「もっと辛い人がいる」という鈍器から心を守る
「他人の不幸と比較する」自己防衛本能が危害になる
「世の中には可哀想な人が大勢いて、彼らに比べたら私は恵まれている」
「アレは性虐待なんかじゃなくて、親の愛情が強すぎただけ」
「あの記憶は、ただの悪夢」
「他人の不幸と比較」したりして、自分が覚えた「嫌な感情や感覚」を過小評価する・正当化する・認めようとしない考えは、自分の心身がこれ以上傷つかないための自己防衛手段の一つ、だったようです。
だけどそれを続けていると、自分を守るどころか、ないことにしてきた心の傷が日常生活で悪さをし、人間関係を壊し、身体をも蝕んでいることに、気づいた頃には、その癖を直せなくなっていました。
心の傷というのは、身体の傷や障害とは異なり、目に見えない分、自他が想像する以上に重傷で、対処が遅くなり、悪化することが多い。
しかも、心に傷を負った人は、自他にそれを気づかせないことに長けています。
だから、昨日まで笑顔だった人が、ある日突然、自殺したりするのですよね。
当人にしてみれば、突然なことではなく、長らく死にたくて、やっと実行に移せたに過ぎないのに。
心の傷は他人はおろか、本人でさえ気づけないことがあるほど深刻なのに、一般的には身体の傷や傷害より軽く見られている傾向にあり、それが悪循環を生んでいるのもまた然り。
ようやく心の傷に気づいて、助けを求めた先でも、心無い言葉で傷つけられることも少なくありません。
他人からの「不幸の比較」は一律「マウンティング」
有名でベテランの精神科医にも、ソーシャルワーカーにも、自助グループの主催者にも「あなたよりもっと辛い目に遭っている人がいる」という趣旨のことを私は何度も言われてきました。
一時間も話しておらず、私の人生のほんの一部しか知らない人。それでも「医者」や「支援者」や「当事者」という立場の人に言われると、自分自身で過小評価するときと比較にならないほど傷つきます。
治療のためにと、勇気を振り絞って見せた傷に、いきなり塩を塗り込まれる訳ですから、味方だと思っていた人から。
他人を助けることを生業にしている人達が、人を傷つけるために一番効果的な言葉をよくも言えるな、と不思議でしたが、理由はこうだと思います。
「あなたより不幸な人を知っている」と思い言うことで、無意識にマウントを取り、優越感を感じることができるから。
人間ならきっと誰しもが持つこの愚かさは、どんなに立派に見える立場の人にもあるのだと想像すると、その理不尽な言動も腑に落ちます。
それじゃあ、どうしたらいいの。誰を信じ、頼ればいいの。
信じられるのは自分の感情と感覚だけ。
他人に頼ってもいいけど、裏切られる覚悟の上で。
気持ちを書きたくなったら書き、話したくなったら話す
思い返せば、頭で否定してきた気持ちを、恐る恐る文字や絵にして書き出すことが、トラウマと向き合う最初の一歩でした。
私がそのことを他人に初めて話せるようになるまで、最初の被害から20年はかかりました。
トラウマの記憶は、墓場まで持って行こうと決心していたので、同僚の男性に自然と話せた時は、自分でも驚きました。
きっかけは、彼が受けた性被害について話してくれたことでした。その時、私は封印してきた記憶について彼に話してみようという勇気が自然に湧いたんだと思います。
彼が男性だったというのも大きな要因でした。
女友達らが受けた性被害の話は、昔からよく聞いてきましたが、そういう時、私は自分の話をしようなんて思いもよりませんでした。
「私はレイプをされた訳ではないから、私が受けた強制わいせつは取るに足らない」と自分が受けた被害の記憶を過小評価したり、「でもあなたの加害者は親族であって、私みたいに実の父親(直系家族)ではないから」と深刻さの度合いに優劣をつけようとすることで、自分の話をしなくていい言い訳を頭の奥の方で、ほぼ無意識に作っていたんだと思います。
もし同僚が女だったら、いくら境遇が同じでもきっと話していませんでした。
それは私の頭で「女性が性被害に遭うのは特別珍しいことではない(+加害者は男性)」と思っていたからだと思います。だから男性も性被害に遭うということが当時は衝撃で、麻痺した自分の心を揺さぶったのでした。(この時、自分が年下のきょうだいに性加害をしていた自覚はまだ表面化していませんでした)。
彼に話した矢先に「でもただの悪夢かもしれないの」とすかさず、疑いの余地を残しました。幼児の頃から、父親から性的な言動を受けて気持ち悪かった記憶を認めるのは身の毛もよだつことなので、夢オチにして否定したくなるのも無理はありません。
でもその後、いろんな場所で自分のトラウマ体験を話し続けることで、「幼児期の性被害はただの悪夢ではなく、事実だった」と認められるようになりました。
