2) 『沈黙をやぶって:子どもの時代に性暴力を受けた女性たちの証言+心を癒す教本』/森田ゆり編著(未)
p7 はじめに
性暴力が他の暴力形態と異なる特性の一つは、そこにまつわる秘め事=沈黙の匂いです。
「誰にも言うなよ」と加害者が強いる沈黙。被害者が守ろうとする沈黙、として被害者が語れない環境を作り出している社会全体が培養する沈黙。この三者が堅固に維持する「沈黙の共謀」こそが性暴力のきわだった特性です。この「共謀」から脱落して沈黙を破った被害者は加害者からの仕打ちのみならず、社会からの冷酷な制裁にさらされなければなりません。
私が
p8 「あの人がそんなことするはずないでしょ」と信じてもらえず、たとえ信じてもらえたとしても「犬に噛まれたと思って忘れなさい」と大したことではないとみなされ、さらには「あんたが誘ったんじゃないの?」と逆に罪の責任を着せられてしまう。
だから被害者は黙ってしまいます。被害者が黙っている限る加害者は安泰です。社会は何事もなかったと装って、幸福な家族を、安全な日本を演じ続けることができるのです。こうして「沈黙の共謀」は維持され、性暴力が日常的にくり返されていくのです。
p9 もしこの本を読んで陰湿なやりきれなさだけを感じた人がいたら、それはその読者の関心が暴力だけに限られていて、暴行を受けた人が、もう一度晴れやかに生きようと願望しているいのちの働きにおよんでいないからなのです。
p10 この本を一読して、なんだこの程度のことで痛いだ生きづらいだと言っているのか、世間にはもっと酷い目にあっても黙って生きている人間がいっぱいいるんだ、と思う人もいるでしょう。......性暴力の深刻レベルのコンテストではないのです。被害者の精神的傷跡の深さ、浅さを周囲の人間が「外傷はないんだから忘れてしまいなさい」「一度だけだったから大してことはない」「性交までいかなかったから、騒ぎ立てることはない」などと言って勝手に決めることは、実は加害者が自分の行為を正当化する口実と見事に一致するのです。「外傷を与えてるわけじゃないからいいだろう」「一度だけの過ちだから許される」「性交を要求したわけじゃないんだ」と。このような加害者の論理に最も容易く社会が同調してしまうのも性暴力のきわだった特性です。被害の深さ、浅さは、被害者のその後の人生にその暴行体験がどのような影を落としたかによってしか、はかる基準はありません。
p14 子どもへの性暴力を被害者の視点から分析し解決策を練っていくことーようやく性暴力を社会問題としてとりあげる気運が生まれてきた日本で、今もっともなされなければならないことは、この被害者の視点の確立です。
いったい何を性暴力と定義するのか。その決定に被害者の声は反映されていません。性暴力を取り締まる法律は被害者の体験とはかけ離れたところで成立したものです。強姦を扱う警察官も裁判官も被害者の視点に立ったら強姦に対する対応がいかに異なったものになるかなど考えもおよばないのでしょうか。
「やめよう夜道の一人歩き」といった防犯キャンペーンが、現実の強姦防止には何の役にも立たないことは、被害者の声を集めればすうにすぐにあきらかになることです。被害者が大人であれ子どもであれ、強姦の圧倒的多数のケースが夜道で知らぬ者から襲われるのではなく、屋内で知人から襲われるからです。さらに、夜道の独り歩きをする女や子どもこそが悪いといわんばかりのこのキャッチフレーズの暗示する責任のなすりつけは被害者の立場を全く無視している好例です。
p15 子どもへの性暴力を被害者、すなわち子どもの視点から分析すると、まず第一にあきらかになることは、性暴力が大人ー子どもという社会的力関係の不均衡という社会的条件の上に培養される犯罪だということです。
p16 子どもに対する性暴力とは、暴行の程度にかかわらず、加害者が誰であるかにかかわらず、有形・無形の社会的力関係で圧倒的に上に立つ大人が子どもに大して強制し押し付ける性行為であると定義できます。
p17 性暴力にかかわる言葉を被害者の視点から定義し直し、確立していく仕事は、日本では今はじまったばかりです。その仕事の主体となるのは、心理学者ではなく、犯罪学者ではなく、弁護士ではなく、評論家ではなく、性暴力を体験した人たちにほかなりません。性暴力の体験者、あるいはその立場に100パーセント立てる人こそが、性暴力の本質をもっともよく知っているのです。
25) レイプ対策:護身術◎金的
護身術は効果的なレイプ対策になるのではないか
今日もシャワーを浴びた。2日連続。
汗でベトベトになった体を水で流すことが「気持ちいい」のはわかっていた。
でも、潜在意識はその「一時的な気持ち良さ」のために、
体を清潔に保つことで強制わいせつや強姦される確率を上げ「永遠の気持ち悪さ」を味わわなくてはならないリスクは高過ぎた。
しかし、性被害の証言を数多く読んだことで、
レイプ犯によっては、狙った獲物が風呂に入ってなかろうが、
性病を患っていようが、犯行に及ぶときは犯行に及ぶ。
鬼畜には不潔という概念がないのか、
あったとしても犯行を思い止まらせる要因には必ずしもならないらしい。
要するに、体を不潔にして身を守ろうとしても、
犯されるときは犯されるのが現実。
ならば、犯されることに怯えて、
自分の衛生面を日常的に犠牲にするよりも、
もっと効率的な方法で自己防衛する方法を考えた方がいい。
護身術、少林寺拳法とか。
あまり力を入れなくても、
相手を傷つけなくても身を守れそうだ。
少林寺拳法を身につけたら、
痴漢や強姦を退治できる確率が上がるのではないかという希望が芽生える。
「自分の身を自分で守れる自信」がつくだけで
自己肯定感も育ちやすくなり、
人生そのものが変わりそう。
性教育とセットで義務教育にすべし。
とりあえず、資料を取り寄せてみた。
22)身体を不潔に保ってレイプ対策を思いついた幼児
今日、シャワーに入った。
