「やめて」・にげて・はなして。身内から子どもへの性犯罪:被害者から加害者になった私・犯免狂子が精神治療から学んだこと

4歳から父の猥褻・母の体罰が「愛情表現」と教わり、混乱の吐口としてきょうだいに性的・精神的な加害をしていことを治療中に自覚。3つの気づき:①家庭内で子どもへの性犯罪が、加害者の「無自覚」のうちに起きている。②性被害を否定することは、自己防衛本能が正常に作用しているからだが、否定し続けても苦しみは増す一方である。③被害を認めて精神治療を初めないと、被害者も「無自覚」のうちに自他を傷つけ加害者になってしまう可能性が高い。精神疾患「複雑性心的外傷後ストレス障害(C-PTSD)」歴35年以上。

【14】「高田馬場」に住んだ経験談

f:id:twilighthues:20211101210537j:imageJR山手線の高田馬場駅から徒歩9分の場所に、南東向き角部屋RC構造の1DKを家賃6.3万円で借りてから早10年は経つ。新宿と池袋、厳密にいうと新大久保と目白の間。東中野も徒歩圏内で、東京メトロ東西線も走っていて、神楽坂も2駅くらい隣。23区自転車でどこでも行けてしまうほど便の良い立地。「都内にしては安いね」とよく言われる。でも安いのものにはちゃんと訳がある。それは部屋が大通り沿いにあるためだ、と私は思っている。裏道に入ればそんなこともないのかもしれないが、朝から晩まで騒音が酷く、落ち着かない。この部屋を選んだ私の心を鏡のように映し出しているようだ。

 

ただ今の私はちょっと違う。心を落ち着かせながら居心地の良い場所を見つけることに挑戦している。

 

宣言する。私はこの街とこの部屋から卒業する。その前に、卒業論文と称して高田馬場を通じて経験したことを振り返ってみよう。

 

実際に本腰を入れて住み続けているのは計12年同棲している彼氏の方で、私はほとんど海外で暮らしていて、たまに帰ってくる程度だった。日本の地方から上京していた彼は「東京で暮らす」という目的がある。一方、私はアメリカ最大の都市で育った日系人で、東京には通過点として留学感覚で来ただけだったので、日本の大学に入学した後は世界中を放浪するつもりだった。というか、もともとは高校卒業する前から世界中を旅したかったんだけど、過保護で過干渉な日本人の親がそれを許さなかった。f:id:twilighthues:20211101212505j:image

 

当時の私はズルズルと短大に進学し、実家をいつか出るために暇さえあればバイトをして軍資金を貯蓄しつつ、返済不要の奨学金を受けるために成績も維持。せっかく授業費を払うならと、興味深い授業を選んでいたので、それなりに有意義な時間を過ごせた。そして当時たまたま読んだ洋書が私の人生を変える一冊となった。f:id:twilighthues:20211101211614j:imageその本は『The Rape of Nanking: The Forgotten Holocaust of World War II』(和訳『ザ・レイプ・オブ・南京第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』だ。この本は、私の「日本人」のアイデンティティを音を立ててこっぱみじんに崩した。ホロコーストの勉強は学校でしていた。広島・長崎に落とされた原発のことも学んでいた。でも「南京大虐殺」や「731部隊」の話は全く学んでいなかった。私は幼稚園からアメリカの現地校に通いながら、土曜日には日本語補習学校にも中学3年生まで通っていて、その後は現地の短大にまで進んでいた。私は勉強はできる方で、唯一苦手だったのは小学校の時の「時計」と「九九」くらいで、この時は母に何度も平手打ちされた。ここまで教育熱心(?)な家庭に育ったのに、日本が加害者になった歴史に触れないとは一体どういうことか、「日本人らしく」育てられた私は理解に苦しんだ。

 

