「やめて」・にげて・はなして。身内から子どもへの性犯罪:被害者から加害者になった私・犯免狂子が精神治療から学んだこと

4歳から父の猥褻・母の体罰が「愛情表現」と教わり、混乱の吐口としてきょうだいに性的・精神的な加害をしていことを治療中に自覚。3つの気づき:①家庭内で子どもへの性犯罪が、加害者の「無自覚」のうちに起きている。②性被害を否定することは、自己防衛本能が正常に作用しているからだが、否定し続けても苦しみは増す一方である。③被害を認めて精神治療を初めないと、被害者も「無自覚」のうちに自他を傷つけ加害者になってしまう可能性が高い。精神疾患「複雑性心的外傷後ストレス障害(C-PTSD)」歴35年以上。

『犯免狂子』

 

⚠︎注意

気分や体調が悪くなると感じたら、直ちに読み進めることを止めて、ご自愛ください。

 

あらすじ

4歳以降、父親からの強制わいせつや、母親からの体罰などが「愛情表現だ」と刷り込まれた著者が、身近な人を虐待してしまうほどに感情のコントロールが効かない症状を含む精神病(複雑性心的外傷後ストレス障害/C-PTSD)を治療しながら、安楽死を遂げるまで、性被害と性加害の経験を語り、学びを発信することで、子どもの心身が尊重される社会に貢献する道のりを綴る自伝的セルフセラピー。

プロローグ

 

こそばゆい感覚で目が覚めると、パンツの中で手が動いていた。

真暗闇の中でその手は、右側で寝ているはずの父親から伸びていた。

寝ぼけてるのかな。それともお母さんと勘違いしてるのかな。でもお母さんのそこには毛が生えている。やっぱり寝ぼけてるんだ、と思い直した。

それなら手を振り払えばいい、と寝返りを打つように、左側で寝ていた母の方を向いた。

するとその手はパンツの真後ろを握り締めた。

!? 

体と思考が一瞬、硬直した。起きてる?寝てない?なんで?お母さんは寝てる。次の瞬間、その場に居ても立ってもいられなくなり、なるべく素早く、でも誰も起こさないよう静かに気をつけながら、どうにかベッドから抜け出し、トイレに駆け込み、便器のレバーを押し、流れる水の音量に焦った。

自分の寝室のベッドに入り、トイレを使うために起きたんだ、そう考えながら、眠りについた......はず。

翌朝「お父さんにメゴメゴしてもらったんだって?よかったねぇ」と母親から言われながら、ギュッと抱き寄せられた。

という話を子どもがしたら、信じられるでしょうか。

少なくとも私は、信じませんでした。信じられませんでした。

 

「恵まれた環境」

私は1980年代にアメリカで、日本人の両親の間に生まれました。

「帰国子女?」と、よく質問されるので、日系米国人2世と予め言及させていただきます。

両親は1970年代、東京にあった英語の語学学校で出会ったそうです。

女優並みの美人だった20代前半の母に一目惚れした父は30代前半。

自動車整備の会社を売却して、その資金で世界中を放浪するいわゆるバックパッカーを数年間続けながら、母に手紙を書き続けたそうです。

父が最終的に辿り着いたのが東海岸屈指の大都市。お金を使い果たしホームレス同然の状態で、日本食レストランに雇ってもらい、皿洗いから、ウェーター、バーテンダーからマネージャーへと出世。

母は片親の父の反対を押し切って、駆け落ちしたそうですが、この話は子供心にも意外でした。生真面目な母親のイメージに反しているような行動に思えたからです。

ハワイで2人きりの結婚式を挙げ、そこで授かったハネムーンベビーがお前だと、父から何度聞かされたかわかりません。

私が生まれた日は小雪の夜、家族や友達に一刻も早く知らせたくても未明だったため、電話ができず、いてもたってもいられなかった心境を、父は目を輝かせながらよく語りました。

名前は、父がバックパッカー時代に見たヒマラヤ山脈を染める朝日から閃いて、女の子が生まれたらつけようと決めていたそうです。

授かる前から望まれていた娘であることは疑う余地もありませんでした。

母でさえ、もともとは子供に興味なかったそうですが、私が生まれたことで「自分の子供は可愛いものなんだ」と気が変わったのだとか。

2年後と3年後には弟が誕生。母親曰く、私は弟たちの面倒をよく見る姉だったそうです。私はほとんど泣かず、聞き分けのいい子で、育て易かったので、弟たちが泣き続けてるのを心配してドクターに相談したら「赤ちゃんは泣くのが仕事です」と言われたそうです。

弟たちが生まれてからしばらくして、都心部から車で1時間くらい離れた郊外の住宅街に転居。都心部は今よりも治安が悪かったためらしいです。

育った家は、4LDKと地下室がある二階建ての一軒家。大きなカエデの木がある芝生の庭が前と後ろにあり、小鳥やリス、夏には蛍も飛んでいました。

父は通勤に遠くなったためレストランを辞め、家から車で約30分のところに日本食品店を開業。その地域は、裕福なユダヤ人や、日本の大企業から出張で短期的に住んでいた日本人家族が多く住むエリアでした。

私は幼稚園の時から土曜日だけ日本語補習校に通っていたのですが、私のことを地域で唯一の日本食品店の子どもとして知らない人は少なかったと思われます。

「いいわね、お菓子を一杯食べれて」とお客さんから言われる度に反応に困りました。店に陳列されているものは、あくまで商品。私たちがそれを食べさせてもらえることはほとんどありませんでした。

小学生の頃、マヤ遺跡とケイマン諸島のカンクーンへ家族旅行に行った時、巨大なジップロックにあらゆるお菓子の詰め合わせを父が一人分づつプレゼントしてくれたことが一度ありましたが、その時の感激は忘れられません。

お菓子は滅多に与えられなかった訳ですが、日々の食事は、一般家庭より上質だったという感覚がありました。

普段の食卓には母親の手作りご飯が並びました。野菜が多い和食が中心でしたが、和洋折衷なにを食べても美味しかった。

庭では野菜も育てていて夏は糠漬けも出してくれました。3時のおやつも手作り。焼きプリンや、ドラ焼きも餡子から作ってくれました。誕生日のケーキもスポンジからホイップクリームまで全てが手作りでした。

刺身の盛り合わせは、すき焼きの時は父親が腕を振るってくれました。

父の兄である伯父も板前で、幼い頃は一緒に住んでいたことがあり、魚の旨い部位や食べ方を目の前で教えてくれました。

外食は年に数回。近所の町中華レストランや、ちょっと足を伸ばして中華街で本格的な飲茶をいただいたり、ピザをテイクアウトしたりすることはありました。ピザの時だけはコカコーラを飲みました。

 

「お前を飲兵衛にするのが夢なんだ」と父親は、子供の頃から頻繁に言っていました。

子どもだからまだ早いという食べ物は一つもなく、幼い頃から私の好物は、海鼠、鮑の肝、鰻の肝など酒の肴のようなものばかり。

甘いものより断然、苦味や磯の香りを感じられて食感が独特な生物が特に好きでした。

酒の美味しさを理解したのは先のことですが、正月の時に初めて盃をいただいた時は、嬉しかった。子供なのに特別な日はお酒を少しなら口にしていいという、一般常識とは違う体験ができたことを誇らしく思いました。

父は自営業の日本食品店で、テイクアウト用の巻き寿司やパーティー用の握り寿司も作っていたので、新鮮な食材が常備されている状態でした。

雲丹などの高級食材も仕入れ値で食べられましたので、上質な物とミョウバンが強すぎる物の違いも噛み分けていました。

両親は年末になると毎年、お客様のためにもお節料理を、仕込んでいました。

大金持ちの屋敷で開催されるパーティーのケータリングをすることもありました。

私が食べることに目がなかったのは、父親の職業柄、母親の食いしん坊ぶり、伯父が板前と魚屋だったことの他、父方の母が富山県にあった料亭の娘だった影響も大きいです。

例えば、子どもの私が祖母と母と蟹のフルコースを頂いている側で、隣の席の子どもはお子様セットを食べさせられていたのを哀れに思いました。

私はお子様セットで誤魔化されたことは一度もなく、それが誇りでした。

アメリカでは毎日、朝は母親と子供たちで食べ、昼は母の弁当などをいただきました。夜7時頃には5人家族揃って手を合わせて元気よく「いただきます!」と言ってから食べ始めるのは、父親が憧れていたというルールでした。

私は夕飯の時、底なし沼のように食べました。ご飯を何杯もおかわりし、米粒一つ、汁の一滴も残さず平らげました。よく食べることを褒められました。

そして「ご馳走様」を言うと毎晩、正露丸を飲みながらトイレにこもりました。その度に、私はなぜお腹が痛くなるまで食べてしまうのだろう?過食症?でも過食症は、痩せたい人がダイエットのために食べては吐くことを繰り返すイメージだったから、自分は違うと思っていました。私は痩せの大食い。ご飯が美味しいから仕方がないと納得していました。

小学生の頃、ハゲワシに狙われている餓死寸前のアフリカ人の子どもの写真を見せられ、「世の中には食べられなくて死ぬ子どもが大勢いる」と教えられました。その子達に比べたら、自分は恵まれていると思いました。私ができることはご飯を残さず食べることだ。食べさせ甲斐があるとよく言われ、喜ばれていました。

食べものは、孤独も埋めてくれました。

弟たちと一緒になって悪ふざけをしていたら、年上の友達から「お姉ちゃんでしょ」と怒られ、ショックで弟たちと距離を取り始めました。

それまで呼び捨てされていたけど、その日から「お姉ちゃんと呼びなさい」と命令しました。

弟たちと無邪気に遊べなくなって孤立していましたが、味見と称して特別扱いを受けることで優越感を覚えることができました。

母がイカの塩辛を作る際、イカの嘴を食べさせてもらえるのは私だけでした。

通称トンビというコリコリした食感が独特なこの珍味は一杯から一つしか取れない希少部位。

イカの塩辛に二杯使っていたので、私は二つとも食べさせてもらっていました。

食卓には絶対たどり着かない特別な味覚体験は、退屈な日々のハイライトでした。

「早く大人になるためには」

ある日、母親が他の大人と世間話をしていた際、私は隣で興味深く聞いていました。母は主に聞き手で意見がないようしたが、私はウズウズしていました。とうとう話題が恋愛なった時、小学校一年生だった私は片思いしていた同級生Lの話をしたくなり、声を発した瞬間「大人の話ッ!」と言い放った母の鬼面に、私は凍りつきました。

