27「危機感」を忘れないために「記憶」はある
自分と共通点が多い、太宰治。彼のドキュメンタリー*1で作家としての生活について観ていると、突然、私自身が小学校生の時から「なんとなく気になっていたこと」を思い出した。
それは、挿絵の絵本を同級生の女子と二人で作っていた時のこと。主人公の女子二人がジャングルの中を冒険する話だったのだが、危険な動物が「潜んでいる」と表現する時にlurking(ラーキング)というと言葉を知り、私は深く反応した。
その何ともいえない感覚は時々思い出されたが、長年「そんなこともあったな」くらいにしか思っていなかった。
改めてlurkingという言葉の意味を調べた:
lurking
1.〔危険・敵などが〕潜んでいる
2.〔感情などが〕胸の奥に秘めた
3.〔物の見え方が〕かすかな、わずかな
*2
日常生活では使う機会が少ないこの言葉を学べたことに対し、単純に喜びを感じていただけではないことが今になって確信できた。
私は幼稚園に入る前から、父親から強制わいせつを受けていた。が、その記憶は思い出せられる何かが起きない限り、日常生活の中で記憶を意識することも少なかった。そして、その記憶を思い出した際には「ただの悪夢だ」と否定していた。
Lurkingという言葉には、私の身体と心を侵害した父親が巧妙に否定し「まるで私が感じた危機感がなかったかのように」仕向けた事実が、我が家に潜んでいたことを物語っているようだ。
記憶とは不思議なものである。私は「解離性障害」があると医師から診断されたことがある。解離性障害にもいろいろな症状があるが、私の場合、人格に名前はついていないし、記憶が突然吹っ飛ぶこともない。性被害が実際にあったことを証明する関連性の高い記憶が鮮明で、その前後の記憶が抜け落ちている。
性被害を受けたことを否定する表向きの私と、性被害があったことを私に認めさせようと記憶を抜粋している力が私の奥に存在している。私には少なくともこの二つの人格があるのは確かだ。
これは、私が二度と同じ経験をしないために、私の中の力が作用してくれているように今なら思う。ただ、その力を今まで無視してきたのは、被害を認めてしまったら、自分の物質的な存在が危機に晒されてしまう予感がしたからだ。