髪の毛にコンディショナーを使った。
よくできた38歳の私。
前回シャワーに入ったのは5日前。
体がベトベトして気持ち悪かったけど、入るまでに5日かかった。
それでも以前よりは頻度がだいぶ増している。
過去の私はほとんどシャワーに入らなかった。多分、数週間に一度、月一くらい。一年に15回も入らなかったと思う。
下着も変えなかったから、隠部が化膿して痛くなった。
今日も隠部に傷ができていた。
なんでシャワーにあまり入らなくなったのか。
それは、身体を綺麗にしたらそれだけ、レイプされる確率が高くなると幼少期に悟ったからだ。
父親がバックパッカー時代、世界中で娼婦を買いまくったと自慢話をしているのを何度も聞いた。
そして、ある女性バックパッカーの話になった時、「あいつは女じゃなかった。風呂にも入らなくて汚かった。」と父が話した。
その時、私は「コレだ」と閃いた。
風呂に入らなければいい。
うちの風呂はそもそも父親から出たと思われる汚物で濁っていて、そんな風呂なら入らない方がマシだし、身体を不潔に保てば「女」と見られないならそのほうが断然良かった。
何日間、風呂に入らずにいられるか試してみよう。コレなら、楽勝だと思った。
それから私は風呂に入らなくなり、たまーにシャワーを浴びる程度になった。
当時の私は、4歳の時から父親の強制わいせつを受けていたことを「悪夢だ」と思い込み、今ほどは自覚していなかったのに、レイプに対する防衛対策を閃いていたことに驚く。その反面、自分がどれほど身体を侵害されたくなかったかよくわかる。
当時から陰部が化膿していた。
よく、「強制性交などされた子どもの性器には傷が見られる」と言われる。
私の場合は、父親から受けた強制わいせつによる直接的なものではなかったが、性的搾取によるトラウマがあったため、自分の性器に傷がつくほどまでに自分を不潔に保って、身を守ろうとしたのだった。
日本が中国・南京を侵略した時、女性や少女は顔に鍋底の炭を顔にぬり、ボロボロの服を着て、自己防衛しようとしたと言う多くの証言を思い出す。
しかし、性病が見られる女性でも強姦したと言う日本兵の証言を読んで(『南京戦ー閉ざされた記憶を訪ねて 元兵士102人の証言』)日本兵の鬼畜さは流石だと思った。
私の体には、その日本兵と同じ「日本人」の汚い汚い血が流れているから、4歳にして父親から犯される運命だったのだな、と思うとなんか納得できるのだ。
子どもへの"愛撫"が暴力である理由(実体験)
私は4歳の時に父親から性器を触られ、非常に気持ち悪かったものの、それが「愛情表現だ」と思い込まされ、自分でも気持ち悪いほど「お父さん子」になりました。そんな私は悪化する精神疾患の治療の過程で、父親から体を侵害されたうえに、その時に覚えた感情を否定された記憶を押し殺していたことに気づきました。そして封印していた記憶や感情によって、自傷行為や他害行為をやめられない精神状態におちいっていたことが判明しました。父親がなんと言おうと、自分で自分をいかに騙そうと、嫌なことは嫌であり、殴る蹴るや脅しが伴わなくても、あれは暴力だったと言うことを認めざるを得ませんでした。
子どもに与えられたのは〝愛〟ではなく、暴力です。加害行為であり、搾取であり、心と体を踏みにじる行為で、人権そのものを侵害しています。子どものその先の人生を大きく変えてしまうかもしれないほどの、苛烈な暴力なのです。
斉藤章佳(2020)『小児性愛という病ーそれは愛ではない』p.22
『小児性愛という病』を読みながら、自分の性被害・性加害を振り返えり、子どもへの性行為は、大人がどのように解釈しようと暴力である理由を解いてみました。⚠︎フラッシュバック注意。
私が覚えている限りでは、4歳の時から始まった父親からの強制わいせつは、とてつもなく気持ち悪くて、怖くて、理解不能で、私は本能的にその場から逃げました。それなのに翌朝、母親から「お父さんからメゴメゴ*1してもらったんだって?よかったねぇ」と言われギュッと抱き寄せられたのです。私は混乱の余り、言葉を失いました。
ものの数時間の間に、天と地がひっくり返った直後にもう一度、天と地がひっくり返り、何事もなかったかのように日常が過ぎていったのでしょうか。その後の記憶はすっかり抜け落ちています。きっと朝ごはんを食べたり、いつもと変わらない日常が過ぎたのだと思いますが、全く覚えていません。きっと「あの記憶」に比べれば、その他のことは全く無意味で無効であるかのように、敢えて記憶するに値しなかったのでしょう。
でも、事ある毎に、私は「あの記憶」を思い出しました。私が4歳か5歳の時、初めて母親に嘘をついた日。母親から怒鳴られビンタされた後、真っ暗なクローゼットの中に閉じ込められた私は、その中で猥褻雑誌の山を発見し、それを初めて見たものの、父親の物だとすぐに理解しました。そして、こんな陰湿な趣味を持った父親が「あの時」についた嘘に関して母は気づきもせず喜んでいたのに、あの時に父親から学んだ嘘を私が真似たら体罰を加える母親への不信感と憎悪が芽生えました。
天と地が三度目にひっくり返された瞬間でした。結局、父親が「あの記憶」の中でやったことは「やっぱり、良くなんかなかった」ということが母親の反応からも明らかになったものの、母親はそのことに気づいていないため、父親は罰せられず、私だけ罰せられたのでした。
私は百歩譲って父は悪気がなかったのだろうと思い込むことにしました。しかし、母親に関しては、正論を並べて偉そうに怒鳴って体罰を加えてくる度に、父親に言いくるめられるほど間抜けであることが思い出され、私は彼女を嘲笑うことで自尊心を保ちました。
同じ不快感であっても、母の体罰は身体的な痛みが伴い、分かり易い暴力だったので、敵視しやすかったのだとも思います。それに父親が私にしたことは「よかったこと」という認識は少なくとも、両親の間では共通していることになっていたので、「子ども」として見下されていた私はそのことに関して口出しできませんでした。