子どもは言いたいことがあっても話すことができないんだ、と学びました。

別の日、Lと兼ねてから遊びたかった私は、母の目を盗んで、近所に住む彼の家へ歩いて行きました。Lの家の前で彼と挨拶を交わし、幸せな気持ちになったのも束の間。急に姿を消した私の行方を心配した母に間もなく見つかり、彼の目の前で叱られ、この上ない屈辱を味わいました。

何も知らない母は後日、彼が教科書を借りに来た時「Lが来たわよ」と呑気に呼びましたが、私は仏頂面で彼にそっけない態度を取りました。そんな自分が嫌でした。

 

毎日毎日、母が学校に迎えに来て、そのまま家に直行し、ずっと家事の手伝いばかりだった私は、早く大人になって話を聞いてもらいたい・やりたいことがしたいと思っていました。

「どうすれば大人に早く近づけるだろうか」と考え、行き着いた答えが「働く」でした。

そして10歳の誕生日、寝室のベッドに座っていた父親の足元に跪き「仕事を手伝わせてください!」と頼み込みました。

土下座は時代劇かなにかで覚えました。頭を下げる途中、自分の大袈裟な態度に脳内が一瞬ざわつきました。でも、子どもという圧倒的な不利な立場を補い、断られる余地を少しでも減らすために、全身全霊で大人の真似をするしかないと思い、額を床につけました。

それからは現地校も補修校もない日曜日は毎週、朝から晩まで父が経営していた食料品店で仕事しました。

ある日、日本語学校の同級生で何度か一緒に遊んだことがある女の子が、ローラーブレードを履いたまま、店に入ってきました。

スイスイと店の中を滑っていく彼女の自由さに比べ、自分が惨めになり、その時だけはレジを打たなくてもいいように、隠れました。

店は大体夕方ごろになると暇になり退屈でしたが、家にいるよりはマシでした。

ある日、お客さんの一人であるユダヤ人女性から「うちで働かないか」とスカウトされました。

各地にある宴会場で、イベントに合わせて会場を飾りつける仕事で、手先が器用な私は得意な作業でした。

土日祝日、年末年始はかき入れ時で、深夜まで働くこともありました。

休憩はおろか食事は移動中、父が作った巻き寿司を食べることがある程度。

それでも実家や父の店にいる時に比べものにならないくらい夢中になれたので、苦に感じることはありませんでした。

ただ一度、年末の深夜に帰宅し、母親のおにぎりを一口食べた途端、頬を伝った一筋の涙に驚いたことがあります。

空腹に気づかないほど、仕事に夢中だったようです。

「養子に欲しい」と当時、そのユダヤ人女性から言われたと、大人になってから母親から聞きました。

お小遣いはもらっていなかったけれど、働いたお金で貯金は溜まっていく一方でした。

欲しい服があっても、母親は顰めっ面で、私の好みを批判します。

お金はあるのに、中学生頃からか万引きをし始め、スリルを楽しむようになっていました。

「他人の不幸は蜜の味」

中二になって現地校に友達ができました。

中学に入ると、他の現地校から生徒が集まるので、世界が広がるはずなのに、中一の時は友達がおらず、日本語学校も母親がPTAをしたくない都合で、私が泣きながら抗議しても通わせてもらえなかったので、嬉しさもひとしおでした。

その子は、コロンビア出身の女子S。授業中、コアラってなに?って聞いてきた時、コアラを知らないことに私は驚いたと同時に、分からないことを恥ずかしがらずに認められて凄いなと関心しました。

中2の時、フランス語の授業で同じクラスになりました。

ある日、Sから電話があり、放課後に一緒に遊ぶようになりました。

Sは、義父との間に確執があり、よく怒鳴り合いをしていました。

ハロウィンの夜、外出を禁止されるも、2階にある自室から飛び降り鼻を折ってしまいましたがそれでも、外出した話を聞き、彼女を尊敬しました。

いくら血が繋がっていなくても目上の保護者に真っ向から反発する、Sの反骨心は、眩しかった。

Sはやがて不登校になりましたが、放課後よく彼女の家に遊びに行き、話を聞きました。

年上の友達が多く、オープンシークレットを初めて体験させてくれたのも彼女でした。

Sを通じて同級生のCと出会い、Cとも仲良くなりました。Cは母親がドラッグやアルコール中毒で、母親のボーイフレンドから暴力を振られながら、貧困生活を送っていたけど、離婚した父親に引き取られたという過酷な幼少期を話してくれました。

まるでドラマや映画のような波瀾万丈な内容に比べ、自分の人生がどれほど平凡かと思い、ただただ聞き手に徹していました。

他人の苦労話を聞くと、どこか楽になる自分がおり、永遠に聞いていられました。

17時頃、母親が車で迎えに来ると、ズンと気持ちが落ち込みました。

19時には一家揃って食べる夕食の準備があるし、食後はもう暗いということで外出できませんでした。

私が一日で楽しいと思えたのは学校が終わる15時から17時までのたった2時間。それも毎日ではない。

やっと気の合う友達ができたのに、あまりにも短すぎました。

「日本人の誇り倒壊」

The Rape of Nanking

「恋人へのDV」母ー女性性

 

「墓場まで持っていく」

 

YAZで死にかける

 

サイケデリックス三昧」

 

NOが言えない



「封印されていた怒り」

 

 



「ようちえん初日」

2022年1月27日の明け方、フラッシュバックした。

 

プリケー(アメリカの幼稚園)の初日、東京のおばあちゃんから贈られてきたばかりのぬいぐるみを両腕に抱えて行った時のこと。

 

赤毛ペルシャ猫のそれは、本物みたいに立派だったけど、スイッチを入れるとニャーニャー鳴き、保育園ではうるさく感じて恥ずかしくなった。

 

お腹に隠されているバッテリー入れの代わりに、なんでも隠せる深いポケットがあったらよかったのに。

 

それを持っていくことは二度となかった。



「嘘を初めてついた日」

 

幼稚園から帰ると、真っ白いケーキに透明のラップがふんわり掛けられていた状態で、ダイニングテーブルに置かれていた。

ラップの隙間から人差し指を突っ込んでホイップクリームを舐めた。

穴を見つけた母親から険しい顔で問いただされ、とっさに「ううん」と言った。

「嘘つきに育てた覚えはありません!嘘は泥棒の始まり!」と母親は怒鳴って、パーンっと頬を引っ叩き、ウォークインクローゼットに閉じ込めた。

頬の痛みよりも、母親の反応がショックだった。

泣きながら、ドアを少しだけ開けたけど、母親が怖くて出る勇気まではない。でも暗闇も怖いので、電気をつけた。

見渡すと、棚に置かれた布の下から画像が覗いていた。布を捲ると、苦しそうな表情の女性。裸で、何者かに痛めつけられているような女性ばかりの写真で埋め尽くされた雑誌の山が積み上げられていた。初めて見たにも関わらず、父のものだと悟った。

その瞬間、さっきまでの悲しい気持ちがスーッと引いた。

お父さんが本当のことを隠して嘘をついた時、お母さん、なんで喜んでいたの?

お父さんがやったことはやっぱり、よかった訳ないよね?

でも、まだ騙されているお母さんのことをどう信じればいいっていうの?

 

「悪夢」

腹痛や風邪の時は、両親の寝室にあるキングサイズのベッドで寝た。

その都度、必ず、頭の中で同じ口論が繰り返される。

なんで、お母さんを間に挟んで寝るようになったんだっけ?

だって、昔はお父さんとお母さんの間で誰が寝るか弟たちと取り合いになってたじゃん。

ジャンケンして、勝った時はあんなに嬉がっていたのに。なんで?

......。

でも、アレは悪夢でしょう?

だったら、お父さんとお母さんの間で寝ればいいじゃん。

なんで、お母さんを間に挟んで寝るようになったんだっけ?

......。

だから、アレは悪夢でしょう?

永遠に埒が明かないので、羊を数えてみたりしたけど効果はなかった。



「両親と対決」



安楽死

 

「浮気」

弟たちは幼児期、よく下半身を丸出しにして走り回っていました。

私はある日、何を思ったか、両親の寝室のベッドの上に座った状態で下半身を露出していた2歳の弟の男性器を人差し指で突っつきました。

すると弟はケラケラと笑いました。

私はその反応に驚いて、もう一度、同じことをしました。

弟は同じ反応。

弟の反応は私にとって衝撃的でした。

我が家では、まともな性教育を受けた覚えはありませんでしたが、男の子の「おちんちん」が女の子の「おまた」に匹敵する場所くらいの認識はあったと思います。

その場所を他人に触れられて笑える神経が、私には不思議でたまりませんでした。

父親から下半身を触られた私の反応と全く異なっていたからです。

小学校

そんな母親について最も鮮明に覚えている記憶は、小学生低学年の頃。

私が算数の勉強で、時計の読みを間違えると、母親は「なんでわからないの!?」と怒鳴って、手のひらでパーン!と私の頬を打ちました。

痛いことよりもなによりも、母の声と顔と手が怖くて、涙と同時に出る大量の鼻水を啜り、呑み込み続けました。

母親はお構いなしに怒鳴り続けましたが、私はなんでそこまで怒られなくてはならないのか理解できず、勉強どころではありませんでした。鼻が詰まり、みぞおちからくる痙攣が治らず、ヒックヒックと声が漏れてしまうのを抑えられませんでした。

時計の勉強を小学生1年の頃にしたとすると、私は8歳くらいだったということになります。でも38歳になった今も「時計ー読めない=体罰」という計算式の理解には苦しみます。

九九の時も同じように、怒鳴られ、叩かれました。恐怖のあまり、肝心な?勉強に集中できませんでした。

時計と九九を除けば、成績は総合的に優秀な方でした。算数だけは苦手意識が根付きましたが、皮肉なことに中高で、数学は全科目で唯一上級クラスに入れられていました。

 

小学生低学年の頃、私のコンプレックスは「子どもであること」でした。「子どもだから、話を聞いてもらえないんだ」と解釈していたからです。

ある日、母親が他の大人と世間話をしていました。話題が恋愛の話になった時、私は片思いしていた同級生の話を聞いてもらいたくて、声を発した瞬間「大人の話ッ!」と鬼面の母がピシャリと言い放ち、私は凍りつきました。

私も早く大人の会話に参加したい。「どうすれば早く大人になれるだろうか」と考え、行き着いた答えが「働く」でした。

そして10歳の誕生日、寝室にいた父親の足元に跪き土下座をして「仕事を手伝わせてください!」と頼み込みました。それから現地校も補修校もない日曜日は毎週、朝から晩まで父が経営していた食料品店で仕事を始めることができました。

