『きんしんかん:性加害のニワトリとたまご』

ある本がきっかけで、逃げるように東京に移住した日系アメリカ人の斎氣心。初めて心を開ける人に出逢うも、彼にDVをしてしまう。確執が長年ある母親のような自分に絶望した。原因は、母の「躾(暴力)」と女性ホルモンだと考え、低容量ピルYAZを服用したが、副作用で臨死した。古今東西の代替医療による精神治療を試行錯誤する中、幼児期に父親から受け始めた猥褻を自覚する。それでも問題が雪だるま化するため、両親に虐待の事実を問いただした。しかし己の被害を自他に明示できた瞬間、自分もきょうだいに性的加害をしていた記憶が蘇り...

私は子どもの時に父親から性被害を受けたのか?検証

【検証:幼児期の近親姦被害】

幼児期以降に覚えた近親姦被害の記憶を辿りながら、30年以上言葉にならなかった自分の気持ちを表現し、自分らしい人生を歩むための記録です。初めての被害当時に推定年齢4歳の自分に何が起きたのか、その記憶を裏付ける証拠はあるのか、性被害がその後の人生にどのような影響があったのか。このようなことを振り返り、被害・加害を繰り返さないために一個人としてできることを試行錯誤しながら、発表する実験の場でもあります。

 

もくじ

近親姦被害の内容

しあわせだったはずの記憶が欠落した空白の中にある「一連の記憶」は「ただの悪夢」だったのか?

私はもともと、家族のことが大好きで、幸せな幼児前期を過ごしたのだと思う。

 

だから、次の記憶をどう受け入れれば良いのか、いまだに解らなくて混乱しているのだと思う。

 

私が両親の寝室のベッドで両親の間で就寝中、不快感を覚えて目が覚めたら、パンツの中に父の手が入っていて、私の陰阜を撫でていた。父は寝ぼけているのだろうか?と私は疑った。なら、その手を振り払おうと、寝返りを打つように母の方を向いた。が、父の手は私のパンツの後ろを握った。恐怖。混乱。恐怖。その場に居ても立ってもいられなくなり、なるべく素早く、なるべく静かにベッドから抜け出し、トイレに駆け込み、水だけを流した。

 

直後の記憶はない。

 

ここまでなら、単なる「悪夢」として処理できたかもしれない。しかし翌朝の奇妙な記憶も鮮明に覚えている。

 

母親から「お父さんにメゴメゴしてもらったんだって?よかったねぇ」と言われながら、ギュッと抱き寄せられ、私は???お母さん、喜んでいる???と言葉にならないほど混乱し、何も言えなかった。

 

直後の記憶はない。

 

断片的な「一連の記憶」の鮮明さ。それを強調するほどに、前後にあったはずの記憶が欠落している。

この当時、学校に通っていたかどうかも定かではない。私はプリケー(アメリカの現地校で4歳児のクラス)から通学を始めたらしいが、「一連の記憶」の直前・直後に学校生活の記憶がないということは、まだ通い始める前だったのかもしれない。「一連の記憶」の直前・直後の家庭内の記憶もないため、それ以外に特筆するほど変わった出来事もなく、学校に通い始めていたとしても、それは日常のこととして覚えていないだけなのかもしれない。

誕生した時から育まれた両親に対する絶対的な信頼・安心感。特別なこととして記憶に留めることもないほど当たり前で揺るぎないことだったのだろう。それは幸せだった証。

そんな中「一連の記憶」はイナズマのように、侵入する父親の手から、私の神聖な場所を通じて、それまで覚えたことのなかった感覚と感情を、幼い脳みそと心に深く刻んだ。

 

「一連の記憶」を境に、それまでは認識していなかった「不快感」「恐怖心」「混乱」「不信感」「無力感」「自己否定」「孤独心」が芽生え、「羞恥心」「罪悪感」「復讐心」「差別心」「嫉妬心」「絶望感」などの感情に繋がった。同時にそれまで当たり前であった「安心感」「信頼」「心地良さ」「愛情」などの感情までも疑いの対象となっていった。

 

人生をひっくり返し揺さぶった「一連の記憶」は、「一連の悪夢」と捉えることはできないか。

 

結論から言うと、捉えようとすることはできるが、続けるのは困難で致命的だった。実際、私自身は30年以上、そのように思い込もうと努めてきた。「悪夢(事実でないこと)」として片付けられたらどんなに楽かと想像した。しかし、現実にはそのように思い込もうとすることは全く容易ではなかった。

よくよく考えてみれば夢は、時間が経つにつれて忘れられる性質がある。日常の記憶も薄れてゆく。しかし「一連の記憶」に関しては最早「呪縛」と表現した方が的確だ。忘れようとするればするほど、私の人生に破壊的な影響を及ぼす。現実世界で「一連の記憶」を連想させることが起きたり見聞すると、一気にフラッシュバックし、気力が奪われ、あるいは怒りとして感情が爆発し、自分や身近な人を傷つけながら、深い自己嫌悪に陥り続ける。

