『きんしんかん:性加害のニワトリとたまご』

ある本がきっかけで、逃げるように東京に移住した日系アメリカ人の斎氣心。初めて心を開ける人に出逢うも、彼にDVをしてしまう。確執が長年ある母親のような自分に絶望した。原因は、母の「躾(暴力)」と女性ホルモンだと考え、低容量ピルYAZを服用したが、副作用で臨死した。古今東西の代替医療による精神治療を試行錯誤する中、幼児期に父親から受け始めた猥褻を自覚する。それでも問題が雪だるま化するため、両親に虐待の事実を問いただした。しかし己の被害を自他に明示できた瞬間、自分もきょうだいに性的加害をしていた記憶が蘇り...

【4】子供への無意識な性的侵害(セクシャルハラスメント)

「子供への性的侵害(セクシャルハラスメント)」という言葉が浮かぶ表現が、最近みた映像のなかでいくつかあった。

 

きっと筆者のように幼児期から父親から性被害に遭いそのことがトラウマ

*1にでもなっていなければ、何も感じずにスルーしていたかもしれないような場面もある。

 

しかし、子供を性的に侵害しているということにも気づかず、そのような映像を世に広めることは、この世の中ではあまりにも罪深いことだ。

 

なぜなら、仮に作者に悪意がなくても、現実世界は、家庭内外での児童への性的虐待、痴漢、ワイセツ媒体が蔓延っており、弱者が被害に遭っても「暴力」が証明できなけば加害者の主張が有利、性被害が人の心を一生深く傷つけるという認識の低さ、自他との見えない境界線を伝える「性教育」がなっていないからだ。

 

 

こどものお尻を叩くおばさん

 

一つは、太宰治の小説を原作とした映画

ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜』の作中。

 

役者たちの演技が自然で、

物語に感情移入できる良作だったことには変わりないが、

「この表現は子供への性的侵害ではないか?」

と違和感を覚えた場面が二ヶ所あった。

 

一つ目は、風呂場で

「粗相」(大小便をもらした)した2歳の息子の下半身を、

母親の佐知が拭いているところに、

勤め先の女将が登場するシーン(1:17:17)。

 

男児のクシャミを聞いてやってきた女将が

「風邪引かせたら大変だから、一緒にお風呂入っていきな」

と声をかける。

 

佐知が「すみません、粗相して。

畳まで汚してしまって」と謝る。

 

すると女将が「ふふふ、お粗相したの〜!ヨイ!」

と言って、男児の両脇をさすった後、

片手でお尻をペシッと鳴らして、戻る。

 

気にしなくていいわよ、と言わんばかりに、

女将の言動から真心を感じとれる。

 

ただ、私はどうしてもこの表現に違和感を覚える。

この無言な男児に感情移入してしまうから。

 

粗相をしてしまい〔物理的な不快感〕を覚えているうえ、

母親の言動から伝わる〔申し訳なさ〕も相まって、

どちらかというと気分は落ち込み気味。

寒くてクシャミまで出てきた。

下半身を露出した、自身の〔無防備〕な状態で突然、

他人から尻を触られた。

尻は性器同様プライベートゾーンに含まれる場所。

 

不快・申し訳ない・寒い・無防備な状況で、

他人から身体を触れられたとして

男児の気持ちは晴れるだろうか。

女将の悪気のない言動を

「受け入れられてしかるべきこと」

と捉えられるだろうか。

 

男児がそのまま成長し、

プライバシーを侵害だと分かりそうな言動を、自分より弱い相手にしても、

「受け入れられてしかるべきこと」と

無意識に正当化してしまいかねないかと私は危惧する。

 

日本が痴漢大国であるのは、

単に加害者の大半である「男性だけに問題がある」のではなく、

性別問わず大人が子どもに与える

「日常的で無意識なセクシャルハラスメント(性的侵害)」

も原因の一つなのではないかと思う。

 

大人は「自分より力と経験が劣っている存在」として、

子供を見る傾向にある。

しかし、子供にも〔一人前の感情〕があるということを、

大人は忘れがちである。

 

私のような解釈もできるとしたら、

別な表現でも女将の真心は十分に伝わったのではないか?