世界を放浪しようとしていた無知な私が、中国や韓国やアジア諸国で、被害者の子孫に恨まれて殺されても不思議じゃないほど酷いことを日本はしてきた。あのナチスでさえドン引きするほど非人道的なことをしていたにも関わらず、アメリカから免罪され守られながら罪と向き合ってこなかった日本。そんな国のアイデンティティを持ち合わせている私。なんと恥ずかしいことか。なんと心細いことか。こうなったら自力で日本に行って、隠蔽された歴史を紐解くしかないと決心。東京にある大学に編入する意思を伝えると心配性の母親が意外にも協力的だったので、私は窮屈で仕方がなかった実家から晴れて脱出することに思いがけず成功したのだった。

 

大学では「日本の政治」を専攻。奇しくも尊敬する教授が日本の政治について国内外のメディアでコメントを頻繁に依頼されるほど、鋭い視点を解りやすく話す人だったため、私は水を得た魚のように学んだ。それまで謎の多かった日本の素顔が見えた気がして、危機感を覚えた。そのため、デモに参加したり、政治の勉強会に参加したり、ジャーナリストの通訳や翻訳をしたり、マイノリティを支援する団体に参加したりした。気が向くままに誠意をもって活動したが、結局は当事者じゃないとわからないことが多いという壁にぶち当たった時、自分自身の声が社会に届いていないことに薄っすらと気づいたけど、追及しなかった。今振り返ると当時の私は、自分自身の声に気づかないために、色んな社会運動に夢中になっていたようだった。

 

私が4年生の時に先生がサバティカルで長期休暇を取った時、受けたい授業がなさすぎて、なけなしの貯金を卒業するための単位に使い果たすのが嫌で嫌で、一学期だけ休学(休学にもバカにならない手数料がかかることに不満を持ちながら)した後、思い切って退学届を出した。当時、一時帰国していた父親にそのことを伝えると、父親は大学に出向いて私の退学届を停止した。私は自分のことを理解されなかったことに落胆しながら、自立心の強さから授業料を親に請求する発想もなく、授業の合間にバイトで稼いだ最後の貯金を、親を喜ばす卒業証書のために使い果たし、「これが最後の親孝行だ」と自分に言い聞かせた。

 

生活費と学費以外は貯金していたのに、いざ実家や大学生活から自由になった途端、まとまったお金がなくなった。そこでNPOピースボートに通訳としてボランティア・スタッフになれれば、100万円以上する旅費が賄われるのでダメ元で応募したら、補欠で合格。正直、通訳スタッフとしての責任感などから緊張して8割は楽しめない自分がいた。だけど船上でスタッフにも義務付けられている「自主的に行うイベント企画」を知らされた時こそ気が進まなかったものの、いざ実行してみると、自分の中でふさぎ込んでいた「自分らしさ」を思い出すことができた。特に楽しかったのが、ひねりを効かせたファッションショーと、アースデイに自分の丸坊主頭を地球儀の形にバリカンで美容師に沿ってもらうパフォーマンス。自分がワクワクしただけでなく周りの反響も良く、自分が好きなことを少しづつ湧き上がってくる感覚を覚えた。現在同棲中の彼曰く「ピースボートから帰ってきた時から、以前よりは落ち着きを感じられるようになった」という。自分では自覚がないが、私が船上で自分らしさを少しづつ思い出した感覚と、彼が感じたことは無関係ではないはずだ。

 

一方ピースボートでカタチとしては地球を一周したが、80日間の旅はほとんど船上だし、約25箇所の港でもせいぜい1~2日くらいしか滞在しないので、私が求めていた放浪の旅とはスタイルが異なり、不完全燃焼な部分はあった。悶々としながら再び東京でバイトに明け暮れる日々の中で、東日本大震災が起きた。内部被曝の心配で食べたいものも食べられなくなってノイローゼになり、東京から早く離れなければと思い、ワーキングホリデーを検討していた。その時、たまたま台湾でキャリアを活かしながら正社員として働けるオファーを受け、翌月には独りで引っ越した。年に3回くらい日本に帰っては、掃除をする習慣のない彼が汚した部屋の大掃除をした。掃除をしないと私自身が落ち着けないから、仕方なくせっかくの休みをディープクリーニングに費やした。ある程度までやらないとハウスダストでクシャミに悩まされ、大変だったけど当時、家政婦を雇うという発想はなかった。3年半後リストラに遭い、大学生の時から続けていたフリーランサーという肩書きだけが残ったが、実質プー太郎。私は小学校4年生くらいから毎週、父親の店でバイトしていたので、仕事が全くなくなったのは小学3年生以来ということになる。ワーカホリックだった私には必要なお暇だと思った。