呪縛から逃げても逃れらないのなら、それに立ち向かうしかないのか。そのためには、まず自分が長年否定してきた記憶が、実際に起きた「性被害」として自分で認められるまで検証、裏付けをする必要があると思った。

性被害後の兆候

自分が長年否定してきた記憶が悪夢ではないのなら、実際に起きた「性被害」によるものなのか、整理する必要がある。

 

性的虐待の最も明白なサインは二つあるといわれていて、私は両方とも該当する。
・子どもの様子がいつもと違う、と思ったとき。
・子どもが性的被害を受けたことを口にしたとき。
森田ゆり著「子どもへの性的虐待」)

子どもが性的被害を受けたことを口にしたとき

私の場合、性被害を受けたと推定できる年齢(4歳)から約20年経った頃に、初めて性的被害を受けたことを口にした。年齢的に「子ども」ではないが、兆候が表面化する時期は多様だそうだ。その時は、仲が良かった同僚の男性に打ち明けた。同僚が自身の性被害体験を開示したとき、私は(男性も性被害に遭うんだ)と驚き、自分のことを話すことができた。話した後、今まで悪夢として否定していたことを認めたようで戸惑い、涙が少し出た。

 

中学生以降、女の親友らが性被害に遭った話を何度か聞いたことがあったが、私は自分の話をする気にはならなかった。まだ性被害に遭ったことを完全には認められていなかったが、この記憶についてどう思う?と友達に聞くこともしなかった。私の場合、加害者は「実父」であり、タブー要素が強すぎると思ったのは大きかった。

 

初めて同僚に告白してからは、気を許せる人や交際相手に話す機会が増えていったが、その時も自分の中ではまだ半信半疑だった。

 

30代後半になってゲシュタルト・セラピー受けてから確信に変わった。

 

その後、母に告白し、父を問い質した。

子どもの様子がいつもと違う、と思ったとき

「様子がいつもと違う」に関しては、性被害を受けて間もなく、そのような兆候があったことを覚えている。

私は歳下の男兄弟がふたりいて、夜になると3人で誰が両親の寝室で寝るかという争奪戦を頻繁にしていた。そして権利を勝ち取った際には必ず、両親の間で寝た。しかし、ある時から私は、必ず父親との間に母親を挟みベッドの端で寝るようになった。その度に私は頭の中で「以前は必ずお父さんとお母さんの間で寝ていたのに、いつからお母さんを挟んで端っこに寝るようになったんろう?あの記憶はただの悪夢だよね?なら、なんでふたりの間で寝なくなったの?」とぐるぐると自問自答を繰り返し、なかなか寝付けなかったのを鮮明に覚えている。

 

両親の寝室で寝る頻度は減っていたが、たまに風邪で熱が出た時などは、両親のベッドで寝ることがあった。何歳になっても自ず母親を挟んで、同じ自問自答が頭の中でループしていた。

 

「子どもが次のような兆候を急に示すようになったり、今までとは極端に異なった行動をするようになったら、性的虐待あるいは、性的いじめにあっている可能性がある......」(森田、2012)の下りに続く兆候は大半が該当し、下記を含む。

・特定の場所に行きたがらない

・解離症状(健忘、意識喪失)がある

・性器への関心を見せるようになった

・他の子どもの性器にさわろうとする
・年齢に不釣り合いな、性器や性行為に関する知識を持っている
・過食、拒食など摂食障害がある
自傷行為を繰り返えす
・多動。落ち着きのなさ、乱暴

・夜尿
・性器に外傷がある
・徘徊、家出、不登校、万引き、虚言、薬物使用、自殺未遂、援助交際など、大人の目からは不良行為、非行、問題行動を見られる行動をとる

 

上記の兆候を一気に示したわけでないので、ひとつづ検証していきたい。

特定の場所に行きたがらない

これは先述の通り、被害後も両親の寝室で寝ることはあったが、必ず母親を挟んで寝るようになった。

解離症状(健忘、意識喪失)

両親の寝室で寝る際「あの記憶はただの悪夢だよね?なら、なんでふたりの間で寝なくなったの?」と自問自答を繰り返していた。これはフラッシュバックと解離症状による健忘が交わって混乱している状態と捉えられる。

 

性被害の直前・直後の記憶が欠落しているのも、解離症状があったためと考えると腑に落ちる。

 

私の人格は実際、性被害を境に、真逆な人格が形成されるようになった。母曰く幼い頃の私は「ほとんど泣かなくて、手間がかからないだけでなく、弟たちの面倒をよく見る良い子」だったが、それはみるみるうちに変わっていった。