私はわずか4、5歳にして、父親から犯されたことがきっかけで母親との間に深い確執が刻まれました。
この頃から「あの記憶を覚える前の無邪気な私」は無効とされ、記憶のどこか深い所に封じ込められたのでしょう。「平凡な日常に関連する記憶」がスッポリと抜け落ちているのは、そんな幻想はまやかしでしかないことが立証されたからでしょう。
そのためか、私の記憶はたいがい「あの記憶」を呼び覚ますものばかりです。「フラッシュバック」と言われている現象です。私は表向きでは長年「ただの悪夢」だと思い込もうとしてきたのですが、「実際にあったことだ」ということを私の中の誰かが事あるごとに「あの記憶」を引っ張り出して、証明しているかのようです。あるいは証明するために「あの記憶」が「性犯罪」と認識させるために危険な経験を「追体験」として何度も繰り返えさせられてきたように思えてなりません。
私は30年以上に渡り、心身共に傷つく体験を繰り返し、その度に「あの記憶」が思い出されたため、もはや「ただの悪夢」では片付けられなくなりました。実際に「本当に起きたこと」だと認めることができた後も、私は気持ち悪いほど「お父さん子」でした。そして怒りの矛先は母親に向けられたままでした。
状況の変化が起きたのは、30代で受けた心理療法「ゲシュタルトセラピー」がきっかけでした。私は当時から交際男性に対して言葉や精神的な暴力(DV)を加えてしまうことが悩みで、その怒りの現れ方が母親から受けた虐待と似ているため、私は母親への憎しみを解決する目的で参加しました。
しかし、私が両親から受けたトラウマの話をした後、セラピストは私に「まず、父親へ怒りをぶつけましょう」と言い、私は困惑しました。母親への怒りを解消したいのに、父親に?父親にも怒りを感じたことはあるものの、母親への怒りほどではありませんでした。私はセラピストに言われるまま、ぎこちなく、父親への怒りの言葉を発しました。半ば言わされているようで、気持ち悪かったのを覚えています。心がこもっていませんでした。
セラピーの後に「でも、父親からは虐待を受けたとは思っていないんです」と私が言うと、セラピストが一瞬、絶句しての目が点になったのを見て、「私、今、なんか変なこと言ったかな。暴力を受けたことがないから虐待だとは思えないという意味だったんだけど?」と思いました。
「父親からされた気持ち悪いこと」は殴る蹴る脅しなどの暴力が伴わなかったため「虐待」だという認識が遅れていました。
でも、今なら、父親の強制わいせつは「愛なんかではなく、暴力であった」ことがはっきりと認識できます。それは、30年以上の間で私が、父親から猥褻行為を繰り返される度、母親から体罰を受ける度、好きでもなんでもない男たちから性被害を許す度、私が幼年期から思春期にかけて弟への性的・精神的加害を行動化したことを思い出し自己嫌悪に陥る度、現在の交際男性に言葉の暴力や浮気などの裏切り行為で精神的に追い詰めながら自己嫌悪が悪化する度、慢性的な躁鬱病に悩まされる日常の中で、「あの記憶」が常に呼び覚まされるからです。
私の人生が狂ってしまったのは、悪夢のような「あの記憶」が紛れもない「現実」であったにも関わらず、あの時に感じきれずに押し殺した「不快感、恐怖、混乱、不信感、嫌悪感、不安」などの感情を解放することができなかったから。それが30年以上もの間、心の奥の奥まで溜まりに溜まって、蓋をすることができないほどパンパンになり、何かのトリガー(引き金)で無意識のうちに爆発し、自傷行為や他害行為を繰り返してしまう。
大人がなんと言おうと、子どもへの性行為は「愛」から生まれる行動ではなく、支配欲という暴力的なエネルギーが源になっている。そのことを私は人生をかけて証明したようです。
父親がいくら「愛情表現だ」と主張しようと、騙された母親が「よかったね」と私を抱き寄せようと、私が「お父さん子」という人格を作り上げようと、父親からされた「気持ち悪く・怖い・理解不能な経験の記憶」を完全に払拭することはできませんでした。それどころか、あの記憶は30年間以上の時間をかけて、「あなたは父親の行動に傷つけられましたよね?違いますか?これでも認めませんか?どうですか?」と私に認めさせるかのように、私は自分で自分の心身を傷つけ、あの恐怖を追体験してきて、今もこのように苦しんでいます。
子どものことを「本当に愛している」のなら、どうか、子どもに手を出さないで。
代わりに、自他との間にある見えない境界線の存在について認識し合おう。NOという練習をして、自他のNOを尊重しよう。
それでも、子どもに性的興奮を感じるあなたは、高い確率で、幼い時に身近な大人から性的なことをされたのかもしれません。またはなんらかの形で自尊心を傷つけられ自信がなくなっているのかもしれません。この課題に特化した精神科医もいます。メッセージをくれたら、紹介します。
子どもは未来です。私みたいに、加害者にまでなってしまう被害者を増産させないでほしい。
性被害xサイケデリック療法のポッドキャスト「Inside Eyes」
性犯罪による心的外傷(トラウマ)をサイケデリック精神療法で癒している人をインタビューするポッドキャスト「Inside Eyes(インサイド・アイズ)」。現代社会が抱えている性暴力やサイケデリックス療法の問題など、日本ではまだ話題にもあがってもいないが、私が日々危惧している課題について自由に語られている。
昨今「サイケデリック・ルネッサンス」と持て囃されるほど、欧米では精神疾患をサイケデリックスで治療することがブームになりつつある。アメリカでは大麻の後を追うように法律が日進月歩で改正されているし、米国は研究のために多額のお金を助成している。その一方で、サイケデリックス医療の現場でも、性暴力のニュースも絶えない。
