですか?

女性A(途中から英語):I'm from Queens(「地元クイーンズの人間だからよ」と呆れたように答える)

 

ロニー(英語): What are your thoughts on the Jesse Watters video on Fox News?(FoxNewsで放送されたJesse Wattersの動画についてどう思いますか?

男性C(同上): The chicken(--) reporter that came down here and thought he was big (--) because he talked to people who couldn't speak English? (英語が話せない人に取材して偉そうな顔をしようとしたちっちぇえレポーターのこと?)

ロニー:Yeah that douche bad peace of (--)(そうそう、あのしょうもない男)

男性C: The one who was sent here by the larger chicken (--)who couldn't come to Chinatown because he was afraid to do it himself, you mean that one? (自分でチャイナタウンに行くのが怖いからってもっとちっちぇえ男から取材をさせられたあのチキンの〇〇にも満たない男のこと?)

ロニー:Yeah that guy. (そうそう、そいつのこと) 

男性C: The one with no testicles, the one who came down here who said, "Let me talk to some old people and let me put them on camera without asking them, and sort of put them on national television and make fun of them in the worst possible way, that asshole."(年配の人たちに撮影する許可も取らずに、彼らを馬鹿にすることを目的に、全国テレビで勝手に放送したあのクソタレのこと?)

ロニー:Yeah I think we're talking about the same guy. (同じ人のことを話していると思います)

男性C: What was the question again? (質問はなんでしたっけ?)

ロニー:I can't remember. (忘れました)

 

(ロニーの取材動画終了するや否や、The Daily Showのスタジオでは拍手喝采

 

ロニーの反論を見ると、清々しい気持ちになる。

正々堂々と戦うことをせず、

弱い者をいじめて楽しんでいるFOX NEWSをはじめとする番組や、

トランプみたいなのを支持する下衆の無能さを徹底的に見せつけてくれた。

 

アジア人が英語話せないだとか、

黙ってみてると思ったら大間違えだぞ、コラ!

 

コメディーの力って素晴らしい。

お笑い芸人も、弱い者イジメという芸のない芸ばかりしていないで、

国家権力の痛いところを突いたりすれば

面白いのにな、と思った。

 

*1:社会風刺などで笑いをとる単独芸人

*2:www.youtube.com

*3:2016年10月3日放送の番組The O'Reilly Factor

*4:コメディ専門チャンネル『コメディ・セントラル(Comedy Central)』の「The Daily Show with Trevor Noah」

*5:ドナルド・トランプヒラリー・クリントン

*6:FOXの政治解説者ジェシー・ワーターズ

*7:メキシコ料理が売りのアメリカのファーストフード・チェーン

*8:特定の属性を持つ人に対して付与される単純化されたイメージ

*9:ジャックオフとは英語のスラングで自慰行為のことで、1984年のアメリカ映画『ベスト・キッズ(英題:The Karate Kid)』に登場する格闘技の師匠ミスター・ミヤギが少年に教える技"Wax On Wax Off"のパロディだ。英語には"Whack Off"というと男性の自慰行為を意味するという意味のスラングがあるため、アメリカ人ならこのシーンを誰もが知っていて、真面目な顔して卑猥なことを言っているということで、白人などがアジア人を馬鹿にする時によく持ち出される

*10:1977年のミュージカル

*11:1980年代の『ロッキー3』『特攻野郎Aチーム』で活躍した黒人のプロレスラー

*12:Alfred E. Neumanは、アメリカ合衆国の風刺雑誌『MAD』のマスコット・キャラクター

性犯罪者・加害者としてどう生きれば(未)

私は、4歳から性被害者になった後、性加害者にもなった。

30代後半になっても性被害を受けるし、彼氏への暴言を止めることが難しい。

 

私を加害者にしたのは、紛れもなく、幼児期から続いた両親からの虐待だが、私以外の人間が聞いたらそれはただの「言い訳」と捉えられるだろう。

 

例え、万人が私を許してくれたとしても、私自身が自分を許せない。

 

社会は私を守ってくれなかったくせに、虐待への正常な反応から私が精神障害者になって、他人を傷つけることしか知らなくても、その責任は「私」が追わされる。社会全体・人類が積み重ねてきた歴史の責任を私個人が負わされる。