他の子どもの性器にさわろうとする

私の2歳年下の弟は幼児期、よく下半身を丸出しにして走り回っていた。なぜかはわからないが、当時は疑問にも思っていなかった。私はある日、何を思ったか、両親の寝室のベッドの上に座った状態で下半身を露出していた弟の男性器を指で突っついた。すると弟はケラケラと笑った。私はその反応に驚いて、もう一度、指で突っついた。すると同じように弟はケラケラと笑った。弟の反応は私にとって衝撃的だった。まともな性教育は受けていなかったが、男の子の「おちんちん」が女の子の「おまた」に匹敵する場所くらいの認識はあった。その場所を他人に触れられて笑える神経が不思議でたまらなかった(私が父親に触られた時の反応と真逆だった)。この時、弟は2歳くらいだったと思う。

 

似ている兆候として「性器への関心を見せるようになった」もあるが、これも該当した。歳下の弟の「性器への関心」はその後エスカレート。小学生に上がると私は、当時から問題視されていた「ク○ヨンしんちゃん」から影響を受け、弟の性器に像の目と耳をマーカーで描いた。2回目に同じことをしようとした際、弟は明らかに嫌がって逃げた。その時の私の正直な気持ちは「つまらない」だった。

 

つまらないの対語は「面白い」だ。私は他人の性器を動物の像の顔に見立ててメーカーで落書きすることを「面白い」と思うまで感覚が麻痺していたのだ。

 

しかし自身の性器をそのように扱い他人に見せつける主人公をコミカルに表現しようとするアニメを、性教育もまともに受けたことのない子どもたちに晒す時点で不適切だ、と大人になって思わざるを得ない。結果、私は他人の性器を汚した罪を犯すことになったのだ。

 

ちなみにク○ヨンしんちゃんを知る前から我が家では「バカ殿」を一家揃って両親の寝室にあったテレビで鑑賞していた時期があった。今考えると不思議だが、当時はみんなで「バカ殿」を観ることを楽しみにしていたし、面白いと思って笑っていた。私は学校で「変○おじさん」のダンスをモノマネしていた記憶もある。「ク○ヨンしんちゃん」にしても「バ○殿」にしても「変○おじさん」にしても「ちょっと悪いという噂だけど面白おかしいからギリギリ許されるキャラクター」であり、「性犯罪者」という認識は子どもの頃はなかった。

 

乱暴

その後「他人の性器をさわろうとする」行為に「乱暴」が加わり、弟の性器への扱いは更に悪質なものになった。小学校中学年の頃、私は確かカンチョウや電気あんまを漫画で覚え、弟に対して一回以上はやった。弟の反応は覚えていない。この行為は面白さの追求というよりも、「姉」として弟よりも上に立ちたいという意識も関連していて、その力関係を確認する術の一つであったと思う。背景としては、ある出来事も重なっている。私は弟とじゃれ合っているうちに、調子に乗って乱暴をエスカレートさせた際、「お姉ちゃんでしょ」と年上の友達に叱られた。このことがショックで、その時から弟から物理的・精神的な距離を置くようになり孤立した。「お姉ちゃん」はなにかと我慢しなくてはならないことが多いなら、少なくとも弟を従わせないと益々不利だと思い、それまで名前を呼び捨てにされていたのを「これからはお姉ちゃんと呼びなさい」と命令したのを覚えている。

「性犯罪は性欲求にのみものづく行動ではなく、支配やパワーにまつわる問題であること。そして女性や性に対する価値観の歪みや、他者との関係性における認知の誤りが引き起こす行為であること。加害者が求めているのは性的欲求の充足ではなく、むしろ優越や支配の感覚、接触の欲求、あるいは尊敬や愛情を得たいという欲求であることさえある」という文章を読んで、当時の自分を言い表していると感じた。(山本潤、「13歳、『私』をなくした私」)

問題行動

弟への身体的な性加害は以上だが、精神的な苦痛は加え続けた。「お姉ちゃん」という立場を利用して、弟一人を自分の味方に付け、もう一人の弟を仲間外れにするいじめをした。これは一回限りではなく、少なくとも数週間以上は続いた。いじめられた弟は悲しそうだった。このいじめはいつからか辞めた。そして相変わらず仲良しの弟ふたりに対していつからか「ゲイだ」「ゲイになる」と言い始めた。この嫌がらせ行為は何年にも渡って行った。ある日突然、弟の一人が怒って「もうやめて!」と大声で訴えたことに衝撃を受け、それ以来そのような発言を慎んだ。弟があの時にはっきりと抵抗をしなければ、私は自分の孤独心や嫉妬心を紛らわすために、弟たちの気持ちに無頓着であり続け、虐待の言葉を悪気もなく言い続けていただろう。