精神治療にサイケデリックスが有効であるという臨床結果は否定できないが、セラピストが患者に性行為をしてさらなるトラウマを加えていては元も子もない。
なので、サイケデリック療法の非犯罪化・合法化をする前に、「大人も子供も性教育を学ぶことが必要不可欠だ」というのが私の主張だ。
サイケデリックス関連の議論では、サイケデリックスがどれほど有効かという話題が目立つが、その裏で結局、虐げられてきた人々(子供・女性・黄色人種・貧困層)の人権を尊重するという問題の根本についての進歩は依然として遅れている。
「Inside Eyes」 からはこのような問題点も挙げる数少ないメディアの一つとして重要だ。
インタビューアーはソマティック・サイコセラピスト(身体心理療法のセラピスト)Laura Mae Northrup(ローラ・メイ・ノースロップ)*1
*1:
19) 弟から会おうと誘われパニック 電話相談
弟から「今週末会える?」かと聞かれ、どう返事をしたらいいか迷っている。
数ヶ月前も誘いを断ったから、今回も断ればいいかもしれないけど、何回も繰り返したら弟が心配するのはわかっている。私は心配させたくない。
先日、もう一人の弟に久しぶりに電話で話をした際、弟が私の近況報告を聞いてきた。私は躊躇したが、「安楽死をすると決めてから希望を持てている」と伝えた。弟は私の「気持ちは否定しないが、飲み込むのは難しい」と返答。私は話すタイミングを早まったかと反省した。
このことを彼氏に話すと彼氏は「弟に安楽死の話をするのはよくなかったと思う」と言った。私にとって精一杯の希望の話をしても、他人を暗い気持ちにさせてしまう。いつものパターンではあるが。
こんな私がもう一人の弟にあって近況のことを聞かれたら私はなんて答えればいいのだろう。自分の感情に嘘をついて今までみたいに無駄に明るくしたくない。自分の感情に蓋をした分だけ、その感情が怒りとなって彼氏に八つ当たりしてしまうから。
あーどうすればいいのだろう。人に会うのが辛い。断るのも辛い。
16) 日本兵の証言『南京・引き裂かれた記憶』ドキュメンタリー
日本兵の証言を記録した2009年のドキュメンタリー映画『南京・引き裂かれた記憶 *1』を観るために、監督・武田倫和氏が設立した制作会社ノマド・アイに連絡し、返事を待っている。
映画は、松岡環氏*2の著書『南京 引き裂かれた記憶・元兵士と被害者の証言』
に基づいている。
松岡環氏の活動
ドキュメンタリー『南京・引き裂かれた記憶』(予告編)
監督・武田倫和氏のインタビュー
武田倫和監督は、「この映画を製作するきっかけとなったのは、松岡環さんがとの出会いと、彼女が取材した『南京大虐殺』の被害者と加害者の証言を集めた膨大な量のビデオ映像との出会いだった」と語っています。それらの映像を見て、武田監督は、彼が幼いころになくなったおじいさまのことを思い出されました。普段は大変やさしいおじいさまだったそうですが、お酒を飲むと人格が変わったようになり暴れ出したそうです。「自分が殺した中国人が襲ってくる」と言っていたそうです。おじいさまのこの行動と、松岡さんの撮影した映像の中で語っている被害者たちの言葉が結びつき、おじいさまが生涯苦しんだその事実に関心を持つようになりました。
松岡さんは、20数年前から元兵士や被害にあった体験者からの聞き取り活動だけでなく、年に数回中国に渡って、生存者の方々の心のケアをしているそうです。しかし、1937年当時10歳くらいだった人でも、今は80代になっており、証言者が少なくなってきています。「証言者たちがいなくなってしまう。早く映像を残しておかなければ……」松岡さんと武田監督は焦るような気持ちで撮影を進めてきました。しかし、歴史認識を変えようとする人々の攻撃を何度も受けました。事件の解説や研究家の主張ではなく、“直接体験した人に語ってもらう”、つまり“彼らの記憶”をたどることが映画の中心です。
南京大虐殺に関して反論する日本人は、加害者「30万人」という数字が多過ぎるから信用に当たらないという議論を展開しがちだ。そういう時に思い出す必要があるのは「one is too many(一人でも多過ぎる)
」という言葉。
「南京大虐殺60カ年大阪実行委」
6)複雑性PTSD、ROCD、電話相談、シュークリーム
今日の私
複雑性PTSD
生理は昨日で終わったけど、今日もうつ病の症状が続いた。これは、幼児期から始まったトラウマによる持病の複雑性PTSDがあるから。複雑性PTSDが悪化する月経前増悪(PME)が始まるのは1~2週間後だから、今日から1週間の間は1ヶ月でまだマシなはずだけど、複雑性PTSDがいつどのように作動するかわからないから一概に言えないのが現実だ。
ROCD(親密な人間関係における強迫症)
今日は「恋人のことが本当に好きなのかどうか」とう昔からの悩みに再び襲われた。原因を調べるうちに強迫性障害の一種である「ROCD」(親密な人間関係における強迫症)という精神障害を知ることができた。ROCDについて調べながら、ブログを書いた。ROCDも複雑性PTSDの症状の一つに思えてならない。
電話相談(ストレス発散)
自分がROCDだとわかったところで、どうすればいいかわからず、市区町村の電話相談に連絡した。相談員は共感力が高く、とても丁寧に話を聞いてくれて、私は気持ちが楽になった。
トラウマ体験やその後遺症について話すといつも涙が溢れるが、この涙や鼻水を流すことがストレスの発散になっているのだと思う。
鼻を噛んで出すことが大事だと思う。鼻水を飲み込んでしまうと、せっかく出てきた心の膿・毒素を再び体内に取り込むことだから、出てきた感情を押し殺すのと同じこと。
「泣くときは必ず、鼻を噛んで」。当たり前な話なのかもしれないけど。幼児期から少し前までの私に教えてあげたかったことの一つだ。
シュークリーム(ストレス発散)
電話相談で気持ちが少し晴れるも、心身ともに疲れが溜まっていて、甘いものが食べたくなり、シュークリームを思い浮かべた。