土下座は時代劇かなにかで覚えました。頭を下げる途中、脳内が一瞬ざわついたのを覚えています。でも、子どもという圧倒的な不利な立場を補い、断られる余地を少しでも減らすために、全身全霊で大人の真似をせねばならないと思い、額を床につけました。

しかし仕事を始めようが何をしようが、母親の地雷がどこに落ちているかは依然として予想不可能でした。ある時から私は「お母さんから嫌われているんだ」と納得することで、平常心を保つ訓練を始めました。

 

そんな母親が、私にではなく、父親に怒ったことがありました。

ある夏の日「もう、いやらしい!娘の胸を除くなんて!」と突然、母親が怒鳴りました。

突然の大声にびっくりした私が父の方に目をやると、彼は罰が悪そうに首をすくめていました。

その時、私はノースリーブを着ていました。発育する前でそれまで自分の胸を意識したことはありませんでしたが、その時、不快感を覚えました。

同時に、驚きました。

母親が「そーゆーことを嫌がる人なんだ」ということが、意外だったのです。

 

志○けんの番組を家族5人揃って両親の寝室にあったテレビで見ていた時期が小学校中学年くらいまでありました。胸を剥き出した大勢の女性達を触ったりして笑いを取る『バ○殿』、女性の部屋へ勝手に侵入して恐怖心を覚えさせて笑いを取る『変○おじさん』。

ある時、父親が「志○けんもくだらないな」と苦笑していたのを聞いて、え?と思いました。それを子どもに見せる父親のことはどう解釈すれば良いというのでしょう。

いずれにせよ、私には「わいせつ行為=面白い」という認識が着実に植え付けられていきました。

その後、保護者の間で問題視されていた「ク○ヨンしんちゃん」のマネをして、無抵抗の弟達の性器にマーカーで落書きをしました。私はそれを「面白い」と思ってやりました。

2回目に同じことをしようとした際、弟達は嫌がって逃げました。その時の私の心境は「つまんないな、前はやらせてくれたのに」と裏切られたような気持ちにさえなりました。

かつて父親から性器を触られ恐怖を覚えた私も、数年後には認知の歪みがこれほどまでに進行していたのです。

「ク○ヨンしんちゃん」にしても「バ○殿」にしても「変○おじさん」にしても「評判は悪いけど、ふざけてるだけで悪気は無さそうだから憎めないキャラクター」であり、歴とした「犯罪行為をしている」という認識は子どもの頃はありませんでした。それは、自他との境界線を尊重する根本的な性教育を全く受けていない代わりに、わいせつ行為の情報が日常に溢れ返っていたからでした。

それに「性的なこと=面白い」と解釈できれば、不快な思いをさせられた父親に対する負の感情を最小限に抑え、自分がされたことを「大したことではなかった」と過小評価できたのでした。

そうやって、私の問題行動はどんどんエスカレートしていきました。

小学校高学年、漫画で「カ○チョウ」や「電○あんま」の模写を見つけると、弟達に一回づつ行いました。やってみて面白いという感覚はありませんでした。でも「姉」として弟達よりも上に立っていたいという根深い欲求は多少満たされたのだと思います。

弟達の上に立ちたいという感覚が芽生えるきっかけの出来事がありました。幼年期の頃、私が弟とじゃれ合っているうちに、調子に乗って乱暴がエスカレートした際「やめなさい!お姉ちゃんでしょ!」と年上の友達に叱られました。

このことがショックで、弟達から物理的・精神的な距離を置くようになり、家の中でもますます孤立していきました。そして「お姉ちゃん」はなにかと我慢しなくてはならないことが多いなら、少なくとも弟達を従わせないと益々不利だと思いました。それまでは名前で呼ばれていましたが「これからは『お姉ちゃん』と呼びなさい」と命令したのを覚えています。

弟達は双子のように仲が良く、放課後は近所の同級生と毎日のように遊んでいました。私は土曜日に通っていた日本語学校には親友が一人いましたが、平日の現地校には一緒に遊ぶほど仲の良い友達がおらず、孤独で退屈でした。

そんな弟達の間に割り込もうと、一人を味方につけ、もう一人を仲間外れにして、長期間いじめたこともあります。

その後、仲良しの二人を「ゲイだ」と何度も冷やかしました。また鍋の時、私の好物の一つであった白子の味を占めさせないように「食べたらゲイになるよ」と脅したりしました。

言葉の暴力による精神的ないじめは、中高生もしくは短大生の頃までも続いたように思います。ある日「もうやめて!」と末っ子の弟が初めて怒りを顕にしたことで、私は我に返りました。弟達がそれまで強い不快感を無言で耐えていたことに気付き、言動を改めました。

中学校

Sが中退した後も、放課後は彼女の実家に遊びに行き、そこで出会った色んな人の話を聞き、視野が広がりました。

親の離婚率の高さ、家庭内での性犯罪をはじめとする暴力の激しさ、ありとあらゆるドラッグ(アルコールやタバコも含む)の乱用者の多さ、貧困の酷さなどの内容には、目を見張るものがありました。

まるで映画でみるような彼らの波瀾万丈な人生を聞いていると「私の人生はなんて平凡なんだろう」「私の話なんか取るに足らない」などと思えました。

私の両親は離婚の危機はなさそうだし、拳で殴られたりアザまではできたりしてないし、父親はタバコ中毒くらいだし、母のご飯を毎日三食美味しくいただいているし。

ある日、Sから告白されました。幼い時に、親戚の男性(おじ)から「モレスト(痴漢行為)」をされたことを。

この時も、私は聴き手に徹し、自分の話は口にしませんでした。「アレはただの悪夢」と処理されていたので話すことがありませんでした。

それに仮に現実だった場合、「実父」というより血縁が近い「直系血族」が同等な行為を犯した場合は深刻さが一層増す気がして、そのようなことが脳裏を掠めただけでも思考停止になったといった方が的確かもしれません。

また、友人が強姦されたという話をSから聞いた際は、「私は強姦まではされていない」と、自分の記憶が万が一現実だった場合に使える過小評価の切り札を用意しました。

周囲から性被害の話を聞く度に「アノ記憶」が蘇りましたが、私はこのように様々なアングルから言い訳を編み出し、それらを巧みに駆使して認めようとはしませんでした。



私は陽が落ちた後も友達と時間を共にしたくて、自宅には帰りたくありませんでした。でも、我が家には「夕飯は毎日、家族5人揃って合掌し、一斉に『いただきます!』元気よく言ってから食べる」という父親が設けたルールがあり、物心つく頃から守られてきました。

そのためだけではないかもしれませんが、母親は陽が暮れる前には必ず、迎えにきました。私にとってはこの時間が来るのが憂鬱でした。母の車が見え、友達を後にしなくてはならない時は毎回、屈辱的な思いでした。

夕食は、父親が仕事から帰ってきた後、19時頃に食べ始めた気がします。母の手料理は和洋折衷どれも美味しく、父親もお造りや鍋物などの時、腕を振るってくれました。

うちの家系は代々、飲食業だったという影響も大きく、食べることに対して貪欲な一家でした。

私の曽祖父は富山県で料亭を営んでいたと祖母からよく聞いていましたし、伯父は板前でした。父はレストランのマネージャーなどの経験を経て日本食料品店を自営し、一般庶民から富裕層まで幅広いお客さんのために特注の料理を提供したりしていました。

なので中流階級で育ちながら、食生活においてはその限りではないと感じる場面が多く、「私は恵まれた家庭で育ったのだから文句は言えない」と思わざるを得まないところがありました。

制限が多すぎる家庭だと感じていましたが、食欲に関しては唯一無制限。私が美味しく沢山食べると、食べさせ甲斐のある子だと言って、大人達は喜んでくれました。赤ちゃんの時から、大人が奮発して嗜むような高級食材を惜しみなく与えられ甘やかされていたそうです。小学生の時、たまの外食に「お子様ランチ」などを勧められたことは一度もなく、大人と同じコース料理を当然のように食べさせてもらったことを、子供ながら誇りに思っていました。父親は私を「飲兵衛に育てるのが夢だ」とよく言っていて、お酒の醍醐味も小学生の頃から少しづつ覚えていきました。

私は長子であった上、父親が結婚前から望んでいた待望の女の子。子どもに興味がなかったという母も私が生まれた時は、「自分の子は可愛い」と思えたそうで、機嫌の良い時は父と口を揃えて「やっぱり女の子は可愛いねぇ」などと言っていました。私は弟達に比べた時に、両親から特別な愛情を受けているという感覚がありました。それが苦しいのは、両親の愛情が強すぎるほどに大きいからなんだと、恩知らずな自分のせいにしました。

私は毎晩、底なし沼のように食べました。ご飯を何杯もお代わりし、米粒一つ、汁の一滴も残さず平らげました。

小学生の頃からハゲワシに狙われている餓死寸前の子どもの写真を見せられ、「世の中には食べられなくて死ぬ子どもが大勢いる」と教え込まれました。その子達に比べたら、自分は相当恵まれているのだから、何時も文句を言ってはいけないと思っていました。

そして毎晩、食べ過ぎてお腹を壊しました。正露丸を飲みながら下痢をするということを繰り返しながら「私はなんで毎晩、苦しくなるまで食べてしまうのだろう?」と自問してから「それは、お母さんのご飯が美味しすぎるからだ」と自答し「それならしょうがない」という結論に至っていました。

少なくとも毎晩、家族全員揃って夕飯を食べていた高校生くらいまでは、続いていた気がします。

当時は「摂食障害=痩せるために吐く人」というイメージがあり、痩せの大食いで吐くことが嫌いな自分には該当しないと思っていました。

過食症であった可能性に気づいたのは30代後半になってからです。自覚し始めた「躁的防衛」という症状に関連するため、発覚しましたが、そのことはまた後述します。

中学校3年の頃から高校3年にかけては人生で最も辛い時期なので、まだ書く気になれないので、

高校

男関係

何があっても「墓場まで持っていく」

短大

 

責任をとって彼氏

仕事一筋

遠い国への夢

人生を変えた一冊『ザ・レイプ・オブ・南京

アイデンティティ倒壊

日本の大学に進学

大学

伯父の死

祖父の死

祖母の男尊女卑

父親の男尊女卑

政治専攻

教育基本法

憲法第9条を守る会

中国語

2007 GABA

初のカミングアウト

当時の彼氏にカミングアウト

2008 アメリカ訪問、当時の彼氏と別れる

断髪

PB振込

カウンセラーSADかも?

