『きんしんかん:性加害のニワトリとたまご』

ある本がきっかけで、逃げるように東京に移住した日系アメリカ人の斎氣心。初めて心を開ける人に出逢うも、彼にDVをしてしまう。確執が長年ある母親のような自分に絶望した。原因は、母の「躾(暴力)」と女性ホルモンだと考え、低容量ピルYAZを服用したが、副作用で臨死した。古今東西の代替医療による精神治療を試行錯誤する中、幼児期に父親から受け始めた猥褻を自覚する。それでも問題が雪だるま化するため、両親に虐待の事実を問いただした。しかし己の被害を自他に明示できた瞬間、自分もきょうだいに性的加害をしていた記憶が蘇り...

INCEST in Japan『きんしんかん:性加害のニワトリとたまご』

English follows Japanese.

4歳以降、父親から受け始めた強制わいせつ等が「愛情表現だ」と洗脳され続けた著者・斎氣心が、大切な人を虐待してしまう精神病と闘いながら、安楽死へ向かう道のりを綴る自伝的コミックエッセイ及びセルフセラピー。

 

⚠︎フラッシュバックの危険性のある内容につき、読み進める際はご注意ください。気分が悪くなると感じたら、直ちに読み進めることを止め、ご自愛ください。

 

恐怖。混乱。恐怖。(本編より)

 

生い立ち

 

斉氣心(さいけ・こころ)はアメリカで1983年、日本人の両親の間に生まれました。

 

「帰国子女?」

と、よく聞かれますが「日系アメリカ人2世」です。

 

東海岸にある大都市で生まれましたが、当時は今よりも治安が悪かったので、数年後、郊外の住宅街に引っ越したと聞いています。

 

幼年期

育った家は、二階建ての一軒家(4LDK+サンルーム+地下室)。大きなカエデの木が数本ある芝生の庭が家の前と後ろにあり、小鳥やリス、夏には蛍も見られました。

 

実父からの強制わいせつ

思い出せる限りの一番古い記憶は、父親からの強制わいせつ(フラッシュバック注意)です。

 

それは両親の寝室のベッドで、私が父と母の間で就寝中に起きました。

 

真夜中に不快感を覚えて目が覚めたら、私のパンツの中に手が入っていて、私の陰阜を撫でていました。その手は父親の方から伸びていました。

 

お父さんは寝ぼけているのだろうか? と私は疑いました。

それなら、手を振り払おうと、寝返りを打つように母の方を向きました。

 

すると父の手は私のパンツの後ろを握りました。

恐怖。混乱。恐怖。

その場に居ても立ってもいられなくなり、なるべく素早く、なるべく静かにベッドから抜け出し、トイレに駆け込み、水だけ流しました。

 

直後の記憶はありません。

 

ここまでなら、単なる「悪夢」として処理できたかもしれません。しかし翌朝の奇妙な記憶も鮮明に覚えているのです。

 

私は母親から「お父さんにメゴメゴしてもらったんだって?よかったねぇ」と言われながら、ギュッと抱き寄せられました。

???
私はますます混乱しました。

お母さんが......喜んでる?

言葉にならないほど混乱し、何も言えませんでした。

お母さんの機嫌がいいってことは、アレは「よかった」?のか?

 

直後の記憶はありません。

 

ものの数時間の間に天と地が一回......二回......とひっくり返えり、一見、何事もなかったようでもありました。でも、その日から燻り始めた言葉にできない違和感は、どうやっても完全には消し去ることができなかったのです。

 

...

人生で初めて嘘をついた日のことも鮮明に覚えています。

幼稚園に入ったばかりの頃でしょうか。母親が作っている途中のケーキに、私は人差し指を突っ込んでホイップクリームを舐めました。

 

指跡に気づいた母親は険しい顔で私を問いただし、私はとっさに「ううん」と見え透いた嘘をつきました。

 

母親は更に逆上し「嘘つきに育てた覚えはありません!嘘は泥棒の始まり!」などと怒鳴って、私の頬を手の平で叩き、真っ暗なウォークインクローゼットの中に私を閉じ込めました。

 

私は泣きながら、ドアを少し開けましたが、母親が怖くて出る勇気はありません。でも暗いのも怖いので、電気をつけました。

 

狭い空間を見渡すと、布の下から画像が覗いていました。布を捲ると、肌を露出し苦しそうな表情の女性が映っている雑誌が何十冊も積み上げられていました。初めて見たにも関わらず、何故か「父のものだ」とすぐにわかりました。

 

その瞬間、さっきまでの悲しい気持ちがスーッと引きました。

 

この時に降りてきた感情を大人になった私が意訳すると、次のようになります:

 

私が衝動的にクリームを舐め、叱られることを恐れて嘘をついたことは体罰に値するほど許されないことけど、こういう陰湿な趣味を持った父親が、アノトキ私にしたことについてアノヨウナ嘘をついたのに許されたのはナゼ?お母さんは『嘘つきに育てた覚えはない』と言ったけど、あなたが選んだ男からその嘘という術を学んだんだよ?あなたはアノトキ、嘘をつかれて喜んでいたじゃないか。結局、お父さんがやったことは「よくなかった」でいいの?でも、まだ騙されているお母さんのことをどう信じればいいの?

