『きんしんかん:性加害のニワトリとたまご』

ある本がきっかけで、逃げるように東京に移住した日系アメリカ人の斎氣心。初めて心を開ける人に出逢うも、彼にDVをしてしまう。確執が長年ある母親のような自分に絶望した。原因は、母の「躾(暴力)」と女性ホルモンだと考え、低容量ピルYAZを服用したが、副作用で臨死した。古今東西の代替医療による精神治療を試行錯誤する中、幼児期に父親から受け始めた猥褻を自覚する。それでも問題が雪だるま化するため、両親に虐待の事実を問いただした。しかし己の被害を自他に明示できた瞬間、自分もきょうだいに性的加害をしていた記憶が蘇り...

⚠︎コンビニからポルノがなくなったところで......

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【感想】コンビニからポルノがなくなったところで...... 斎氣心
エトセトラVOL.1『コンビニからエロ本がなくなる日』田房永子(偏)

 

一見平和な環境でも性教育が皆無で、偏執的な性的模写が簡単に手に入れば、いとも簡単に性犯罪の温床になる。私はアメリカでの実体験からそう感じているが、日本の社会を観察しても同じことを感じる。だからコンビニからポルノ雑誌が消えただけでは純粋に喜んでいられない。

 

 

「エロ」ではなく「ポルノ」

このブログでは、偏執的な性的模写がある媒体のこと「ポルノ」とし、「エロ」「アダルト」「成人向け」という語弊がある言葉は、引用以外では使わない。

ポルノはポルノグラフィティの略で「性的興奮を起こさせることを目的とした媒体」という意味で的確な言葉だと思う。

一方、エロはギリシャ語のエロスが語源で「本能に基づく性的な愛情」という意味がある。ポルノ媒体は性犯罪の模写があり、ごく一部の人に向けられているため「エロ」という広義で捉えた場合、性犯罪の背景にある「支配欲」「人権侵害」を無視して「本能」や「愛情」として正当化する思考を生む危険性があるので適切ではないと考えている。

同様にアダルトや成人向けは「大人」という意味があるが、性的暴力や性犯罪を頻繁に模写するポルノ媒体を消費する人たちの中には、年齢的には成人であっても、大人な関係(対等で同意のある性行為)を学んでいないため、性犯罪に及ぶ人もいる。そのような危険性をはらむ媒体を「大人」という意味がある言葉で無闇に肯定することも誤解を招くので控えたい。

 

ポルノ販売停止の本音と建前

 

「成人向け」雑誌の販売停止についての理由をコンビニ各社が挙げた。

「女性やお子様のお客様に、安心してお買い物をしていただける店舗作り」はあくまで綺麗事・建前であり、

「販売自体が下がっている」ことと「2020年のオリンピック・パラリンピック、2025年の大阪万博を控え訪日外国人の大幅に増加」が本音だろう。

経済的な理由と海外の目がなければ、これまで通り女性や子どもが安心してお買い物できなくてもよかったのだろう、と冷ややかに捉えてしまう。

 

ポルノ媒体を求める客としては、ネット上でより便利に豊富なコンテンツを消費できるのだから痛くも痒くもないだろう。それはコンビニ本(コンビニで売られているポルノ雑誌)の売り上げが減っていたことからも伺える。

 

性教育をまともに受けさせない国の子どもたちが、ある年齢に達したらいきなり非現実的で偏った性行為のメディアを見聞できるようになるという日本の社会はおかしい。

大人な関係(対等で合意のある性行為)と性犯罪を区別する機会もない人は何歳になっても人間として成熟しているとは言い難いからだ。

 

 

性的なことを隠さず、向き合う

 

コンビニからポルノ雑誌が消えたのは、社会的に一歩前進したように見えるが、楽観的になるには早過ぎると思う。

コンビニ以上に手軽に消費できる方法がネットで増え、偏執的な性的模写の中には性犯罪を描いているものが多いという事実を子どもたちに伝える教育は追いついていない。本質的なことは何も変わっていない。

重要なのは性的なことを隠すことではなく、正々堂々と向き合う性教育だ。

 