2009年、現在の彼氏と出会う

DVがやめられない、母の呪縛

休学、沖縄

退学届

卒業3月

2010ピースボート

社会人

メトロポリス

ハプニングバー

台湾

激務

パニックでカウンセリング

低容量ピルで臨死



人生リセット

漢方

ヴィパッサナー

リストラ

代替医療での精神治療

フリーランス一本

日本のヒッピー

OZ

土用、陰陽五行説

アーユルヴェーダ

 

スリランカ

オープンシークレット

オレゴン

 

ラブワゴン

NOが言えず散財する癖

ゲシュタルトセラピーWS

2018年5月 ゲシュタルトセラピーのグループWSで、初めて手応えのある治療を受けた。幼児期に受けた性被害を説明しながら涙と鼻水が溢れ出た。ファシリテーターが「お父さんへの怒りを言葉にして」と言われ、私は「え?私は母親に対して怒っているんですけど」と困惑。無理やり言ってみた「父親に対する怒りの言葉」もどこかぎこちなかった。その後、私が「父親の行為を虐待だとは思っていない」と言うと、心なしかファシリテーターがキョトンとした表情をしたのが印象的で、私は何かおかしいことを言っているのかもしれない、あれは虐待という認識でいいのかもしれないと思うきっかけになった。傍観者一人の無神経な言葉を受け傷つく場面もあったが、いずれにせよ、泣いたことで気持ちが少し軽くなったのを感じた。

 

2018年8月 ゲシュタルトセラピーの個人カウンセリングで私は、インナーチャイルドや家族全員を登場させて対話。インナーチャイルドに「ありがとう」と初めて伝えることができた(心はこもっていなかったが、頭で考えて感謝を伝えた:「被害当時、あなた(4歳の私)はベストな選択をしたつもりだった。お母さんに相談しなかったのも、私の居場所を確保しようとしてくれたからだった。ありがとう」。数日後、自宅で私はインナーチャイルドの顔を表情豊かに書くことができ、大人になった自分と会話をさせることができた。それまでのインナーチャイルドの絵は後ろを向いていたり、仮面を被っていたり、のっぺらぼうだった。

 

補足:ファシリテーターの何気ない指摘が印象に残った。曰く「インナーチャイルドの立場で話す時は正座になり、大人の立場で話すと胡座になる」。緊張をしていた4歳の時と、現在の私では人格が真逆に変わってしまった事実を踏まえると、腑に落ちるものがあった。

 

クリニックで「解離性障害」と診断

ゲシュタルトセラピーでICと対話

ICの顔が描けるようになった「幸せになってもいい?」

クリニックで「複雑性心的外傷後ストレス障害」と診断

月経前増悪(PME)を自覚 

セルフセラピー再開

アダルチルドレンの自助グループ

近親姦自助グループ

著名なフェミニストの主張に疑問

 

NSJ

ハワイでフリーズ

母と向き合う

父と向き合う

トラウマだった生まれ故郷へ

弟に謝罪

鬱 

鬱からの躁

二股

NM

コロナ疎開

NM

クリニックで「うつ病」と診断

現在

彼氏へのケジメ

精神クリニック通院

経済的な不安

アメリカ最大級のスラム街住民らに共感

安楽死の準備

 

母のLINEをブロック

 

「母親が一時的に日本に来るらしい」ことを、東京にいる弟から聞いたのは2023年の4月下旬から5月上旬の頃。

 

アメリカに住んでいる母が来日することは滅多ないけど、来ても会うことはないだろうな、と私は思った。

 

なんせ最後にやりとりしたのは2019年の冬。

 

私の誕生日、母親からのLINEメッセージを開くと

ペンギンの群れがオナラでハッピーバースデーツーユーのメロディを奏でるGIFだった。

 

下品にもほどがあるが、それが我が家の特色でもあるので、仕方なく冗談で返した。

 

「なんでわかったの?」

 

すると流石、母。

 

「臭ってきたから」

 

私はこう思った

 

「臭いのはお前らの方だよ」

 

でも返信する気も起きず、そのままにしていたら、4年半が経過していた。

 

コロナ中も母親からの安否確認、一切なし。

 

これは、画期的なことなのである。

 

というのは、私の母親はとにかく心配性で、過干渉で過保護(自分は我が子に暴言・暴力を振るうくせに)だったからだ。

 

過去に私と連絡を取れないと大騒ぎして、他の家族を巻き込んで安否確認をさせたりする人だった。

 

じゃあ、なぜ、母親が何年も連絡をしてこないかというと、答えは明快。

 

私がその年の春、実家に出向き、母親に告白したからだ。

 

幼児の時から父親から猥褻をされていたことを。






私は当時、母のことや、色々なことが重なり、切羽詰まって、ゲシュタルトセラピーを予約






朝、母親からLINE に連絡がきた

 

Hi 元気?

 

私はパニックになった。

 

なんて答えていいかわからなかった。

 

咄嗟に弟2人に連絡。

 

2人の返信は相変わらず早かった。






ニューヨークにいる弟は電話をかけてきてくれた。




 

番外編

結婚・出産について

 

結論:私は子供を生まない・育てない。

 

 

恥の多い人生を送って来ました。しかしそんな私も、4歳で父親から性被害を受ける前までは純粋無垢な幼児でした。

 

 

まだ何の罪も犯していない魂が、この世に生み落とした肉親の手によって穢される。その記憶に苛まれながら恩に着せられ、肉体が滅びるまで、自他を傷つけながら生き地獄を彷徨う。

 

 

これほど残虐な世の中で生き続ける意味などあるのか。この不条理をどうしても受け入れられず、もがいていました。

 

 

だって、世の中には幸せそうな人もいるじゃないですか。なぜ私はあの人達のように人生を謳歌できない運命になってしまったのでしょう。

 

 

 

こんなはずじゃなかった......。

 

 

 

 

 

 

こんなはずじゃなかった......!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「物事は私に対して起こっているのでなく、私を通じて起きている。」

 

 

 

 

 

 

 

 

そのことに気づくと、視界が少し開けた気がしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4歳の私が父親から犯され、隣にいた母親に助けを求められなくするための条件は、私が誕生する遥か昔から揃っていたことを歴史が教えてくれました。「児童虐待への無関心」「男尊女卑の伝統」「近親姦の合法性」などなど……。犯罪の温床が大事に育まれてきたことを。

 

 

もはや、私に直接害を加えてきた父と母だけで負える規模の罪業ではなく、先祖が代々人間社会で継承してきた負の遺産。その先祖の血を受け継いだ私に、そのツケが4歳の時に回ってきただけの話であり、いつ起きてもおかしくない状況だったのです。

 

 

ということは、縁起でもありませんが、私に起きた災難は、いつ誰に起きてもおかしくないということです。

 

 

私も20歳くらいまでは漠然と「25歳くらいになったらお母さんみたいに母親になるのかなー?」と思っていました。でもある時「世の中が変わらないまま出産・子育ては危険すぎる」と思い、選択肢を蹴りました。子どもに私みたいな経験をしてほしくない・そのリスクを取るのことさえ恐ろしいと思ったからです。

 

 

その後もわたしの想いは強まっていて、何の迷いもありません。

 

 

一方で、親や保護者から尊重されて育って心が健やかな子供や、逆行を乗り越えた若者や大人を見ると、世の中捨てたものじゃないなと思います。

 

 

こういう人たちが増えれば人間社会も変わるだろうと、希望さえ芽生えます。

 

 

なので、子供を産む・育てること自体に反対なのではありません。機能不全家族出身で、自他への正常な愛し方を知らない私には「無理です」とやらない選択を明確にしているという訳です。

 

 

その代わり、私は出産・子育てにかけなくていい時間を、よそ様の子どもへの性的虐待をはじめとする暴力が減り続ける未来を想像・創造することに費やします。誰の子であれ、私のような経験をしてほしくない想いは変わりません。

 

 

「出産・子育て」に対して楽観的になり過ぎるのは考えものですが、私のように悲観的になる必要があるとも思っていません。「子供の権利」「あらゆるジェンダーの権利」など今まで足りな過ぎた意識の変化は、気づかないほどゆっくりですが、起きていることもまた事実です。

 

 

それでも私は子孫を残すことより、統を絶ち負の連鎖を断つことを優先した方が、自分のためはもちろん、世のため・地球のためになると確信しています。

 

 

これは歪んだ愛情で育った私が辿り着いた母性本能のカタチなのだと解釈しています。

 



あとがき

恥の多い人生を送って来ましたが、4歳で性被害を受ける直前の私は純粋無垢でした。

まだ何の罪も犯していない魂が、この世に生み落とした肉親の手によって穢される。その記憶に苛まれながら恩に着せられ、肉体が滅びるまで、自他を傷つけながら生き地獄を彷徨う。

これほど残酷な世の中で生き続ける意味などあるのか。この不条理をどうしても受け入れられず、もがいていました。

だって、世の中には幸せそうな人もいるじゃないですか。なぜ私はあの人達のように人生を謳歌できない運命になってしまったのでしょう。

こんなはずじゃなかった......。

 

 

 

 

 

 

こんなはずじゃなかった......!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「物事は私に対して起こっているのでなく、私を通じて起きている。」

 

 

 

 

 

 

 

 

そのことに気づくと、視界が少し開けた気がしました。

 

 

 

 

4歳の私が犯され、早急に助けを求められなくするための条件は、私が誕生する遥か昔から揃っていたことを歴史が教えてくれました。児童虐待への無関心、男尊女卑の伝統、犯罪の温床が大切に育まれてきたことを。

 

もはや、私に直接害を加えてきた父と母だけで負える規模の罪業ではなく、先祖が代々人間社会で受け継いできた負の遺産。その先祖の血を受け継ぐ私にそのツケがあの時に回ってきただけの話であり、いつ起きてもおかしくない状況だったのでしょう。

 

そして縁起でもありませんが、私に起きたことは、いつ誰に起きてもおかしくありません。子ども達に私みたいな経験をしてほしくない・そのリスクさえ取らせたくないから、私は子供を生まないと決めています。

 

でも、悲観的になってるだけでは埒が明かない。

気づかないほどゆっくりだが、変化は起きているのもまた然り。

親に尊重されて育った元気な子供・若者・逆行を乗り越えて大人になった人を見ると、世の中捨てたものじゃないなと思うこともある。こういう人たちが増えれば人間社会も変わるだろうと、希望さえ芽生えてくることもある。

子供を産むことに反対しているわけではなく、訳ありの私には「無理です」とやらない選択を明確にしているだけです。

 

私は子育てにかけなくていい時間を、よそ様の子どもへの性的虐待をはじめとする暴力が減り続ける未来を想像・創造することに費やします。誰の子であれ、私のような経験はしてほしくない。

 