以前から気になっていた近所にある洋菓子店のシュークリームは数量限定で売り切れることもあるため、電話して在庫確認。「残り2個なのでお取り置きしましょうか」と聞かれ、一瞬悩んだけど1個だけ注文。お陰で家から出るモチベーションも湧いたと思った。
自転車に乗って洋菓子店に行って、シュークリームを買って、家で速攻食べた。美味しかった。けど、もっと味わえばよかった。ROCDについてのYouTube動画を見ながらだったので、食べ終わった後、ちょっともったいないことしたなと思いつつ、シュークリームを食べたい気持ちとROCDについて知りたいと思う気持ちが同じくらいだったので、仕方ないのかな、とも思った。
6)「本当に好きなのかわからない」親密な人間関係における強迫症「ROCD」
「恋人のことは好きだし、かけがえのない存在だと思っている」
「だけど本当に好きなのかどうかはわからないし、このまま付き合っていていいのかもわからない」
こんな相反する感情によるモヤモヤを12年以上、私は抱えてきました。
更に、この不安を払拭するために移した行動によって関係を壊してきました。
この感覚はなんなんだろう?と英語で検索(don't know if I really like my boyfriend)したら「ROCD」という強迫症の一種である精神障害を知り、自分に当てはまると思いました。
私の悩み
私には交際12年の彼氏がいて、年月が過ぎれば過ぎるほど、彼への愛情が深まる一方ですが、同時に「こんな私と付き合ってもらって申し訳ない」という気持ちも一向に強っています。
また「趣味嗜好が合わないため、相性が悪いんではないか」と思うこともあれば「自分がここまで心を開けられたのは彼が初めてであり、彼がいなければ今の私はいない」とも思います。
私はそんな彼を長年、精神的に追い詰めてきました。彼がやりがいを感じていた仕事を辞める原因は私のヒステリーでした。私は毎日、暴言を吐き続けました。私は母親にされてきたことを彼にしている自分に絶望しました。
私は浮気も内緒で何度も繰り返しました。彼は「浮気をしたらちゃんと話してね、罪悪感を持って欲しくないから」などと言ってくれましたが、私は半信半疑でした。彼の寛容さを信じたい一方で、浮気のことを知った途端に私を捨てるための罠だと思っていました。
交際10年目にした浮気を事後報告した際、私は彼を精神的に追い詰めることになり、私たちの関係は深く傷つきました。
彼は私と別れた姿勢でいたので、彼をこれ以上失うことはないと思い、私は過去の浮気のことも告白することができました。それなのに彼は私を許し「仲直りしよう」と言ってくれました。予想外の展開に驚きましたが、どうやら私が浮気をしたくてしたのではないことや、彼と別れたくて浮気したわけではないことが彼に伝わったようでした。
彼から見捨てられなかったことで安心感を得た私は、自分自身と彼のことをもっと大切にしようと考えを改めました。でも同時にここまで大切な人を傷つけてしまう自分が嫌だという気持ちも強まりました。
彼は私と今も交際を続けてくれているものの、口論になると(私が何かにおいて文句を言ったり怒ったりすると)彼は浮気のことを持ち出し「じゃあ、別れよう」と言うようになりました。私が「仲直りしてくれたのに、なでそんなこと言うの」と聞くと、「別れた方がいいと最初に言い出したのはあなたの方だ」と指摘されました。確かに、彼の言う通りで、そのような言葉を初めて口にしたのは私でした。彼を試していた部分もあると思います。「本当に私でいいの?だってこんなに酷い人間なのに」と。
でも、いざ彼から別れを告げられてみると、本当は別れなくないことに気付きました。「結局、どっちなんだよ?!」って自分でも自分にツッコミを入れたくなります。そしてその答えはやはり一言では言えません。
別れた方がいい気がする理由はいくつもあるけど、浮気が原因で彼から別れを告げられた際は数ヶ月間毎日泣いたし、その後、仲直りしてくれてからはピタッと涙が止まりました。単純ですが、自分の体の反応を観察した時、私はやっぱり彼のことが好きなんだなぁと実感しました。
浮気相手の時とは明らかに違いました。浮気相手とはバッサリ縁を切り、その人に無駄な時間や労力を費やしてしまったことは悔しくても未練は全くありません。
それでも私が「彼氏のことを本当に好きなのかどうか」「このまま付き合うべきなのかどうか」と不安になってしまう理由は、彼氏と出会った頃やその前まで遡ることができます。
私は彼と出会った当時、恋愛関係を求めていませんでした。でも、彼の誠実さに惹かれて、積極的に体の関係に導きました。
その後、彼から「僕たち恋人だよね?」と聞かれて「違うよ」と言ってみたり、「大きくなったら結婚しよう」と言われた時は反射的に「うん」と言ってから内心「しまった、嘘をついてしまった」と思ったりしたのを覚えています。体の関係を誘導したのは「なんで好意があるなら手を出してこないの?という好奇心」が原動力になっていました。彼はいわゆる「草食系男子」で、私が知っている「男像」とは対照的でした。
私は恋人は欲しくなかったし、結婚願望もありませんでした。でもある日、職場の上司に「君たち付き合ってんの?」と聞かれた時、彼の顔も見ずに私は咄嗟に「はい」と答えてしまいました。世間体を気にして反射的に答えたのでした。そんな受動的な状態が自分では受け入れ難かったのですが、彼は知れば知るほど良い人で、私には勿体無いという想いが強まりました。
そもそも、私が彼氏と恋愛ではなく、体の関係を結ぶことに執着した理由は二つあります。一つ目は「恋愛関係」というものに疲れていたからで、二つ目は、男は好意がある女とはすぐに性行為をしたがるものだという固定概念が植え付けられていたからです。