 

この時を境に、母親への不信感は、怒られる度に深く刻まれていきました。

 

...

悪夢? フラッシュバック。

とは言っても、私はまだ幼稚園に入る前の幼児。腹痛や風邪の時など体調を崩した時は、両親の寝室で寝ました。

 

そしてその都度、必ず、考えることがありました。

 

「なんで私は、お母さんを間に挟んで寝るようになったの?だって昔はお父さんとお母さんの間で寝る権利を弟たちと取り合いになってたのに。そのためにジャンケンして、勝った時はあんなに嬉がっていたのに。なんで?」

 

私の頭の中では既にアノ記憶は「ただの悪夢」として、処理されていました。

 

「ただの悪夢だよね。じゃあ、なんでお父さんとお母さんの間で寝ないの?」と頭の中の声が何度も聞いてくるので、なかなか眠れませんでした。

 

当時はまだ「フラッシュバック」という言葉を知りませんでした。

 

...

弟の性器に興味を持つ

私には2歳下と3歳下の弟が2人。彼らに関する幼児期の記憶で一番印象に残っている出来事があります。

 

弟たちは幼児期、よく下半身を丸出しにして走り回っていました。

 

私はある日、何を思ったか、両親の寝室のベッドの上に座った状態で下半身を露出していた2歳の弟の男性器を人差し指で突っつきました。

すると弟はケラケラと笑いました。

私はその反応に目を疑いました。

確認するようにもう一度、同じことをしましたが、弟は同じ反応をしました。

弟の反応は私にとって衝撃的でした。

 

我が家では、まともな性教育を受けた覚えはありませんでしたが、男の子の「おちんちん」が女の子の「おまた」に匹敵する場所くらいの認識はあったと思います。

 

その場所を他人に触れられて笑える神経が、私には不思議でたまりませんでした。

 

父親から下半身を触られた私の反応と全く異なっていたからです。

小学生

私は小学校低学年の頃から「うちのママは、なーんでもお見通しなの!」と、まだ疑うことを知らない同級生に対して「どんだけナイーブなんだよ」と内心毒づくような子どもでした。

 

母親は、ずば抜けた美貌を持つ人でしたが、そのことを一瞬で忘れさせるほど鬼のような表情をみせる人でした。

 

母親について最も鮮明に覚えている記憶は、小学生低学年の頃。

 

母親からの体罰

私が算数の勉強で、時計を読むのを間違えると、母親は「なんでわからないの!?」と怒鳴って、手のひらでパーン!と私の頬を打ちました。

 

痛いことよりもなによりも、母の声と顔と手が怖くて、涙と同時に出る大量の鼻水を啜り、呑み込み続けました。

 

母親はお構いなしに怒鳴り続けましたが、私はなんでそこまで怒られなくてはならないのか理解できず、勉強どころではありませんでした。鼻が詰まり、みぞおちからくる痙攣が治らず、ヒックヒックと声が漏れてしまうのを抑えられない自を惨めに思いました。

 

時計の勉強は小学生1年の頃にするみたいなので、私は8歳でした。でも38歳になった今も「時計ー読めない=体罰」という計算式の理解に苦しみます。

 

九九の時も同じように、怒鳴られ、叩かれました。恐怖のあまり、肝心な?勉強に集中できませんでした。

 

時計と九九を除けば、成績は総合的に優秀な方でした。算数だけは苦手意識が根付きましたが、皮肉なことに中高で、数学は全科目で唯一上級クラスに入れられていました。

 

...

大人のように働く10歳児

小学生低学年の頃、私のコンプレックスは「子どもであること」でした。子どもだから、話を聞いてもらえないんだと解釈していたからです。

 

ある日、母親が他の大人と世間話をしていました。話題が恋愛の話になった時、私は片思いしていた同級生の話を聞いてもらいたくて、声を発した瞬間「大人の話ッ!」と鬼面の母がピシャリと言い放ち、私は凍りつきました。

 

私も早く大人の会話に参加したい。「どうすれば早く大人になれるだろうか」と考え、行き着いた答えが「働く」でした。

 

そして10歳の誕生日、寝室にいた父親の足元に跪き土下座をして「仕事を手伝わせてください!」と頼み込みました。そして現地校も補修校もない日曜日は毎週、朝から晩まで父が経営していた食料品店で仕事を始めることができました。

 

土下座は時代劇かなにかで覚えました。頭を下げる途中、脳内が一瞬ざわついたのを覚えています。でも、子どもという圧倒的な不利な立場を補い、断られる余地を少しでも減らすためには、全身全霊で大人の真似をせねばならないと思い、額を床につけました。

 

しかし仕事を始めようが何をしようが、母親の地雷がどこに落ちているかは依然として予想不可能でした。ある時から私は「お母さんから嫌われているんだ」と納得することで、平常心を保つ訓練を始めました。

 

...