大量虐殺ができたのに、原爆が作れたのに、月に行けたのに。

なのに呼吸法、「NO」が言える性教育、護身術、共感力を育む非暴力コミュニケーション、安楽死の選択ができない訳がない。

 

単純にやってこなかっただけなんだから。

やろうと思えばできるってこと。

自分の意識を変えるために「私ならできる」と唱えることなら今からでもできる。

心がこもっていなくても「できる」とだけ言ってみてる。

大丈夫。

それくらいならできる。

「できる」と言えたところで、今すぐできることは限られるが、

言い続けることで自分を騙し続けられば、

「できない」と思い込んでいた時よりは、できるようになる。

そう信じて「できる」と死ぬまで言い続ける。

それが今の私なりの答え。

 

まとめ

両親の間

(本来は最も安心できるはずの場所)で、

寝ている最中

(本来は心身共に最も安らぐはずの状態)、

父親

(本来は最も信頼できるはずの存在)から、

性器を勝手に触られる猥褻

(自分の最も大事な場所の侵害)を受け、

逃げましたが、

(自己防衛本能が作動)

翌朝、母親

(本来は最も信頼できるはずの存在)から

「お父さんからメゴメゴしてもらったんだって、よかったねぇ」

と抱き寄せられ、

(自分の感覚や感情や認識を否定)

本心

(不快感、恐怖、混乱)を

完全に無視された記憶を、

自ら否定することから始まった私の人生が、

4歳以降いかに狂ってしまい、

性加害者にまでなってしまったことが、

家族以外の人との交流、

両親の束縛から逃げたことや、

精神治療の過程などで、

少しづつ明らかになったという実話です。

 

幼児期から成人した後まで、

虐待を「愛情表現」と主張する両親から受け続けながら、

被害を現実として認めることができず、

逃げることも他人に助けを求めることも大幅に遅れ、

精神疾患(C-PTSD複雑性PTSD)を35年以上患っています。

 

現在進行形で、あらゆる症状に苦しまされてわかったことを3点に要約すると:

 

①家庭内で子どもへの性犯罪が、加害者の「無自覚」のうちに起きている。

 

②性被害を否定することは、自己防衛本能が正常に作用しているからだが、否定し続けても苦しみは増す一方である。

 

③被害を認めて精神治療を初めないと、自分も「無自覚」のうちに加害者になってしまう可能性が極めて高い。

 

これらは実体験に基づく気づきですが、決して珍しくない人類共通の社会問題であることが調べるほどに明らかです。

 

性被害を認めるまで

 

幼児の時から父親にされてきたことを「性虐待」として認識できたのは、私が30代半ばに受けたセラピーで、父親への怒りを封印していることが明らかになってからのことでした。

 

23歳の頃、性被害について話してくれた男性につられて、自分の記憶について初めて話しましたが、まだ自分の記憶を否定している部分がありました。

 

10代の時、門限を破る私に母が何時間も説教し、私の顔を引っ叩く度に、父親からの猥褻に関するフラッシュバックの頻度が増しましたが、事実だとすれば墓場まで持っていくと決心しました。

 

保育園児の私が初めて嘘をついた日、母親から頬を打たれ、お仕置きにされたクローゼットの中で、猥褻な雑誌の山が目に入り「お父さんがついた『嘘』はなんで『よかった』の?」と冷静になって涙が引いたのを覚えています。

 

このように、性被害を受けた証拠が増える度に、あらゆる方法で無意識的に事実を否定してきました。

 

・記憶を否定(悪夢であり現実でない)

・心的操作(負の感情を感じないよう過食する)

・考える隙を作らない(仕事に没頭)

・矮小化する(大したことではない・体に傷を負った訳ではない)

・他人と比較する(もっと辛い人がいると自分に言い聞かせる)

・麻痺する(私は気にならない人間と思い込む)

・加害者の弁護(両親は私に愛情を持って育ててきたと言っている)

 

自分の性被害を事実と認識できず否定しているうちに、様々な症状が現れましたが、当時はそれが症状だということもわかっていませんでした。

 

21歳で両親の元を離れ、ようやく自由になれたと思った矢先、交際を始めた彼氏にDVをしてしまう自分の言動が、過干渉で暴力的な母親そっくりなことに衝撃を受け、反省しているのに辞められず、自分の中に「治すものがある」と初めて自覚しました。

 

「副作用はない」と断言し、月経前不快気分障害PMDD)と誤診した男性医師から処方された低容量ピルYAZを服用していましたが、副作用で死にかけました。

 

その後は瞑想や漢方、精神作用のある植菌類などを用いた古今東西に伝承される民間療法を試しました。

 

潜在意識へ作用に手応えを感じたものの、それ以上に、自分のトラウマの根深さに打ちのめされ、治療は地道に続ける必要性を学びました。

 

彼氏へのDVを辞めるためには、母親への怒りを解消する必要があると思って受けたゲシュタルト療法では、父親への怒りを押し殺していたことが判明。

 

その後も、良かれと思った言動で、大切な人間関係を滅茶苦茶に壊してしまうことに落胆しながら、解決法を模索。

 

自分の存在に向けてきた呪いと憎しみを、両親に向けるという発想に救われました。

 

それでも状況が改善しなかったため、人生を根本からやり直そうと、最も恐れていたことを実行しました。

 

それは、両親の罪を問いただすこと。

 

『毒になる親』の著者スーザン・フォワードの勧めでした。

 

誰しもが憧れる南国に出向き、その清々しい空気とは対照的な重苦しい心の荷物を抱え、足をひきづりながら、恐怖でしかない実家へ届けに行きました。

 

個別に向き合い、まずは母親に告白しました。幼児から成人した後も続いた父親からの性被害について。

 

次に、父親に罪を問いただしましたが、責任逃れをしようとしたため、絶交。

 

両親から授かったゴミの山を下ろし、心の負担が若干軽くなったのも束の間。 

 

一番辛いことに向き合わざるを得ない心境になっていました。

 

それは、自分が年下のきょうだいに性的な侵害や、精神的な加害をしていた事実。

 

父親からの猥褻や、母親からの体罰が「愛情表現」と教わり、釈然としたことはなかったのですが、それを受け入れようと、その神経を理解しようと、年下のきょうだいたちに、自分がされてきたようなことをしていたのです。4歳から10代後半まで。

 

何が原因であれ、やったことは変えられません。

 

私はただの性被害者ではなく、私が最も嫌いな、みんなも大っ嫌いな性加害者になっていました。

 

私はその事実を一生、背負っていかなくてはなりません。

 

自分が忘れてしまいたいほど嫌だったことを、大好きなきょうだいにしていたという事実は、自分が性被害を受けていたこと以上に辛いことです。

 

きょうだいに謝罪し、許しを得ましたが、私自身が自分を許せません。

 

世界からいなくなってほしいと願う性加害者に自分がなっていた以上、早く死にたいと思っていますが、皮肉にも、きょうだいや彼氏がそれを望まないというため、すぐには実行に移せずにいます。

 

スイスで安楽死することは諦めていませんが、それができる日まで、自分の人生を見せしめにし、子どもの心身の健康が尊重される理想の社会に貢献すると決めました。

 

【私の宿命】

①自分が体験した性被害と性加害を洗い出す。

②精神治療を一生続けて、学びを発表する。

 

【具体的な事例/問題/対策】

父親は、幼児の娘に性犯罪を犯した自覚がなく、その後も猥褻行為を続けた

(娘に愛情があれば、一方的に性器を触っていいという正当化ができる思考回路)

→防犯の性教育/性犯罪者が正当に罰せられる裁判/性被害者が守られる法律の改正

 

・父親が正当化した性行為に混乱し、理解しようと、幼児の私は弟の性器に触れた

(性犯罪者の子が性犯罪者の予備軍になる危険性が高いのは、大人の言動を子どもは手本にするため)

→性犯罪者のマネをしないために、言葉が理解できる段階から自分の体を守る・他人の体を侵害してはならないという意識があり、言語化でき、実践できる大人が必要。

 

・猥褻が「面白い」「望ましい」とする情報にも影響され、きょうだいへの性加害は暴力的になった

子どものNOを尊重する包括的な性教育と法律が欠如している環境で、一方的な猥褻を肯定する漫画・アニメ・テレビ・猥褻媒体などの情報が溢れていると道徳観が狂い、犯罪が助長される

→防犯の性教育/法改正/猥褻メディアの規制:強制的な性行為を含むが、性犯罪を助長・加担する危険性を考慮する必要がある。

 

・母親も、私に体罰を加えた自覚がない

「昔は当たり前だった」という理由で、子どもを平気で叩き、自分の犯罪には無頓着

→ここまで認知が歪められてしまった心の傷を癒すために、感情を聞くことに長けたセラピストが必要。

 

・子どもは「大人に劣っている」という思考

子どもの感覚・感情・意見が無視・否定され続けると、自己を肯定できない人として成長し、生きるのが一向に苦しくなり、自ずと犯罪にもつながる。

→子どもに一人前の感情や人権があるということを知る。

 

・両親ともに、私を溺愛しながら虐待を続けた

虐待と愛情表現の違いが分からなくなって人間不信になり、他人にも愛情と称して虐待をしてしまう人間が出来上がる。

→親に愛情があったとしても、虐待行為は正当化されないことを理解する必要がある。

 

 

【私の理想な社会】

・全ての人間が包括的な性教育を通じて、自分の体の守り方と、他人の体の尊重の仕方を学ぶ。

・子どもや性被害者の人権が守られるように法律を改正する

・性被害者にアドバイスなどせず、感情に耳を傾けることができる人が増える

・性加害者の自主が相次ぐ社会現象が生まれるほど、牢屋でのセラピーが充実する。

精神障害者も死ぬ時くらいは苦しまなくていいように安楽死の選択肢がある。

 

アルバム:幸せの証

実家には、私専用の分厚くて重いアルバムがあるのですが、最初の方のページに、首が座ったばかりの赤ちゃんが満面の笑みで映っている写真があります。

 

「......これが、私?なにがそんなに嬉しいんだろう???」

 

と、物心ついた頃から全く実感が湧かず、むしろ不気味に感じたので、そういう意味では思い出深い一枚です。

 

ちなみに、このアルバムは5センチ以上の分厚さで、写真はほとんど父親が撮影したものなのですが、他のページを開く時も気持ちが悪くなっていました。

 

いずれにせよ、その写真は「幸せだった時期が私にもあった」という証拠ですし、このアルバム自体「愛されて育った」象徴のようなものなのです。

 

他にも家族での海外旅行とか、「自慢している」ときっと勘違いされるような経験もしていました。

 

でも「幸せな家庭像」は、なぜか自分一人の犠牲の上で成り立っているようにしか思えず、心は常に薄暗い靄がかかっているような重苦しい状態でした。

 

私に感謝の気持ちはなかったのか?