 

このことを電話相談員に話した。

 

「カウセリングを受けているか」と聞かれ、

 

「経済的な理由でいけていない」と説明したが「それは通院しないための言い訳」だと思った。

 

通院して少しでも「回復」しても、その先に「絶望」が待っているなら、頑張って通院する意味なんてないだろうという声が私の中にある。

 

ということは、私のカウンセリングの目的は回復ではない。

 

私の目的は、安楽死をするまでに、これ以上、身近な人に加害をしないで済む精神状況でいること。

 

社会とか、未来とか、子供たちの将来のためとか、そんなデカイ話をしている場合じゃない。

 

私は私自身の状況をどうにかしないとならない。

2) 『沈黙をやぶって:子どもの時代に性暴力を受けた女性たちの証言+心を癒す教本』/森田ゆり編著(未)

30年以上経った今も狂ったままです。
 
自分に起きた性暴力が、他の子どもに起きないようにするにはどうすればいいか、とよく考えます。
 
まず、加害者を撲滅することが必要ですが、そのためにも、被害者が最低限、自分の身を自分で守れる方法を知ることも重要です。
 
性器をはじめとするプライベートパーツや水着ゾーンと言われる部分を他人に見せない・触らせない・また他人のを見ない・触らない。嫌なことをされたら嫌だを言い、逃げて、誰かに話す。言葉を話せるようになれば子どもにも最低限、できる自己防衛。
 
私はこれを学びたかった。
 
なぜなら、加害者は誰も知らないうちに、子どもを襲っているからであり、その加害者が子どもにとって最も身近な存在である可能性が高いからです。親、親戚、兄弟、近所の知人、教員などなど。
 
性犯罪の加害者は襲う前に、子どもを飼育(グルーミング)し「信頼関係」を築くケースが目立ちます。そして子どもに秘密を守らせようとする。
 
私の場合、「誰にも言うなよ」と父親から直接的に言われた訳ではありません。父親が一足先に母親を言いくるめ、その反応に何重にも混乱した私は何も言えなくなってしまったのでした。
 
自分が感じた気持ち悪さ、恐怖心、混乱、不信感などの感覚と、それまで自分が知っていた父親のイメージが全く結び付かなかった。それに、私が体験した強制わいせつについて、母親と父親が「良いこと」と思っていると思い込まされ、私は相手を疑うよりも、自分自身を疑うという癖がつき始めました。
 
この時に、父親がしたことは「いけないこと」と事前に教わっていたら、私は母親に助けを求めやすかっただろうと思う。母親に「よかったね」と言われて「え?気持ち悪かったよ?」と訴えられたか、少なくとも自分自身の感情や感覚を疑うことにはならなかったと思う。
 
私が初めての性被害を受けた時から30年以上も経った今も、毎日、苦しんでいるのは、被害を受けた後、誰にも助けを求められず、何度もセカンドレイプに遭い、その犯罪をたった一人で抱え込まざるを得なかったから。安心できるはずの家庭の中で心が休まることがなかったから。何が何だかわからないまま、とにかく、十字架を背負いながら生き延びることしかできなかったから。
 
それは生き地獄。親に見習い、気づけば他人を傷つけてしまう自分が嫌だ。
 

p7 はじめに

性暴力が他の暴力形態と異なる特性の一つは、そこにまつわる秘め事=沈黙の匂いです。

 

「誰にも言うなよ」と加害者が強いる沈黙。被害者が守ろうとする沈黙、として被害者が語れない環境を作り出している社会全体が培養する沈黙。この三者が堅固に維持する「沈黙の共謀」こそが性暴力のきわだった特性です。この「共謀」から脱落して沈黙を破った被害者は加害者からの仕打ちのみならず、社会からの冷酷な制裁にさらされなければなりません。

 

私が

 

p8 「あの人がそんなことするはずないでしょ」と信じてもらえず、たとえ信じてもらえたとしても「犬に噛まれたと思って忘れなさい」と大したことではないとみなされ、さらには「あんたが誘ったんじゃないの?」と逆に罪の責任を着せられてしまう

 