父親が胸を覗いていた

そんな母親が、私にではなく、父親に怒ったことがありました。

 

ある夏の日、ダイニングルームで「もう、いやらしい!娘の胸を除くなんて!」と突然、母親が父親に怒鳴りました。

 

突然の大声にびっくりした私が父の方に目をやると、彼は罰が悪そうに首をすくめました。

 

その時、私はノースリーブを着ていました。発育する前でそれまで自分の胸を意識したことはありませんでしたが、その時、とても不快感を覚えています。

 

同時に、驚きました。

母親が「そーゆーことを嫌う人なんだ」と知り、意外だったのです。

 

...

「性行為=面白い」洗脳

志◯けんの番組を家族5人揃って両親の寝室にあったテレビで鑑賞したことが何度かありました。

 

胸を剥き出した大勢の女性達を触ったりして笑いを取る『バ◯殿』、女性の部屋に勝手に侵入して女性に恐怖心を覚えさせて笑いを取る『変◯おじさん』。

 

ある時、父親が「志◯けんもくだらないな」と苦笑していたのを聞いて、え?と一瞬、耳を疑いました。我が子にそのような番組を見せているあなたはどうなんですか?と。

 

いずれにせよ、私には「わいせつ行為=面白い」という認識が着実に植え付けられていきました。

 

その後、当時から保護者の間で問題視されていた「ク○ヨンしんちゃん」のマネをして、無抵抗の弟達の性器にマーカーで落書きをしました。私はそれを「面白い」と思ってやりました。

 

2回目に同じことをしようとした際、弟達は嫌がって逃げました。その時の私の心境は「つまんないな、前はやらせてくれたのに」と裏切られたような気持ちにさえなりました。

 

かつて父親から性器を触られ恐怖や混乱を覚えた私も、数年後には認知の歪みがここまで進行していたのです。

 

「ク○ヨンしんちゃん」にしても「バ○殿」にしても「変○おじさん」にしても「評判は悪いけど、ふざけてるだけで悪気は無さそうだから憎めないキャラクター」であり、歴とした「犯罪行為をしている」という認識は子どもの頃はありませんでした。それは、自他との境界線を尊重する根本的な性教育を全く受けていない代わりに、わいせつ行為の情報が日常に溢れ返っていたからでした。

 

それに「性的なこと=面白い」と解釈できれば、不快な思いをさせられた父親に対する負の感情を最小限に抑え、自分がされたことを「大したことではなかった」と過小評価できたのでした。

 

そうやって、私の問題行動はどんどんエスカレートしていきました。

 

小学校高学年、漫画で「カ○チョウ」や「電○あんま」の模写を見つけると、弟達に一回づつ行いました。やってみて面白いという感覚はありませんでした。でも「姉」として弟達よりも上に立っていたいという根深い欲求は多少満たされたのだと思います。

 

弟達の上に立ちたいという感覚が芽生えるきっかけの出来事がありました。幼年期の頃、私が弟とじゃれ合っているうちに、調子に乗って乱暴がエスカレートした際「やめなさい!お姉ちゃんでしょ!」と年上の友達に叱られました。

 

このことがショックで、弟達から物理的・精神的な距離を置くようになり、家の中でも孤立していきました。そして「お姉ちゃん」はなにかと我慢しなくてはならないことが多いなら、少なくとも弟を従わせないと益々不利だと思いました。それまでは名前で呼ばれていましたが「これからは『お姉ちゃん』と呼びなさい」と命令したのを覚えています。

 

弟達は双子のように仲が良く、放課後は近所の同級生と毎日のように遊んでいました。私は土曜日に通っていた日本語学校には親友が一人いましたが、平日の現地校には一緒に遊ぶほど仲の良い友達がおらず、孤独で退屈でした。

 

そんな弟達の間に割り込もうと、一人を味方につけ、もう一人を仲間外れにして、長期間いじめたこともあります。

 

その後、仲良しの二人を「ゲイだ」と何度も冷やかしました。また鍋の時、私の好物の一つであった白子の味を占めさせないように「食べたらゲイになるよ」と脅したりしました。

 

言葉の暴力による精神的ないじめは、中高生もしくは短大生の頃までも続いたように思います。

 

ある日「もうやめて!」と末っ子の弟が初めて怒りを顕にしたことで、私は我に返りました。弟達がそれまで強い不快感を無言で耐えていたことに気付き、言動を改めました。

中学生

他人の不幸は蜜の味

小学校卒業後は、地元の中高一貫校に進学しました。小学校の時よりも広範囲の地域から生徒が通うため、世界が広がりました。

 

中学校2年になると親友ができました。コロンビア人のSは、卑猥な発言で笑いを取ろうとするひょうきんな子でしたが、義父との仲が悪く、頻繁に家出をし、交際男性を取っ替え引っ替えしていました。