虚言

私が「初めて嘘をついた日」のことも鮮明に覚えている記憶のひとつだ。4、5歳の頃、母親が作っている途中のケーキに、私は指を突っ込んでホイップクリームを舐めた。指跡に気づいた母親は怒りながら私を問いただし、私は「やってない」という見え透いた嘘をついた。母親は更に逆上し「嘘つきに育ては覚えはありません」などと怒鳴ってビンタし、私を真っ暗なウォークインクローゼットの中に閉じ込めた。私は泣きながら、鍵のかかっていないドアを少し開けることはできても母親の存在が怖くて出られないし、中は薄暗いままだった。電気をつけると、そこには父親のエロ本が乱雑に山積みされていた。

その瞬間、私はスーッと泣き止み、冷静になったのを覚えている。子供ながらに悟ったことを大人になった私が表現すると次のようになる「私が衝動的にクリームを舐め、叱られることを恐れて嘘をついたことは体罰に値するほど許されないことけど、こういう趣味の父親があの時に私にしたことについてあのような嘘をついても許されるんだ」。その矛盾に全く納得がいかなかった私はこの時を境に、母親に対しても不信感を覚えるようになっていった。

年齢に不釣り合いな、性器や性行為に関する知識

エロ本は、両親の寝室と子供達の寝室の間にある二階のクローゼット内だけでなかった。その隣にあるトイレ兼シャワー室内のトイレットペーパー・ホルダーの真下、子供の目に着く場所にも置いてあった。下着などを干していた地下の一室には、女性の胸だけのドアップ写真に「PENTHOUSE」と印刷されたプレートみたいなものが、高いところに斜めにずっと置かれていて、子供ながら、なんでこんなところにこんなものがいつまでも置いてあるんだろうと不思議でたまらなかった。父の机の引き出しの中には和洋折衷のエロ雑誌から、なぜか男根が異常に大きく真っ黒に塗りつぶされた日本のエロ漫画などが大量に入っていた。両親の寝室では父親の店で貸出するアダルトビデオをダビングしていた。ドラマのビデオに貼るシールをワープロで打ち込むのは母親の仕事だった。アダルトビデオのシールも母親が作っていたのかはわからないが、父親がアダルトビデオだけピンクのマーカーで線を引き、棚の一番下の端っこに置いていたのは知っている。

摂食障害

両親は共に料理が得意で、私は毎日三食、基本的に手作りのご飯を食べて育った。朝は母親と子供たちで食べ、昼は母の弁当などをいただいた。毎日ではなかったが、3時のおやつも母の手作り。夜7時頃には家族全員揃って手を合わせて「いただきます」と言ってから食べ始めるのは、父親が自慢げに定めたルールだった。父親はアメリカで長年の飲食業で経験を積んでいて、独立して日本食料品店を営んでいてたこともあり、アメリカに住みながらも、食卓は和食が中心だった。母が作る家庭料理も、父がたまに作ってくれる得意料理もどれも美味しく、私はいつも何杯もご飯をおかわりをしていた。でも毎晩毎晩、お腹を壊すまで食べ、2階のトイレに駆け込み、正露丸を飲みながら下痢をすることで腹痛を直していた。その度に「なぜ私はお腹を壊すまで食べてしまうのだろう」と後悔したが「ご飯が美味しいから仕方ない」くらにしか思っていなかった。私は「食べたものを口から吐いてはいないから摂食障害ではない」と安心していた節があったが、「下剤を使う」ことも含まれると知り、私の場合は無意識ながら過食症だったと最近になって気づいた。学校以外はほとんど家にいて、その中でも夕飯を黙々と食べている時が一番安定した幸福を感じる時間だった。しかしそれがいつも苦痛で終わるというサイクルはどう考えても病的で、私の潜在意識が顕著に現れているように思えてならない。過食症も自分に苦痛や危害を加えているという意味では「自傷行為を繰り返えす」ことに相通じるものがあるように思う。

性器に外傷がある

自分の身体を傷つける「自傷行為」について。私の場合は「意図的に」はやっていなかったが、セルフネグレクトと他人を通じて無意識に自分の身体を傷つけることをしていた。

 

風呂に入ることも、汚れた下着もとりかえることもせず、性器を不衛生にしていると炎症を起こして傷になり、何日も痛みを感じるということは、30年近くに渡って繰り返していた。

 

何歳から風呂が嫌いになったのか覚えていないが、父親が風呂に入った後はいつも何か白くヌルヌルとしたものが浮いていて気持ち悪く、体が余計に汚れる気がして、入る気がなくなったのを覚えている。私はシャワー派になったが、目を瞑ると後ろに人影が現れる絵を漫画雑誌で見たのを思い出し、裸で水浴びをする行為には不快感や恐怖がつきまとった。父親が風呂に出入りする際、私の寝室の前を堂々と通るのだが、いつも全裸だったのも内心、不愉快だった。また女であっても不衛生だったら男から体を求められないという趣旨の話を、父親の武勇伝であった世界一周体験談の中で耳にした時、不衛生さに護身術としてのメリットを感じたのは覚えている。怖くて気持ち悪い風呂に入らなくていいうえ、身体を守ることができる訓練になるなら一石二鳥だと解釈していた。