だから被害者は黙ってしまいます。被害者が黙っている限る加害者は安泰です。社会は何事もなかったと装って、幸福な家族を、安全な日本を演じ続けることができるのです。こうして「沈黙の共謀」は維持され、性暴力が日常的にくり返されていくのです

 

p9 もしこの本を読んで陰湿なやりきれなさだけを感じた人がいたら、それはその読者の関心が暴力だけに限られていて、暴行を受けた人が、もう一度晴れやかに生きようと願望しているいのちの働きにおよんでいないからなのです。

 

p10 この本を一読して、なんだこの程度のことで痛いだ生きづらいだと言っているのか、世間にはもっと酷い目にあっても黙って生きている人間がいっぱいいるんだ、と思う人もいるでしょう。......性暴力の深刻レベルのコンテストではないのです。被害者の精神的傷跡の深さ、浅さを周囲の人間が「外傷はないんだから忘れてしまいなさい」「一度だけだったから大してことはない」「性交までいかなかったから、騒ぎ立てることはない」などと言って勝手に決めることは、実は加害者が自分の行為を正当化する口実と見事に一致するのです。「外傷を与えてるわけじゃないからいいだろう」「一度だけの過ちだから許される」「性交を要求したわけじゃないんだ」と。このような加害者の論理に最も容易く社会が同調してしまうのも性暴力のきわだった特性です。被害の深さ、浅さは、被害者のその後の人生にその暴行体験がどのような影を落としたかによってしか、はかる基準はありません。

 

p14 子どもへの性暴力を被害者の視点から分析し解決策を練っていくことーようやく性暴力を社会問題としてとりあげる気運が生まれてきた日本で、今もっともなされなければならないことは、この被害者の視点の確立です。

 

いったい何を性暴力と定義するのか。その決定に被害者の声は反映されていません。性暴力を取り締まる法律は被害者の体験とはかけ離れたところで成立したものです。強姦を扱う警察官も裁判官も被害者の視点に立ったら強姦に対する対応がいかに異なったものになるかなど考えもおよばないのでしょうか。

 

「やめよう夜道の一人歩き」といった防犯キャンペーンが、現実の強姦防止には何の役にも立たないことは、被害者の声を集めればすうにすぐにあきらかになることです。被害者が大人であれ子どもであれ、強姦の圧倒的多数のケースが夜道で知らぬ者から襲われるのではなく、屋内で知人から襲われるからです。さらに、夜道の独り歩きをする女や子どもこそが悪いといわんばかりのこのキャッチフレーズの暗示する責任のなすりつけは被害者の立場を全く無視している好例です。

 

p15 子どもへの性暴力を被害者、すなわち子どもの視点から分析すると、まず第一にあきらかになることは、性暴力が大人ー子どもという社会的力関係の不均衡という社会的条件の上に培養される犯罪だということです。

 

p16 子どもに対する性暴力とは、暴行の程度にかかわらず、加害者が誰であるかにかかわらず、有形・無形の社会的力関係で圧倒的に上に立つ大人が子どもに大して強制し押し付ける性行為であると定義できます。

 

p17 性暴力にかかわる言葉を被害者の視点から定義し直し、確立していく仕事は、日本では今はじまったばかりです。その仕事の主体となるのは、心理学者ではなく、犯罪学者ではなく、弁護士ではなく、評論家ではなく、性暴力を体験した人たちにほかなりません。性暴力の体験者、あるいはその立場に100パーセント立てる人こそが、性暴力の本質をもっともよく知っているのです。

 

 

 

25) レイプ対策:護身術◎金的

護身術は効果的なレイプ対策になるのではないか

 

今日もシャワーを浴びた。2日連続。

 

汗でベトベトになった体を水で流すことが「気持ちいい」のはわかっていた。

 

でも、潜在意識はその「一時的な気持ち良さ」のために、

体を清潔に保つことで強制わいせつや強姦される確率を上げ「永遠の気持ち悪さ」を味わわなくてはならないリスクは高過ぎた。

 

しかし、性被害の証言を数多く読んだことで、

レイプ犯によっては、狙った獲物が風呂に入ってなかろうが、

性病を患っていようが、犯行に及ぶときは犯行に及ぶ。

鬼畜には不潔という概念がないのか、

あったとしても犯行を思い止まらせる要因には必ずしもならないらしい。

 