 

Sは校外での交流関係も広く、彼女の知り合いの多くは、いわゆる「非行少年・少女」と日本では呼ばれる要因を持っていました。

 

法律も文化も違うアメリカの基準からみると「非行」はちょっと言い過ぎな場合もなきにしもあらず。

 

ただ聞く限り、家庭内に問題を抱えている人が大概で、私とも波長が合うようでした。

 

Sが中退した後も、放課後は彼女の実家に遊びに行き、そこで出会った色んな人の話を聞き、視野が広がりました。

 

親の離婚率の高さ、家庭内での性犯罪をはじめとする暴力の激しさ、ありとあらゆる物質(アルコールやタバコも含む)の乱用者の多さ、貧困の酷さなどの内容には、目を見張るものがありました。

 

まるで映画で観るような彼らの波瀾万丈な人生を聞いていると「私の人生はなんて平凡なんだろう」「私の話なんか取るに足らない」などと思えました。

 

私の両親は離婚の危機はなさそうだし、拳で殴られたりアザまではできたりしてないし、父親はタバコ中毒くらいだし、母のご飯を毎日三食美味しくいただいているし。

 

そうやって、私は自分の家庭の闇には一切触れないための言い訳を蒐集することで、現実逃避できました。まさに他人の不幸は蜜の味。私は貪るように吸収しました。

 

ある日、Sから告白されました。幼い時に、親戚の男性(おじ)から「モレスト(痴漢行為)」をされたことを。

 

この時も、私は聴き手に徹し、自分の話は口にしませんでした。「アレはただの悪夢」と処理されていたので話すことがありませんでした。

 

それに仮に現実だった場合、「実父」というより血縁が近い「直系血族」が同等な性行為を犯した場合は深刻さが一層増す気がして、そのようなことが脳裏を掠めただけでも思考停止になったといった方が的確かもしれません。

 

また、友人が強姦されたという話をSから聞いた際は、「私は強姦まではされていない」と、自分の記憶が万が一現実だった場合に使える過小評価の切り札を蓄えました。

 

周囲から性被害の話を聞く度に「アノ記憶」が蘇りましたが、私はこのように様々なアングルから言い訳を編み出し、それらを巧みに駆使して認めようとはしませんでした。

 

何があっても「墓場まで持っていく」と心に決めていたからです。

 

...

無自覚な過食症

私は陽が落ちた後も友達と時間を共にしたくて、自宅には帰りたくありませんでした。でも、我が家には「夕飯は毎日、家族5人揃って手を合わせ、一斉に元気よく『いただきます!』と言ってから食べる」という父親が設けたルールがあり、物心つく頃から守られてきました。

 

そのためだけではないかもしれませんが、母親は陽が暮れる前には必ず、迎えにきました。私にとってはこの時間が来るのが憂鬱でした。母の車が見え、友達を後にしなくてはならない時は毎回、屈辱的な思いでした。

 

夕食は、父親が仕事から帰ってきた後、19時頃に食べ始めた気がします。母の手料理は和洋折衷どれも美味しく、父親もお造りや鍋物などの時、腕を振るってくれました。

 

うちの家系は代々、飲食業だったという影響も大きく、食べることに対して貪欲な一家でした。

 

私の曽祖父は富山県で料亭を営んでいたと祖母からよく聞いていましたし、伯父は板前でした。父はレストランのマネージャーなどの経験を経て日本食料品店を自営し、一般庶民から富裕層まで幅広いお客さんのために特注の料理を提供したりしていました。

 

なので中流階級で育ちながら、食生活においてはその限りではないと感じる場面が多く、「私は恵まれた家庭で育ったのだから文句は言えない」と思わざるを得ないところがありました。

 

制限が多すぎる家庭だと感じていましたが、食欲に関しては唯一無制限でした。私が美味しく沢山食べると、食べさせ甲斐のある子だと言って、大人達は喜んでくれました。赤ちゃんの時から、大人が奮発して嗜むような高級食材を惜しみなく与えられ甘やかされていたそうです。小学生の時、たまの外食に「お子様ランチ」などを勧められたことは一度もなく、大人と同じコース料理を当然のように食べさせてもらったことを、子供ながら誇りに思っていました。父親は私を「飲兵衛に育てるのが夢だ」とよく言っていて、お酒の醍醐味も小学生の頃から少しづつ覚えていきました。

 

私は長子であった上、父親が結婚前から望んで止まない待望の女の子でした。子どもに興味がなかったという母も私が生まれた時は、「自分の子は可愛い」と思えたそうで、機嫌の良い時は父と口を揃えて「やっぱり女の子は可愛いねぇ」などとよく言っていました。私は弟達に比べた時に、両親から特別な愛情を受けているという感覚がありました。それが苦しいのは、両親の愛情が強すぎるほどに大きいからなんだと、恩知らずな自分のせいにしました。

 

私は毎晩、底なし沼のように食べました。何度もご飯をお代わりし、米粒一つ、汁の一滴も残さず平らげました。

 

