【20】『人魚姫』x「近親姦被害」+天使の存在意義
「自分らしさ」を犠牲にしていないか?
これは『「自分を変える」心の磨き方:迷っても、つまづいても、もっと「幸せ」になれる!』(マーク・ネポ著/野口嘉則訳)という本の一節。
「愛し愛されることをどれほど望んでも、自分の本質を変えてしまったら、本質が物をいう内面では、イキイキと生きて行くことはできないのです」
と、アンデルセンの『人魚姫』の教訓について書かれていて、
私が幼稚園くらいの時からこの寓話に強く惹きつけられていた、と同時にモヤモヤしていた理由が30年以上経った今、やっとわかった。
人魚姫は、異世界の王子に近づくため魔女と取引した。人間の足と引き換えに声を失い、荒波に飲まれた王子を助けた。でも声が出ないので、想いを伝えられぬまま、王子は別の女性と結婚する。「日の出前に王子を殺せば人魚になって命は助かる」と魔女と取引したナイフを姉達から受け取ったが実行できず、自ら海に飛び込んで泡になり、天使たちと天に舞った。
私が人魚姫に強く惹かれ始めたのは、4,5歳の頃。父親から性被害を受けた時期と重なる。
私(人魚姫)は、父親から性被害を受ける前の「幸せな家庭」(異世界の王子)を保とうと、父に騙された母親に話せず誰にも助けを求めなかった(魔女との取引で足と引き換えに声を失った)。自分が生贄になり「幸せな家庭」を保とうとした(異世界の王子を助けた)のに、思春期に入ると両親から一方的に「淫乱」と批判され肉体的・精神的苦痛を受け続けた(王子の結婚による絶望)。母親に真実を伝えれば(王子を殺せば)私への誤解が解かれた(命を取り留められた)かもしれないのに、母親を傷つけ家庭を壊すことができず(王子を殺せず)、私は居場所のない家から出て自暴自棄に走り、命を失いかけた(海に飛び込み自決)。
幼少期から私は、母に助けを求めることもできず、自殺することもできず、八方塞がりの状態だった。だから人魚姫は好きだけど、寓話の最後になぜ突然、天使たちを登場させたのか理解できなかった。願いが叶わず泡になった「後」に天使たちに慰められても、人魚姫の絶望が癒されることなどないだろうに。無理やりハッピーエンドっぽく締めくくるなんて「切ないストーリーが台無しだし、宗教じみてて、意味がわからない」と子供心にモヤモヤしていた記憶がある。
でも今ならその意味がわかる気がする。私は実家から出た数年後、等身大の自分を初めて受け入れてくれる男性と出会った。そして時間はかかるが、私は少しづつ自分自身を取り戻しつつある。願いは叶わなくても、決して悪者ではなかった人魚姫のような立場の人間に、希望を与えるためにも、自分を受け入れることの大切さを教えてくれる天使の存在は必要だったんだ。
私の人生と人魚姫の話がシンクロしているのは、「苦しみを生む取引」という同じテーマを体現しているから。被害を受けた後、何が何だか分からず混乱して、ショックの余り誰にも助けを求められず、ただただ気持ちを押し殺し記憶を封印しようとした(無意識に悪魔に魂を売っていた、あるいは「安全だと思っていた家庭」のために「真実を語る声」を魔女と取引していた)。性犯罪を「魂の殺人」というのはこの為だろう。
人魚姫に最も惹かれたのは、近親姦被害を受けた4、5歳の頃。私は、自分の身に降りかかった理解不能な出来事を言語化できなかったから、自分と似た境遇の存在として、人魚姫に惹かれ、心の拠り所にしていたのだろう。当時は分からなかったけど、大人になって振り返ってみたら明白だ。
私は幼い頃「人魚姫になりたい」と夢を見ていたが、私は紛れもなく人魚姫そのものだった。