夜尿

用を足す夢を見ると、夜尿。これは確か小学校まであったが、性被害と直接的な関係があるかどうかはわからない。ただ幼稚園か小一くらいの時に「トイレに行きたい」ということがなかなか言えず、教室のカーペットに漏らしてしまって、恥ずかしい・悲しい思いをした記憶がある。「トイレに行きたい」ということがなぜ言えなかったのか。私は既に自分の意思表示を父親から全否定される経験をしていたため、それが障害になったのではないかと考えられる。私は父親から膀胱が位置する下腹部を触られ、無言ながらその場を逃げた。確かに逃げたのに翌朝、母親からは「お父さんからメゴメゴしてもらったんだって?よかったねぇ」と言われて困惑した。母親に報告するほど娘のために良いことをしてやったという父親の言動は、恐怖と混乱のあまり必死に自力で逃げた幼児の気持ちを真っ向から否定している。この時の私は「トイレに行きたい気持ちを否定されたらどうしよう」という不安が潜在意識で邪魔をして、先生に自分の欲求を伝えられなかったのではないか。そう思うと、腑に落ちるものがある。

大人の目からは不良行為と見られる行動

私は思春期になると、いわゆる「不良」とレッテルを貼られるような子どもたちと仲良くなった。その子たちは大概、機能不全家族で育ち、片親、保護者からの暴力、肉親からの性被害、アルコール中毒の親、貧困などあらゆる問題を抱えていた。友達の過酷な人生を聞くと、自分の人生なんて平凡に思え、視野が広がった気がした。友達は赤裸々に過去や現在の問題を話してくれても、私は自分の家庭内で起きていることを打ち明けようという思いには至らなかった。理由は、友達に話せないほど恥ずかしい内容だったから。私は我が家のことを恥ていた。母親は過干渉で心配性な割に、父親が娘にしてきた性被害に無頓着で、私が門限を破っただけで体罰を加える、ナイーヴで説得力にかける人。叔父・伯父などから性被害を受けていた友達はいたが、私の性的加害者は、友達も面識のある実父だった。自分の親というだけでタブーの度合いが桁違いのようにも思えた。そんな偽善者たちが一方的に設ける門限というルールを守らされる自分自身が恥ずかしかった。思春期に関してはセカンドレイプの要素が強いため、別途言及する。

このように、性被害を受けたと認めてはじめて辻褄が合うことが沢山ある。しかも、これはまだ序の口なのである。

③性被害児の心理

私は、近親姦被害を「なかったこと」として否定してきた姿勢を改め、事実として肯定したうえで、これまでの自分の言葉にならなかった感覚や感情を表現していく作業をはじめました。

今回は「性被害児の心理」という観点から、被害を受けた私の「不可解な言動」を検証します。

不可解な言動とはたとえば:

・私はなぜ、父親から性被害を受けたのに、「お父さん子」だったのだろう?
・私はなぜ、「性的虐待を受けた」という認識を、カウンセリングを受けるまで実感できなかったのだろう?
・私はなぜ、父親ではなく、母親を憎んでいたのだろう?

これらの答えは「性的虐待順応症候群(sexual abuse accommodation syndrome)」の一言で説明することができす。


性的虐待順応症候群


性的虐待順応症候群」とは、性的虐待を受けた子供たちの心理状態を意味しますが、「順応」という言葉がキーワードになっているように思います。典型的な反応パターンは次の5つがあります:

 

性的虐待の事実を秘密にしようとする。

②自分は無力で状況を変えることはできないと思っている。

③加害者を含めたまわりの大人の期待・要請に合わせよう、順応しようとする。

④暴行を受けたことを認めたがらない。または事実関係が矛盾した証言をする。

⑤暴行されたと認めたあとでその事実を取り消す。

  (森田ゆり「子どもへの性的虐待」、2012)


性的虐待の事実を秘密にしようとする」


私の場合「性的虐待の事実を秘密にしよう」としたのは私でななく、父親です。性被害を受けた幼児の私は、不快感・恐怖心・混乱は覚えても、父の行為が性的虐待だという認識を持ち合わせていませんでした。そもそも父の言動を秘密にするに値するほど罪で恥ずかしいことだという認識がなかったからそういう発想が生まれなかったのでしょう。

しかし、私がそのような認識を持てるようになるずっと前に「お父さんにメゴメゴしてもらったんだって?よかったねぇ」という言葉を母親から聞いた瞬間、私の本心は全否定され、全く別の何かにすり替えたれ、父親の「好意的な行動」としてでっち上げられました。天地がひっくり返るほど混乱するなかで、子どもながら、なんとなく不吉な感覚を覚え、ずっと脳裏にひっかかっていました。