小学生の頃からハゲワシに狙われている餓死寸前の子どもの写真を見せられ、「世の中には食べられなくて死ぬ子どもが大勢いる」と教え込まれました。その子達に比べたら、自分は相当恵まれているのだから、何時も文句を言ってはいけないと思っていました。

 

そして毎晩、食べ過ぎてお腹を壊しました。正露丸を飲みながら下痢をするということを繰り返しながら「私はなんで毎晩、苦しくなるまで食べてしまうのだろう?」と自問してから「それは、お母さんのご飯が美味しすぎるからだ」と自答し「それならしょうがない」という結論に至っていました。

 

小学生の頃から高校生くらいまでは毎晩、家族全員揃って夕飯を食べていたので、長年続いていましたが、当時は「摂食障害=痩せるために吐く人」というイメージがありました。なので、痩せの大食いで、吐くことが嫌いな自分は該当しないと思っていました。

 

過食症であった可能性に気づいたのは30代後半になってからです。自覚し始めた「躁的防衛」という症状に関連するため、発覚しましたが、そのことはまた後述します。

 

...

無限のセランドレイプ

中3から高3にかけて人生で最も辛い時期だったので、今はまだ書ける気がしません。

 

当時の精神状態

死体の写真を集めたウェウサイトや雑誌を見るのが趣味でした。気弱な人には直視できないような酷く悲惨な写真を無限に見てもたじろぐことない自分は鋼の精神を持っていると思えました。

 

音楽で響いたのはヘヴィメタルでした。マリリンマンソンやスリップノットなどの歌詞を熱唱していました。不条理に対する怒りは音楽を通じて発散することができたようです。

 

書けないことが多数

中学生以降、私の人生を語る上では外せないことが色々と起きましたが、日本の法律が変わらないと書けないことが沢山あるので、残念ながらここでは割愛します。

高校生

男関係

「墓場まで持っていく」決心

 

短大

短大(勤労学生)

躁状態

責任をとるために男性と交際

短大で知り合ったその男性は私のタイプでは全くなかったのですが、共通の趣味があり、男友達として尊敬していました。しかし男性から感じる切実な好意を私は拒否することができず、自分から性行為を率先し、その後、自分の行動に責任を取るように交際を申し込みました。

 

なぜ、こんなアベコベなことをしたかというと、背景には父親の口癖がありました。父親はよく「男女の友情関係はあり得ない」という趣旨のことや「女は受け身だ」と言っていました。そのため、男性の好意を拒否したら、友情関係も消滅するという恐怖心が私に植えついていました。また反抗心から、とにかく「受け身にはならない」と決めていました。受け身の反対は「積極的」「自発的」。男友達との友情を保てないなら、せめて自分から積極的に性行為をしようと思ったのです。しかし、あわよくば巷で噂のセックスの快感とやらを覚えられると言う期待さえも裏切られ、呆気なく終わった行為に虚無感しか覚えられず、自分が汚れたような感覚にも襲われました。

 

恋人としては好きでもない男友達との友情を失うことへの恐れから、本当はしたくもない性行為を積極的に行い、虚しさしか残らないのに交際を申し込んだという、メチャクチャなことを震えながらやり遂げました。彼との性行為はその時が最初で最後でした。子供が欲しいわけでもなかったのですが、性行為をしない言い訳として「子供を産むまでしたくない」と伝えました。その際、男性から「尊敬できる」と言われ、私は頭がおかしくなりそうでした。え?じゃあ、あの時、性行為をしなくてもよかったってこと?私はこの頃、まだ自分のことを他人に話せるような精神状態ではありませんでしたので、男性に確認したりはしませんでした。

 

しかし男性と別れた一年後、今の彼氏に出会った時も「男はセックスさえできればいい獣だ」という父親によって長年培われた根強い固定概念は拭いきれていませんでした。

 

仕事一筋

 

フラッシュバック

 

遠い国へに行きたい夢「世界一幸せだ国ブータン」「世界一周の船上クルーズ」

人生を変えた一冊

『ザ・レイプ・オブ・南京第二次世界大戦の忘れられたホロコースト〜』(アイリス・チャン著)の洋書を読んでいなかったら、私は日本に移住していませんでした。

 

この本は、日本帝国軍がアジア諸国を侵略した歴史と、その歴史的事実を隠蔽しようとしてきた戦後日本の姿勢などが英語で初めて書かれた画期的なノンフィクション本です。

 

私は短大生だった21歳の時にこの本を読んで衝撃を受け、「日本人」としてのアイデンティティが音を立てて倒壊したのを覚えています。

 

それまでの私は「あの子は日本人だから関わりたくない」とアジア人の生徒から陰口を言われた経験が中学生の時に一度あったくらいで、日本がアジア諸国を侵略したということはうっすら聞いたことがある程度でした。

 