アメリカで生まれ育った私は、アメリカのコンビニでポルノ雑誌を見かけたことはない。けど主に日本の各種ポルノ媒体は、家の中の至るところに物心つく頃からあった。

 

初めて認識したポルノ媒体は雑誌で、私は当時おそらく4、5歳だった。

母親が作っている途中のケーキに、私は指を突っ込んでホイップクリームを舐め、指跡に気づいて怒りながら私を問いた母親に、私は「やってない」という見え透いた嘘をついた。人生で初めてついた嘘だった。母親は更に逆上し「嘘つきに育ては覚えはありません」などと怒鳴ってビンタし、両親と子どもの寝室の間にあった2階のウォークインクローゼットの中に閉じ込められた。私は泣きながら、鍵のかかっていないドアを少し開けたが、母親の存在が怖くて出られない。

中は薄暗いままだったので電気をつけると、そこには父親のポルノ雑誌が乱雑に山積みされていた。一応、布で覆われていたようだが、上手に隠れていなかった。

 

その瞬間、私はスーッと泣き止み、冷静になったのを覚えている。

子供ながらに悟ったことを大人になった私が表現すると次のようになる「私が衝動的にクリームを舐め、叱られることを恐れて嘘をついたことは体罰に値するほど許されないことけど、こういう趣味の父親があの時、私にしたことについてあのような嘘をついたことは許されるんだ」。

 

「父親があの時、私にしたことについてあのような嘘をついたことは許される」とは、次のことだ。

 

私が両親の寝室のベッドで両親の間で就寝中、不快感を覚えて目が覚めたら、パンツの中に父の手が入っていて、私の陰阜を撫でていた。父は寝ぼけているのだろうか?と私は疑った。なら、その手を振り払おうと、寝返りを打つように母の方を向いた。が、父の手は私のパンツの後ろを握った。恐怖。混乱。恐怖。その場に居ても立ってもいられなくなり、なるべく素早く、なるべく静かにベッドから抜け出し、トイレに駆け込み、水だけを流した。

 

翌朝、母親から「お父さんにメゴメゴしてもらったんだって?よかったねぇ」と言われながら、ギュッと抱き寄せられ、私は???お母さん、喜んでいる???と言葉にならないほど混乱し、何も言えなかった。

 

父がついた嘘と、私がついた嘘に対する母の対応が正反対だったことについて全く納得がいかなかった私はこの時を境に、無意識ながら母親に対しても不信感を覚えるようになっていった。

 

ポルノ媒体は、クローゼット内だけでなかった。

子どもの寝室との間にあるトイレ兼シャワー室内のトイレットペーパー・ホルダーの真下にはポルノ雑誌の新刊があった。下着などを干していた地下の一室には、女性の胸だけが強調された英国のポルノ雑誌「PENTHOUSE」のプレートみたいなものが、埃を被ったまま高いところに斜めに立て掛けられていた。父の机の引き出しの中にはポルノ雑誌から、なぜか男根が異常に大きく真っ黒に塗りつぶされたポルノ漫画などが無造作に大量に入っていた。

ある時からその引き出しだけが壊れ、引き出すのが難しくなっていた。その不自然さから、開けにくくするために父がわざと壊したようにも思えた。

 

アメリカにいるのに日本の各種ポルノ媒体があったのは、父がおそらく隣の州にある日本の書店やレンタルビデオ店で購入していたからだと想像する。父は日本食料品店を経営していて、日本のドラマに加えてポルノのビデオテープ(VHS)も貸し出していた。それらは両親の寝室にあるテレビの周りにあるビデオデッキでダビングしていた。ドラマのビデオに貼るシールをワープロで打ち込むのは母親の仕事だった。ポルノビデオのシールも母親が作っていたのかはわからないが、父親がそれだけピンクのマーカーで線を引き、棚の一番下の端っこに置いていたのは知っている。私が店番している際、ポルノビデオを借りに男性が来る際は必ず父親が率先して対応していたことも、私は子どもながら気づいていた。

 