いえ、ありました。感謝していました。

でも、心の奥底は常に置いてきぼりだったのです。

 

側からみると幸せな家庭。

 

そのイメージが強くなればなるほど、心が荒んでいく感覚。

 

なんとなく、わかりますか。

 

...

弟の反応に驚く

幼児期の記憶で、弟に関して最も印象に残っている出来事があります。

 

2歳下の弟の性器を触った時に受けた反応に驚いた自分がいたという話です。

 

弟たちは幼児期、普段から下半身を露出して走り回っていたので、特別な光景ではなかったはず。

 

なのに、ある日の日中、私は何を思ったか、両親のベッドの上に座っていた弟の性器を人差し指でチョンと突っつきました。

 

すると、弟はケラケラと笑い、その反応に衝撃を受ける自分がいました。

 

(期待していた反応があったわけではないはずなのに)

 

そこで、今度は確認のためにもう一度、同じことを繰り返すと、同じ反応で、私の中でどうしても納得できないことが膨らんでいきました。

 

我が家では、包括的な性教育を受けた覚えはありませんが、男の子のおちんちんが女の子のおまたに匹敵する場所くらいの認識は自然にあったと思います。

 

その場所を、他人に勝手に触れられて笑える神経が、私には不思議でたまりませんでした。

 

父親から下半身を触られていた自分の反応と全く異なっていたからだと思います。

 

私の潜在意識では議論が始まっていたはずです。お母さんが言ったようにお父さんがしたことは「良かった」だったのだろうか。私たちの感覚がおかしかったのだろうか......。

 

小学生

私の母親は、女優やモデル並みの美貌を持つ人でしたが、そのことを一瞬で忘れさせるほど鬼のような表情をみせる人でした。

母親からの体罰

私が算数の勉強で、時計を読むのを間違えると、母親は「なんでわからないの!?」と怒鳴って、手のひらでパーン!と私の頬を打ちました。

 

痛いことよりもなによりも、なんでそこまで怒られなくてはならないのか全く理解できず、涙と同時に溢れる大量の鼻水を啜り、必死に呑み込み続けましたが、すぐに鼻が詰まり、みぞおちからくる痙攣が治らず、ヒックヒックと声が漏れてしまうのを抑えられない自を惨めに思いました。

 

母親はお構いなしに怒鳴り続けましたが、私は勉強どころではありませんでした。

 

時計の勉強は小学生1年の頃にするみたいなので、私は8歳でした。38歳になった今は流石に時計を読めるようになりましたが「時計ー読めない=体罰」という計算式の理解には苦しみます。

 

九九の時も同じように、怒鳴られ、叩かれました。恐怖のあまり、肝心な?勉強に集中できませんでした。

 

時計と九九を除けば、成績は総合的に優秀な方でした。算数だけは苦手意識が根付きましたが、皮肉なことに、中高での数学の授業は全科目で唯一上級クラスに入っていました。

 

...

大人のように働く10歳児

小学生低学年の頃、私のコンプレックスは「子どもであること」でした。子どもだから、話を聞いてもらえないんだと解釈していたからです。

 

ある日、母親が他の大人と世間話をしていました。話題が恋愛の話になった時、私は片思いしていた同級生の話を聞いてもらいたくて、声を発した瞬間「大人の話ッ!」と鬼面の母がピシャリと言い放ち、私は凍りつきました。

 

私も早く大人の会話に参加したい。「どうすれば早く大人になれるだろうか」と考え、行き着いた答えが「働く」でした。

 

そして10歳の誕生日、寝室にいた父親の足元に跪き土下座をして「仕事を手伝わせてください!」と頼み込みました。そして現地校も補修校もない日曜日は毎週、朝から晩まで父が経営していた食料品店で仕事を始めることができました。

 

土下座は時代劇かなにかで覚えました。頭を下げる途中、脳内が一瞬ざわついたのを覚えています。でも、子どもという圧倒的な不利な立場を補い、断られる余地を少しでも減らすためには、全身全霊で大人の真似をせねばならないと思い、額を床につけました。

 

しかし仕事を始めようが何をしようが、母親の地雷がどこに落ちているかは依然として予想不可能でした。ある時から私は「お母さんから嫌われているんだ」と納得することで、平常心を保つ訓練を始めました。

 

...

父親が胸を覗いていた

そんな母親が、私にではなく、父親に怒ったことがありました。

 

ある夏の日、ダイニングルームで「もう、いやらしい!娘の胸を除くなんて!」と突然、母親が父親に怒鳴りました。

 

突然の大声にびっくりした私が父の方に目をやると、彼は罰が悪そうに首をすくめました。

 

その時、私はノースリーブを着ていました。発育する前でそれまで自分の胸を意識したことはありませんでしたが、その時、とても不快感を覚えています。

 

同時に、驚きました。

母親が「そーゆーことを嫌う人なんだ」と知り、意外だったのです。

 

...

「性行為=面白い」洗脳

志◯けんの番組を家族5人揃って両親の寝室にあったテレビで鑑賞したことが何度かありました。

 

胸を剥き出した大勢の女性達を触ったりして笑いを取る『バ◯殿』、女性の部屋に勝手に侵入して女性に恐怖心を覚えさせて笑いを取る『変◯おじさん』。

 

ある時、父親が「志◯けんもくだらないな」と苦笑していたのを聞いて、え?と一瞬、耳を疑いました。我が子にそのような番組を見せているあなたはどうなんですか?と。

 

いずれにせよ、私には「わいせつ行為=面白い」という認識が着実に植え付けられていきました。

 

その後、当時から保護者の間で問題視されていた「ク○ヨンしんちゃん」のマネをして、無抵抗の弟達の性器にマーカーで落書きをしました。私はそれを「面白い」と思ってやりました。

 

2回目に同じことをしようとした際、弟達は嫌がって逃げました。その時の私の心境は「つまんないな、前はやらせてくれたのに」と裏切られたような気持ちにさえなりました。

 

かつて父親から性器を触られ恐怖や混乱を覚えた私も、数年後には認知の歪みがここまで進行していたのです。

 

「ク○ヨンしんちゃん」にしても「バ○殿」にしても「変○おじさん」にしても「評判は悪いけど、ふざけてるだけで悪気は無さそうだから憎めないキャラクター」であり、歴とした「犯罪行為をしている」という認識は子どもの頃はありませんでした。それは、自他との境界線を尊重する根本的な性教育を全く受けていない代わりに、わいせつ行為の情報が日常に溢れ返っていたからでした。

 

それに「性的なこと=面白い」と解釈できれば、不快な思いをさせられた父親に対する負の感情を最小限に抑え、自分がされたことを「大したことではなかった」と過小評価できたのでした。

 

そうやって、私の問題行動はどんどんエスカレートしていきました。

 

小学校高学年、漫画で「カ○チョウ」や「電○あんま」の模写を見つけると、弟達に一回づつ行いました。やってみて面白いという感覚はありませんでした。でも「姉」として弟達よりも上に立っていたいという根深い欲求は多少満たされたのだと思います。

 

弟達の上に立ちたいという感覚が芽生えるきっかけの出来事がありました。幼年期の頃、私が弟とじゃれ合っているうちに、調子に乗って乱暴がエスカレートした際「やめなさい!お姉ちゃんでしょ!」と年上の友達に叱られました。

 

このことがショックで、弟達から物理的・精神的な距離を置くようになり、家の中でも孤立していきました。そして「お姉ちゃん」はなにかと我慢しなくてはならないことが多いなら、少なくとも弟を従わせないと益々不利だと思いました。それまでは名前で呼ばれていましたが「これからは『お姉ちゃん』と呼びなさい」と命令したのを覚えています。

 

弟達は双子のように仲が良く、放課後は近所の同級生と毎日のように遊んでいました。私は土曜日に通っていた日本語学校には親友が一人いましたが、平日の現地校には一緒に遊ぶほど仲の良い友達がおらず、孤独で退屈でした。

 

そんな弟達の間に割り込もうと、一人を味方につけ、もう一人を仲間外れにして、長期間いじめたこともあります。

 

その後、仲良しの二人を「ゲイだ」と何度も冷やかしました。また鍋の時、私の好物の一つであった白子の味を占めさせないように「食べたらゲイになるよ」と脅したりしました。

 

言葉の暴力による精神的ないじめは、中高生もしくは短大生の頃までも続いたように思います。

 

ある日「もうやめて!」と末っ子の弟が初めて怒りを顕にしたことで、私は我に返りました。弟達がそれまで強い不快感を無言で耐えていたことに気付き、言動を改めました。

中学生

他人の不幸は蜜の味

小学校卒業後は、地元の中高一貫校に進学しました。小学校の時よりも広範囲の地域から生徒が通うため、世界が広がりました。

 

中学校2年になると親友ができました。コロンビア人のSは、卑猥な発言で笑いを取ろうとするひょうきんな子でしたが、義父との仲が悪く、頻繁に家出をし、交際男性を取っ替え引っ替えしていました。

 

Sは校外での交流関係も広く、彼女の知り合いの多くは、いわゆる「非行少年・少女」と日本では呼ばれる要因を持っていました。

 

法律も文化も違うアメリカの基準からみると「非行」はちょっと言い過ぎな場合もなきにしもあらず。

 

ただ聞く限り、家庭内に問題を抱えている人が大概で、私とも波長が合うようでした。

 

Sが中退した後も、放課後は彼女の実家に遊びに行き、そこで出会った色んな人の話を聞き、視野が広がりました。

 

親の離婚率の高さ、家庭内での性犯罪をはじめとする暴力の激しさ、ありとあらゆる物質(アルコールやタバコも含む)の乱用者の多さ、貧困の酷さなどの内容には、目を見張るものがありました。

 

まるで映画で観るような彼らの波瀾万丈な人生を聞いていると「私の人生はなんて平凡なんだろう」「私の話なんか取るに足らない」などと思えました。

 

私の両親は離婚の危機はなさそうだし、拳で殴られたりアザまではできたりしてないし、父親はタバコ中毒くらいだし、母のご飯を毎日三食美味しくいただいているし。

 

そうやって、私は自分の家庭の闇には一切触れないための言い訳を蒐集することで、現実逃避できました。まさに他人の不幸は蜜の味。私は貪るように吸収しました。

 

ある日、Sから告白されました。幼い時に、親戚の男性(おじ)から「モレスト(痴漢行為)」をされたことを。

 

この時も、私は聴き手に徹し、自分の話は口にしませんでした。「アレはただの悪夢」と処理されていたので話すことがありませんでした。

 

それに仮に現実だった場合、「実父」というより血縁が近い「直系血族」が同等な性行為を犯した場合は深刻さが一層増す気がして、そのようなことが脳裏を掠めただけでも思考停止になったといった方が的確かもしれません。

 

また、友人が強姦されたという話をSから聞いた際は、「私は強姦まではされていない」と、自分の記憶が万が一現実だった場合に使える過小評価の切り札を蓄えました。

 

周囲から性被害の話を聞く度に「アノ記憶」が蘇りましたが、私はこのように様々なアングルから言い訳を編み出し、それらを巧みに駆使して認めようとはしませんでした。

 

何があっても「墓場まで持っていく」と心に決めていたからです。

 

...