 

リストラ後に一旦、高田馬場に戻った後も、私の意識は海外に向いていて、オーストラリア、スリランカアメリカ、タイなど色んな国へ数ヶ月単位で飛び回りつつ、日本国内では西日本での拠点を検討。しかしなかなか定着しない。彼がいる部屋には、旅に疲れては帰っていたけど、一向に落ち着かない。理由がたくさんあるからか最近まで気づかなかったけど、特にストレスなのが騒音だ。

 

賃貸マンションは大通り沿いにあり、パトカーや救急車のサイレン、マフラーが壊れた車やバイクの騒音が朝から晩まで聞こえる。しかも地下鉄も走っていて、床から音と振動が伝わってくる。日中は至る所で工事をしていて「ここは戦場か?」と錯覚するほどうるさい。こんな場所に住んで落ち着けるわけがないと思うかもしれないけど、彼は全く気にならないらしく、私の文句の方がうるさいと言う。休日は部屋からなるべく出たくないほど引きこもることが好きで(何のために東京にいるか私からしたら理解しがたい)、外出しても高田馬場駅に着くだけで安心するようだ。私と対照的で、ここから引っ越さなくても別にいいと思っている。

 

でも私はこの街でこの部屋で一生を終えるのは嫌だ。なんでこの街の学生たちはいつまで経ってもそこら中にゲロを吐いてるのか。酒の嗜み方をぱんきょーにして学ばないと卒業できないようにした方がいい、と自分がお酒との付き合い方を知らなかった時代を棚に上げても毒づかずにはいられない。

 

鼻につくようなことばかりだけど、ここに住んでみて良かったこともある。

 

中でも群を抜いてスーパーオオゼキの存在は大きい。平均的なスーパーに比べて魚介類の鮮度や品種が圧倒的なうえに価格は抑えられている。青果食品や精肉売り場には西日本産のものもあるし、平飼い卵は長野県産でここが一番安い。次に住む街にもオオゼキがあって欲しいし、なくてもオオゼキが開店してくれたら幸せだ。

 

その後OKストアが開店してから、私の中ではスーパー激戦区になったという印象だ。こちらも西日本の食材を意識して仕入れているし、添加物に関する表記が解りやすく、価格はどこよりも安いのが、ありがたい。例えば、ゆめぴりか5kg、韓国海苔のふりかけ、韓国産のめかぶ、オーガニックのトマト缶、三河の本みりん、ふくれんの豆乳、ハーゲンダッツの1パイントなどは最安値。沖縄県産の黒豚、九州産あたり鶏、愛知県産の鰻やノルウェー産のトロ鯖も美味しいし安いから心強い。

 

成城石井も店舗は小さめだけど24時間営業だし、隣駅の東中野まで歩けばライフもあるので、ちょっといいものやオーガニック食品も買える。小滝橋まで行けば、いなげやと地産マルシェがあり、その他にもスーパーが他にも4軒ほどある。

 

上品で美味しいお店は多い方ではないけど何軒か再訪する価値のある店もある。f:id:twilighthues:20211101211357j:imageランチのアジフライ定食が絶品の和食料理店、手頃なのに本格フレンチレストラン、季節料理も抜かりない手打ち讃岐うどんの店、関西風の鰻が食べられる専門店、吉祥寺にも店舗があるバインミーのお店。早稲田通り沿いにある手作りの豆腐屋さんがあって、ここの油揚げと生揚げが特に好き。(好きな人にはトンカツ、ラーメン、安くて量ある系の店やチェーン店も多くて喜ばれるだろう)。f:id:twilighthues:20211101210908j:image新大久保まで歩けば、ネパールのダルバートの店が数多く点在するのは、ありがたい。