父親の神経がおかしいのは明らかだか、父親を注意しない母親の神経もどうかしていた。注意するどころか、私が思春期の頃、母は日本のプレイボーイ誌の記事を読んでいた。私に説教し体罰を加えてでも外出して遊ぶことを厳しく禁じていた母親が、だ。

 

思い返せば私がまだ小学校低学年の頃「バ○殿」や「変○おじさん」を家族揃って両親の寝室のテレビの前で観ていた。その頃はなぜか面白いと思っていて、途中から何が面白いのかわからなくなっていき、今となっては何が面白かったのかサッパリわからない。

最も不可解なのは、なぜあんなものを小さい子どもたちに見せていたかということだが、子どもの目に届く場所にポルノ媒体を置くような父親と、それを見過ごすような母親だから、としか言えない。

 

私が育った環境には日本のコンビニのようなものはなかったが、家庭の中は日本の各種ポルノ媒体で溢れかえっていた。小学生高学年くらいからパソコンも1台あり、父親が卑猥なことを検索していたことも履歴に残っていた。

コンビニは英語のコンビニエンスを略した言葉で「手軽で便利」という意味だ。アメリカにいる父親にとってポルノ媒体は日本のコンビニ本ほど手軽に入手できたわけではなかったかもしれないが、機会がある度に蒐集し日常的に浴びるように吸収することで、性的衝動を手軽に解消していた。

その中に登場する女性たちは決まって苦しそうな表情をしていた。見出しを見ると、どう解釈しても、勘違い男による「性犯罪」に他ならなかった。

だからその世界の住人であった父は、4歳だった娘の私にも易々と手を出せたし、嫌がって逃げた私の反応を見ても、それを正当化するような言葉を母親に吹き込むことができたのだろう。

 

私は、コンビニ本という存在からも感じる、偏執的な性癖においての「後ろめたさ」と「正当化」を父親の背中から感じていた。

そして母親からは、ポルノの危険性に対する「無頓着」さと、思春期になった途端に娘の私が性的な危険に晒されることを妄想し体罰を加えるほど異常な「不安」を感じた。

ふたりが作り上げた混沌とした家庭の中で迷子になっていた私は、とっくに実家を離れた今もなお出口を探し求めている。

 

田房永子さんの活動の意義

 

堂々と供給されるポルノ媒体を、コソコソと隠れながら消費する人たちから、承認欲求と後ろめたさを感じる。

「強い俺」は所詮、非現実的なファンタジーの中でしか存在しえないという「惨めさ」の刷り込みが、ポルノ媒体によって更に強化されているようにみえてならない。

女性と心を通わすことはできないけど、妄想の世界では女性を好き勝手している「強い俺」を錯覚し、現実逃避できる。

しかしそんな惨めな自分を他人に見られるのは恥ずかしいから、彼らは隠れながらその世界に没頭するのではないだろうか。

 

最近までコンビニなど人目のつくところに堂々とポルノ媒体があり、現代の最強なコンビニであるネット上でもポルノの供給が衰えないのは「強い男として認められたい」という承認欲求の表れだろう。

コンビニよりネットの方が充実している今、コンビニ本の売れ行きが悪化して、益々冷ややかな目で見られていることを痛感せざるを得なくなり、販売中止にしようと思っていたところにオリンピックなどという口実ができたから、ようやく実行した。差し詰めそんなところだろう。

しかし売れ行きの悪さや海外からの軽蔑という根拠は、根底にある「惨めさ」「恥ずかしさ」を刺激するため、さっさと忘れてしまいたいとする集合意識が作用し、メディア業界から大々的にコンビニ本の販売停止について積極的に取り上げようとする男性は現れなかったのではないだろうか。

 

よく「エロ」のことを「恥ずかしいこと」とするが、これはどうかと思う。「エロ」というものに対して自信がないために疚しい気持ちが生まれること自体が恥ずかしいことなのだと思う。

 

とにもかくにも日本にはポルノ雑誌が、コンビニにあったという恥ずかしく惨めな事実がごく最近まであった。それを推奨してきた人たちが都合良く忘れ去ろうとする「現実逃避の傾向」を見逃さずにスポットライトを当て、大々的に取り上げた田房永子さんの活動には意義がある。