という発想が生まれるかもしれない。

 

例えば、女将が男児の裸には触れず、

「大丈夫よ!子どもの頃は、みんなお粗相するもの。」

とだけ言ったらどうだろう。

私だったら、ホッと安心すると思う。

〝自分だけじゃないんだ〟と思えるから。

 

でも、お粗相をして気持ち悪いことには変わりないから、

次はもっと早くトイレって言おう、

と前向きに考える心の余裕さえ芽生えるかもしれない。

 

子役の男性器を映すカメラアングル

 

二つ目に「性的侵害」な表現ではないか?と感じた場面は、

湯船で男児が母親に「高い高い」をされる次のシーン(1:17:36)。

子役の性器が完全に映っている。

 

母親は男児の上半身や顔に触れながら

「お父様はもう四日も帰ってきませんねぇ......」

と漏らし、

「どこへ行ったんでしょうねぇ!」

と空元気に言う。

 

この台詞の前後に息子に「高い高い」をすることで、

母親は不安な気持ちを押し殺そうとしているのが伺える。

 

精神的に適切な向き合い方かどうかは別として、

彼女の動揺は容易に共感できる。

 

問題なのは、子役の性器が映っていること。

映らない工夫をしなかったのは、

子役への配慮が足りないからだと思う。

 

痴漢の次に多いとされる「盗撮」が絶えない社会現象が既に顕著な世の中で、

現代人は簡単に自分や他人の「プライベート」な場所

「プライベートゾーン」の画像や映像を撮って拡散できる道具を常に持っている。

 

そして撮られることに嫌悪感を訴える人の声は後をたたない。

誰しもが撮る・撮られる側に簡単になれ、

自分や他人を気付けることも簡単なら、

何を気をつけた方がいいか、考えさせられる。

 

「大人」向けの「アダルト」映像以外では特に

大人の性器やプライベートゾーンを映さないが、

子供の性器は映すことがある。

なかでも男児の尻や性器は見せる傾向にある。

 

「女性器は大人も子供も見せたらダメ」「見られたらダメ」だけど

「男性器は子供なら見せてもいい」「見られてもいい」というメッセージが受け取れる。

 

女性はいつまでも性的に消極的にならねばならぬが、

男性は積極的になってもいい・ならねば、という意識が、

成長とともに助長されても不思議ではない。

 

男性の中から多くの痴漢や盗撮犯を生産していることと、

男児の性器を映すことに寛容であることは、

無関係ではないように思える。

 

ならば年齢や性別に関係なく、

プライベートゾーンに関する触れ方や

映像での表現においても、

意識して写さないように工夫する心がけが

現代人に認められているのではないだろうか。

 

意図して控えることで発揮できる表現を磨きたい。

 

映画の中で描かれたような「何気ない日常」のシーンをわずか数十秒見聞するだけで

トラウマ体験がフラッシュバックすることはしばしばある。

 

だからといって映画や表現者を否定するつもりは毛頭ない。

 

私はただ児童性被害の一当事者として感じたことを述べずにはいられない。

 

それは、私が幼児期から性的被害を大人から受け続け、

その苦しみの矛先を身近にいる弱者に向けてしまうことを、

自分が大人になった今、冷静になる度に自覚し、

どうにかしようとしているからだ。

 

知らぬ間に被害者にも加害者にもなり得る自分自身が、

どういう心持ちで生きればいいかを常日頃、

模索しては試行錯誤しているからだ。

 

娘のベッドの下で仰向けになって盗み聞きしていた父親

YouTubeで流れる「引越れんらく帳」という会社のCMでも、子供へのセクシャルハラスメントを連想させる映像がある。

 

引っ越しを控えて困っている女性が「やることがいっぱい」と嘆くと

 

座っていたベッドの下から「話はわかった!」といきなり父親が顔を出す。

娘の部屋に潜んで盗み聞きしていた父親

女性は悲鳴をあげる。

ベッドの下に潜んでいた父に驚く娘

 

そして、父親がすかさず引越しのアドバイスをし始めるのだが......。

 

これは一体、どういうシチュエーションなんだろう???

 

なんで父親は、娘の部屋に侵入し、ベッドの下に仰向けになっていたんだ?

 

なんで勝手に部屋に入っていたことについて娘に説明、弁解、謝罪がないんだ?