今の彼氏と出会う一年前、5年ほど交際していた男性と別れたばかりで、私は背中に羽が生えたかのように自由を感じていました。その男性は私のタイプでは全くなかったのですが、共通の趣味があり、男友達として尊敬していました。しかし男性から感じる切実な好意を私は拒否することができず、自分から性行為を率先し、その後、自分の行動に責任を取るように交際を申し込みました。
なぜ、こんなアベコベなことをしたかというと、背景には父親の口癖がありました。父親はよく「男女の友情関係はあり得ない」という趣旨のことや「女は受け身だ」と言っていました。そのため、男性の好意を拒否したら、友情関係も消滅するという恐怖心が私に植えついていました。また反抗心から、とにかく「受け身にはならない」と決めていました。受け身の反対は「積極的」「自発的」。男友達との友情を保てないなら、せめて自分から積極的に性行為をしようと思ったのです。しかし、あわよくば巷で噂のセックスの快感とやらを覚えられると言う期待さえも裏切られ、呆気なく終わった行為に虚無感しか覚えられず、自分が汚れたような感覚にも襲われました。
恋人としては好きでもない男友達との友情を失うことへの恐れから、本当はしたくもない性行為を積極的に行い、虚しさしか残らないのに交際を申し込んだという、メチャクチャなことを震えながらやり遂げました。彼との性行為はその時が最初で最後でした。子供が欲しいわけでもなかったのですが、性行為をしない言い訳として「子供を産むまでしたくない」と伝えました。その際、男性から「尊敬できる」と言われ、私は頭がおかしくなりそうでした。え?じゃあ、あの時、性行為をしなくてもよかったってこと?私はこの頃、まだ自分のことを他人に話せるような精神状態ではありませんでしたので、男性に確認したりはしませんでした。
しかし男性と別れた一年後、今の彼氏に出会った時も「男はセックスさえできればいい獣だ」という父親によって長年培われた根強い固定概念は拭いきれていませんでした。それに、男性や自分を騙し続ける虚偽の「恋愛関係」に疲れていた私は、今の彼氏と「恋人関係になりたい」と言う感覚はありませんでした。でも、彼から好意は感じるのに全く手を出してくる気配がなく、混乱しました。彼は私のことが好きなのか?好きじゃないのか?いや、好意は感じるし、好きなはずだ。じゃあ、なんで手を出してこないんだ?
彼の淡白だけど愛情を感じる言動が気になり過ぎてしまい、自分への好意が本物であるかどうかを確かめるように、彼を誘惑しました。しかし、なかなか思うように彼は主導権を握ろうとしません。ベッドに横たわりながら、コンドームを渡すところまで行っても、彼は「なんでくれるの?」と無邪気に聞いてきたりしました。私には彼の思考回路が全く理解できませんでした。
そして、あの手この手を使ってどうにか性交に漕ぎ着けた後、彼から「僕たち恋人だよね?」とか「結婚しようね」などと言われた私は抵抗感を覚えた訳です。私は性交をすることで彼の好意を確かめ、彼という男を理解したかったはずなのに、それが確認できた途端、自分が恋愛や結婚に興味がなかったということが浮き彫りになったのです。私は恋愛や結婚などを通じて人間との繋がりを深めたかったのではなく、人間、とりわけ男という生き物の謎について解明したかったという好奇心によって動かされていただけなのでした。彼は私の好奇心を刺激する「検体」だったと言っても過言ではありません。
彼氏を「恋愛対象」などではなく、どちらかというと「研究対象」として見ていたという気づきにしっくりきている自分に動揺します。
そのような感覚で始まる関係もアリなのでしょうか。
アリなのでしょうね、少なくとも私のように幼児期から強制猥褻をする父親に育てられた人間には。
結論
ROCDという症状は、親密な関係における場合に発生するということは、私と彼との関係が親密だということになりますが、それは確かに間違いありません。
誰とでも親密になれるわけではないことを考えると、やっぱり彼は私にとって大切な存在なのだと思います。たとえ「研究対象」という関係から始まったという、冷徹な馴れ初めがあったしても、そこからどう発展するかということも重要であるはず。
このような強迫症に陥ってしまうことは、過去のトラウマによる複雑性PTSDの症状の一つだという自覚もあります。なので、考えすぎなのかなとも思います。
いずれにせよ、強迫観念に襲われても、早まった結論は出さないように、自分が望まない未来のことは口にしないよう心がけます。
OCD「強迫性障害」とは
「強迫性障害(OCD)」とは、「頭の中にうかぶ考えやイメージにとらわれてしまい、それを払しょくするための行為をとめられない病気になります。 自分でもバカバカしいことだと自覚していても、頭に浮かぶ考えやイメージをやめることができないため、周囲にいる人まで巻き込んでしまうこともあります。」*1
OCDは「疑い」の要素があるのが一つの特徴です。
ROCD「親密な人間関係における強迫症」とは
ROCDは「親密な関係における強迫症」で、「強迫性障害(OCD)」の一種です。Rは人間関係を意味する英語Relationshipの頭文字からきています。ROCDの研究*2はまだ初期の段階にありますが、英語では情報が比較的沢山あります。日本ではまだほとんど認知度はされていないようですが「ROCD 強迫性障害」と検索すると1件だけ引っかかり、わかりやすく解説されています*3。
ROCDの2種類の強迫観念
①関係性に関する強迫観念
例:
「この関係性は、私達にとって正しい関係なのだろうか?」
「これは本当の愛なのだろうか?」
「私のパートナーは本当に私を愛しているのだろうか?」
②パートナーに対する強迫観念
例:
パートナーの自分に対する感情
パートナーの性格や容姿など
4) Rapist Found "Not Guilty" in Japan, Again
1) 罪を償う:やりたくないことはやらない