 

高田馬場には美味しいスィーツのお店はないけど、f:id:twilighthues:20211101211449j:image目白駅まで歩けば有名なパティスリーが1軒あり、f:id:twilighthues:20211101211429j:image下落合駅近くにも美味しいケーキが買える店が1軒ある。

 

f:id:twilighthues:20211101205947j:image神田川が流れる桜並木沿いは静かで、東中野駅まで歩けば、ごみごみした高田馬場駅を避けることができる。

 

図書館は比較的に新しい下落合図書館があり、広くはないけど、パソコンを持ち込める机もあるから便利。新宿中央図書館は明治通りまで歩けば着し、上智大学の卒業生なら、目白キャンパスの図書館も使える。

 

私としては、悪い点(騒音)が良い点を上回っているが、裏を返せば、大通り沿いの騒音は家賃がいくら安くてもコスパを悪くする要素になり得るから、気になる人は物件選びの時は外した方が吉ということになる。大通り沿いでなければ住みやすい街なのだろうとも思う。

 

でも国内外を飛び回る私が最終的にここに戻ってくるのは、ここが高田馬場だからではない。私に落ち着く感覚を教えてくれた彼がいるからだ。彼はいつでも気持ちよく「気をつけていってらっしゃい」「おかえり」と言ってくれる。

 

彼と出会うまで、私は「帰りたい」という感覚とは無縁だった。幼少期に父親から性被害を受け、自分の感覚や感情を押し殺すことを覚えた私。外の世界に救いを求めるように友達と遊ぼうとすると母親から説教され体罰を受けた日々。私にも「実家」はあるけど「帰りたい場所」とは程遠く、今も近寄りたいとは思えない。皮肉なことにそこは多くの人が憧れ「一度は行ってみたい」と言う南国の島にある。でも、私にとっては両親がそこに住んでいる限り、トラウマとは切っても切れない場所だ。実家から物理的に離れた今も両親の呪縛を解くことに多大な時間と労力と治療費がかかっている。

 

幼い頃から帰えりたい場所・落ち着ける居場所がなかったからか、私は一生放浪する人生を歩むんだろうと思っていた。彼はそんな私を受け止め、穏やかに支えてくれる。彼は私が素の自分を見せても否定しないし怒らない。彼は、私が自分らしくいられる相手。だから私は高田馬場には帰りたくなくても、彼の元に帰るのだろう。どこに住むかも大事だけど、誰と住むかも重要だということを学んだ。

 

「落ち着く」x「落ち着かない」感覚が入り乱れるこの部屋は、私が10年前に焦った状態で解約した。自分ご暮らすためではなく、彼が基本的に一人暮らしするために。当時は「落ち着く」という概念が今よりなく、私はどのみち日本を出るつもりだった。だから今でも「ここは私が住む場所ではない」と思ってしまうのだろう。でも彼から落ち着く感覚を少しずつ学んでいる私は今、色んな景色を見るのも良いけど、彼と心地良い暮らしがしたいと思い直している。そのためにこの街とこの部屋から卒業する。子供が成長して、今まで着ていた服が小さ過ぎて着れなくなって、その服に「ありがとうございました」と言って手放すように。

 

20代の時に実家を出た時や、この物件を契約した時、異国に旅立つ時など、何かから逃れるように常に切羽詰まった状態で行動する癖がついていた私。今も、早く引越し先を見つけなきゃと焦る気持ちはあるが、その気持ちを俯瞰しながら、なるべく冷静に見つけようという心構えを持ちながら日々行動している。どこであっても、自分自身が一緒に住む人と安らかな時間を過ごしているところを想像できることが大切で、そのような場所を見つけられるかどうかは、私の日頃の心の在り方にかかっているとわかってきた。そんなことに気づかせてくれた高田馬場に伝えたい言葉は、今までありがとう。そして、さようなら。