 

そんな私が「当時の性的虐待の事実を秘密にしよう」と思ったのは、思春期になってからのことです。その頃には「性的な行為を招く可能性のある行為」でさえ、体罰に値するほど思い罪だということを、母からの唐突な躾によって叩き込まれたから。

私が友達と陽が暮れた後まで遊びたいがため、納得もしていない門限を破ったら平手打ちと説教を受けて当然だというのが母親の主張でした。

しかし、それなら、父親が幼児の私にしたことやその直後についた嘘がどれほど重罪であるかということになります。

そんな悲惨な事実を、いくら私に体罰を加えることでしか守れないと信じ込んで偽善者になっている哀れな母親に言えるはずがありませんでした。

母に真実を告白しても、信じてもらえないか、ショックを受けさせるのが関の山。理不尽と思いながらも体罰を受けた方が、結果が見えているだけ気持ち的に楽だったのでしょう。自分だけが犠牲になればいいという思考回路は既に染み付いていたので。


「自分は無力で状況を変えることはできないと思っている」

無力感や絶望感は、父親から植え付けられました。私は父親からの性被害に自力で抵抗し、逃げたにも関わらず翌朝には、「お父さんにメゴメゴしてもらったんだって?よかったねぇ」と母親に言われたのです。自分の感覚も感情も行動も、信頼していた両親に一気に全否定されたのがこの時を境に増えていきました。

「加害者を含めたまわりの大人の期待・要請に合わせよう、順応しようとする」


母曰く「私はもともと聞き分けの良い子だった」といいますが、大人の期待や要請に合わせて「順応」する言動は、性的虐待を受けてから歪に強化されました。

それは性被害を受ける前のように自然で自発的な言動ではなく、大人の求める言動を意識しながら選択するという意味で大きく異なりました。先述の通り、性被害を受けた私は両親に行動や感情を全否定され、混乱しました。それまで培ってきた善悪がひっくり返され、何が良くて何が悪いのか全く理解できない別世界のなかに放り込まれた感覚です。右も左も分からず大人の言葉を注意深く読み取って、順応しようとすることは、もはやサバイバルのためだったのでしょう。

被害当時の父の言動から「嘘」も覚えました。いつも怒り狂っている母親が穏やかでいてくれることを願って「嘘」をつきました。しかしバレると母親から怒られました。そしてますます混乱しました。私はどういう風に振る舞えば、大人は自分を認めてくれるのか。せめて怒られないためにはどうすればいいのか本当にわからなくなりました。他人の顔色を伺いながら慎重に行動するようになりました。家の外の世界を求めると怒られる確率が高くなるため、行動範囲がどんどん狭くなり、家の中で静かにしていることが多くなりました。毎日学校が終わって家に帰ってくると死ぬほど退屈でした。

「暴行を受けたことを認めたがらない」


性被害後も両親の寝室で、母親を必ず挟んでベッドの端に寝る度に「あの記憶はただの悪夢だよね?なら、なんでふたりの間で寝なくなったの?」と自問自答を繰り返していました。これは被害を受けたことを認めたがらないことを表しています。

「暴行されたと認めたあとでその事実を取り消す」


私は自分が受けた性被害の話を嗚咽しながらカウンセラーに語った後「でも性的虐待を受けたとは思えないんです」と言ったほど、2017年まで感覚が麻痺していました。カウンセラーの目が点になった際「もしかして私は今おかしいことを言ったのかもしれない。私が経験したことも性的虐待に値するのかもしれない」と気づき始めました。

性的虐待と聞くと、悪意を丸出しにした見知らぬ加害者が、被害者に対して力づくで強姦をするという強烈なイメージが伴っていました。しかし私は父親から暴行を受けて身体を痛めつけられた訳ではないから、暴行や虐待には値しないと思っていました。


性被害児の心理的動機は次の三点に要約できます:

①自分が悪かったと思い込んでいる罪悪感

②加害者や家族が自分のことで困った立場に立たされることへの不安

性的虐待が実証されてしまったら自分の身はどうなるのかどうなるのだろうという恐れ


性的虐待が実証されてしまったら自分の身はどうなるのかどうなるのだろうという恐れ」は無意識のうちに強く感じていたと思います。私は子どもの頃「お父さんとお母さんが離婚したら、どっちが私を選ぶだろう?」と頻繁に妄想していました。この答えはいつも出ませんでしたが、しょっちゅう考えていて、なんで自分はこんなことを考えているんだろう?という自問もしていました。私はこれを遊びのように考えていました。


「加害者や家族が自分のことで困った立場に立たされることへの不安」も無意識的に強く感じていたと思います。私には弟がふたりいます。万が一両親が離婚した場合、母親が子ども三人をシングルマザーとして育てなくてはならないかもしれないという心配はありました。しかし、母親が自分の話を信じてくれなかったら自分の居心地が悪くなるだけになってしまい、そうすると何も言わない方が無難だという結論に落ち着きました。

