「やめて」・にげて・はなして。身内から子どもへの性犯罪:被害者から加害者になった私・犯免狂子が精神治療から学んだこと

4歳から父の猥褻・母の体罰が「愛情表現」と教わり、混乱の吐口としてきょうだいに性的・精神的な加害をしていことを治療中に自覚。3つの気づき:①家庭内で子どもへの性犯罪が、加害者の「無自覚」のうちに起きている。②性被害を否定することは、自己防衛本能が正常に作用しているからだが、否定し続けても苦しみは増す一方である。③被害を認めて精神治療を初めないと、被害者も「無自覚」のうちに自他を傷つけ加害者になってしまう可能性が高い。精神疾患「複雑性心的外傷後ストレス障害(C-PTSD)」歴35年以上。

24 #小児性偏執 ペドファイル PEDOPHILE

子どもを性的対象にする大人「ペドファイル(pedophile)」について、私が昔から違和感を抱いていたことを森田ゆり氏が著書『子どもへの性的虐待』で言語化されている。

 

小児性愛」という欺瞞*1

 

「性愛」ではなく「暴力」

 

ペドファイル(pedophile)とは、日本語では「小児性愛者」と訳されている精神医学用語の診断名である。この訳語は新しい言葉に書き換えなければならないと思う。

 

Pedophiliaのpedoは小児という意味。philiaとは偏執*2という意味だ。だからnecrophiliaは死体(necro)偏執(philia)とは言っても死体性愛とは普通は訳さない。zoophiliaは動物偏執で、動物性愛とは訳さない。ならなぜ、pedophilliaを「小児性愛」と訳し、pedophileの訳語は「小児性愛者」なのか。

 

彼らの行為には「愛」も「性愛」もない。あるのは「暴力」であり、「性的虐待」である。だから「小児性愛者」ではなく「小児性虐待者、または「小児性虐待偏執者」、あるいは「小児偏執淫行者」などの訳語こそがペドファイルの真の姿である。

 

このことは単に訳語の好みの問題ではなく、子供への性的虐待をなくすための重要なポイントである。このテーマに関わるスタンスをどこに置くのか、誰の視点に立つのか、加害者に共感するのか、被害者に寄り添うのかの問題である。

 

森田ゆり(2008)『子どもへの性的虐待』(岩波新書)p.45-47 

 

 

「愛」という言葉が入っているだけで、どこかで「愛し・愛されていたのなら仕方ない」という言い訳につながる恐れがある。

 

子どもを性的対象にする大人の中には「悪気がなかった」「愛情表現だと思った」「子どもが求めていると思った」などと己の行為を「正当化」する人がいる。しかし、その認知の歪みこそが、子どもにとって恐ろしいことなのだ。どういうことか。

 

ペドファイルが子どもを襲う前「信頼関係」を築くために行う「手なずける行為」のことを英語で「グルーミング(grooming)」という。例えば、子どもの話し相手になったり、一緒に遊んだりして、様子を見ながら徐々に肌と肌を触れ合う機会を増やし範囲を広めてゆく。そして、子どもから「信用」を得たと思った時に、性行為に及ぶのが手口だ。

 

しかし、大人がいくら「信頼関係を築けた」と確信し「愛情表現の一環として」子どもと性的行為をした場合も、許されることではない。なぜなら、「子供は大人に対して圧倒的な力関係・知識・発達・経験などあらゆる面で不利な立場にいる」ことには変わりないからだ。そのような格差を埋められない関係性において「子どもにも選択の自由があった」とは言えないのである。

 

「NOが言えない・言いづらい関係」において、「主体的なYESはあり得ない」。だから子供は、大前提として、大人に対しても誰に対しても「NOが言えるようにならなければならない。

 

NOが言える前から、子供の体や精神に、力が強い大人が侵入してきたら、子供はNOを大事な言う機会を奪われてしまう。

 

NOが言えないと言うことは、黙るかMAYBEやYESしか言えなくなると言うことだ。そんなことでは、他人の思うままに扱われて、自分自身で自分を守れない人間に育ててしまうことになる。

 

大人から性的虐待を受けた経験のある子どもは、トラウマの後遺症の一つとして性行動過剰になることが少なくない。そのような場合においても「自他との適切な境界線」というものを尊重する姿勢を見せることが大人には求められている。むしろ、その子どもが学ぶ機会のなかったことを教え直してあげることが大切だ。

 

子供であれ、大人であれ、最終的に自分を守るのは、自分自身である。自分で自分を守れるようになって、初めて他人に適切に頼めるようになる。生きていくために必要不可欠な、自尊心・自立心の芽を小さい時から踏み躙る、大人から子供への性的行為が絶対に許されないのは、このような理由がある。

 

子どもに言葉を教えずに、思春期から突然、異国の方言で溢れかえった環境で野放しにしたらどうなるだろう。どんなに歳を重ねてもコミュニケーションが上手くいかずに、苦しむのではないだろうか。

 

算数で、足し算引き算の前にいきなり掛け算を教えないように、国語でひらがなカタカナを教える前に四文字熟語を教えないように、段階を踏むことが必要。応用問題はその後にくるはずだ。

 

YESの前にNOを教える。人と人が交わる方法を教える前に、自他との間には見えない境界線があることを伝える。性教育に求められているのは、他の教科と同じように基礎から順に学ぶことだ。そして今からでも大人も学ぶことだ。

 

近親姦についてのドキュメンタリーで、加害者の多くが幼年期に家族や知人の大人から性的虐待を受けた被害者であったことが著しいことを知った。

 

つまり加害者は、自他との境界線を学ぶ前に、大人からその境界線を侵害され、それを正当化する言動をみて育ったから、教わった通りに成長してしまったのだ。

 

子どもに正しいことを教えるには、まず大人が正しいことを実践しないと始まらない。子どもの未来は、今の大人にかかっている。

 

 


 

www.youtube.com

 

 

 

 

*1:欺瞞(ぎまん)とは、人をあざむく・だます・嘘をつく、という意味の言葉。Weblio辞書

*2:片寄った執着。一つの考えに固執すること。偏見によって他の意見を受けつけないこと。片意地なこと。へんしつ。コトバンク