「やめて」・逃げて・話して。性被害の解離から始まった生い立ちと脱・毒親 CPTSD歴35年の『犯免狂子』

4歳頃より、性加害・心理操作・体罰等を「愛情表現・躾」として両親から受け続けた事による無数のトラウマ症状(CPTSD歴35年強)を古今東西の療法で試行錯誤中。児童性虐待予防・啓発のため自伝『犯免狂子』執筆中✒︎安楽死に向けて準備中✴︎①性的な言動・表現が子共の人生を狂わす事を「無自覚」な人が過多②被害者:あなたは悪くない。早く人に話して→電話番号#8891匿名電話相談③水着で隠れる場所は見せない・触らせない/見ない・触らないを基本に「やめて」が言える性教育(出産・子育リスクも)+法改正を

性被害の解離から始まった生い立ちと脱・毒親 CPTSD歴35年の『犯免狂子』

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一章:フラッシュバック

トリガー:「出身はどこですか?」

21歳〜転機:脱・機能不全家庭

序の口:脱獄後の毒親呪縛

25歳〜母みたいなDV女に豹変

34歳〜封印された父への怒り

0歳〜愛妻家の性的逸脱行動

初診「解離性障害」(更新中)

35歳〜両親と対峙・絶交(更新中)

4歳〜弟への加害を自覚(更新中)

「浮気」を肯定しようとした理由(更新中)

絶交後の両親の言動(更新中)

CPTSD(複雑性心的外傷後ストレス障害)(更新中)

毒親を法的に訴える(準備中)

希望:安楽死への準備(更新中)

参考資料

私の人生を変えた本

性犯罪予防おすすめ本

夢か、現実か。

現実にしては奇妙すぎ、夢にしては鮮明すぎる。

幼児期、家族想いの父親から受けた性器への接触と、厳格な母親の穏やかで不可解な言動。

謎の解明と両親の弁護を全身全霊で試行錯誤してきた女が、安楽死を遂げるまでに伝えたいこと。

やめて、にげて、はなして。

どうか私みたいな狂った一生を送りませんように。

🐑 🐏🐑 🐏🐑🐏

一章:フラッシュバック

「またあの悪夢か」とウンザリしていると、挑発的な声が私の嫌がることをしつこく唆してくる。

奇妙な夢の記憶と奇妙な声をかき消そうと、私はひつじを一匹づつ数えてみたりするけど、なかなか寝付けない。

そうこうしていると、両親の寝息に気づいて……。

寝落ちするまでのこの流れは、物心つく頃から実家を出た頃までのこと。

深夜、仰向けで目を瞑っていると突然、感覚つきの映像が脳裏をかすめ、目を開けてしまう。

これは未だに続いている。



🌲🏡🌲

トリガー:「出身はどこですか?」

「…東京…です」

テキトーにはぐらかして、話を広げない工夫をする賢さは身についてきてるけど。

あいかわらず苦手な質問。

最近まで嫌々ながらバカ正直に答えては、神経をムダにすり減らしてきた。

「えっ、とー……〇〇です」

すると反応は十中八九

「え!かっこいー!ってことは英語ペラペラなんですか?!」

「あ、はい」

「すごーい!」

「ハハハ」

「え?ハーフ?帰国子女?」

「いや、二重国籍です」

「すごーい!」

リアクションに困る。

笑って誤魔化しても、間が持たない。

嗚呼、憂鬱。

もう消えていいですか。

この複雑な心境、私の性格が捻くれてるからなのは百も承知。

でもさぁ、一旦冷静になろう。

生まれ育った国の言語を話せるのってフツーじゃね?

そこに気づかないのはハリウッドの洗脳力が「すごい」からです。

日本語で皮肉をいうと性格悪く聞こえるかもしれないけど、

みんなが必死で目指してる
「生きた英会話」は
「ほぼ皮肉で成り立ってる」
と言っても過言じゃないので、
悪しからず。

素直にいうと、お世辞でも「かっこいい」と言われると辛い。

かっこ悪い、恥の多い人生を送ってきたので。

私が生まれたのは、Cityで確かにかっこいいイメージ「も」あるけど、育ったのはSuburbia。

ジャパニーズでいう郊外の住宅街。

緑が多くて、治安は良いとされていて、退屈だった……。

いや、稀にあったっけ、楽しいことも。

家族ぐるみの付き合いで日本人家族と、年に一度くらい会えた時とか。

優しいおねえちゃんが2人いて、憧れの存在だったのは覚えてる。

でも4歳くらいからかな。

どんよりした気持ちがずーと続いて、楽しい記憶がいつの間にかスッポリと消えていた。

覚えてても余計に辛くなるだけだからなのか、容量オーバーになったからなのかな。

代わりにと言ってはなんだけど、悲しい記憶はたくさんある。

2歳の弟と戯れていた際、弟の頭を壁にゴンとぶつけた時のこととか。

「やめなさい!お姉ちゃんでしょ!」

ショックだった。

おねえちゃんの険しい顔。

おねえちゃんから注目して欲しくてワザとやったのに。

腕力で自分の優越を肯定してもらおうとして、否定されたのが想定外だったんだと思う。

ショックと不満を埋めるために意地になって開き直った。

「これからは『お姉ちゃん』って呼んで」

1歳と2歳下の弟達に呼び捨てを禁じ、命令はしても一緒に遊ぶことが減り、孤立し始めた。

それから一年くらい後のこと。

例のおねいちゃん達から無条件に可愛がられる弟たちに混ざって、

無邪気に遊ぶことができなくなっていた私は、

お母さんたちの会話を近くで立ったまま聞いていた。

話題は男性アイドルから恋愛話に移っていったが、母は黙って座っているだけ。

私は会話に参加したくてウズウズしているというのに。

小学1年生の私は、同級生の男子ルークに片想い中で、タイムリーなネタも持ち合わせていた。

痺れを切らして「あ」と言った瞬間

「大人の話ッ!」

ピシャリと言い放った鬼の目に凍りついた。

後ずさりしたものの、広い家で居場所を失い、その後、どこで何をしていたのか全く覚えていない。

こういう特別な日以外は、ほぼ学校と自宅の往復。

母が学校まで迎えにきて、一緒に歩いて帰る。

帰宅したら、家事の手伝いをしてたかな。

変わり映えのない日々だから大した思い出もない。

そんなある日の帰り道、私はついに思い切った行動に出た。

母の目を盗んで、道を間違えたふりをして、近所に住むルークの家に向かった。

偶然、家の前にいた彼。

笑顔で私の名前を呼びPass me the ballと言った。

私が持っていたボールを投げると、彼はそれをバウンスパス。

そういうパスもあるのかと閃いた瞬間、怒号。

鬼相の母。

涙だけは流すものかと歯を食いしばった。
……


「ルークが教科書、借りにきたみたいよ〜」

後日、母の呑気な声に対する苛立ちと、

好きな人の前で怒鳴られた恥ずかしさと屈辱から、

私は彼にそっけない態度をとった。

そんな自分が嫌いで嫌いで仕方なくなった。

……

ブーーーン

彼がよく近所を乗り回していたgopedの音。

我が家を通り過ぎるのが聞こえるたびに、

苦しかった。

こんな近くにいるのに。

私が意地っ張りなのか。

でもお母さんが快く遊びに行かせてくれるなんて想像できなかった。

……

平日通ってた現地校に友達と呼べる人はいなかった。

土曜に通っていた日本語学校には2年生から女友達が1人できたけど、遊べたのは週に一回、放課後の数時間だけ。

弟たちは2軒隣の同級生宅を行き来して、毎日ゲームしてキャーキャー騒いでいる。

私はその男子を睨みつけ、心の中で呪っていた。
……

成績は悪くなかったというか、良い方だった。

宿題は授業中に終わらせたし「勉強」をした覚えがあんまりない。

「時計」と「九九」を除いては。

パァーン

「なんでこんなこともわからないの?!」

いきなり母親に頬を引っ叩かれた。

なんで分からないかなんて、分からない。

「答えは?!」

答えのない質問で問い詰めらている状況で、理解していない算数の正解を導き出せたら世話がない。

でも、それが私の母の「教え方」だった。

なんで怒られてるんだろう。

算数ができないことって、そんなに罪なんだろうか。

子どもの顔を、大人の大きな手で思いっきりぶっ叩くことは正解なのだろうか。

理解できないことばかり。

ヒック……ヒック……

涙と鼻水を啜りすぎて鼻が詰まって、しゃっくりみたいな痙攣した呼吸。

勝手に出てしまう惨めな音を止められない自分を恨んだ。

バン!

テーブルを叩きながら、何かに取り憑かれたような目で、容赦なく怒鳴り

続ける母。

私、この人に嫌われてるんだ。

そう思ったら納得がいき、気持ちが楽になった。

……

早く大人になりたい。

大人になれば、話を聞いてもらえるし、やりたいことができる。

まず絵本をほとんど捨ててもらった。

胸の辺りがチクッとしたけど、子どもっぽい物はこの際、邪魔。

大人と子供の違い......。

年齢は時間の問題だとして、今からでもできそうな大人っぽいことがしたかった。

「お父さんの店で、働かせてください!」

父の足元で土下座をし、額を床につけながら、心がざわついた。

けど時代劇で見た侍の仕草を必死に真似した甲斐があった10歳の誕生日。

唯一学校のない日曜は毎週、朝から夜18時くらいまで店の手伝いをすることになった。

身長が足りないから、レジの真下に台を置いたりして。

夕方になると客が引いて暇疲れしたけど、家で母といるよりマシだった。

初日の仕事終わり、父から5ドル札を渡された。

お小遣い制度なんてなかった私には大きかったし、

何より大人に一歩近づいた気がして嬉しかった。

願いが叶っているはずなのに、日本語学校の友達が買い物にきた時だけ、サッと身を隠した。

ローラーブレードのまま入店し、何かを買っていく後ろ姿が眩しかった。

ローラーブレードのままで怒られないんだ。

一人で買い物に行かせてもらえるんだ。

同級生なのに、別の世界に住んでいる人みたい……。

この元同級生は今や国内外で活躍するDJ。

インタビューで両親を尊敬していると言ってた。

やっぱり異世界の人だった。
……

14歳。

法的な労働許可が降りる年齢になるとすかさず、常連客からスカウトされ、仕事を引き受けた。


出勤は土日祝に増え、拘束時間も深夜にまで延び、休憩時間もなかったけど、

父の店にいるより時間を忘れられ、断然充実していた。

元旦の深夜に帰宅して、母親のおにぎりを一口含んだ途端、涙がツーっと流れて、びっくりした。

実感のない空腹を無感情な涙に教えられたことが、ちょっと切なかった。

でも母は、バイト時間に制限をかけることは不思議と一度もなかったので、

この抜け穴を最大限に利用しない手はなかった。

しかしバイトのない月曜日から金曜日は相変わらず、母親の手伝い。

けど「飴と鞭」でいうところの「飴」もちゃんとあったから、

正直、さほど苦だとも思っていなかった。

例えば母は毎年、塩辛を仕込んだのだが、烏賊の口(「トンビ」という希少部位)の唯一無二なコリコリ食感を味させてもらえたのは毎回、5人家族で私だけだった。

雑用兼味見当番としての優遇は、食いしん坊な私の自尊心を保ち、弟たちに優越感を持つことができてていた。

「夕食は一家揃って食べるのが夢だった」という父の意向で、

毎晩7時頃みんなで一斉に「いただきます!」と合掌してから食べるのが日課だった。

戦後ひもじい想いをした父の話や、今も飢えに苦しみ、餓死する子供たちも世の中に大勢いる話を食事中、何度も聞いた。

「ハゲワシと少女」という有名な写真があって、いつもこの子を想っていた。

あの子と比べたら、自分は恵まれている。

だから、不満を感じるのは罰当たり。

八十八の過程を経てご飯になった米粒もひとつ残らず、有り難く頂いた。

「食べさせ甲斐のある娘だ」と、父は食欲旺盛な私を褒めてくれた。

ご飯を何杯おかわりして底なし沼のように食べても、母に怒られたことはなかった。

合掌して元気よく「ごちそうさまでした!」というと、

正露丸を飲みながら2階のトイレにこもるのは毎晩のことだった。

「なんで毎晩、お腹を壊すまで食べてしまうんだろう」とは思った。

でも痩せるために嘔吐する「拒食症」しか聞いたことがなかったので、「摂食障害」だとは思いも寄らなかった。

ご飯が美味しくて「痩せの大食い」だからしょうがないと思ってた。

……

中2になって、現地校にようやく友達ができた。

放課後、友達の家に行ってお喋りする時間が楽しくてたまらなかった。

でも17時頃、迎えにきた母親の車が見えると、ズーンと気持ちが重くなった。

夕食の後は「もう暗いから」という理由で遊びに行かせてもらえない。

お泊まりしたいと言っても「この前したばかりでしょ」と言われて許可がなかなか下りない。

門限を破るようになると、帰るたびに母親から長時間の説教とビンタを食らった。

母親から頬を叩かれる度に、ある感覚つきの映像が脳裏をかすめた。

昔からそれを「悪夢だ」と思っていたけど、もしかして私が体験したことの記憶.......?

そう思ってしまう節があった。

でも、だとしたら「墓場に持っていく」と、顔をぶたれるたびに誓った。





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21歳〜転機:脱・機能不全家庭

「海外」で生まれ育ち、物理的には恵まれた面も少なくなかった。

でも母の過保護・過干渉・罵倒・体罰なども日常茶飯事。

「自由の国」で暮らしていることが皮肉なほど息苦しく、神経がすり減る日々にようやく転機が訪れた。

21歳。

私が強要されてきた「日本人像」が砂上の楼閣だったことに気づいた。

諭してくれたは、一冊のニューヨークタイムズのベストセラー。

(邦題:『ザ・レイプ・オブ・南京:第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』)

軍人たちが侵略したアジア諸国で、幼児から老婆まで輪姦して市民を大虐殺。

731部隊が生きた人間に人体実験などし細菌兵器を開発。

大日本帝国戦争犯罪の詳細を初めて知った。

しかも冷戦の中、アメリカとの裏取引で大半の軍人が免罪になり、

日本の医療業界などの高い地位に天下りするなどして現代に至っている。

私の日系人としてのアイデンティティが倒壊した。

それほど衝撃的なのに、妙に腑に落ちるところがあった。

祖国の加害者としての歴史を掘り起こすこと、

免罪と忘却とタブー化が現代社会にどんな影響を及ぼしてるのかを知ることは、

一日系国際人として当然の教養だと感じた。

平日は現地の保育園から短期大学まで通学し、

土曜日は保育園から中学まで日本語補習校に通っていた。

恵まれた教育環境にいる自負があった。

なのに、知らないと恥知らずな歴史を、子孫の私に誰も教えようとしなかった。

そのことが二重に衝撃だった。

広島・長崎に原爆が落とされたことを知らないアメリカ人はいない。

ナチスホロコーストも聞いたことがない人に会ったことがない。

現地校ではヒトラーが歴史上最も残酷な人だと教え込むが、日本にはヒトラー級以上複数いた模様。

今日に続くネイティブアメリカンや黒人の迫害を米国ではまともに教えないのと似た感覚なのか。

日本の教育は一体どうなっているのだろう。

急遽、東京にある大学への進学に向けて舵を切った。

母が反対しなかったのは意外だったが、

渡航先は彼女の母国、進学が目的で、滞在先は父方の両親宅。

安心材料が揃っていたからだろう。

晴れて、実家から脱獄する念願も一石二鳥で叶った。


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序の口:脱獄後の毒親呪縛

地球の反対側まできたとて、母の基本姿勢は変わらず、電話やメールで攻撃は続いた。

学費も生活費も全て、貯金と奨学金とバイトをいくつも掛け持ちして自分で賄っていた。

なのに、母は私の選択する科目にまで文句を言ってきたので、自分のことを徐々に話さなくなった。

日本の政治が専門の尊敬できる教授と出会ったことで、私は政治を専攻。

保守派の一大政党が、歴史教科書から戦争犯罪の内容を隠蔽し、

憲法9条教育基本法などの改定を企み、

あの手この手で再び戦争ができる国にしようとしてきたことを学んだ。

しかも官僚や政治家や大企業に忖度して報じない記者が多く、市民は知る機会が少ない。

危機感を覚えた私は、教育基本法改悪反対のデモに参加したり、

憲法9条を守る勉強会や政治の討論会など課外活動をしたり、

日本外国特派員協会(FCCJ)の学生会員になったり、

外国人記者の通訳としてフリーランスを始めたり、

米新聞社の日本支局でインターンをしたりした。

初の通訳は奇しくも、南京大虐殺を全否定する映画の監督のインタビュー。

ホロコーストを否定するドイツ人を見つける方が難しい。

対照的に、南京大虐殺などを否定する日本人が一定数いて、知らない人も大勢いることが一番の悲劇だと感じた。

自由研究では、先住民のアイヌ民族、穢多・非人と呼ばれた被差別部落民、

本土の捨て石にされた沖縄や米軍基地にまつわる人権侵害を学んだ。

声が届きづらいマイノリティの課題を深掘りする度に複雑さが増し、当事者以外には分かりにくい壁に直面した。

自分自身も「女性という最大のマイノリティ」であることにハタと気づき、ズンと心身が一瞬

重くなったが、その感覚に留まることは避けた。

大学4年生になって、選択できる科目が限られるうえ、

尊敬する教授が一年間のサバティカル休暇に入ってしまい、魅力的な授業がなかった。

卒業することに元よりこだわりはなく、卒業証書だけのために、全財産の70万円を使い果たしてしまうのは、

身が引きちぎられる思いだったが、母が共感してくれるわけなかった。

日本ではバイトを禁じてる義務教育の学校があるからなのか、

学費は親持ちで、生活費の仕送りまでしてもらう大学生が少なくないと聞く。

親から経済的にも自立するため、学校以外の時間は仕事でスケジュールを埋めてきた私には無縁の世界。

それに米国の大学などと違い、日本の大学は入学が難しく、卒業が比較的に簡単だから、遊びに走る学生が多いと聞く。

日本では有名な大学のわりに、授業の質は学費の額に見合わず、真面目に学びに来てる私からすると、通い甲斐がなくて迷惑していると毒づいた。

「季節性鬱(SAD)かもしれない」と毎週通っていた大学の心理カウンセリンセラーから言われた。

冬は確かに苦手。南国の常夏生活なら幸せを感じられるだろうか。

悩んだ挙句、一学期だけ休学(休学にも10万円くらいかかった)。

沖縄に約2ヶ月間滞在し、冷静に考えた末、退学届を提出。

私は小さい頃からまだ知らない世界を見たいと切望してきた。

父がバックパッカーとして世界放浪を数年間した頃の話をよくした影響もある。

「世界一幸せな国」ブータンに行けば、幸せなるものを体験できるのだろうか。

高校3年の時、世界一周クルーズのPEACEBOATピースボート)に乗れるほどバイド代を蓄えていたが、母に反対され、短大に進学。

興味深い授業が多く、脱獄への鍵となった運命の洋書と出会うきっかけにもなったので後悔はしていない。

でも今度こそ、ずっとやってみたかったことに自分で稼いできたお金を使ってみたい。

たまたま訪日していた父に退学届の話をしてしまった。

すると後日、父が退学届を停止させたことを事後報告された。

父にも裏切られた気持ちになり、話を打ち明けたことを後悔した。

仕方なく、やる気を感じられない教授の授業を受け、単位を取った。

私の意に反してまで卒業を望むなら、交換条件として経済的な支援をさせるべきだった。

でも短大生の頃も学費等の援助を、彼らに頼んだことは一度もない。

むしろ自発的に家賃を毎月入れていた。

少しでも一人前の人間として扱ってもらいたいという打算からだが、そんなに甘い話があるわけなかった。

「これが最後の親孝行だ」と憎しみを秘めながら、形だけの卒業式に出た。


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25歳〜母みたいなDV女に豹変

25歳。彼氏と出会ってから数ヶ月後、私から彼氏への日常的なDV加害が始まり、母みたいに豹変してしまう自分に困惑した。

自己嫌悪に陥るも怒りの衝動を止められず、自分の異常に気づきはじめた。

生理周期によって女性ホルモンが変化する関係で気分が落ち込む月経前不快気分障害PMDD)が原因だと当初は勘違いしていたので婦人科に行った。

伝えた通りにPMDDと誤診した男性医師から、目当てだった低容量ピルYAZを処方してもらった。

「副作用はありません」という男性医師のオピニオンは、適当に聞き流した。

中学の頃から避妊目的で低容量ピルを服用していた親友が副作用に悩んでいて、

血栓による死亡リスクがあることも熟知していたので、飲むのを躊躇してきたのだけど、

怒りの感情をコントロールするために、背に腹は変えられないと腹を括っていた。

数年後、酷い偏頭痛が数ヶ月続いた。

「YAZを服用し急死する女性が続出」と伝えるニュースを偶然見つけ、

私の症状と酷似していたので、服用を辞めたら頭痛はすぐに消えた。

当時、香港大手メディア会社台湾支部の新規事業発足チームの一員としてヘッドハントされ、社会的には成功していたはず。

なのに、虚しさしかないことに向き合わされた。

このままでは死んでも死にきれない。

自然治癒力を促す代替医療に趣をおいた生活習慣の改善や、

潜在意識に働きかける精神治療を積極的に始めた。

 

🧠🌱🧘🩸

30歳〜潜在意識に働きかける治療

思い返せば、低容量ピルで怒りのコントロールができていた訳でも鬱が緩和した訳でもない。

なのに西洋医学の薬は、死に至る副作用のリスクがある。

一方、漢方は薬自体が効いているのどうかもかわかりにくい印象があった。

けれど、何かを服用しないと不安でたまらなかったので、藁をもすがる思いで漢方薬局に通院を始めた。

当時、台湾で勤務していたので、漢方薬局はそこら中にあり、健康保険に入っていたので安価だった。

漢方医は私の手首を軽く指で抑えて心拍を測り、舌の色を確認し、私の症状を聞いてから、1週間分の漢方を処方。

問診だけでなく、ちゃんと体の状態を確認してもらえたことと、私に合わせた薬を調合してもらえたことに感動した。

漢方は案の定、私の怒りや鬱への効き目はなかったけど、生活習慣が必然的に改善されたのには驚いた。

1日3回食前に白湯と飲むという処方だっため、仕事が忙しすぎて疎かになっていた食事を意識して取るようになった。

宅食サービスで1日3食分を配達してもらい、規則的な食生活を取り戻した。

次に試したのが、ヴィパッサナ瞑想。

10日間、朝4時から夜9時まで(朝食、昼食、午後の喫茶、夜の法話以外)ひたすら瞑想する。

スマホは初日に没収され、会話をすることも、目を合わせることも、メモを取ることも、本を読むこともできない。



ヴィパッサナのことは5年前、知った。

大学卒業のために貯金は尽きてしまったけど、世界を見るという夢を叶えるために、ピースボートにボランティア通訳として乗船した際に出会った友達から。

興味はあったけど、まとまった休みが取れたら、娯楽に走りたくなるのが人情。

私も国内外で旅行をしてきたりした。

でも、地球を一周してみても、どこへ行っても、心の奥底に暗くて重い何かがあって、

心底楽しめない自分が常にいることが鮮明になる一方だった。

この場からは逃げられても、自分自身からは逃げられない。

ならば自分の奥に行くしかない。それには瞑想しかないと思った。

いざ予約をしようとしても、人気なためウェイティングリストで待たなくてはならなくてイライラした。

事務局からのメールの最後に”be happy”と書いてあって、喧嘩を売られているような気持ちになった。

待つこと約60日間、瞑想ができることになった。

台中にあるセンターで、自然に囲まれた静かな場所。

薄暗い広場での瞑想中、私はほとんどうたた寝していて、意味があるのか疑った。

朝と昼はご飯と味の薄い野菜のスープなど。夜はフルーツとお茶。

1日の終わりにある法話の時間が唯一の楽しみだったが、ミャンマービルマ)訛りの英語が聞き取りずらく3割くらいしか理解できなかった。

瞑想中、近くに座っていた白人女性が、よく文句を言っていた。

ヴィパッサナは素晴らしいと噂を聞いてきたのに、つまらなくて退屈らしい。

その人は9日目に飛んだ。

瞑想は確かに楽しくはないけれど、私は無二無三で挑んでいたので、辛くはなかった。

発見もあった。ある日ずっと座っていると悲しくないのに、片目から一筋の涙が流れた。

終始眠かったので、あくびの時に出る系統の涙だろう。

手で拭う衝動を抑え、ゆっくりと頬を伝っていく肌の感覚を観察した。

涙ってすぐに拭いたり啜ったりしてきたけど、今のように流しっぱなしにしたら、どうなるんだろう。

発見もあれば、不安もあった。

質問がある場合、古参の瞑想者(アシスタント・ティーチャー/AT)に予約を取ることができる。

「私は、今の怒りと過去の怒りが掛け算になって溢れ出てコントロールが効かないんですが、これも無常で、いずれはなくなったりするのでしょうか」

ATはそうですと答えたけど、私はその言葉がどうも信じられなかった。

入社3年半後にリストラにあったのが31歳の時。9歳以来の初無職になった。

給料は良い方だったし、ようやく仕事が板についてきてやり甲斐も感じられるようになっていたけど、心も体も悲鳴を上げていた。

クーラーがガンガンで私は夏でもダウンを着込むほど極寒オフィス、

24時間体制で夜勤も数ヶ月ごとに回ってくるシフト、

ミーティングと締め切り時間が1日に何度もある多忙なスケジュール、

猥褻発言が気持ち悪いモラハラ上司複数人。

私はこれを期に台湾を一周しようと思い立ち、台湾で最も美しい海岸があると言われる花蓮へ逢いに行った。

あるヒッピー家族との再会のためでもあった。

彼らとは台湾で初めて行われたバーニングマンのディコンプレッションで出会っていた。

バーニングマンアメリカ・ネバダブラックロック砂漠で毎年1週間ほど開催される祭典で、ディコンプレッションとは、バーニングマン終了後、参加者がその経験をそれぞれの地域や国に持ち帰り、振り返るイベントのことをいう。)

バーニングマンは私が小学生の頃から憧れていて、死ぬ前に一度は参加したいイベント。

ディコンプレッションでも興味関心が似たような人が多い印象だったけど、内向的な私は一人遊びをしていた。

私が登っていた木から落ちそうになったのを助けてくれたのがZというアメリカ人男性で、台湾人女性Dとの間に男女の子どもがいた。

再会したZがバイクで花蓮駅まで迎えてきてくれた際「ルーシーやったことある?」と聞いてきたので、私は「まだ」と答えた。

どうやら本家のバーニングマン帰りのアメリカ人女性が持っているらしかった。

中学生の頃から、経験済みの同級生が私の周りにいて、体験談を聞く度に自分も経験することを待ち望んでいた。

唯一不安だった「バッドトリップ(恐怖体験)」や「フラッシュバック(恐怖の記憶が蘇る)」は、高校の同級生の意外な答えで払拭された。

「俺は自分の意識をコントロールできるからバッドトリップにならないし、フラッシュバックもしない」

方法までは分からなかったけど、意識さえコントロールができれば恐れることはないのかと目から鱗だった。

そのような予備知識と、経験豊富なZのガイドの元、私は念願の初体験を果たした。

まず用量用法が重要だということを学んだ。

効き目は個人の耐性や用量によって異なるけれど、12時間に及ぶこともあるから、必ず朝一番の食事前に摂取すること。

空腹時が最も効き目が良く、摂取のタイミングが遅いと夜眠れなくなってしまい、日常生活に支障が出てしまうからだ。

そして最少量から始めるのが大前提。

摂取量が多すぎると意識のコントロールが難しくなり、それこそバッドトリップになり易く、良い効果を妨げてしまう可能性が高くなるからだ。

多すぎると効果に圧倒されてしまい、少量でも多くの気づきが得られるものを得られなくなるという意味でもある。

それに摂取量が多い分の耐性がつき易く、より多いの量が必要になり、コスパも悪い。

ストリートで入手できるものは、一口約50~150マイクログラムとされていているものの、品質もさることながら用量にも大きく差がある。

個人差によって数マイクログラムでも効果がまちまちだから、知らずに適量以上をとってしまうリスクは常にあると考える方が現実的。

そのため、1枚でも多すぎることは多々あり、半分や4分の1に切ってから始める方法もある。

更に精製水などに浸して、少しづつ摂取しながら心身の変化を慎重に観察するのが無難。

効き目のピークは1~3時間と時差があるから焦らず、瞑想でもして気持ちを落ち着かせた方が、良いトリップになる確率を上げてくれる。

英語圏では「マイクロドージング」と言って研究や書籍も多く、サイケデリック界隈では普及しつつある摂取法だが、その概念を和訳するなら「足を知る」だろう。

実際の効果も、摂取量や個人の精神状態や環境によって大きく左右される。

私の場合、もともと体験をすることを心待ちにし不安要素を取り除いた状態で、晴れた初夏の朝、経験豊富なガイドから摂取法の知識を教わりながら始め、効果がピークに達した時には近くの池と芝生のある静かな公園に行ける恵まれた環境だったので、精神が非常に癒された。

芝生の緑をはじめ全てがキラキラと輝いていて、美しかった。

靴を脱ぎ、素足で恐る恐る芝生を踏むとふかふかで、怖くないんだと思った。

自然と膝が折れ両手をつき、土下座の体制から大地に頭をつけると「ただいま」と声が漏れ、嬉涙が溢れた。

家に戻ると、Dが有機で完熟のパパイヤやドラゴンフルーツなどで作ってくれたスムージーを頂いた。

摂取量を最低限にすると、食事も普段通りに摂れるというのも利点の一つだと知った。

その後、彼らの友達で独自のアヤワスカ儀式(セレモニー)をしている台湾人女性Eとイギリス人男性のカップルと知り合った。

彼らによると、台湾にはDMT(人間の脳細胞を始め自然界で生成されている幻覚物質)を含む木が自生している。

その根っこを長時間煎じた液体を、MAO阻害薬となる種を長時間煎じた液体の後に飲む。

するとアヤワスカ(南米ペルーやボリビアなどの先住民族が用いる伝統医療)のような精神に作用する効果を得られるという。

意識レベルでは自分を変化することが如何に困難で、潜在意識を塗り替えないと根本的な変化が望めないということを痛感してきた私にとっては願ったり叶ったりな話だった。

セレモニーは日を改めて、台中にあるビーチで行われた。

Eの指示通り、定めた場所を清め、キャンプファイヤーを作り、参加者は瞑想して気持ちを落ち着かせた。

陽が落ちてから、輪になって、MAOI阻害薬をお猪口一杯、口に含む。

ただこの茶色い液体、酸っぱ苦くて、胃液のような不味さ。

30分くらい瞑想してからDMTの液体を飲む。これも滅茶苦茶不味い。

再び瞑想するのだが、しばらくすると、気持ち悪くなる。

座っていられなくなり、横になって嘔吐する。

するとボランティアでヘルパーとして参加している人たちが水を手渡してくれた。

そのような状態で一晩過ごし、いつの間にか陽が昇っていた。

ヘルパーとして参加しにきた人の中に、子連れの台湾人女性とデンマーク人男性がいた。

台湾のレイヴで度々見かけていた、富裕層オーラが出ていたカップル。

デンマーク人男性はケタミンが大好物のようで、Kホールを体験にしにきなよと自宅に誘ってきた。

Eはアヤワスカとチャンポンすることは勧めなかったが、未知なる向精神薬が目の前に現れる度に試さずにはいられない私の習性は筋金入り。

ラインを一本鼻から吸い込み粘膜に吸収させ、ソファアで目を瞑っていると、まるで空に浮いているような感覚を覚えた。

浮遊感自体は悪くなかったが、アヤワスカがまだ効いていたからなのか、気持ち悪さがぶり返しそうにもなった。

その時、南米で本場のセレモニーを経験したことがある白人女性が訪れ、イカロを唄ってくれた。

イカロとはセレモニーで歌われる治療のための歌。

吐きそうになってもう限界と思っても、彼女の心地よい歌声に意識を集中させると、浮遊感を持続できた。

氣持ち悪さと心地さの狭間で揺れながら、私はいつの間にか意識を失っていた。

翌日、会話の中で、アヤワスカ食べ合わせが悪いものが沢山あることを知った。

腐敗した物はもちろん、発酵食品や熟れすぎたもの、青果でもアボカドや柑橘系、チョコレートなどの刺激物はNG。

飲む前に摂取したら死に至るリスクがあるものもあるという。

おいおいおいおい、初耳だぞと思って焦った。

調べると「ディエタ」といい、事前に食べていいものと食べてはならないものが明確に決まっている。

最低でも1週間から1ヶ月前は刺激的な情報や性行為なども控えた方が良く、セレモニーを行う前の準備が肝心であることを知った。

精神を治療をする上で、命を落としそうになる危機感は低容量ピルでも経験したが、またもやリスクの高いことをしていたことに気づいた。

文字通り、死に物狂いだった。

ディエタを独学し、事前準備を万全にして数ヶ月後、セレモニーに再び挑んだ。

2回目はEたちの家がある山の中で行われた。

照明を落としたリビングで瞑想し、陽が落ちた後に苦い液体を二度に分けて飲む。

飲む前は、体が抵抗する。

深呼吸をし、目を瞑り、鼻をつまみながら飲むが、何度やっても慣れない。

しばらくすると、スピーカーからループ再生されていた詠唱が気持ち悪く、外に出た。

晩夏の涼しい空気が心地良く、アスファルトの地面に仰向けになった。

嘔吐してしばらくすると、感謝の気持ちが湧き出た。

そして自分が他人と物事を共有することに抵抗があることに気づいた。

自分のケチさに繋がっている気がして、そんな自分が好きではないけれど、裏切られたくないからだということまでは理解した。

その後、再びZ達の家を訪れた。

Jというニュージーランド人男性が訪れていて、イボガをやりに来ていた。

イボガとは、アフリカ西部ガボンなどに自生する木で、根っこに幻覚剤イボガインが多く含まれる。

ヘロイン中毒者の治療としても利用されるほど、潜在意識に働きかける精神作用が強いことで知られる。

アヤワスカ「母」だとすると、イボガは「父」と形容され、比較対象の引き合いにされることがある。

その作用は24時間と他のサイケデリックスに比べて長く、体が動かなくなり、意識も飛ぶのでアヤワスカより扱いが難しい。

ZもJもイボガを昔に経験し、人生が劇的に好転したと絶賛した。

夢の中でイボガに質問すると、なんでも教えてくれ、作用が終わった後、生まれ変わったかのように新しい習慣を始めることができるという。

想像できなかったけど、自分も試さない訳にはいかなくなった。

Jが国に帰り、イボガを注文してから、業者の不手際があり届くまでに1月以上の時間がかかった。

その間、Z宅で居候させてもらっていて、お金も払っていたのだが、次第に居心地が悪くなっていた。

イボガがようやく到着したら、Zがその日にセレモニーを始めると言い出した。

私は急に不安になり、数日待って欲しいと言っても聞き入れてもらえず、急かされた。

しかもなぜかセレモニーをする小屋に子犬9匹を持ち込み、最悪な環境にした。

至る所に糞尿をし、掃除をした後も悪臭が取れない状態。

そして私が寝るはずだった畳を直前に取り払い、どこからか持ってきた古い木のベッド2つを水で洗い、乾いていない状態で隣り合わせに並べ、薄いゴザを敷きそこで寝るように言われた。

中心に凹凸があり心地の悪い状態だった。

作用している間は動けなくなるので果物ダイエットをしてから浣腸をし、おまるが用意された。

夜になると、吐き気止めを事前に飲んでから、イボガの粉末3グラムをカプセルに入れて飲んだ。

これはかなり多い量だということを後に知る。

Zは”rabbit hole(ウサギの穴)”に集中しろと言ったが、何のことを言っているか分からない。

深夜になってZがいなくなり、目を瞑っていたものの、ハエの音が耳元で聞こえ、気持ち悪かった。

外灯も気になってしまい、体を起こして、立ちあがろうとしたけど、体が上手く動かない。

再びZが現れて、私の太ももをさすっている。怖い。やめて欲しい。声が出たかどうか分からなかった。

意識を失い、微かに覚えている夢の中では、赤と黒の邪悪な世界にいた。

日本人がアジア諸国を侵略し、人権侵害を繰り返してきたことに対する恥と罪悪感の表れのようだった。

目覚めると日中で、体が動いた。吐き気がして嘔吐した。

Zが表れ「よくやった」と褒められたが、憎悪が湧き上がり、彼の顔に唾を吐きかけたい衝動にかられた。

間もなくアヤワスカも飲むように進められ、私が拒否しても強要した。

仕方なく少しだけ飲んだ気がする。

ただ怖くて、一刻も早くその場から逃げたかった。

偶然Eとその彼氏が訪問していて、私がヒロイックドース(マイクロドーズの真逆)を果たしたことに関心していたが、私は上の空だった。

翌日にはZ宅を後にし、台北で知り合いと会ったが、愛想笑いができなかった。

私は数日後、衝動的に台湾を後にした。

向かったのは、日本で借りているアパート。

元々同棲していたが、私の単身赴任で遠距離中になった彼氏が住んでいる。

台湾勤務中も、年に数回帰っていたが、毎回数ヶ月分の汚れを数日間通しでディープクリーニングする羽目になっていた。

彼は真面目に働いて家賃や光熱費は払うけど、掃除はしない。

帰るたびにハウスダストでくしゃみが止まらず、ひたすら掃除。

汚れが目に付く度に怒りが勃発。

私が掃除の仕方を上手に教えられれば問題ないのに、と自己嫌悪に陥るけど、再びブチギレてしまう。

5年前と本質的には何も変わっていなかった。

「生理前に感情的になるっていうけど、生理関係なくない?」

確かに、彼のいう通りだった。

生理前から最中の計2週間は特に情緒不安定になるけれど、調子が比較的に安定する傾向にはある生理後2週間も大差ないことが少なくなかった。

新たな気づきについて英語で調べていると、Prementrual Exacerbation(PME/月経前増悪)という精神症状があると知った。

2015年時点、正式に認められた病名ではないけれど、英語圏では研究と認知が徐々に進んでいる模様。

月経前に気分の落ち込みが起こるPMDDと似ているため、混合されるが大きな違いがある。

PMEは、既にある別の精神疾患が、月経周期によって悪化すると考え、PMDDのように女性ホルモンの変化が根源とは考えない。

更に2014年9月の「ジャーナル・オブ・ウィメンズ・ヘルス」誌には次のような記載があった。

PMSPMDDを訴える女性の間では、過去に虐待を受けていたことが一般的だということが複数の小規模な研究で報告されている。

例えば、PMDD患者の方が性的・身体的虐待を受けている可能性が対照群に比べて極めて高く、初めて虐待を受けた年齢も低いという研究報告がある。

別の研究では、PMDDを経験している女性は児童性的虐待を受けている可能性が、対照群に比べて6.7倍高いという結果が出ている。」

児童性的虐待の被害者に顕著なのが、あらゆる精神疾患を網羅するComplex Post Traumatic Stress Disorder (CPTSD/複雑性心的外傷後ストレス障害)。

私は単なるPMDDではなく、CPTSDによるPMEかもしれないと思うと、腑に落ちるものがあった。

(つづく)



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34歳〜封印された父への怒り

34歳。過保護・過干渉な母親に悩んできた田房永子氏のコミックエッセイ『キレる私をやめたい〜夫をグーで殴る妻をやめるまで〜』で、

心理療法ゲシュタルトセラピーを知り、ワークショップに参加してみた。

「……下腹部に違和感を覚えると真っ暗闇で、隣で寝ているはずの父の方から伸びる手が、私の下着の中で動いていて、気持ち悪かった。寝ぼけているのだろうかと思い、寝返りを打つように母の方を向いて手を振り払おうとしたら、その手は私の下着の後ろを掴んだ。怖くなって、混乱した。お母さんを起こしていいのかも分からなくなり、なるべく早く、でもなるべく静かに両親のベッドからどうにか抜け出して、そのまま近くのトイレに駆け込み、レバーを下ろし、勢いよく流れる水の音量に焦りながら、家族みんながこの音で起きてしまわないようにと願いながら、自分のベッドに入って眠りにつこうとした。翌朝『お父さんにめごめごしてもらったんだって?よかったねぇ』と母にギュッと抱き寄せられて、混乱して、声が出なかった……。」

という奇妙すぎて「ただの悪夢かもしれない話」をした。

涙と鼻水を滝のように垂れ流しながら。

「では、お父さんへの怒りを声にしてみて」とセラピストから言われ、戸惑った。

私は、この話が仮に事実だった場合、助けてくれなかった母に対する怒りに取り組みたかったので、想定外の指示に言葉が詰まった。

仕方なく、仮に事実だった場合の父に「怒り」の言葉を言ってみた。

何を言ったか覚えてないけど、私自身が発声しているというのに、自分の声ではないような感覚があり「無理やり言わされている感」が心地悪かった。

ワークショップ終了後、私は慌ててセラピストに「でも、私は虐待を受けたとは思ってないんです」と伝えた。

セラピストはなにかを言ったが、その前に一瞬だけ目が点になって絶句した。

その一瞬の反応から、自分が何かおかしなことを言ったかもしれないと察した。

全く予想外な展開となったものの、涙がたくさん出たからか気分もスッキリし、参加前より足元も軽く感じた。

しかし、ただの悪夢かもしれないと思っていたことが事実かもしれなくて、私は虐待を受けてきたのかもしれない、となると頭の中が再び渋滞した。

結論に至る前に、色々と情報の整理が必要になった。

まず虐待の話でよくあるのが両親の不仲、離婚、片親、継親、DV。

我が家では、夫婦喧嘩は見たことなく、父は母のことを愛している旨を言動で表現していた。

それに私は待望の第一子で、幼い頃から父から溺愛されていた。

ずっと娘が欲しかったという父が婚前に旅先で見た景色から私の名前を閃いた話や、

両親が南国の島で蜜月中に授かった「ハネムーンベビー」が私だともよく言っていた。

まだお腹の中にいたとき、クラシック音楽をレコードで聴かせていたらしいし、

生まれた日はどれほど興奮したかという話もよく聞いた。

「家族揃ってご飯を食べるのが夢だった」という父の意向で毎晩、

家族全員で元気よく「いただきます!」と合掌してからいただいた。

両親は食事中、向かい合って定位置に座り時事ネタなどについて話し合っていた。

ご飯は母の手料理が基本だったが、父も刺身の盛り合わせ、すき焼き、鍋などの得意料理をたまに作ってくれた。

父が私に言った口癖の一つに「お前を飲兵衛にするのが夢なんだ」があった。

乳児の頃、祖父母と伯父らに囲まれ、父と一緒に日本を初めて訪れたことがわかる写真がある。

既に固形物を食べられる歳だったらしく、刺身などをペロリと食べるのを面白がった親族が私に惜しみなく与えたらしい。

父の母が料亭の娘という影響もあったのか、父の兄(伯父)は板前や魚屋をやっていた。

伯父が実家に居候していた頃、魚の食べ方を色々と教えてくれた。

大きい魚の目玉の裏にあるゼラチン質などの希少部位や、皮や骨の周りの美味しさ等。

なまこ酢、鮑の肝、鰻の肝、蟹味噌、帆立のひも、ロブスターの刺身など、磯香りや苦味の中の旨み、コリコリ食感などを求める通好みな味覚を持つ子供に育った。

海外でこのような食材が手に入ったのは、現地の日本食レストランでの父のキャリアや、独立してからの日本食料品店経営が大きい。

自営を始めた理由も、家族との時間を増やすためだと聞いている。

毎年ではないが、国内外へ家族旅行にも連れて行ってくれた。



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0歳〜愛妻家の性的逸脱行動

そんな家族想いな父、母と仲の良い父、私を溺愛する父が、自らの手で我が子の人生を意図的に狂わそうとするとは思えなかった。

同時にあの父なら、悪夢かもしれない話のようなことをやりかねないと思う節も仰山あった。

私が「初めてウソを理解した日」まで遡ろう。

現地校の保育園から帰宅すると、ダイニングテーブルに作り途中のホールケーキが置かれていた。

私は人差し指を突っ込んでホイップクリームを舐めた。

穴にすぐ気づいた母は、既に怒りまじりな声色で私を問いただし、私は咄嗟に「ううん」と言った。

バッチーン

「嘘つきに育てた覚えはありません!」と頬をビンタされた私は、母の反応に驚いた。

泣きわめく私を母は2階のクローゼットの中に閉じ込め、1階に戻った。

視界は真っ暗。

鍵のかかっていないドアを少し開けたが、母が怖くて出られないので、私は電気をつけた。

細長く奥行きのある空間を見渡すと、何かを覆っていた布から中身が少しだけ覗いていた。

開けてみると、肌を露出した女性が苦しそうな表情で見上げている雑誌の表紙。しかもそのような雑誌が山積みになっていた。

そういう物を見たのは初めてなはずで、なんという物かは知らなかったのに「あ、おとうさんのものだ」ということはすぐ分かった。

ショックと悲しみと恐怖で溢れていたはずなのに、途端に頭がスーッと冴え、馬鹿馬鹿しくなった。

「私がお母さんのケーキを無断で触ったことや、声色から叱られることを恐れて咄嗟に答えたことは『ウソ』といい、悪いことなんだ。なら、こういう隠れた趣味のあるお父さんが、アノトキ私の体にしたことは咎められなくて、そのことについて母にアノヨウナことを言ったのは『ウソ』ではないのか。少なくともお母さんは『よかったね』と言って喜んでいたじゃないか。私がしたことが『お仕置き』に値するなら、お父さんがしたことは?お母さんは騙されていることに気づいてもいないのに、自分が正しいと信じてしまっている。そんな母のいうことは何も信じられない。」

純粋無垢だった私に「嘘」の概念が無意識にインストールされた瞬間が思い出され、いとも簡単に騙されてしまう母に幻滅し、埋まっていた不信感の種が発芽した。

私がクローゼットで見つけた物は、その後、家中の色んな場所で見られた。

まず、例のクローゼットの隣にあるトイレのトイレットペーパーの真下の床に新しい号が常に置いてあった。

このトイレは、子供たちの寝室と両親の寝室の中間にあった。

父の机の一番下の深い引き出しの中にも、猥褻な雑誌やマンガも沢山入っていた。

いつからが、この引き出しだけ、片方のレールから外れた状態だった。

映像も沢山あった。父の店では複製したVHSのレンタルもしていて、

大半がドラマやバラエティやアニメだったが、猥褻なビデオもあった。

立派な著作権侵害だが、ネットが普及する前、

日本の大企業の駐在員であるお客さんには人気商品だった。

店の入り口の右手にビデオ棚があって、猥褻物は一番下の段に陳列していた。

猥褻物だと一目でわかるのは、ビデオのラベルに記載されたタイトルが、ピンクの蛍光ペンでハイライトされていたから。

ラベルをワープロで作るのは母の内職で、ピンクの線を引くのは父がやっていた。

猥褻物とは俗に「ポルノ」「エロ」「アダルト」と言われたりするが

、ポルノやエロは「性的興奮を刺激する」という意味が含まれ、アダルトは「成人」という意味があるので、語弊がある。

興奮するのは一部の人であり、嫌悪感を示す人が大半だ。

それに相手の意に反する表現が当然のように含まれる内容が主流で、性犯罪の現場を撮影しているものが少なくないため、

何歳になっても許されない言動を「大人」という言葉で正当化するのは危険。

「猥褻」と思わない人が一定数いても、猥褻だと思う人口が非常に多い現実と、

私もその一員であることを示すため、「猥褻物」を採用している。

とは言うものの。

猥褻な表現が、ドラマやバラエティ、子ども向けのマンガやアニメにも蔓延っているのも事実。

年代が古いものほど倫理観が狂っているものが著しいけど、

現代にもその伝統が引き継がれていることが少なくない。

私が未成年だった1980~90代も、親に見させてもらっていたバラエティやマンガ・アニメに猥褻表現が少なくなかった。

小学5年生の少女が入浴中、いきなり扉が開き、同級生の少年に裸を見られ不快感を覚える。

少年に悪気がない設定の割には、頻繁すぎるほど定番なシーンなことから作者の逸脱した性的嗜好が垣間見られる。

現実で起きたらトラウマ必須な表現を、子どもに繰り返し見せ続けた超国民的マンガ・アニメ。

子どもの頃から違和感を覚えいた一部シーンを除けば、シリーズ自体は面白く好きだっただけに残念だ。

いまや同じく超国民的アニメといえば、性器などのプライベートパーツを露出したり、

猥褻な発言を母親にしていた5歳の保育園児が主人公のものがある。

こちらも同様に「ギャク漫画」が原作で、要するに「面白いもの」とされている。

アニメ放送開始は私が小学3年生の頃で、日本語学校に子どもを通わせていた母親たちの間で「教育に悪い」と眉を顰められていた。

私の母親もそれを禁止するのかと思いきや、レンタル用のビデオとしてダビングされていて、簡単に観れた。

個人的に、このまんが・アニメの主人公には心底迷惑をしているのだが、その話は後述する。

猥褻な表現を「ギャグ」「面白い」とするのは、バラエティにも頻繁に見られた。

お笑い芸人が、知能の低い殿様として、女性複数の上半身を露出させ、強制わいせつをする。

また同芸人は一風変わった男性として、女性がシャワーに入っている間などに部屋に侵入して、女性を驚かせる。

父がある日、同芸人のことを「しょうもないなぁ」と言いながらが失笑した。

「しょうもない」という感覚が父にもあったのかという驚きと、

そう感じながらも子どもにそんな映像を見せ続ける神経がどう結びづくのか不思議だった。

コントなどは笑いが映像の外から聞こえたりするので、自発的に笑えなくても

「今は笑うタイミングなんだな」ということが、子どもでも分かる。

最初のうちは目新しさからか、面白いと思ったりもしたが、変わり映えしない芸風に子どもながら流石に飽きた。

父は自身の性体験に関する話も、惜しみなく堂々と話した。

その都度、誰に話していたか覚えていないが、私に直接話していたこともある。

少なくとも幼い私の耳に入るような場所、大体はダイニングで話していた。

例えば、若い時に、年上の女性から性的な手引きを受けたこと。

バックバッカー時代、女性を買い過ぎて、お金がなくなってホームレス同然になったこと。

結婚したての頃、母に性交を一日に3回求めたら、白い目をされたということ。

父の行動も性的に明け透けなことが多かった。

私が小学校低学年だったある夏の日。

「もう!お父さんったらいやらしい!娘の胸を覗くなんて!」と母が突然、声を上げた。

私は突然のことにびっくりし、反射的に父の方に目をやると、父は罰が悪そうに動揺している。

私はノースリーブを着ていただけで、何も悪いことをしていないのに、なんだか恥ずかしく、気持ちが悪かった。

私はある時から2階の子ど部屋から、1階の寝室に移動したのだが、風呂兼トイレの斜向かいの位置にあった。

父は毎晩、風呂に入る前、既に全裸の状態で、私の部屋の前を堂々と通った。

父は仕事中も性的なことを考えていたようだ。

作業場の周りに、原稿用紙が挟まれたクリップボードがあり、そこに現れていた。

まともに読んでもいないのに、子どもの私が性的だと一眼でわかったのは、喘ぎ声を表す波線が多用されていたからだ。

短大生の頃、父が仕事に失敗した時期があった。

正面玄関を開けて右手にあるリビングの床で毎日、父は横になりながらテレビを観ていたのだが、ズボンの中に手が必ず入っていた。

短大の時にできた彼氏と、自室で会話をしていたら、ノックも声がけも何も突然ドアが開き、

父が無言で顔を覗かせ、ドアを半開きにしたまま立ち去ったことがある。

父の性依存の様子は、他の成人男性が発した言葉からも確認された。

父の友人のIさんが我が家に居候することがたまにあったのだが、Iさんが父に言った。


「検索歴を奥さんが観たらマズいと思うから消しておいた方がいいよ。」

実家の地下にあった家族全員で共有していたパソコンのことである。

実家の地下といえば、ずっと謎なことがあった。

天気が優れない日は、洗濯物を干していた地下のボイラー室。

棚の上部に、女性のものと思われる乳房だけの画像と、英字の大文字9字の綴りが鏡にプリントされた木枠の盾が、立てかけられていた。

綴りを大人になって調べてみたら、過激な猥褻表現を含む欧米の男性向けライフスタイル雑誌で、

未成年も起用していたことで問題になっていたという。

たまにしか行かない地下の一室の隅にあったにしても、物心つく頃から目についていた盾。

「なんであんなところにあんなものがおいてあるんだろう」と不思議でたまらなかった。

お母さんはアレが気にならないのだろうか……。

私が進学のために実家を出て、日本に引っ越した後も、父の性的逸脱行動は続いた。

父は度々、祖母の様子を見るために訪日し、その度に連絡があり、会った。

短大生時代、父と神保町を歩いていて、雑居ビルのエレベーターに入る父の後について行った。

どこに行くんだろうと思ったのも束の間、ドアが開いた瞬間、そこは猥褻媒体専門の本屋。。

エラベーターから出たかどうかも覚えていない状態で、本をまじまじ見たわけでもないのに解る。

ピンクや赤を過剰に使うあの異様な世界観が空間から溢れ返っていた。

なんでこんなとこに連れてきた?と思考が追いつく前に、父はどこかへ消え、私は呆然と立ち尽くしていた。

すると何事もなかったかのように父が現れ、一緒にエレベーターで降り、世界に戻った。

あまりにも唐突で、奇妙な出来事に、自分の正気さえ疑ってしまう。

実際、鮮明に覚えているのは、不快でしかないわずか数分のことで、その前後の記憶は欠如している。

また別の日、SNS上で父から友達申請が来ていたことに気づいた。

LinkedINというFaceBookのビジネス版みたいなサイトで、肩書きや経歴などが強調されている。

父のそれを見ると「官能小説家」とだけ書かれていた。

流石に承認せず、見なかったことにしたが、一体何が目的なんだろうと、全く意味がわからなかった。

FaceBookは既に繋がっていた。

ある時から父が私のタイムラインに頻繁に投稿するようになり、私のページなのか父のページなのか分からない状態になっていたので、制限をかけたら苦情を言われた。

父は「女好き」なんだと思っていた。

中高生の頃、私の女友達の前では超ご機嫌で、私の友達とFaceBookで繋がったことを嬉しそうに話した。

でも私の男友達の前ではムスッとし、男友達を家に入れることを怒鳴られたことがある。

私には弟がおり、弟は性別問わず友達を呼べるのにだ。

父が「男尊女卑」だということは徐々に気づいた。

母は物心つく頃から、家事育児の他、父の店を手伝ったり、アルバイトをしたりていたりした。

私は物心つく以前から、家事と育児の手伝いをしてくれたと母から聞いている。

10歳から学校がない日曜日は父の店で朝から夜まで働いたし、

合法的に働ける年になったら、家事をしつつ、学校がある時間以外、極力バイトを入れていた。

「脱いだ服の籠が満タンになったら、地下の洗濯機のところまで持って行くなどして欲しい」

父が仕事に失敗し無職になって、リビングで自慰行為しながら毎日テレビを観ていた頃、痺れを切らした私が言うと、逆上された。

その言葉は全く響かなかったが、一家の大黒柱がせっせと働いている間、家でゴロゴロしてる女子供から指図される筋合いはないとでも思ってるから逆上できるのだろう。

父の男尊女卑は親譲りだということが、父方の両親宅で居候させてもらって直ぐにわかった。

祖母は、私の弟に対して「男の人はすごいね〜」と何もしてないのに褒めちぎった。

私に対しては、何をしてもしなくても「女のくせに」が口癖だった。

祖母も女なのに、「女のくせに」と言える神経が謎だった。

私が日本に越してすぐ、祖父が亡くなり、葬式のために父が訪日した時のこと。

私は大学の勉強をしようと、土曜日に図書館に向かおうとしたら、父から止められた。

「階段に埃が溜まっているから掃除をしていけ」

私は以前、床に埃が溜まっていることを祖母から高圧的に注意されたことがあるので、たまには掃除をしていた。

一方、弟が掃除をしているのを観たことがなかった。

「勉強があるから、弟に言って。まだ寝ているのだろうから。」

そういうと、父親はなぜ怒り始め、私のことを打とうと手を挙げた。

叩かれることは免れたが、その後一体どうなったのか記憶が抜けている。

でも父が男尊女卑である疑惑が決定的に証明された日として印象に深く残っている。

ちなみに祖母に掃除が行き届いていないことを注意されてから、私は積極的に掃除をしようとしてきた。

年寄りの祖母の手が届かないだろう家具の下や、トイレ掃除。

でも祖母は私が掃除をするのを見つけると

「なんだい!私が掃除をしていないとでも言いたいのか!」と怒鳴った。

女の私は掃除をしてもしなくても怒られる。

男の弟は掃除をしてもしなくても褒められる。

ノイローゼになり、食事をしても味がしなくて、満腹感も得られず体重が増え、生理が半年以上来ていなかった。

生理が来ないのはラッキーと思ったが、母に言われて、婦人科で薬をもらったらようやく来るようになった。

大学を卒業した後、両親が新居に引っ越し、しばらくしてから訪れた。

そこは南国の島で、両親がハネムーンの時に訪れ、そこで私を授かったという、ゆかりのある地。

両親が近くのビーチに連れてってくれて、浅瀬で泳いだ。

父は昔から趣味で写真を撮っていて、その時も一眼レフのカメラを持っていた。

撮った写真を見せてもらっていると突然、私が海に潜った時に水面から尻だけが出ている画像がスクリーン全面に映った。

たまたま遠目に写ってしまっているのではなく、あからさまにお尻だけのドアップが映されていた。

それにいち早く気づいた父は「あ、いけない」と言って、カメラを操作し始めた。

私は呆れて、言葉も出なかったが、実家に物心つく頃からあった分厚い写真アルバムのことが思い出された。

厚さ5センチ程あるハードカバーの写真集は重量だけでなく、気持ちまでも重くさせるものだった。

このアルバムは各子どもに一冊あって、主に父が撮影してキュレートしたものだ。

一見、両親の愛情の象徴のようにも見えたけど、それを開くたびになんとも言えない複雑な気持ちになった。

まず最初の写真は母親の腕の中にいる新生児の私。

次のページに首が座ったばかりで、よだれかけをして満面の笑みを浮かべている乳児。

物心つく頃から、この乳児をの写真を見る度に、これが私であることが信じられなかった。

何がそんなに嬉しくて笑っているんだろう。

そして次のページが最も嫌で、その写真を見なくて済むように、そのページを飛ばしていた。

おそらく母が私のおむつを変えている時の写真で、私の性器だけがドアップで写っている。

父はこのアルバムを愛情込めて作ったつもりなのだろうが、そう思えば思うほど、気持ちが重くなった。

今ならその気持ちがよく分かるし、当然だと思う。

これら全体の一部である「愛妻家の性的逸脱行動」に関する記憶は確かだが、結論に至るにはまだ早い気がした。

それには以下の理由がある。

・「父が性的虐待をするような人間に思えなかったこと」

・「私自身が性的虐待を受けたと思えず、むしろお父さん子だった矛盾」

・「仮に性的虐待を受けていたとして、「幼児期の夢」以外で証明することはできるのか」

・「そもそも夢ではない証拠はあるのか」

ずっと疑ってきただけに「ただの悪夢かもしれない話」の信憑性がまだ説明されていない気がした。

大前提として、児童性虐待に関する理解は世界的に遅れているが、欧米では日本に比べると研究も議論も進んでいる。

そのため私は英語で情報を得ることが多いが、米国では比較的に安価で簡単に入手できる本などが日本では限られ、一握りの和訳本を利用することも少なくない。

そのような状況下、児童性虐待研究など家庭内の暴力に関する第一人者デイビッド・フィンケルホー氏の著書の翻訳もされている森田ゆり氏の著書『子どもへの性的暴力』も参考にした。