要するに、体を不潔にして身を守ろうとしても、

犯されるときは犯されるのが現実。

 

ならば、犯されることに怯えて、

自分の衛生面を日常的に犠牲にするよりも、

もっと効率的な方法で自己防衛する方法を考えた方がいい。

 

護身術、少林寺拳法とか。

あまり力を入れなくても、

相手を傷つけなくても身を守れそうだ。

 

少林寺拳法を身につけたら、

痴漢や強姦を退治できる確率が上がるのではないかという希望が芽生える。

 

「自分の身を自分で守れる自信」がつくだけで

自己肯定感も育ちやすくなり、

人生そのものが変わりそう。

 

性教育とセットで義務教育にすべし。

 

とりあえず、資料を取り寄せてみた。

 

www.youtube.com

 

www.shorinjikempo.or.jp

22)身体を不潔に保ってレイプ対策を思いついた幼児

今日、シャワーに入った。

 

髪の毛にコンディショナーを使った。

 

よくできた38歳の私。

 

前回シャワーに入ったのは5日前。

 

体がベトベトして気持ち悪かったけど、入るまでに5日かかった。

 

それでも以前よりは頻度がだいぶ増している。

 

過去の私はほとんどシャワーに入らなかった。多分、数週間に一度、月一くらい。一年に15回も入らなかったと思う。

 

下着も変えなかったから、隠部が化膿して痛くなった。

 

今日も隠部に傷ができていた。

 

なんでシャワーにあまり入らなくなったのか。

 

それは、身体を綺麗にしたらそれだけ、レイプされる確率が高くなると幼少期に悟ったからだ。

 

父親がバックパッカー時代、世界中で娼婦を買いまくったと自慢話をしているのを何度も聞いた。

 

そして、ある女性バックパッカーの話になった時、「あいつは女じゃなかった。風呂にも入らなくて汚かった。」と父が話した。

 

その時、私は「コレだ」と閃いた。

 

風呂に入らなければいい。

 

うちの風呂はそもそも父親から出たと思われる汚物で濁っていて、そんな風呂なら入らない方がマシだし、身体を不潔に保てば「女」と見られないならそのほうが断然良かった。

 

何日間、風呂に入らずにいられるか試してみよう。コレなら、楽勝だと思った。

 

それから私は風呂に入らなくなり、たまーにシャワーを浴びる程度になった。

 

当時の私は、4歳の時から父親の強制わいせつを受けていたことを「悪夢だ」と思い込み、今ほどは自覚していなかったのに、レイプに対する防衛対策を閃いていたことに驚く。その反面、自分がどれほど身体を侵害されたくなかったかよくわかる。

 

当時から陰部が化膿していた。

 

よく、「強制性交などされた子どもの性器には傷が見られる」と言われる。

 

私の場合は、父親から受けた強制わいせつによる直接的なものではなかったが、性的搾取によるトラウマがあったため、自分の性器に傷がつくほどまでに自分を不潔に保って、身を守ろうとしたのだった。

 

日本が中国・南京を侵略した時、女性や少女は顔に鍋底の炭を顔にぬり、ボロボロの服を着て、自己防衛しようとしたと言う多くの証言を思い出す。

 

しかし、性病が見られる女性でも強姦したと言う日本兵の証言を読んで(『南京戦ー閉ざされた記憶を訪ねて 元兵士102人の証言』)日本兵の鬼畜さは流石だと思った。

 

私の体には、その日本兵と同じ「日本人」の汚い汚い血が流れているから、4歳にして父親から犯される運命だったのだな、と思うとなんか納得できるのだ。

子どもへの"愛撫"が暴力である理由(実体験)

私は4歳の時に父親から性器を触られ、非常に気持ち悪かったものの、それが「愛情表現だ」と思い込まされ、自分でも気持ち悪いほど「お父さん子」になりました。そんな私は悪化する精神疾患の治療の過程で、父親から体を侵害されたうえに、その時に覚えた感情を否定された記憶を押し殺していたことに気づきました。そして封印していた記憶や感情によって、自傷行為や他害行為をやめられない精神状態におちいっていたことが判明しました。父親がなんと言おうと、自分で自分をいかに騙そうと、嫌なことは嫌であり、殴る蹴るや脅しが伴わなくても、あれは暴力だったと言うことを認めざるを得ませんでした。