自分が受けた被害を認められて初めて、ならば、自分がきょうだいにしたことも性加害だったと、自覚できるようになりました。
父親から受けた性被害が事の発端であったにせよ、自分が加害者になっていたことを受け入れるのは、この上なく辛いことです。
きょうだいには謝罪しました。
きょうだいは許してくれましたが、私自身が自分を許すことができません。私が自分の名前も顔も伏せているのは、きょうだいに迷惑をかけたくないと思うからです。
それがなかったら、自分の顔を晒して「私みたいな人間を増産させないように、子どもへの性行為をはじめとする人権侵害はやめよう」と見せしめになりたい。
ある有名な精神科医は「きょうだい間の性加害」を過小評価していましたが、私は先生の認識自体に根本的な問題があると感じました。被害者本人が少しでも不快感を覚えたら、それは紛れもない被害であり、性犯罪の破壊力は本人でさえ計り知れないことを私は身をもって経験してきたことだから。
私には30年余りの心の傷とモヤモヤが蓄積されている訳ですが、先述したように「もっと不幸な人と比較してくる人」というのがどこにでも何割かいて、そういう人に当たるリスクを負えるほど、私のメンタルはまだ強くありません。
そのため、知識は多いが聞くことが苦手な精神科医には通院できていません。
しかし「比較の声」は自分の中からも聞こえてくるので、身近なところから対策することにしてます。
聴き手のプロ「電話相談員」に気持ちを聞いてもらう
最近は電話相談(自殺防止のホットライン等)を頻繁に利用しています。
予約しなくても、家を出なくても、電話がつながりさえすれば、気持ちを吐露できる手軽さがあり、複数の電話相談室があるので、朝から深夜まで、一年中、利用できるのもありがたい。
電話相談員は基本、話を聞くことがメインのお仕事。この「人の話(気持ち)をただ聞く」というスキルが人間関係では超重要なのに、非常に希少だということに気付かされます。
相槌を打ってもらうだけで、不思議と気持ちが少しづつ楽になります。一生、誰にも話せないと思っていたことでも、頭のどこかで「取るに足らない」と思っているようなことでも話していい。
私は毎回、涙と鼻水が大量に出るので、手拭いを常備してます。
「もっと泣いていいんだよ、でも鼻はかんでね。」
幼児期から数年前まで、泣く時に鼻水を啜っていましたが、これはいけませんでした。
せっかく溜まりに溜まった感情と一緒に出せたモノを、私はわざわざ飲み込んでいたのです。
鼻が詰まり、呼吸が困難になり、頭がボーっとし、頭痛にもなっていました。今みたいに泣いてスッキリすることは一度もありませんでした。
思い返せば、小さい頃は今ほど泣いていなかったにせよ、私にハンカチやティッシュをくれる人なんていなかったので、鼻を啜る癖がついてしまったのは、仕方ありません。
でもある日、自己セラピーを実践中、その癖が治りました。ティッシュを使わず、ただただ涙と鼻水を厚手の紙の上にポタポタさせたていたら、水たまりがみるみるうちに広がりました。それを落ち着いてから計量器で測ってみたら30ml以上あり、驚きました。
こんな大量の涙と鼻水を飲み込んでいたなんて、体に良いはずがないと、視覚的にも痛感してから、その癖を治すことができました。
だから、小さい頃の私に鼻セレブか、きめの細かい麻綿のハンカチを手渡して伝えたい。
「もっと泣いていいんだよ、でも鼻はかんでね」と。
相談員も精神科医も「人間」、期待したら痛い目に遭う
電話相談員の中には、話を聞かず「でも、でも」と否定ばかりして、求めてもいないお門違いなアドバイスをする人も一人だけいました。
そうすると、電話相談するのも怖くなる訳ですけど、期間をおいてまた利用しました。幸い、あのような人に今のところ、再び当ることにはなっていませんが、覚悟するようになりました。
電話相談員も、精神科医やソーシャルワーカーと同じ「人間」。きっとストレスが相当溜まっていて、心に余裕が持てない日に、無理して出勤してしまったのだろうと想像します。
他人に頼る時は常に、そういうリスクが伴う可能性がゼロではないことを知っておくと、ハーム・リダクション(ダメージを最小限にとどめる)になるかもしれないという学びにはなりました。
聞き上手な人はレアキャラであっても確実に存在し、面識がなくても気持ちを否定せずに聞いてもらうことで、気持ちは少しづつ楽になることは実体験から言えますが、相手が人間である以上、期待は禁物です。
そして、自分自身の声や信頼していた人から「あなたの心の傷は大したことない、もっと不幸な人がいる」と言われたら、いくら悪気なさそうでも、「決してあなたの心を癒すためではない」ということを知っておくと心の鎧、少なくとも盾にはなるかもしれません。