 

不自然過ぎて、気持ち悪過ぎて、肝心なCMの内容が入ってこない。

 

ホラーだ。

 

このCMを見て、フラッシュバックしたのは、私だけだろうか。

 

私の父親がノックもせず、勝手に私の部屋のドアを開け、中を除いて、ドアを開けたまま無言で立ち去った時のことを思い出す。思い出すだけで心底気持ち悪い。

 

志村けんの「変なオジサン」も知らないうちに女性の部屋に侵入し、驚かす。何故かそれが面白いということになっているシリーズ。笑いのツボが謎すぎる。

 

あの薄気味悪い精神がこのCMにも受け継がれされている。

 

このCMが面白いと感じる人はどんな人なのだろうか。

 

少なくとも「引越れんらく帳」の一部の人には受けたのだろうが、

 

そんな会社の人のサービスは受けたいと思えない。

 

何をされるかわかったものではない。

 

私は、幼児期に父親から陰部を触られ、

父親から覗きや盗撮も成人までされてきた。

このCMのような下品な映像を見るたびに、

日本の民度の低さを思い出さされて、情けない。

 

引越しに伴い、いろんな不安を抱えている人もいる中、

こういう恐怖心を煽るCMは逆効果だとも思う。

 

セキュリティ面の問題のみならず

人間関係、他人との境界線、プライバシーの視点からみても

いかがなものだろうか。

 

もし、確かに怖いけど

父親だから仕方ない」という

社会通念の現れだとしたら

ますます危い。

 

父親は娘のプライバシーを守らなくても仕方ない

というメッセージを伝え続けることになるからだ。

 

このような「子供は親の所有物」だという概念は昔からあった。

 

親が子を好き勝手にし、性的侵害を加えてきた長い歴史があり、今も続いている。

 

尊属殺人罪」がなくなったのは、父親から強姦をされ続けた女性が護身のために父親を殺害した事件がきっかけだ。

 

それまでは、自分の所有物として我が子を残虐に扱っても、父親の立場は法律で守られていたということだ。

 

実際に、近年も娘を性的虐待した父親が次々に無罪になっているのが、日本という国の悲しい現状。

 

だから、このCMがその名残であり、延長にあるのように思えてならない。

 

肉親であろうが他人の安全を脅かすような言動が笑いとして受け入れられるから、親から子への人権侵害から始まる人間関係の破綻が絶えないのではないだろうか。

 

「お前も襲われるような歳になったんだな」

 

昔は今より古い倫理観が蔓延っていたということは1991年の映画『ふたり』からも感じられた。

 

大学生から襲われた中学生の娘に対し、

父親が「お前も襲われるような歳になったんだな」という。

 

この下りを「時代」の一言で片付けるには、早い気がする。

 

確かに現代、こんな台詞には批判が殺到してもおかしくない。それくらいに社会的にも問題意識が芽生えていると思う。

 

もし昔はこの台詞がさほど問題視されなかったのなら、それは恐ろしいことだ。

 

「襲われるような歳」とは一体どういうことか。

 

中学生は襲われても当たり前な歳頃?

襲われることは通過儀礼のようなもの?

そんな訳あるはずがないが、

そう捉えてしまう人も中にはいるだろう。

 

今回、取り上げた映画二本の監督や脚本家は男性であるという共通点がある。

YouTubeCMの脚本家は知らないが、いずれにしても男性的な感性だと思わざるを得ない。

 

しかし男性が総じて軽率な「人非人」だとは切り捨てたくはない。

 

男性は自分より力の弱いものを好き勝手に扱っても、罰せられないどころか、賞賛されていた歴史が長く、その習慣が今も根強いことが作用しているのは確かだ。

 

でも女性だって自分より弱い立場の人を好き勝手に扱っても、罰せられなければ、男性のように暴走する。

 

私の母親がいい例だ。

 

私を所有物として扱い、

体罰や精神的苦痛を加え続けてきた。

そんな母親を問いただすと、

本人は全く無自覚だから、拍子抜けする。

 

「私たちの時は打たれて当たり前だった」が母親の答え。

親だけでなく、教師や近所の大人が殴ってきたという。

完全に思考が停止しているばかりか、

ずいぶん前から感覚が麻痺してしまっているようだ。

 

鈍感な親に育てられたこどもが、

親になって連鎖を無意識に繰り返す。

 

いくら鈍感な親や社会に育てられても、

強く感じる感覚・感情はあり、

それは決して心地の良いものだけでなく

苦しいものもある。

 

でも後者を麻痺させたら、連鎖を断ち切るのは困難。

弱者の気持ちに共感しにくくなるから。

 

支配の連鎖を継続する以外の道はあると信じて、

私は自分の感情や感覚を頼りに

自分がやられて嫌なことを他人にしないよう

意識し、行動し、生きていく。

 

 

 

*1: