2) 『沈黙をやぶって:子どもの時代に性暴力を受けた女性たちの証言+心を癒す教本』/森田ゆり編著(未)
p7 はじめに
性暴力が他の暴力形態と異なる特性の一つは、そこにまつわる秘め事=沈黙の匂いです。
「誰にも言うなよ」と加害者が強いる沈黙。被害者が守ろうとする沈黙、として被害者が語れない環境を作り出している社会全体が培養する沈黙。この三者が堅固に維持する「沈黙の共謀」こそが性暴力のきわだった特性です。この「共謀」から脱落して沈黙を破った被害者は加害者からの仕打ちのみならず、社会からの冷酷な制裁にさらされなければなりません。
私が
p8 「あの人がそんなことするはずないでしょ」と信じてもらえず、たとえ信じてもらえたとしても「犬に噛まれたと思って忘れなさい」と大したことではないとみなされ、さらには「あんたが誘ったんじゃないの?」と逆に罪の責任を着せられてしまう。
だから被害者は黙ってしまいます。被害者が黙っている限る加害者は安泰です。社会は何事もなかったと装って、幸福な家族を、安全な日本を演じ続けることができるのです。こうして「沈黙の共謀」は維持され、性暴力が日常的にくり返されていくのです。
p9 もしこの本を読んで陰湿なやりきれなさだけを感じた人がいたら、それはその読者の関心が暴力だけに限られていて、暴行を受けた人が、もう一度晴れやかに生きようと願望しているいのちの働きにおよんでいないからなのです。
p10 この本を一読して、なんだこの程度のことで痛いだ生きづらいだと言っているのか、世間にはもっと酷い目にあっても黙って生きている人間がいっぱいいるんだ、と思う人もいるでしょう。......性暴力の深刻レベルのコンテストではないのです。被害者の精神的傷跡の深さ、浅さを周囲の人間が「外傷はないんだから忘れてしまいなさい」「一度だけだったから大してことはない」「性交までいかなかったから、騒ぎ立てることはない」などと言って勝手に決めることは、実は加害者が自分の行為を正当化する口実と見事に一致するのです。「外傷を与えてるわけじゃないからいいだろう」「一度だけの過ちだから許される」「性交を要求したわけじゃないんだ」と。このような加害者の論理に最も容易く社会が同調してしまうのも性暴力のきわだった特性です。被害の深さ、浅さは、被害者のその後の人生にその暴行体験がどのような影を落としたかによってしか、はかる基準はありません。
p14 子どもへの性暴力を被害者の視点から分析し解決策を練っていくことーようやく性暴力を社会問題としてとりあげる気運が生まれてきた日本で、今もっともなされなければならないことは、この被害者の視点の確立です。
いったい何を性暴力と定義するのか。その決定に被害者の声は反映されていません。性暴力を取り締まる法律は被害者の体験とはかけ離れたところで成立したものです。強姦を扱う警察官も裁判官も被害者の視点に立ったら強姦に対する対応がいかに異なったものになるかなど考えもおよばないのでしょうか。
「やめよう夜道の一人歩き」といった防犯キャンペーンが、現実の強姦防止には何の役にも立たないことは、被害者の声を集めればすうにすぐにあきらかになることです。被害者が大人であれ子どもであれ、強姦の圧倒的多数のケースが夜道で知らぬ者から襲われるのではなく、屋内で知人から襲われるからです。さらに、夜道の独り歩きをする女や子どもこそが悪いといわんばかりのこのキャッチフレーズの暗示する責任のなすりつけは被害者の立場を全く無視している好例です。
p15 子どもへの性暴力を被害者、すなわち子どもの視点から分析すると、まず第一にあきらかになることは、性暴力が大人ー子どもという社会的力関係の不均衡という社会的条件の上に培養される犯罪だということです。
p16 子どもに対する性暴力とは、暴行の程度にかかわらず、加害者が誰であるかにかかわらず、有形・無形の社会的力関係で圧倒的に上に立つ大人が子どもに大して強制し押し付ける性行為であると定義できます。
p17 性暴力にかかわる言葉を被害者の視点から定義し直し、確立していく仕事は、日本では今はじまったばかりです。その仕事の主体となるのは、心理学者ではなく、犯罪学者ではなく、弁護士ではなく、評論家ではなく、性暴力を体験した人たちにほかなりません。性暴力の体験者、あるいはその立場に100パーセント立てる人こそが、性暴力の本質をもっともよく知っているのです。