無自覚な過食症

私は陽が落ちた後も友達と時間を共にしたくて、自宅には帰りたくありませんでした。でも、我が家には「夕飯は毎日、家族5人揃って手を合わせ、一斉に元気よく『いただきます!』と言ってから食べる」という父親が設けたルールがあり、物心つく頃から守られてきました。

 

そのためだけではないかもしれませんが、母親は陽が暮れる前には必ず、迎えにきました。私にとってはこの時間が来るのが憂鬱でした。母の車が見え、友達を後にしなくてはならない時は毎回、屈辱的な思いでした。

 

夕食は、父親が仕事から帰ってきた後、19時頃に食べ始めた気がします。母の手料理は和洋折衷どれも美味しく、父親もお造りや鍋物などの時、腕を振るってくれました。

 

うちの家系は代々、飲食業だったという影響も大きく、食べることに対して貪欲な一家でした。

 

私の曽祖父は富山県で料亭を営んでいたと祖母からよく聞いていましたし、伯父は板前でした。父はレストランのマネージャーなどの経験を経て日本食料品店を自営し、一般庶民から富裕層まで幅広いお客さんのために特注の料理を提供したりしていました。

 

なので中流階級で育ちながら、食生活においてはその限りではないと感じる場面が多く、「私は恵まれた家庭で育ったのだから文句は言えない」と思わざるを得ないところがありました。

 

制限が多すぎる家庭だと感じていましたが、食欲に関しては唯一無制限でした。私が美味しく沢山食べると、食べさせ甲斐のある子だと言って、大人達は喜んでくれました。赤ちゃんの時から、大人が奮発して嗜むような高級食材を惜しみなく与えられ甘やかされていたそうです。小学生の時、たまの外食に「お子様ランチ」などを勧められたことは一度もなく、大人と同じコース料理を当然のように食べさせてもらったことを、子供ながら誇りに思っていました。父親は私を「飲兵衛に育てるのが夢だ」とよく言っていて、お酒の醍醐味も小学生の頃から少しづつ覚えていきました。

 

私は長子であった上、父親が結婚前から望んで止まない待望の女の子でした。子どもに興味がなかったという母も私が生まれた時は、「自分の子は可愛い」と思えたそうで、機嫌の良い時は父と口を揃えて「やっぱり女の子は可愛いねぇ」などとよく言っていました。私は弟達に比べた時に、両親から特別な愛情を受けているという感覚がありました。それが苦しいのは、両親の愛情が強すぎるほどに大きいからなんだと、恩知らずな自分のせいにしました。

 

私は毎晩、底なし沼のように食べました。何度もご飯をお代わりし、米粒一つ、汁の一滴も残さず平らげました。

 

小学生の頃からハゲワシに狙われている餓死寸前の子どもの写真を見せられ、「世の中には食べられなくて死ぬ子どもが大勢いる」と教え込まれました。その子達に比べたら、自分は相当恵まれているのだから、何時も文句を言ってはいけないと思っていました。

 

そして毎晩、食べ過ぎてお腹を壊しました。正露丸を飲みながら下痢をするということを繰り返しながら「私はなんで毎晩、苦しくなるまで食べてしまうのだろう?」と自問してから「それは、お母さんのご飯が美味しすぎるからだ」と自答し「それならしょうがない」という結論に至っていました。

 

小学生の頃から高校生くらいまでは毎晩、家族全員揃って夕飯を食べていたので、長年続いていましたが、当時は「摂食障害=痩せるために吐く人」というイメージがありました。なので、痩せの大食いで、吐くことが嫌いな自分は該当しないと思っていました。

 

過食症であった可能性に気づいたのは30代後半になってからです。自覚し始めた「躁的防衛」という症状に関連するため、発覚しましたが、そのことはまた後述します。

 

...

無限のセランドレイプ

中3から高3にかけて人生で最も辛い時期だったので、今はまだ書ける気がしません。

 

当時の精神状態

死体の写真を集めたウェウサイトや雑誌を見るのが趣味でした。気弱な人には直視できないような酷く悲惨な写真を無限に見てもたじろぐことない自分は鋼の精神を持っていると思えました。

 

音楽で響いたのはヘヴィメタルでした。マリリンマンソンやスリップノットなどの歌詞を熱唱していました。不条理に対する怒りは音楽を通じて発散することができたようです。

 

書けないことが多数

中学生以降、私の人生を語る上では外せないことが色々と起きましたが、日本の法律が変わらないと書けないことが沢山あるので、残念ながらここでは割愛します。

高校生

「墓場まで持っていく」決心

 

短大

責任をとるために男性と交際

短大で知り合ったその男性は私のタイプでは全くなかったのですが、共通の趣味があり、男友達として尊敬していました。しかし男性から感じる切実な好意を私は拒否することができず、自分から性行為を率先し、その後、自分の行動に責任を取るように交際を申し込みました。

 

なぜ、こんなアベコベなことをしたかというと、背景には父親の口癖がありました。父親はよく「男女の友情関係はあり得ない」という趣旨のことや「女は受け身だ」と言っていました。そのため、男性の好意を拒否したら、友情関係も消滅するという恐怖心が私に植えついていました。また反抗心から、とにかく「受け身にはならない」と決めていました。受け身の反対は「積極的」「自発的」。男友達との友情を保てないなら、せめて自分から積極的に性行為をしようと思ったのです。しかし、あわよくば巷で噂のセックスの快感とやらを覚えられると言う期待さえも裏切られ、呆気なく終わった行為に虚無感しか覚えられず、自分が汚れたような感覚にも襲われました。

 

恋人としては好きでもない男友達との友情を失うことへの恐れから、本当はしたくもない性行為を積極的に行い、虚しさしか残らないのに交際を申し込んだという、メチャクチャなことを震えながらやり遂げました。彼との性行為はその時が最初で最後でした。子供が欲しいわけでもなかったのですが、性行為をしない言い訳として「子供を産むまでしたくない」と伝えました。その際、男性から「尊敬できる」と言われ、私は頭がおかしくなりそうでした。え?じゃあ、あの時、性行為をしなくてもよかったってこと?私はこの頃、まだ自分のことを他人に話せるような精神状態ではありませんでしたので、男性に確認したりはしませんでした。

 

しかし男性と別れた一年後、今の彼氏に出会った時も「男はセックスさえできればいい獣だ」という父親によって長年培われた根強い固定概念は拭いきれていませんでした。

 

仕事一筋

 

遠い国へに行きたい夢「世界一幸せだ国ブータン」「世界一周の船上クルーズ」

人生を変えた一冊

『ザ・レイプ・オブ・南京第二次世界大戦の忘れられたホロコースト〜』(アイリス・チャン著)の洋書を読んでいなかったら、私は日本に移住していませんでした。

 

この本は、日本帝国軍がアジア諸国を侵略した歴史と、その歴史的事実を隠蔽しようとしてきた戦後日本の姿勢などが英語で初めて書かれた画期的なノンフィクション本です。

 

私は短大生だった21歳の時にこの本を読んで衝撃を受け、「日本人」としてのアイデンティティが音を立てて倒壊したのを覚えています。

 

それまでの私は「あの子は日本人だから関わりたくない」とアジア人の生徒から陰口を言われた経験が中学生の時に一度あったくらいで、日本がアジア諸国を侵略したということはうっすら聞いたことがある程度でした。

 

私は日系アメリカ人の二世ですが、日本で生まれ育った両親によって「日本人」として育てられ、アメリカにある日本語補習校にも幼稚園から中学校まで通っていました。でも広島・長崎で原爆の被害を受けたことについては教えられても、日本が加害者だった歴史については一言も教わりませんでした。アメリカの現地校では、ナチスドイツによるホロコーストの歴史は徹底的に学ばされますが、日本人が犯した大虐殺については学びませんでした。

 

私は、家庭や日本人コミュニティでは「意見をはっきり言うから日本人らしくない」と批判され、アメリカでは「アジア人」として見下されたり「日本人だからちょっと他のアジア人より上」に見られたり、アジア人の一部からは「日本人」だからと言って毛嫌いされたりしてきました。両親からは中国人を馬鹿にするような言葉を何度も聞いたことがあり、私は仲の良い中国人の友達がいたものの、どこか差別意識を持つようになっていました。正直、どのコミュニティーにいても至らない存在で孤独でしたが、「日本人は他のアジア人より上」という位置づけは、両親から植え付けられた「日本人」としてのプライドと調和したので、私が自尊心を保つための手段の一つでした。

 

でもこの本を読んだ途端、それさえもが粉々に崩れ落ちました。「日本人」という看板を背負うということは、ドイツ人がナチスを連想させる以上に、残虐な侵略者というイメージがついて回るということ。しかも、ドイツ人は歴史を反省しているけれど、日本人はそれをなかったことにしようとしている。この差にも気づかずに「経済発展」を掲げてのうのうと生きる様は「裸の王様」そのもの。「恥知らず」とはこのことだと思いました。

 

私みたいな人間は一部の人からは「非国民」とか「愛国心が足りない」などという批判を浴びる対象だということは知っています。が、私は日本の良いところもたくさん知っていますし、本当は日本のことを純粋に好きでいたい。でも、それまでの自分も含め日本人の多くが過去の過ちを顧みない姿勢は醜くで愚か過ぎる。日本の全てを否定しているのありませんが、日本の良いところまで台無しにしてしまうほど致命的な欠点だと思うのです。

 

本当に日本のことが好きだったら、どんなに酷い過去でもその歴史も知ろうと思うのが自然だと私は思うのですが、なぜ日本人の多くは南京大虐殺731部隊のことに無関心だったり否定しようとするのでしょうか。ここのところがとても不思議でなりません。

 

私は日本の隠蔽された歴史を学ぶためにアメリカから日本に拠点を変え、東京にある大学に入って学び始めました。

 

