「やめて」・にげて・はなして。身内から子どもへの性犯罪:被害者から加害者になった私・犯免狂子が精神治療から学んだこと

4歳から父の猥褻・母の体罰が「愛情表現」と教わり、混乱の吐口としてきょうだいに性的・精神的な加害をしていことを治療中に自覚。3つの気づき:①家庭内で子どもへの性犯罪が、加害者の「無自覚」のうちに起きている。②性被害を否定することは、自己防衛本能が正常に作用しているからだが、否定し続けても苦しみは増す一方である。③被害を認めて精神治療を初めないと、被害者も「無自覚」のうちに自他を傷つけ加害者になってしまう可能性が高い。精神疾患「複雑性心的外傷後ストレス障害(C-PTSD)」歴35年以上。

2) 『沈黙をやぶって:子どもの時代に性暴力を受けた女性たちの証言+心を癒す教本』/森田ゆり編著(未)

30年以上経った今も狂ったままです。
 
自分に起きた性暴力が、他の子どもに起きないようにするにはどうすればいいか、とよく考えます。
 
まず、加害者を撲滅することが必要ですが、そのためにも、被害者が最低限、自分の身を自分で守れる方法を知ることも重要です。
 
性器をはじめとするプライベートパーツや水着ゾーンと言われる部分を他人に見せない・触らせない・また他人のを見ない・触らない。嫌なことをされたら嫌だを言い、逃げて、誰かに話す。言葉を話せるようになれば子どもにも最低限、できる自己防衛。
 
私はこれを学びたかった。
 
なぜなら、加害者は誰も知らないうちに、子どもを襲っているからであり、その加害者が子どもにとって最も身近な存在である可能性が高いからです。親、親戚、兄弟、近所の知人、教員などなど。
 
性犯罪の加害者は襲う前に、子どもを飼育(グルーミング)し「信頼関係」を築くケースが目立ちます。そして子どもに秘密を守らせようとする。
 
私の場合、「誰にも言うなよ」と父親から直接的に言われた訳ではありません。父親が一足先に母親を言いくるめ、その反応に何重にも混乱した私は何も言えなくなってしまったのでした。
 
自分が感じた気持ち悪さ、恐怖心、混乱、不信感などの感覚と、それまで自分が知っていた父親のイメージが全く結び付かなかった。それに、私が体験した強制わいせつについて、母親と父親が「良いこと」と思っていると思い込まされ、私は相手を疑うよりも、自分自身を疑うという癖がつき始めました。
 
この時に、父親がしたことは「いけないこと」と事前に教わっていたら、私は母親に助けを求めやすかっただろうと思う。母親に「よかったね」と言われて「え?気持ち悪かったよ?」と訴えられたか、少なくとも自分自身の感情や感覚を疑うことにはならなかったと思う。
 
私が初めての性被害を受けた時から30年以上も経った今も、毎日、苦しんでいるのは、被害を受けた後、誰にも助けを求められず、何度もセカンドレイプに遭い、その犯罪をたった一人で抱え込まざるを得なかったから。安心できるはずの家庭の中で心が休まることがなかったから。何が何だかわからないまま、とにかく、十字架を背負いながら生き延びることしかできなかったから。
 
それは生き地獄。親に見習い、気づけば他人を傷つけてしまう自分が嫌だ。
 

p7 はじめに

性暴力が他の暴力形態と異なる特性の一つは、そこにまつわる秘め事=沈黙の匂いです。

 

「誰にも言うなよ」と加害者が強いる沈黙。被害者が守ろうとする沈黙、として被害者が語れない環境を作り出している社会全体が培養する沈黙。この三者が堅固に維持する「沈黙の共謀」こそが性暴力のきわだった特性です。この「共謀」から脱落して沈黙を破った被害者は加害者からの仕打ちのみならず、社会からの冷酷な制裁にさらされなければなりません。

 

私が

 

p8 「あの人がそんなことするはずないでしょ」と信じてもらえず、たとえ信じてもらえたとしても「犬に噛まれたと思って忘れなさい」と大したことではないとみなされ、さらには「あんたが誘ったんじゃないの?」と逆に罪の責任を着せられてしまう

 

だから被害者は黙ってしまいます。被害者が黙っている限る加害者は安泰です。社会は何事もなかったと装って、幸福な家族を、安全な日本を演じ続けることができるのです。こうして「沈黙の共謀」は維持され、性暴力が日常的にくり返されていくのです

 

p9 もしこの本を読んで陰湿なやりきれなさだけを感じた人がいたら、それはその読者の関心が暴力だけに限られていて、暴行を受けた人が、もう一度晴れやかに生きようと願望しているいのちの働きにおよんでいないからなのです。

 

p10 この本を一読して、なんだこの程度のことで痛いだ生きづらいだと言っているのか、世間にはもっと酷い目にあっても黙って生きている人間がいっぱいいるんだ、と思う人もいるでしょう。......性暴力の深刻レベルのコンテストではないのです。被害者の精神的傷跡の深さ、浅さを周囲の人間が「外傷はないんだから忘れてしまいなさい」「一度だけだったから大してことはない」「性交までいかなかったから、騒ぎ立てることはない」などと言って勝手に決めることは、実は加害者が自分の行為を正当化する口実と見事に一致するのです。「外傷を与えてるわけじゃないからいいだろう」「一度だけの過ちだから許される」「性交を要求したわけじゃないんだ」と。このような加害者の論理に最も容易く社会が同調してしまうのも性暴力のきわだった特性です。被害の深さ、浅さは、被害者のその後の人生にその暴行体験がどのような影を落としたかによってしか、はかる基準はありません。

 

p14 子どもへの性暴力を被害者の視点から分析し解決策を練っていくことーようやく性暴力を社会問題としてとりあげる気運が生まれてきた日本で、今もっともなされなければならないことは、この被害者の視点の確立です。

 

いったい何を性暴力と定義するのか。その決定に被害者の声は反映されていません。性暴力を取り締まる法律は被害者の体験とはかけ離れたところで成立したものです。強姦を扱う警察官も裁判官も被害者の視点に立ったら強姦に対する対応がいかに異なったものになるかなど考えもおよばないのでしょうか。

 

「やめよう夜道の一人歩き」といった防犯キャンペーンが、現実の強姦防止には何の役にも立たないことは、被害者の声を集めればすうにすぐにあきらかになることです。被害者が大人であれ子どもであれ、強姦の圧倒的多数のケースが夜道で知らぬ者から襲われるのではなく、屋内で知人から襲われるからです。さらに、夜道の独り歩きをする女や子どもこそが悪いといわんばかりのこのキャッチフレーズの暗示する責任のなすりつけは被害者の立場を全く無視している好例です。

 

p15 子どもへの性暴力を被害者、すなわち子どもの視点から分析すると、まず第一にあきらかになることは、性暴力が大人ー子どもという社会的力関係の不均衡という社会的条件の上に培養される犯罪だということです。

 

p16 子どもに対する性暴力とは、暴行の程度にかかわらず、加害者が誰であるかにかかわらず、有形・無形の社会的力関係で圧倒的に上に立つ大人が子どもに大して強制し押し付ける性行為であると定義できます。

 

p17 性暴力にかかわる言葉を被害者の視点から定義し直し、確立していく仕事は、日本では今はじまったばかりです。その仕事の主体となるのは、心理学者ではなく、犯罪学者ではなく、弁護士ではなく、評論家ではなく、性暴力を体験した人たちにほかなりません。性暴力の体験者、あるいはその立場に100パーセント立てる人こそが、性暴力の本質をもっともよく知っているのです。