私の場合、性被害を受けた直後は「自分が悪かったと思い込んでいる罪悪感」はありませんでしたが、思春期になってから「私は女に生まれてきたから性差別や性的虐待を受けたのだ」と自分の性を憎みました。それは両親の「男尊女卑に根付いた」躾の仕方が原因ですが、今回は「性被害を受けた直後の心理的動機」に限定して割愛します。


性的虐待順応症候群」以外の被害児童の心理的反応:

・被害待児は加害者を守ろうとする...特に加害者が保護者の場合は、こともは虐待者に憎しみよりも愛着を持っていることの方が多い。

・自分を援助、救出しようと頑張ってくれる援助者に対して、ときには拒否や攻撃の言動をとってしまう。


「加害者を守ろうとし、憎しみよりも愛着を持つことの方が多い」ということには共感できます。私は幼少期から成人した後まで「お父さん子」でした。内心、自分でもそのことを「気持ち悪い」と思っていましたが、長年やめられませんでした。どのような「お父さん子」だったのか、いまだに思い出そうとするだけで気分が悪くなるので、今はまだあまり無理して書かないことにします。

一方で母親とは長年確執がありました。母親からは嫌われていると思い込んだ方が楽だと子どもの頃に泣きながら思いはじめた頃を鮮明に覚えています。私が母親のことを嫌いな理由が、短気で体罰を加えてきて、私の人格を否定し続けたからだと思っています。本当は母親に頼りたかったけれど、心を許そうとした瞬間に裏切られ傷ついてきたので、物理的・精神的な距離を時間をかけてとってきました。

④加害の前提条件

近親姦被害はどのような状況で起きたのか

今回は、私が幼児(推定4歳)の頃、父親から近親姦被害を受けた現場の状況を検証します。

結論からいうと、犯行現場は「実家の中」「両親の間」という一見、子どもにとってこの上なく「安全な場所」と一般的に捉えられる傾向にある場所であったにも関わらず、父親が私に対する性加害を加えるための条件が、全て揃っている危険な環境だったことがわかりました。

「安全」なはずなのに「危険」という矛盾。

私が自身が受けた性被害を「なかったこと」として長年疑ってきた理由のひとつとして「不可解なことが多かったから」ということがいえます。

被害当時から30年以上の間、フラッシュバックを繰り返す度に、次のような疑問が浮かんでは、答えを知らないふりをし続けていました。

・なぜ父は、娘の私の陰部に触れている(いた)のか?
・なぜ父は、それが犯罪だということが分からなかったのか?
・なぜ父は、私が寝ている夜間に犯行に及んだのか?
・なぜ父は、私が拒んだ際に執拗に追求したのか?
・なぜ父は、私が逃げたにも関わらず、自分の犯行を正当化するような言葉を母親に吹き込んだのか?

性犯罪を前提にした上記の疑問を見ると、父親の言動はまるで悪質で陰湿な「確信犯」。「近親姦」「小児性偏執」と捉えられてもおかしくありません。

それは私が子ども心に抱いていた「優しくて面白くて明るい父親像」とは真逆な性質をもつ人格を受け入れることであり、幼児の私にはそれができず近年まで、ただただ混乱していました。

しかし一旦、性被害を事実として肯定してみると今度は、辻褄があうことの方が多かったのです。

性的虐待における「加害の前提条件」を参照してみても、父親が犯行に及ぶための条件が全て揃っていたことがわかりました。

その理解によって「私が記憶している性被害は本当に起きたのだ」ということをより肯定し易くなりました。同時に長年不可解だった疑問も解けてきました。

性的虐待の四つの前提条件:

I. 加害者には何らかの動機がある。
II. 加害者は、その動機に基づく性的行為をしてはならないと思う内的抑止力を失っている。
III. 加害者は、その動機に基づく性的行為を様たける外的抑止力のない場所を選ぶ。
IV. 加害者は、子どもからの抵抗がない状態を作る。

森田ゆり「子どもへの性的虐待」、2012)


I. 加害者の動機: なぜ父は、娘の私の陰部に触れていたのか?


子どもに何らかの性行為をしたいと思う動機には、三つの要素があるといわれていますが、父親の場合は少なくともそのうちの一つである「阻害(子どもしか性的満足を得る対象がない。たとえば成人女性と対等に人間関係をもてない男性)」に当てはまるようです。

娘の私からすると母親は生真面目で短気な性格で、快楽に対してマイナスな印象を強くもっているようにみえる人でした。新婚当時に性行為を1日に三回求めた際に母親から白い目で見られたと自嘲していた父の話が、幼い頃の私の記憶の中にあります。私が思春期の頃、目の前で父親が母親の頬に無理矢理キスをした時、母親は顔を顰めて抵抗していたのを覚えています。私が成人した後「母親と性行為をしたい」と父親から話されたことがあります。おそらく、弟たちが生まれた後、母親は育児や家事に追われ、性生活は一切なくなったということが安易に想像できます。私が性被害にあった時、一番下の弟は少なくとも2歳くらいにはなっていました。