 

子どもに与えられたのは〝愛〟ではなく、暴力です。加害行為であり、搾取であり、心と体を踏みにじる行為で、人権そのものを侵害しています。子どものその先の人生を大きく変えてしまうかもしれないほどの、苛烈な暴力なのです。

斉藤章佳(2020)『小児性愛という病ーそれは愛ではない』p.22

 

小児性愛という病』を読みながら、自分の性被害・性加害を振り返えり、子どもへの性行為は、大人がどのように解釈しようと暴力である理由を解いてみました。⚠︎フラッシュバック注意。

 

私が覚えている限りでは、4歳の時から始まった父親からの強制わいせつは、とてつもなく気持ち悪くて、怖くて、理解不能で、私は本能的にその場から逃げました。それなのに翌朝、母親から「お父さんからメゴメゴ*1してもらったんだって?よかったねぇ」と言われギュッと抱き寄せられたのです。私は混乱の余り、言葉を失いました。

 

ものの数時間の間に、天と地がひっくり返った直後にもう一度、天と地がひっくり返り、何事もなかったかのように日常が過ぎていったのでしょうか。その後の記憶はすっかり抜け落ちています。きっと朝ごはんを食べたり、いつもと変わらない日常が過ぎたのだと思いますが、全く覚えていません。きっと「あの記憶」に比べれば、その他のことは全く無意味で無効であるかのように、敢えて記憶するに値しなかったのでしょう。

 

でも、事ある毎に、私は「あの記憶」を思い出しました。私が4歳か5歳の時、初めて母親に嘘をついた日。母親から怒鳴られビンタされた後、真っ暗なクローゼットの中に閉じ込められた私は、その中で猥褻雑誌の山を発見し、それを初めて見たものの、父親の物だとすぐに理解しました。そして、こんな陰湿な趣味を持った父親が「あの時」についた嘘に関して母は気づきもせず喜んでいたのに、あの時に父親から学んだ嘘を私が真似たら体罰を加える母親への不信感と憎悪が芽生えました。

 

天と地が三度目にひっくり返された瞬間でした。結局、父親が「あの記憶」の中でやったことは「やっぱり、良くなんかなかった」ということが母親の反応からも明らかになったものの、母親はそのことに気づいていないため、父親は罰せられず、私だけ罰せられたのでした。

 

私は百歩譲って父は悪気がなかったのだろうと思い込むことにしました。しかし、母親に関しては、正論を並べて偉そうに怒鳴って体罰を加えてくる度に、父親に言いくるめられるほど間抜けであることが思い出され、私は彼女を嘲笑うことで自尊心を保ちました。

 

同じ不快感であっても、母の体罰は身体的な痛みが伴い、分かり易い暴力だったので、敵視しやすかったのだとも思います。それに父親が私にしたことは「よかったこと」という認識は少なくとも、両親の間では共通していることになっていたので、「子ども」として見下されていた私はそのことに関して口出しできませんでした。

 

私はわずか4、5歳にして、父親から犯されたことがきっかけで母親との間に深い確執が刻まれました。

 

この頃から「あの記憶を覚える前の無邪気な私」は無効とされ、記憶のどこか深い所に封じ込められたのでしょう。「平凡な日常に関連する記憶」がスッポリと抜け落ちているのは、そんな幻想はまやかしでしかないことが立証されたからでしょう。

 

そのためか、私の記憶はたいがい「あの記憶」を呼び覚ますものばかりです。「フラッシュバック」と言われている現象です。私は表向きでは長年「ただの悪夢」だと思い込もうとしてきたのですが、「実際にあったことだ」ということを私の中の誰かが事あるごとに「あの記憶」を引っ張り出して、証明しているかのようです。あるいは証明するために「あの記憶」が「性犯罪」と認識させるために危険な経験を「追体験」として何度も繰り返えさせられてきたように思えてなりません。

 