そして、日本の闇を研究するための東京の大学への進学が、窮屈で窒息しそうな実家を出る片道切符になりました。

 

大学

祖母の男尊女卑と、父親の男尊女卑

政治専攻:教育基本法憲法第9条を守る会

FCCJ

中国語

2007 GABA

初めて性被害について声が出た

当時の交際男性にもカミングアウト

2008 アメリカ訪問、交際男性と別れて身が軽くなる

断髪

PB振込

大学のカウンセラー「季節性感情障害(SAD)かも?」

2009年 現在の彼氏と出会う

彼へのDVがやめられない、母の呪縛

休学、沖縄

退学届を父親が阻止

「最後の親孝行」なけなしの貯金をはたいて大学卒業

2010年 世界一周クルーズ船の通訳:自分が好きなことを思い出した

ヴィパッサナ瞑想のことを知る

 

311後

英字雑誌の編集部

アングラの世界

『セックス放浪記』/SM系ハプニングバー勤務/エログロナンセンス(幼少期から気になっていた『ガロ』系漫画蒐集)/フリークスに共感

香港の大手メディア会社からオファー

台湾支部で激務

パニックでカウセリング

低容量ピルで臨死

人生リセット

イライラの処方を漢方で

ヴィパッサナー瞑想

リストラ

代替医療での精神治療

治療中に猥褻に遭う

恐怖で日本に戻る

フリーランス一本

日本のヒッピー

NOが言えない

オーストラリアでモヤモヤ

土用、陰陽五行説

アーユルヴェーダ

 

NOが言えず、スリランカでモヤモヤ・散財

オレゴン日食/自称「強姦魔の息子」男から猥褻/夢実現

 

ラブワゴン(NOが言えず)で散財・人間関係倒壊

ゲシュタルトセラピーWS

父親に初めて怒りをぶつけるぎこちなさ

A精神クリニックで「解離性障害」と診断

インナーチャイルド(IC)と対話

ICの顔と表情が描けるようにな、吹き出しで会話

「幸せになってもいい?」にICは無言、会話終了

B精神クリニックで「複雑性心的外傷後ストレス障害」と診断

月経前増悪(PME)とC-PTSDを自覚 

セルフセラピー再開

アダルチルドレンの自助グループ

性被害者の自助グループから言われたこと

近親姦自助グループ

効果/主催者からの差別発言に疑問

著名なフェミニストの主張に疑問

NSJ再び

 

NSJ人間関係崩壊

ハワイでフリーズ 

両親に罪を問いただす

トラウマだった生まれ故郷へ

弟に謝罪

鬱からの躁

違和感大有りのDV男に浮気・二股

NM/躁的防衛、炸裂

 

DV男確定

コロナで疎開/彼氏と関係が悪化

彼氏の人相が変わっていた

NM/〇〇アレルギー悪化

1月1日から3月31日まで毎日泣いた
過去の浮気を全て話した

 

現在

彼氏へのケジメ

C精神クリニック診断「うつ病

人生で初めて仕事への意欲を完全に失う

経済的な不安で身動き取れず

アメリカ最大級のスラム街住民らに共感

障害年金

安楽死の準備

 

番外編

結婚

結論:経済的な必要に応じて、老後にするかも。

出産

結論:私は子供を生まない・育てない。

 

恥の多い人生を送って来ました。しかしそんな私も、4歳で父親から性被害を受ける前までは純粋無垢な幼児でした。

 

まだ何の罪も犯していない魂が、この世に生み落とした肉親の手によって穢される。その記憶に苛まれながら恩に着せられ、肉体が滅びるまで、自他を傷つけながら生き地獄を彷徨う。

 

これほど残虐な世の中で生き続ける意味などあるのか。この不条理をどうしても受け入れられず、もがいていました。

 

だって、世の中には幸せそうな人もいるじゃないですか。なぜ私はあの人達のように人生を謳歌できない運命になってしまったのでしょう。

 

こんなはずじゃなかった......。

 

 

 

 

 

 

こんなはずじゃなかった......!

 

 

 

 

 

 

 

 

物事は私に対して起こっているのでなく、私を通じて起きている。

 

 

 

 

 

 

 

 

その言葉を聞いて、視界が少し開けた気がしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4歳の私が父親から犯され、隣にいた母親に助けを求められなくするための条件は、私が誕生する遥か昔から揃っていたことを歴史が教えてくれました。「児童虐待への無関心」「男尊女卑の伝統」「近親姦の合法性」などなど……。犯罪の温床が大事に育まれてきたことを。

 

もはや、私に直接害を加えてきた父と母だけで負える規模の罪業ではなく、先祖が代々人間社会で継承してきた負の遺産。その先祖の血を受け継いだ私に、そのツケが4歳の時に回ってきただけの話であり、いつ起きてもおかしくない状況だったのです。

 

ということは、縁起でもありませんが、私に起きた災難は、いつ誰に起きてもおかしくないということです。

 

私も20歳くらいまでは漠然と「25歳くらいになったらお母さんみたいに母親になるのかなー?」と思っていました。でもある時「世の中が変わらないまま出産・子育ては危険すぎる」と思い、選択肢を蹴りました。子どもに私みたいな経験をしてほしくない・そのリスクを取るのことさえ恐ろしいと思ったからです。

 

その後もわたしの想いは強まっていて、何の迷いもありません。

 

一方で、親や保護者から尊重されて育って心が健やかな子供や、逆行を乗り越えた若者や大人を見ると、世の中捨てたものじゃないなと思います。

 

こういう人たちが増えれば人間社会も変わるだろうと、希望さえ芽生えます。

 

なので、子供を産む・育てること自体に反対なのではありません。機能不全家族出身で、自他への正常な愛し方を知らない私には「無理です」とやらない選択を明確にしているという訳です。

 

その代わり、私は出産・子育てにかけなくていい時間を、よそ様の子どもへの性的虐待をはじめとする暴力が減り続ける未来を想像・創造することに費やします。誰の子であれ、私のような経験をしてほしくない想いは変わりません。

 

「出産・子育て」に対して楽観的になり過ぎるのは考えものですが、私のように悲観的になる必要があるとも思っていません。「子供の権利」「あらゆるジェンダーの権利」など今まで足りな過ぎた意識の変化は、気づかないほどゆっくりですが、起きていることもまた事実です。

 

それでも私は子孫を残すことより、統を絶ち負の連鎖を断つことを優先した方が、自分のためはもちろん、世のため・地球のためになると確信しています。

 

これは歪んだ愛情で育った私が辿り着いた母性本能のカタチなのだと解釈しています。

 

あとがき

 

大虐殺ができたのに、原爆が作れたのに、月に行けたのに。

 

なのに「NO」が言える性教育、共感力を育む非暴力コミュニケーション、安楽死の選択ができない訳がない。

 

単純にやってこなかった人の方が多かっただけなんだから、やればできる。

 

自分の意識を変えるために「私ならできる」と唱えることなら今からでもできる。

 

心がこもっていなくても「できる」とだけ言ってみる。

 

大丈夫、それくらいならできる。

 

「できる」と言ったところで、今すぐ何かが変わることはないかもしれないが、「できる」と言い続けることで自分を騙し続けてみて、「できない」と思い込んでいた時よりは、できるようになった(こともある)。

 

そう信じて「できる」と言い続ける。

 

この生き地獄で見つけた唯一の希望「安楽死」を遂げるまでは。

 

年表

【1983(0)】 長女としてアメリカで誕生

1984(1)】

【1985(2)】 弟の誕生

【1986(3)】 弟の誕生

【1987(4)】 父親から強制わいせつを受けた/弟にわいせつを加えた

【1988(5)】 Pre-K(現地の幼稚園)

【1989(6)】 日本語補習校幼稚園/Kindergarten 1   

【1990(7)】 日本語補習校幼稚園/Kindergarten 2

【1991(8)】 小学1/1st grade  

【1992(9)】 小学2/2nd grade 

【1993(10)】 小学3/3rd grade/父の店で働き始める

【1994(11)】 小学4/4th grade  

【1995(12)】 小学5/5th grade 

【1996(13)】 小学6/6th grade 

【1997(14)】 中学1/7th grade

【1998(15)】 通信教育/8th grade/セカンドレイプ

【1999(16)】 中学3(卒業)/9th grade/セカンドレイプ

【2000(17)】 10th grade/セカンドレイプ

【2001(18)】 11th grade/セカンドレイプ

【2002(19)】 12th grade/地元の短期大学(勤労学生)/セカンドレイプ

【2003(20)】 地元の短大/セカンドレイプ

【2004(21)】 短大/「けじめをとるため」に男性と交際/セカンドレイプ

【2005(22)】 短大/人生を変えた一冊『ザ・レイプ・オブ・南京』/東京の大学

【2006(23)】 大学/通訳・翻訳フリーランスのキャリア開始

【2007(24)】 大学/英会話教師開始

【2008(25)】 大学/アメリカ訪問・当時の交際男性と別れた/大学のカウンセリング

【2009(26)】 大学/今の彼氏と出会う/彼へのDVを辞められない/休学

【2010(27)】 退学届の件/大学(「最後の親孝行」卒業で散財)/世界一周船上通訳ボランティア

【2011(28)】 英字雑誌の編集部ハプニングバー夜勤/PMDDと勘違い・誤診

【2012(29)】 会社員in台湾で激務/不安障害につきカウンセリング

【2013(30)】 台湾/低用量ピルで臨死/人生リセット/漢方/生活習慣改善

【2014(31)】 台湾/初ヴィパッサナー瞑想

【2015(32)】 台湾リストラ/代替医療の精神治療/日本

【2016(33)】 オーストラリア(NOが言えない)/陰陽五行説アーユルヴェーダ

【2017(34)】 スリランカ(NOが言えない・散財)/オレゴン(夢実現)

【2018(35)】 ラブワゴン散財&人間関係崩壊/ゲシュタルトセラピーWS「父親への怒り」/Aクリニック初診「解離性障害ゲシュタルトでICと対話/Bクリニック診断「複雑性PTSD」/月経前増悪(PME)自覚/セルフセラピー/近親姦自助グループ/NSJ

【2019(36)】 NSJ人間関係ぶち壊し/鬱から躁/DV男と浮気/コロラド

【2020(37)】 DV男とコロナ疎開/オンライン心理カウンセリング/コロラド 

【2021(38)】 「強迫性性行動障害(セックス依存症)」自覚/Cクリニック診断「うつ病」/不眠症/引越し

【2022(39)】 仕事への意欲壊滅/Incest: A Family Tragedy/Soft White Underbelly/罪滅ぼし/障害年金生活保護安楽死の準備中