①「父が性的虐待をするような人間に思えなかった」

性的虐待」というと「見知らぬ人から突然、殴る蹴るなどの暴行を受け強姦される」というイメージに限定されていた。

大人が子どもに教え込む「見知らぬ人は危険(英語で”Stranger Danger”)」という誤解に通づる。

母が学校と仕事以外の外出を厳しく制限したのも「危険は家の外にある」という信念の元だった。

安心しきっている家庭の中に、子どもに虐待をする人がいるなんて、想像できないのはわからなくない。

でも現実、性犯罪は信頼関係を利用して犯され、加害者は被害者が知っている場合が大半である。

「娘の安全を危惧して躾けている」と主張していた母でさえ、体罰・罵倒・嫌味などのモラハラという虐待をしていたことに全く無自覚だった。

母の分かりやすい虐待と比較した時、父の猥褻行為はどれも陰湿で、奇妙で、唐突だったので「え?今のって何?本当に起きた?」と信じられない感覚になった。

それに一家の大黒柱だった父を敵に回すことはあり得なかった。

母が父に騙されていると気づいてから、母に頼る道は断たれた。

母の体罰で深まる一方の確執は、私が両親に真実を伝える機会をますます減らし、それによって家族が繋ぎ止められる。

寝る前に感覚付きの映像(フラッシュバック)を見るたびに初めての猥褻を「悪夢」と否定しながら、

体罰を受けるたびにもフラッシュバックする悪夢かもしれない映像が真実なら「墓場まで持っていく」と誓っていた。


②私は「性的虐待」を受けたと思えず、むしろ「お父さん子」だった。

母と仲良くできることもあったが、一緒にいると神経がすり減る方が多い。

弟たちのことは「年下の男ども」として見下すことで優越感を保とうとしていた。

家族で安定的に「仲良く」できるのは父だった。

母のようになんでもかんでも否定せず、陽気で冗談をいう人。

冒険心があるという意味でも気が合う部分があった。

ファザコン」と嘲笑されたことや、そういう視線で見られているのを感じることは度々あった。

その最たる例になるような言動や習慣があり、思い出すのがいまだに辛い。

そのため詳細は伏せるが......父が私に「グルーミング(手懐ける行為)」をしていたために私がとった言動であるという以外、説明がつかない。

ジャニー喜多川の児童性虐待多発事件」で日本では認知されるようになった言葉だ。

でもそれは性犯罪者が標的と性的な接触をするうえで有利になる「信頼関係」を築く手法として昔から高確率で行われている。

また危険を感じた際の防衛反応として4F(ファイト/闘う・フライト/逃げる・フリーズ/硬直する・フォーン/主体性を失う)がある。

フォーン(Fawn)は、前者の3Fに成功しなかった末に取る場合があり、虐待が日常的に起きている環境で育った人に多くみられる。

対立が生まれるような状況を避ける、相手の言いなりになる、拒否ができない、過剰に愛想を良くする、他人の感情や欲求に敏感になり、自分の感情や欲求には鈍感になる等がある。

私が父に必要以上に好意的な言動を続け、さも自分の意思であるかのように振る舞ったのもこのせい。

私も4Fを自然と実行した:父に猥褻をされ手を振り払おうとした(ファイト)、父に下着を捕まれ一瞬硬直し(フリーズ)、逃げ(フライト)、母に翌朝「良かったね」と言われても否定しなかった(フォーン)。

3Fが効かなかったので、常に両親の顔色を伺って、喜びそうなことを先回りするのが当たり前だった。

同時に自分の本心や意に反することが「平気」にできるようになっていた。

性的虐待を受けた子供たちの心理状態「性的虐待順応症候群」も「順応」がキーワードになっていて、典型的な反応5パターンが見られる:

性的虐待の事実を秘密にしようとする。

②自分は無力で状況を変えることはできないと思っている。

③加害者を含めたまわりの大人の期待・要請に合わせよう、順応しようとする。

④暴行を受けたことを認めたがらない。または事実関係が矛盾した証言をする。

⑤暴行されたと認めたあとでその事実を取り消す。

私の場合「性的虐待の事実を秘密にしよう」としたのは父親。

幼児の私は、不快感・恐怖心・混乱は覚えても、父が言動を秘密にするに値するほど罪で恥ずかしい児童性的虐待という犯罪だという認識を持ち合わせていなかった。

でも「お父さんにメゴメゴしてもらったんだって?よかったねぇ」と母親に言われた瞬間、私の気持ちは完全に否定され、父親の「好意的な行動」ということになっていて、混乱のあまり言葉を失った。

天地がひっくり返り、解離して記憶がない期間があるものの、トラウマを思い出すきっかけがある度に脳裏にひっかかっていた。

そんな私が「当時の性的虐待の事実を秘密にしよう」と思ったのは、思春期になってからのこと。

その頃には「男性の性欲を刺激する可能性のあること」が、体罰に値するほど思い罪だということを、母からの唐突な躾によって叩き込まれたから。

でも、それなら、父親が幼児の私にしたことやその直後についた嘘が重罪であるかということになる。

そんな悲惨な事実を、私に体罰を加えることでしか守れないと信じ込んで偽善者になっている哀れな母親に言えるはずがなかった。

母に真実を告白しても、信じてもらえないか、ショックを受けさせるのが関の山。

理不尽と思いながらも体罰を受けた方が、結果が見えているだけ気持ち的に楽だったのだろう。

自分だけが犠牲になればいいという思考回路は既に染み付いていたので。


「自分は無力で状況を変えることはできないと思っている」

無力感や絶望感は、父親から植え付けられた。

私は父親からの性被害に自力で抵抗し、逃げたにも関わらず翌朝には、「お父さんにメゴメゴしてもらったんだって?よかったねぇ」と母親に言われたのだ。

自分の感覚も感情も行動も、信頼していた両親に全否定され、この時から不信感が芽生えた。

「加害者を含めたまわりの大人の期待・要請に合わせよう、順応しようとする」


母曰く「私はもともと聞き分けの良い子だった」らしいが、大人の期待や要請に合わせて「順応」する言動は、性的虐待を受けてから歪に強化された。

それは性被害を受ける前のように自然で自発的な言動ではなく、大人の求める言動を意識しながら選択するという意味で大きく異なった。

最たる例が、

「暴行を受けたことを認めたがらない」


性被害後も両親の寝室で、母親を必ず挟んでベッドの端に寝る度に「あの記憶はただの悪夢だよね?なら、なんでふたりの間で寝なくなったの?」と自問自答を繰り返していました。これは被害を受けたことを認めたがらないことを表しています。

「暴行されたと認めたあとでその事実を取り消す」


私は自分が受けた性被害の話を嗚咽しながらカウンセラーに語った後「でも性的虐待を受けたとは思えないんです」と言ったほど、2017年まで感覚が麻痺していました。カウンセラーの目が点になった際「もしかして私は今おかしいことを言ったのかもしれない。私が経験したことも性的虐待に値するのかもしれない」と気づき始めました。

性的虐待と聞くと、悪意を丸出しにした見知らぬ加害者が、被害者に対して力づくで強姦をするという強烈なイメージが伴っていました。しかし私は父親から暴行を受けて身体を痛めつけられた訳ではないから、暴行や虐待には値しないと思っていました。


性被害児の心理的動機は次の三点に要約できます:

①自分が悪かったと思い込んでいる罪悪感

②加害者や家族が自分のことで困った立場に立たされることへの不安

性的虐待が実証されてしまったら自分の身はどうなるのかどうなるのだろうという恐れ

 「性的虐待が実証されてしまったら自分の身はどうなるのかどうなるのだろうという恐れ」は無意識のうちに強く感じていたと思います。私は子どもの頃「お父さんとお母さんが離婚したら、どっちが私を選ぶだろう?」と頻繁に妄想していました。この答えはいつも出ませんでしたが、しょっちゅう考えていて、なんで自分はこんなことを考えているんだろう?という自問もしていました。私はこれを遊びのように考えていました。


「加害者や家族が自分のことで困った立場に立たされることへの不安」も無意識的に強く感じていたと思います。私には弟がふたりいます。万が一両親が離婚した場合、母親が子ども三人をシングルマザーとして育てなくてはならないかもしれないという心配はありました。しかし、母親が自分の話を信じてくれなかったら自分の居心地が悪くなるだけになってしまい、そうすると何も言わない方が無難だという結論に落ち着きました。

私の場合、性被害を受けた直後は「自分が悪かったと思い込んでいる罪悪感」はありませんでしたが、思春期になってから「私は女に生まれてきたから性差別や性的虐待を受けたのだ」と自分の性を憎みました。それは両親の「男尊女卑に根付いた」躾の仕方が原因ですが、今回は「性被害を受けた直後の心理的動機」に限定して割愛します。


性的虐待順応症候群」以外の被害児童の心理的反応:

・被害待児は加害者を守ろうとする...特に加害者が保護者の場合は、こともは虐待者に憎しみよりも愛着を持っていることの方が多い。

・自分を援助、救出しようと頑張ってくれる援助者に対して、ときには拒否や攻撃の言動をとってしまう。


「加害者を守ろうとし、憎しみよりも愛着を持つことの方が多い」ということには共感できます。私は幼少期から成人した後まで「お父さん子」でした。内心、自分でもそのことを「気持ち悪い」と思っていましたが、長年やめられませんでした。どのような「お父さん子」だったのか、いまだに思い出そうとするだけで気分が悪くなるので、今はまだあまり無理して書かないことにします。

一方で母親とは長年確執がありました。母親からは嫌われていると思い込んだ方が楽だと子どもの頃に泣きながら思いはじめた頃を鮮明に覚えています。私が母親のことを嫌いな理由が、短気で体罰を加えてきて、私の人格を否定し続けたからだと思っています。本当は母親に頼りたかったけれど、心を許そうとした瞬間に裏切られ傷ついてきたので、物理的・精神的な距離を時間をかけてとってきました。

④加害の前提条件

近親姦被害はどのような状況で起きたのか

今回は、私が幼児(推定4歳)の頃、父親から近親姦被害を受けた現場の状況を検証します。

結論からいうと、犯行現場は「実家の中」「両親の間」という一見、子どもにとってこの上なく「安全な場所」と一般的に捉えられる傾向にある場所であったにも関わらず、父親が私に対する性加害を加えるための条件が、全て揃っている危険な環境だったことがわかりました。

「安全」なはずなのに「危険」という矛盾。

私が自身が受けた性被害を「なかったこと」として長年疑ってきた理由のひとつとして「不可解なことが多かったから」ということがいえます。

被害当時から30年以上の間、フラッシュバックを繰り返す度に、次のような疑問が浮かんでは、答えを知らないふりをし続けていました。

・なぜ父は、娘の私の陰部に触れている(いた)のか?
・なぜ父は、それが犯罪だということが分からなかったのか?
・なぜ父は、私が寝ている夜間に犯行に及んだのか?
・なぜ父は、私が拒んだ際に執拗に追求したのか?
・なぜ父は、私が逃げたにも関わらず、自分の犯行を正当化するような言葉を母親に吹き込んだのか?