II. 内的抑止力が働いていない: なぜ父は、それが犯罪だということが分からず、私が拒んだ際も執拗に追求したのか?


厳格な母に比べると父の方が穏やかに見え、家庭の実権は母が握っているように見えました。しかし、父親から度々「男尊女卑」な発言が伺えたのも事実です。「父親の権力の絶対化、父親のすることはすべて正しいという考え方、子どもの気持ちへの共感や理解を持てない男性」という要素が父親にもあったのでしょう。そのように認知が歪んでいるから、娘のパンツに手を突っ込んで陰部を触れたのでしょう。嫌がって逃げた娘の気持ちを無視できたのでしょう。母親に「お父さんからメゴメゴしてもらったんだって?よかったね」と言わせるような先回りして発言ができるのでしょう。

また父親がエロ本やアダルトビデオを毎日観ていたことによって、犯罪と妄想の判別がつかなくなるほど感覚が麻痺していたのではないだろうかとも思います。


III. 外的抑止力のない場所を選ぶ: なぜ父は、私が寝ている夜間に犯行に及んだのか?


「特殊な例外を覗いて大半の性的虐待は加害者と被害者しかいない場で発生する」らしいですが、私の場合は両親の寝室のベッドの上で、私の隣に母親が寝ている状態でした。本来、母親の存在は大きな抑止力となるそうですが、父親の場合は、母親が熟睡中だったことが「特殊な例外」に該当するのでしょう。


IV. 子どもからの抵抗がない状態を作る: なぜ父は、自分の犯行を正当化するような言葉を母親に吹き込んだのか?


犯行が起きた深夜から翌朝までの数時間の間、父親は三度にわたり、私が抵抗できない状況を作ろうとしました。性被害当時、①就寝中で意識のない私を狙いました。私は下腹部に不快感を覚えて目覚め、抵抗(手を払おうと母の方に寝返り)したにも関わらず、②父は私のパンツを握りました。その執拗さに恐怖と混乱を覚え、私はベッドから脱出して逃げました。

「子どもの小さな抵抗も、性的虐待の場合は、加害者の行動を止める効果を発揮しうる」という理論もあるそうですが、父親の場合はそうではありませんでした。翌朝、母親は私に「お父さんからメゴメゴしてもらったんだって?よかったねぇ」と言いました。ということは、そのような言動をさせるようなことを③父親は先回りして母親に吹き込んだということになります。罪の意識があれば謝るのが筋ですが、己の言動を正当化できるという時点で確認犯です。

このように冷静に検証すれば、幼少期から30年以上フラッシュバックする性被害の記憶が、「虚言に基づくもの」なのか「事実に基づくものなのか」すぐわかりそうなものです。

でも当時まだ4歳くらいの私には難易度が高過ぎました。

年齢の低さも大きな要因ですが、それだけではありませんでした。幼少期から家庭内で子供が自分の身体を大切に思えるような性教育を受けていませんでした。

もし、私が言葉を理解できる年齢になったときに、母親から「水着ゾーンは貴方だけの大切な場所だから、誰にも見せたり触らせたりしたらダメなのよ。誰か見たり触ったりしてきたら、嫌だ!って大きい声で言って、逃げて、必ず話してね」と教わっていたら、私は30年以上もひとりで思い悩むことはなかったし、必要以上に苦しむことはありませんでした。

しかし、我が家では成人した後もそのような教育は一切ありませんでした。

その代わり、家の中には子供の目につく場所にポルノ媒体が複数箇所(トイレ、クローゼット、父の机、テレビの周辺、地下室、リビング)にありました。子どもに「ク○ヨンしんちゃん」や「バ○殿」「変○おじさん」を平然と見せるような親でした。父親からは、女を買って散財した自慢話や「女は受け身」という謎の口癖を幼い頃から聞いていました。

......。

自分で書きながら改めてドン引きしますが、これはまだ序の口です。私は被害を受けてから家庭から脱出することに成功するまで約18年間かかり、父親と縁を切るまで更に14年かかりました。それからまだ約2年しか経っていません。回復への道のりはまだまだ続きます。おそらく一生かかっても後遺症は残ることを覚悟しています。しかし、自分の人生で起きたことを否定し続けきた32年間より、肯定しはじめてからの方が「生きている」実感があるのは確かです。だから、私は自分の感覚や感情を肯定することにこれからも挑戦していきます。

⑤子どもの性的加害

 

 


<参考文献>

森田ゆり「子供への性的虐待」(岩波新書、2012)