私は30年以上に渡り、心身共に傷つく体験を繰り返し、その度に「あの記憶」が思い出されたため、もはや「ただの悪夢」では片付けられなくなりました。実際に「本当に起きたこと」だと認めることができた後も、私は気持ち悪いほど「お父さん子」でした。そして怒りの矛先は母親に向けられたままでした。

 

状況の変化が起きたのは、30代で受けた心理療法ゲシュタルトセラピー」がきっかけでした。私は当時から交際男性に対して言葉や精神的な暴力(DV)を加えてしまうことが悩みで、その怒りの現れ方が母親から受けた虐待と似ているため、私は母親への憎しみを解決する目的で参加しました。

 

しかし、私が両親から受けたトラウマの話をした後、セラピストは私に「まず、父親へ怒りをぶつけましょう」と言い、私は困惑しました。母親への怒りを解消したいのに、父親に?父親にも怒りを感じたことはあるものの、母親への怒りほどではありませんでした。私はセラピストに言われるまま、ぎこちなく、父親への怒りの言葉を発しました。半ば言わされているようで、気持ち悪かったのを覚えています。心がこもっていませんでした。

 

セラピーの後に「でも、父親からは虐待を受けたとは思っていないんです」と私が言うと、セラピストが一瞬、絶句しての目が点になったのを見て、「私、今、なんか変なこと言ったかな。暴力を受けたことがないから虐待だとは思えないという意味だったんだけど?」と思いました。

 

「父親からされた気持ち悪いこと」は殴る蹴る脅しなどの暴力が伴わなかったため「虐待」だという認識が遅れていました。

 

でも、今なら、父親の強制わいせつは「愛なんかではなく、暴力であった」ことがはっきりと認識できます。それは、30年以上の間で私が、父親から猥褻行為を繰り返される度、母親から体罰を受ける度、好きでもなんでもない男たちから性被害を許す度、私が幼年期から思春期にかけて弟への性的・精神的加害を行動化したことを思い出し自己嫌悪に陥る度、現在の交際男性に言葉の暴力や浮気などの裏切り行為で精神的に追い詰めながら自己嫌悪が悪化する度、慢性的な躁鬱病に悩まされる日常の中で、「あの記憶」が常に呼び覚まされるからです。

 

私の人生が狂ってしまったのは、悪夢のような「あの記憶」が紛れもない「現実」であったにも関わらず、あの時に感じきれずに押し殺した「不快感、恐怖、混乱、不信感、嫌悪感、不安」などの感情を解放することができなかったから。それが30年以上もの間、心の奥の奥まで溜まりに溜まって、蓋をすることができないほどパンパンになり、何かのトリガー(引き金)で無意識のうちに爆発し、自傷行為や他害行為を繰り返してしまう。

 

大人がなんと言おうと、子どもへの性行為は「愛」から生まれる行動ではなく、支配欲という暴力的なエネルギーが源になっている。そのことを私は人生をかけて証明したようです。

 

父親がいくら「愛情表現だ」と主張しようと、騙された母親が「よかったね」と私を抱き寄せようと、私が「お父さん子」という人格を作り上げようと、父親からされた「気持ち悪く・怖い・理解不能な経験の記憶」を完全に払拭することはできませんでした。それどころか、あの記憶は30年間以上の時間をかけて、「あなたは父親の行動に傷つけられましたよね?違いますか?これでも認めませんか?どうですか?」と私に認めさせるかのように、私は自分で自分の心身を傷つけ、あの恐怖を追体験してきて、今もこのように苦しんでいます。

 

子どものことを「本当に愛している」のなら、どうか、子どもに手を出さないで。

 

代わりに、自他との間にある見えない境界線の存在について認識し合おう。NOという練習をして、自他のNOを尊重しよう。

 

それでも、子どもに性的興奮を感じるあなたは、高い確率で、幼い時に身近な大人から性的なことをされたのかもしれません。またはなんらかの形で自尊心を傷つけられ自信がなくなっているのかもしれません。この課題に特化した精神科医もいます。メッセージをくれたら、紹介します。

 

子どもは未来です。私みたいに、加害者にまでなってしまう被害者を増産させないでほしい。

 

*1:「可愛くてしょうがない」という新潟県の方言らしく、「愛撫する」という意味で父が使っていた言葉