私は日系アメリカ人の二世ですが、日本で生まれ育った両親によって「日本人」として育てられ、アメリカにある日本語補習校にも幼稚園から中学校まで通っていました。でも広島・長崎で原爆の被害を受けたことについては教えられても、日本が加害者だった歴史については一言も教わりませんでした。アメリカの現地校では、ナチスドイツによるホロコーストの歴史は徹底的に学ばされますが、日本人が犯した大虐殺については学びませんでした。

 

私は、家庭や日本人コミュニティでは「意見をはっきり言うから日本人らしくない」と批判され、アメリカでは「アジア人」として見下されたり「日本人だからちょっと他のアジア人より上」に見られたり、アジア人の一部からは「日本人」だからと言って毛嫌いされたりしてきました。両親からは中国人を馬鹿にするような言葉を何度も聞いたことがあり、私は仲の良い中国人の友達がいたものの、どこか差別意識を持つようになっていました。正直、どのコミュニティーにいても至らない存在で孤独でしたが、「日本人は他のアジア人より上」という位置づけは、両親から植え付けられた「日本人」としてのプライドと調和したので、私が自尊心を保つための手段の一つでした。

 

でもこの本を読んだ途端、それさえもが粉々に崩れ落ちました。「日本人」という看板を背負うということは、ドイツ人がナチスを連想させる以上に、残虐な侵略者というイメージがついて回るということ。しかも、ドイツ人は歴史を反省しているけれど、日本人はそれをなかったことにしようとしている。この差にも気づかずに「経済発展」を掲げてのうのうと生きる様は「裸の王様」そのもの。「恥知らず」とはこのことだと思いました。

 

私みたいな人間は一部の人からは「非国民」とか「愛国心が足りない」などという批判を浴びる対象だということは知っています。が、私は日本の良いところもたくさん知っていますし、本当は日本のことを純粋に好きでいたい。でも、それまでの自分も含め日本人の多くが過去の過ちを顧みない姿勢は醜くで愚か過ぎる。日本の全てを否定しているのありませんが、日本の良いところまで台無しにしてしまうほど致命的な欠点だと思うのです。

 

本当に日本のことが好きだったら、どんなに酷い過去でもその歴史も知ろうと思うのが自然だと私は思うのですが、なぜ日本人の多くは南京大虐殺731部隊のことに無関心だったり否定しようとするのでしょうか。ここのところがとても不思議でなりません。

 

私は日本の隠蔽された歴史を学ぶためにアメリカから日本に拠点を変え、東京にある大学に入って学び始めました。

 

そして、日本の闇を研究するための東京の大学への進学が、窮屈で窒息しそうな実家を出る片道切符になりました。

 

大学

伯父の死

祖父の死

祖母の男尊女卑

父親の男尊女卑

政治専攻

教育基本法

憲法第9条を守る会

FCCJ

中国語

2007 GABA

初のカミングアウトの相手

性被害者の男性の同僚

当時の交際男性にもカミングアウト

2008 アメリカ訪問、交際男性と別れて身が軽くなる

断髪

PB振込

大学のカウンセラー「季節性感情障害(SAD)かも?」

2009年 現在の彼氏と出会う

彼へのDVがやめられない、母の呪縛

休学、沖縄

退学届を父親が阻止

「これが最後の親孝行」なけなしの貯金を叩いて大学卒業

2010年 世界一周クルーズ船の通訳スタッフ

自分が好きなことを思い出した

月経カップ/ヴィパッサナ瞑想のことを知る

 

社会人

東日本大震災中、就職先を検索

英字雑誌の編集部

アングラの世界

『セックス放浪記』/SM系ハプニングバー勤務/エログロナンセンス(幼少期から気になっていた『ガロ』系漫画蒐集)/フリークスに共感

香港の大手メディア会社からオファー

台湾支部で激務

パニックでカウセリング

低容量ピルで臨死

人生リセット

イライラの処方を漢方で

ヴィパッサナー瞑想

リストラ

代替医療での精神治療

治療中に性的侵害に遭う

恐怖で日本に戻る

フリーランス一本

日本のヒッピー

 

NOが言えない

オーストラリアでモヤモヤ

土用、陰陽五行説

アーユルヴェーダ

 

NOが言えず、スリランカでモヤモヤ・散財

オレゴン日食/自称「強姦魔の息子」男から猥褻/夢実現

 

ラブワゴン(NOが言えず)で散財・人間関係倒壊

ゲシュタルトセラピーWS:

父親に初めて怒りをぶつけるぎこちなさ

A精神クリニックで「解離性障害」と診断

インナーチャイルド(IC)と対話

ICの顔と表情が描けるようにな、吹き出しで会話

「幸せになってもいい?」にICは無言、会話終了

B精神クリニックで「複雑性心的外傷後ストレス障害」と診断

月経前増悪(PME)を自覚 

セルフセラピー再開

アダルチルドレンの自助グループ

性被害者の自助グループから言われたこと

近親姦自助グループ

効果/主催者からの差別発言に疑問

著名なフェミニストの主張に疑問

NSJ再び

 