私は罪を犯した。またもや罪を犯してしまった。
私は交際12年の彼氏と自分をも裏切った。別の男と一線を超えた。しかも、やりたかった訳ではなく、癖でやった。立たない男をへの哀れみの念からやった。彼氏との関係への絶望感と悲しみに蓋をするためにやった。性行為の時に出てくる自分じゃない感覚でやった。
やりたくてやった訳ではない、というところが癖モノだ。やりたくてやったならまだ反省しやすいが、やりたかった訳ではないとくると厄介だ。やりたくないことをやった自分を反省しないとならないからだ。
やりたくないことをやる自分を、そもそも自分だと思うことが難しい。でも、やりたくないことをやる癖は昔からあった。ほとんどのことにおいて、やりたくないのにやってきた。やらざるを得なかった。
これからは、「やりたくないことは、やらない」と同時に「やりたいことをやる」癖をつけよう。
1〕うつ病が理解されにくい苦悩
鬱であることを理解されにくいことが更に悩みになることが多いです。自分でさえ、鬱を押し殺していることに気づかないほどに躁的防衛反応が炸裂することがあるくらいなのです。いわゆる多重人格と言われる「解離性同一性障害(DID)」の一歩手前な感覚があります。
笑顔のうつ病はアメリカでは「High Functional Depression(日本では、「高機能型境界性パーソナリティ障害」と訳されることも多いですが、意味合い的には「社会順応型境界性パーソナリティ障害」と言うべきでしょう)」や「持続性抑うつ障害(PDD)」の別名で、慢性的に悲しみを感じ、睡眠や食欲に影響を及ぼしたり絶望や疲れを感じたり、パニック障害を起こしたり、好きだった活動に興味が持てななくなる…といった症状が現れると言います。*1
1 〕生理初日、1ヶ月振り返り、複雑な心境
生理一日目に、1ヶ月を振り返ってみると、できたことが沢山あることに気づき、達成感を覚えられると共に、複雑な感情に襲われます。
生理の初日
生理の初日は毎月、1ヶ月の区切りのような感覚があります。(自分だけの月末みたいな感じ)
私の場合、幼児期から受けてきた性被害などによるトラウマが原因で基本的に鬱「複雑性PTSD」で、生理前から精神症状が悪化する「月経前増悪(PME)」も併発している状況です。
生理前の約1~2週間から生理中にかけて(計約3週間)症状が悪化し、生理が終わった後の5日間くらいは比較的活動できる傾向にあるけど、基本的な複雑性PTSDの症状はなくならない。
でも生理がきただけで「数日後には少しはマシになる」という希望的観測から安心感が生まれるのか「この1ヶ月間、自分は何ができただろうか」と振り返る心の余裕ができることがあります。
そういうわけで、自分にとって優しくできたことや嬉しかったことを振り返ってみました:
できたこと(ハードルが高かった順)
・障害年金を受給のために精神障害専門の社労士の力を借り始めた
・度が合わないメガネについて苦情メール送信(返信メールを開けるのは怖い)
・自立支援医療と転出届の手続き
・生活保護の条件について問い合わせ
・クリニック3軒での診断名を電話で問い合わせ
・シャワー2日連続で入れた日があった
・焼き鳥屋のゲンコツ噛み砕いた(硬いもの食べてストレス発散)
・壊れたMacBookAir2015手放した
・Twitterを再開(ストレス発散)
・自伝を本格的に書き始めた(ストレス発散)
・自伝の四コマ漫画のネームを書いた(ストレス発散)
・悩みを無料電話相談で話した(ストレス発散)
・サイズ合わないジャケット手放した
・サイズ合わないチノパン手放した
・DV男から貰ったものを手放した
・その他不用品の手放しをコツコツと継続
・チェダーチーズあられを買った(硬いもの食べてストレス発散)
・ブルーベリー100%のジュースを買ってみた
・アールグレイのケーキを買った
・ゴーヤーチャンプルーを作った
・麻婆豆腐をレシピ見ずに上手にできた
・ほぼ毎日ブログを書いて気持ちの整理(ストレス発散)
・1ヶ月ぶりに珈琲豆を買えた
嬉しかったこと
・スイスでは、非移住者でも精神障害者でも安楽死ができると知り、希望・安心感が持てた
・ブログ記事「私が障害年金を検討するワケ」に☆をつけてくれた人が2人いた
・ブログ記事「産まない・育てないに迷いのない私の母性本能」に☆をくれた人が1人いた
(☆をつけてもらうために書いているわけではないけど、だからこそ、☆が付くとなんだか嬉しい。このブログのことを知り合いには誰一人として教えていないのは、知られたらたちまち本音が書けなくなってしまい、それではブログを書く意味がなくなってしまうからだ。でも知らない人からの☆が素直に嬉しいのは、疑い深い私としては、そこにお世辞の要素がないと確信できるからだ)
・Twitterで呟いたことを♡してくれた人がひとりいた
(男女の双子のお母様で、育児について発信しているらしい。子供の感情を尊重する姿勢を拝見し、私もこんなお母さんに育てられたかったな、と思った。)
・彼が私の話を聞いてくれること
・彼の言葉が前向きなことに安心する
・しばらく会ってない友達からのLINE
・鳥居みゆきさんの人柄が好きになった
・大山の唐揚げ定食が美味しかった
・麻綿のタオルケットが快適
・ヘンプあんみん枕が快適
・バナナとキューイの豆乳スムージーが美味しいと感じた
複雑な心境
実際はベッドから出られず、シャワーも何日も入れず、鬱々しながら涙を流すことが精一杯な日々が大半であっても、こうやって振り返ってみると、できたことも色々あるじゃん、と思える。
ただ、複雑な気持ちが残るのは「できる自分」を認めた途端、「鬱な自分」が心配してくるからだ。
私は他人から「元気」に見られることが多い。躁鬱の「躁」な時しか人に会わないようにしているし、自分のうつ病を説明する時も、なるべく負のオーラは抹消するよう心がけている。鬱のことを明るくハキハキと話す感じ。