NSJ人間関係崩壊

ハワイでフリーズ 

母と向き合う

父と向き合う

トラウマだった生まれ故郷へ

弟に謝罪

鬱からの躁

違和感大有りのDV男に浮気・二股

NM/躁的防衛、炸裂

 

DV男確定

コロナで疎開/彼氏と関係が悪化

彼氏の人相が変わっていた

NM/〇〇アレルギー悪化

1月1日から3月31日まで毎日泣いた
過去の浮気を全て話した

 

現在

彼氏へのケジメ

C精神クリニック診断「うつ病

人生で初めて仕事への意欲を完全に失う

経済的な不安で身動き取れず

アメリカ最大級のスラム街住民らに共感

障害年金

安楽死の準備

 

番外編

結婚

結論:経済的な必要に応じて、老後にするかも。

出産

結論:私は子供を生まない・育てない。

 

恥の多い人生を送って来ました。しかしそんな私も、4歳で父親から性被害を受ける前までは純粋無垢な幼児でした。

 

まだ何の罪も犯していない魂が、この世に生み落とした肉親の手によって穢される。その記憶に苛まれながら恩に着せられ、肉体が滅びるまで、自他を傷つけながら生き地獄を彷徨う。

 

これほど残虐な世の中で生き続ける意味などあるのか。この不条理をどうしても受け入れられず、もがいていました。

 

だって、世の中には幸せそうな人もいるじゃないですか。なぜ私はあの人達のように人生を謳歌できない運命になってしまったのでしょう。

 

こんなはずじゃなかった......。

 

 

 

 

 

 

こんなはずじゃなかった......!

 

 

 

 

 

 

 

 

物事は私に対して起こっているのでなく、私を通じて起きている。

 

 

 

 

 

 

 

 

その言葉を聞いて、視界が少し開けた気がしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4歳の私が父親から犯され、隣にいた母親に助けを求められなくするための条件は、私が誕生する遥か昔から揃っていたことを歴史が教えてくれました。「児童虐待への無関心」「男尊女卑の伝統」「近親姦の合法性」などなど……。犯罪の温床が大事に育まれてきたことを。

 

もはや、私に直接害を加えてきた父と母だけで負える規模の罪業ではなく、先祖が代々人間社会で継承してきた負の遺産。その先祖の血を受け継いだ私に、そのツケが4歳の時に回ってきただけの話であり、いつ起きてもおかしくない状況だったのです。

 

ということは、縁起でもありませんが、私に起きた災難は、いつ誰に起きてもおかしくないということです。

 

私も20歳くらいまでは漠然と「25歳くらいになったらお母さんみたいに母親になるのかなー?」と思っていました。でもある時「世の中が変わらないまま出産・子育ては危険すぎる」と思い、選択肢を蹴りました。子どもに私みたいな経験をしてほしくない・そのリスクを取るのことさえ恐ろしいと思ったからです。

 

その後もわたしの想いは強まっていて、何の迷いもありません。

 

一方で、親や保護者から尊重されて育って心が健やかな子供や、逆行を乗り越えた若者や大人を見ると、世の中捨てたものじゃないなと思います。

 

こういう人たちが増えれば人間社会も変わるだろうと、希望さえ芽生えます。

 

なので、子供を産む・育てること自体に反対なのではありません。機能不全家族出身で、自他への正常な愛し方を知らない私には「無理です」とやらない選択を明確にしているという訳です。

 

その代わり、私は出産・子育てにかけなくていい時間を、よそ様の子どもへの性的虐待をはじめとする暴力が減り続ける未来を想像・創造することに費やします。誰の子であれ、私のような経験をしてほしくない想いは変わりません。

 

「出産・子育て」に対して楽観的になり過ぎるのは考えものですが、私のように悲観的になる必要があるとも思っていません。「子供の権利」「あらゆるジェンダーの権利」など今まで足りな過ぎた意識の変化は、気づかないほどゆっくりですが、起きていることもまた事実です。

 

それでも私は子孫を残すことより、統を絶ち負の連鎖を断つことを優先した方が、自分のためはもちろん、世のため・地球のためになると確信しています。

 

これは歪んだ愛情で育った私が辿り着いた母性本能のカタチなのだと解釈しています。

 

あとがき

 

大虐殺ができたのに、原爆が作れたのに、月に行けたのに。

 

なのに「NO」が言える性教育、共感力を育む非暴力コミュニケーション、安楽死の選択ができない訳がない。

 

単純にやってこなかった人の方が多かっただけなんだから、やればできる。

 

自分の意識を変えるために「私ならできる」と唱えることなら今からでもできる。

 

心がこもっていなくても「できる」とだけ言ってみる。

 

大丈夫、それくらいならできる。

 

「できる」と言ったところで、今すぐ何かが変わることはないかもしれないが、「できる」と言い続けることで自分を騙し続けてみて、「できない」と思い込んでいた時よりは、できるようになった(こともある)。

 

そう信じて「できる」と言い続ける。

 

この生き地獄で見つけた唯一の希望「安楽死」を遂げるまでは。

 

年表

【1983(0)】 長女としてアメリカで誕生

1984(1)】

【1985(2)】 弟の誕生

【1986(3)】 弟の誕生

【1987(4)】 父親から強制わいせつを受けた/弟にわいせつを加えた

【1988(5)】 Pre-K(現地の幼稚園)

【1989(6)】 日本語補習校幼稚園/Kindergarten 1   

【1990(7)】 日本語補習校幼稚園/Kindergarten 2

【1991(8)】 小学1/1st grade  

【1992(9)】 小学2/2nd grade 

【1993(10)】 小学3/3rd grade/父の店で働き始める

【1994(11)】 小学4/4th grade  

【1995(12)】 小学5/5th grade 

【1996(13)】 小学6/6th grade 

【1997(14)】 中学1/7th grade

【1998(15)】 通信教育/8th grade/セカンドレイプ

【1999(16)】 中学3(卒業)/9th grade/セカンドレイプ

【2000(17)】 10th grade/セカンドレイプ

【2001(18)】 11th grade/セカンドレイプ

【2002(19)】 12th grade/地元の短期大学(勤労学生)/セカンドレイプ

【2003(20)】 地元の短大/セカンドレイプ

【2004(21)】 短大/「けじめをとるため」に男性と交際/セカンドレイプ

【2005(22)】 短大/人生を変えた一冊『ザ・レイプ・オブ・南京』/東京の大学

【2006(23)】 大学/通訳・翻訳フリーランスのキャリア開始

【2007(24)】 大学/英会話教師開始

【2008(25)】 大学/アメリカ訪問・当時の交際男性と別れた/大学のカウンセリング

【2009(26)】 大学/今の彼氏と出会う/彼へのDVを辞められない/休学

【2010(27)】 退学届の件/大学(「最後の親孝行」卒業で散財)/世界一周船上通訳ボランティア

【2011(28)】 英字雑誌の編集部ハプニングバー夜勤/PMDDと勘違い・誤診

【2012(29)】 会社員in台湾で激務/不安障害につきカウンセリング

【2013(30)】 台湾/低用量ピルで臨死/人生リセット/漢方/生活習慣改善

【2014(31)】 台湾/初ヴィパッサナー瞑想

【2015(32)】 台湾リストラ/代替医療の精神治療/日本

【2016(33)】 オーストラリア(NOが言えない)/陰陽五行説アーユルヴェーダ

【2017(34)】 スリランカ(NOが言えない・散財)/オレゴン(夢実現)

【2018(35)】 ラブワゴン散財&人間関係崩壊/ゲシュタルトセラピーWS「父親への怒り」/Aクリニック初診「解離性障害ゲシュタルトでICと対話/Bクリニック診断「複雑性PTSD」/月経前増悪(PME)自覚/セルフセラピー/近親姦自助グループ/NSJ

【2019(36)】 NSJ人間関係ぶち壊し/鬱から躁/DV男と浮気/コロラド

【2020(37)】 DV男とコロナ疎開/オンライン心理カウンセリング/コロラド 

【2021(38)】 「強迫性性行動障害(セックス依存症)」自覚/Cクリニック診断「うつ病」/不眠症/引越し

【2022(39)】 仕事への意欲壊滅/Incest: A Family Tragedy/Soft White Underbelly/罪滅ぼし/障害年金生活保護安楽死の準備中

 

ABOUT THE AUTHOR

Cocoro Psyché is an incest awareness activist, based in Tokyo.


In 1983, Psyché was born to Japanese parents who immigrated to the United States in the '70s. Her father molested her when she was about four years old and this traumatic event was just a prologue to a series of indecency which continued to her thirties. Her mother also tormented her with corporal punishment and verbal abuse. 


While Psyché experienced various psychotic symptoms since early childhood, she tried to believe that she was getting "a special kind of affection and attention from her parents."  


While treating her chronic psychotic symptoms due to Complex-PTSD and Premenstrual Exacerbation (PME), she realized the need to stop denying her parent's crimes. She confronted them but their words and actions only validated their hypocrisy. 


Meanwhile, admitting her victimhood forced Psyché to realize that she had also become a perpetrator by sexually harassing and bullying her younger brothers until their teenage years; as a way to rebel against her parent's misogynistic abuse.


She is continuing to undergo various kinds of holistic treatment to help control her long-suppressed anger, which too often leads to verbal abuse against her partner.


As a risk hedge against the probability that her pace of recovery will stagger with age, she is preparing to seek assisted suicide in Switzerland. 


Until then, Psyché is committed to stopping this vicious cycle of victims becoming perpetrators. By spreading the awareness of incest and its consequences, she hopes to be a part of the force to create a safer home and society for children, who are the future. 


Utilizing her career as a translator, she translates English documentaries on incest into Japanese as well as writes about incest problems in Japan to shed light on what needs to be done on a global scale. 

 

INCEST in JAPAN