でもそのせいか「心ちゃんは鬱じゃないよ、月経ホルモンの変化が原因で落ち込んでいるだけ(PMDD)だよ」と言われ、落ち込んだことがある。私の日常のことなど何にも知らない人から、頼んでもいないのに的外れな診断をされ、心外でありつつも「今日は元気だからこうやって会えているだけで、本当に鬱なんです、普段」と言い訳するものなんか嫌で、何も言えなかった。そしてモヤモヤしながら別れて「嗚呼、私はやっぱり人から理解されない」と落ち込んで鬱が悪化。その人も悪気があって言ったんじゃないということは分かる。私が繊細(HSP)すぎるのと、私が偽りの自分を見せる癖のせいでもある。ただそれ以来、その人との会話が面倒になり、会わなくなってしまった。実はこういうことで人間関係が築けないことが少なくない(もっと酷い例も沢山ある......)。
「違います。あなたは私の元気な時しか知らないからそんなことが言えるんです」とキッパリ言えたらいいのかもしれないけれど、日本語だと角が立つ気がして言いいづらい。
でも結局、押し殺した感情は全部、彼氏にぶつけてしまい、彼が精神的に追い込まれていくのを見るのが一番辛い。だから最近は「無駄に元気な人」を装わず、「フラットな人」になる工夫を試行錯誤している。
それにしても精神病の症状は、他人が認識しづらいからこそ理解されず、辛い思いをすることが多い。
こうやって毎日、パソコンに向かってブログを書けているけど、それができているのは、収入を稼ぐというプレッシャーがなく、他人と関わらなくていいし、自分の気持ちを整理できて、ストレス発散になるから。必ずしも「毎日ブログを書ける=仕事ができる」とはならないんだ。
もちろん、また仕事がしたいと思えるようになれたらいいと思う。仕事をしないということは、収入がない、収入がないということは他人に必要以上に依存しなくてはならない。私は他人に頼ることが特に苦手なので、そのような状況は慣れていないし、どうしていいか分からなくなって身動き取れなくなってしまう。仕事ができたら経済的に自立でき、他人に頼ることは最小限で良くなるから、できればそうしたい。けど、今は稼ぐことへの意欲がない。人生初めての経験だから不安だ。
そんなこんなで、できなくても鬱、できても心配・不安という肩身の狭い世の中に生きています。
でもいいんだ、私が自分の複雑な状態を理解して認めてあげればそれで。私が4歳の時から38歳になった今まで毎日どれほど苦しんできたかなんて、他人にどんだけ丁寧に説明したって想像しかできないんだから。なんか言いたい人がいたら、言わせとこう。
28 「産まない・育てない選択」に迷いがない私の母性本能
結論:私は子供を生まない・育てない。
恥の多い人生を送って来ました。しかしそんな私も、4歳で父親から性被害を受ける前までは純粋無垢な幼児でした。
まだ何の罪も犯していない魂が、この世に生み落とした肉親の手によって穢される。その記憶に苛まれながら恩に着せられ、肉体が滅びるまで、自他を傷つけながら生き地獄を彷徨う。
これほど残虐な世の中で生き続ける意味などあるのか。この不条理をどうしても受け入れられず、もがいていました。
だって、世の中には幸せそうな人もいるじゃないですか。なぜ私はあの人達のように人生を謳歌できない運命になってしまったのでしょう。
こんなはずじゃなかった......。
こんなはずじゃなかった......!
「物事は私に対して起こっているのでなく、私を通じて起きている。」
そのことに気づくと、視界が少し開けた気がしました。
4歳の私が父親から犯され、隣にいた母親に助けを求められなくするための条件は、私が誕生する遥か昔から揃っていたことを歴史が教えてくれました。「児童虐待への無関心」「男尊女卑の伝統」「近親姦の合法性」などなど……。犯罪の温床が大事に育まれてきたことを。
もはや、私に直接害を加えてきた父と母だけで負える規模の罪業ではなく、先祖が代々人間社会で継承してきた負の遺産。その先祖の血を受け継いだ私に、そのツケが4歳の時に回ってきただけの話であり、いつ起きてもおかしくない状況だったのです。
ということは、縁起でもありませんが、私に起きた災難は、いつ誰に起きてもおかしくないということです。
私も20歳くらいまでは漠然と「25歳くらいになったらお母さんみたいに母親になるのかなー?」と思っていました。でもある時「世の中が変わらないまま出産・子育ては危険すぎる」と思い、選択肢を蹴りました。子どもに私みたいな経験をしてほしくない・そのリスクを取るのことさえ恐ろしいと思ったからです。
その後もわたしの想いは強まっていて、何の迷いもありません。
一方で、親や保護者から尊重されて育って心が健やかな子供や、逆行を乗り越えた若者や大人を見ると、世の中捨てたものじゃないなと思います。
こういう人たちが増えれば人間社会も変わるだろうと、希望さえ芽生えます。
なので、子供を産む・育てること自体に反対なのではありません。機能不全家族出身で、自他への正常な愛し方を知らない私には「無理です」とやらない選択を明確にしているという訳です。
その代わり、私は出産・子育てにかけなくていい時間を、よそ様の子どもへの性的虐待をはじめとする暴力が減り続ける未来を想像・創造することに費やします。誰の子であれ、私のような経験をしてほしくない想いは変わりません。
「出産・子育て」に対して楽観的になり過ぎるのは考えものですが、私のように悲観的になる必要があるとも思っていません。「子供の権利」「あらゆるジェンダーの権利」など今まで足りな過ぎた意識の変化は、気づかないほどゆっくりですが、起きていることもまた事実です。
それでも私は子孫を残すことより、血統を絶ち負の連鎖を断つことを優先した方が、自分のためはもちろん、世のため・地球のためになると確信しています。
これは歪んだ愛情で育った私が辿り着いた母性本能のカタチなのだと解釈しています。