性犯罪を前提にした上記の疑問を見ると、父親の言動はまるで悪質で陰湿な「確信犯」。「近親姦」「小児性偏執」と捉えられてもおかしくありません。

それは私が子ども心に抱いていた「優しくて面白くて明るい父親像」とは真逆な性質をもつ人格を受け入れることであり、幼児の私にはそれができず近年まで、ただただ混乱していました。

しかし一旦、性被害を事実として肯定してみると今度は、辻褄があうことの方が多かったのです。

性的虐待における「加害の前提条件」を参照してみても、父親が犯行に及ぶための条件が全て揃っていたことがわかりました。

その理解によって「私が記憶している性被害は本当に起きたのだ」ということをより肯定し易くなりました。同時に長年不可解だった疑問も解けてきました。


性被害後の兆候

 


③私が「性的虐待」を受けたことを、記憶意外で証明できるか検証しよう。

性的虐待の最も明白なサインは二つあるといわれていて、私は両方とも該当する。

・子どもの様子がいつもと違う、と思ったとき。
・子どもが性的被害を受けたことを口にしたとき。

「子どもが次のような兆候を急に示すようになったり、今までとは極端に異なった行動をするようになったら、性的虐待あるいは、性的いじめにあっている可能性があるそうだが、全て該当する。

✔︎特定の場所に行きたがらない

✔︎解離症状(健忘、意識喪失)がある

✔︎性器への関心を見せるようになった

✔︎他の子どもの性器にさわろうとする

✔︎年齢に不釣り合いな、性器や性行為に関する知識を持っている

✔︎過食、拒食など摂食障害がある

✔︎自傷行為を繰り返えす

✔︎多動。落ち着きのなさ、乱暴

✔︎夜尿

✔︎性器に外傷がある

✔︎徘徊、家出、不登校、万引き、虚言、薬物使用、自殺未遂、援助交際など、大人の目からは不良行為、非行、問題行動を見られる行動をとる

わかりやすい例が、両親の寝室で寝るのが、体調不良の時だけに限定され、両親の間で寝なくなったこと(特定の場所に行きたがらない・解離症状)。

事件が起きる前、弟たちと「両親の間で寝るという特等席」の争奪戦になっていた。

それを解決するために、私は「ジャンケン」を提案した。

ジャンケンは、日本語学校の保育園で学んだ。

なのに、ある時から、私はジャンケンをする弟たちを横目に、素通りするようになった。

体調不良という心細さから、やむ終えず両親の寝室で寝る時は必ず、母親を間に挟むようになった。

そして深夜、仰向けで目を瞑っていると突然、感覚つきの映像が脳裏をかすめ、

「またあの悪夢か」とウンザリしていると、挑発的な声が私の嫌がることをしつこく唆してくる。

「でもさぁ、単なる悪夢ならさぁ、お父さんとお母さんの間でなんで寝ないの?昔は2人の間で寝るのを弟たちと取り合いになっていたじゃん。ほら2人の間で寝てごらん。」

フラッシュバックと幻聴をかき消そうと、私はひつじを一匹づつ数えてみたりしたけど、なかなか寝付けない。

両親の寝息に気づいてやっと寝落ちできたのは、両親が起きているかもしれないことがどれほど恐ろしいことに繋がるかということを潜在意識が覚えていたからだろう。

性被害を受ける前の記憶がほとんど消えているのも変化の一つ。

唯一鮮明に覚えているのは、弟たちと両親の間で寝るのを決めるためにジャンケンを提案したことくらい。

性被害が起きた証拠となる記憶だから覚えているのだろうと思わざるを得ない。

私の記憶は、幼少期から抜け落ちていることが多いのに、その中で鮮明な記憶を辿っていくと、初めて父親から受けた性加害の記憶に結びつく共通点があるからだ。

フラッシュバックもその一つ。

実際、私がフラッシュバックをするたびに聞こえていた幻聴は、私の中にいる別人格の1人だった。

この頃私には4人の人格がさまざまな意識レベルで共存していて、整理して命名するとこうなる:

1) 性被害を受ける前の「みつごちゃん」
(記憶はほとんどなく、写真や両親の供述の中で存在する)

2)性被害を完全に忘れている日常の「あさひちゃん」
(モヤの中で生きていて記憶がおぼろげ)

3)フラッシュバックを「悪夢」と否定する「あさひちゃん2号」
(トリガーによって現れ、意識が鮮明)

4)私が嫌がることを挑発してくる「幻聴1号」
(性被害を覚えている風で、その後も形を変えて悪さをしてくる)

 



注目を浴びるために弟の頭を壁にぶつけるという暴力を振るったことも(乱暴)。

母親のケーキを無断で舐めたことを問いただされ初めて嘘をついたことも(不良行為・虚言)。

猥褻媒体を初めて見たはずなのに「父親の私物」だと察したことも(年齢に不釣り合いな、性器や性行為に関する知識を持っている)。

父親が私にしたことについて嘘をつき、母親を騙したのだと悟ったことも。

弟の性器に突然、興味を持って触ってみたら、弟が笑ったことが衝撃だったことも。

2歳年下の弟は幼児期、よく下半身を丸出しにして走り回っていた。

なぜかはわからないが、当時は疑問にも思っていなかった。

でも私はある日、何を思ったか、両親の寝室のベッドの上に座った状態で下半身を露出していた弟の男性器を指で突っついた。

すると弟はケラケラと笑った。

私はその反応に驚いて、もう一度、指で突っついた。

すると同じように弟はケラケラと笑った。

弟の反応は私にとって衝撃的だった。

性教育は受けていなくても、男の子の性器が女の子の性器に匹敵する場所くらいの認識はあった。

その場所を他人に触れられて笑える神経が不思議でたまらなかった(私が父親に触られた時の反応と真逆だった)。

どれも記憶が鮮明なのは、性被害を受けた直後に私の行動が変わり、周りの反応が予想外で二重のショックを受けたからだ。

父親が食卓に加わる夕食の時だけ毎日、お腹を壊すまで食べ続け下痢を繰り返す「過食症」だったことは、大人になってから「躁的操作」という言葉を知って気づいた。

「性器に外傷がある」と「自傷行為」はセット。

主にセルフネグレクトを通じて無意識に自分の身体を傷つけていた。

体を洗うことも汚れた下着をとりかえることもしないと、性器が炎症を起こして傷になり、たまにシャワーの水が当たると痛みを感じる。 

風呂に入らなくなった原因は父だ。

バックパッカー時代、女性を買いまくって破産したという父が、ある女性旅行者について「あいつは風呂にも入らないで、あんなのは女じゃない」と言った。

女性であっても不衛生だったら男から色目で見られないのかと閃いた私は、不衛生さに護身術としてのメリットを感じた。

どの道、父親が風呂に入った後はいつも何か白くヌルヌルとしたものが浮いていて気持ち悪く、体が余計に汚れる気がしていた。

気持ち悪い風呂に入らなくていいうえ、身体を守る訓練になるなら一石二鳥だと思い、何日間、何週間シャワーに入らなくてもいいかということをサバイバルゲームをする感覚で始めた。

これは34年繰り返してきて、いまだにシャワーに浴びることに苦手意識がある。

夜尿。

「これは夢?現実?......夢。」と確信してから放尿し、肌の濡れた感覚で目覚める。

小学生の頃まで両親のベッドで寝るとよくあることで、子どもならよくあることと思って、気にかけていなかった。

でも40歳になって、自伝を書きながらトラウマ体験による鬱の悪化や不眠が続いたある晩、当時と同じ夢から始まる夜尿をした。

父親からの性被害と全く無関係じゃなかったことに気づかされた。

大人の目からは「不良行為」と見られる行動に関して。

私は思春期になると、いわゆる「不良」とレッテルを貼られるような子どもたちと仲良くなった。

その子たちは大概、機能不全家族で育ち、片親、保護者からの暴力、肉親からの性被害、アルコールやドラッグ中毒の親、貧困などあらゆる問題を抱えていた。

友達の過酷な人生を聞くと自分の人生が平凡に思えたので、私はいくらでも聞きたかったが、うちには厳しい門限があった。

門限を破り始めると例のごとく、母親から説教とビンタをされ、父親からの性被害がフレッシュバックした。

無論、私は友達の家で話を聞いていただけでなく「不良行為」もやっていた。

万引き、ドラッグ、性行動。

バイトで稼いだお金を自由に使わせてもらえなかったので、お金を使わずに欲しいものとスリルまで味わえたので、癖になっていた。

ドラッグは、感覚が麻痺した日常の中で、「生きている感覚」を呼び覚ます効果があり、癖になった。

性行動は「何がそんなにいいの?」という好奇心で試したけど、一向に良さがわからなかった。

自分の心と体を傷つけてくる男ばかり魅力的に感じ、優しそうな男は毛嫌いした。

中でも門限を破ることがなぜ悪いのかは本当に理解できなかった。

私にとって外より家の中の方がよっぽど危険だったから。

次に「子どもが性的被害を受けたことを口にしたとき」に関して。

私は子どもの頃、性的被害という概念や言葉を知らなかったので、口にすることはなかった。

そもそも、両親の頭の中では「良いこと」になっていたので、自分が感じた「気持ち悪さ」「怖さ」「不可解さ」は無いこととされていた。

自分の感覚を両親に反して主張するより、両親が正しく自分が間違っていると思った方が自然だった。

しかし、生まれてからせいぜい4年で最も恐ろしい体験を「良いこと」と思うことに対して意識が追いつかず解離をしていた、と理解すると説明がつかなかった多くの現象に納得できる。

でも、フラッシュバックはコントロールできず、その度に「なかったはずのことが」今ここで起きているかのような鮮明さで思い出されるため、

「もしかして事実かのかもしれない」と思わざるを得なくなって、記憶を棒人間で表現してみたりしたこともある。

でも仮に事実だったとしたら「墓場まで持っていく」と固く誓っていた。

そんな私が4歳の時の性被害について他人に初めて打ち明けたのは24歳の頃。

同僚の男性に自然と話せた時は、自分でも驚いた。

きっかけは、彼が受けた性被害について話してくれたことだった。

彼が「男性だ」というのが最大の要因だった。

女友達らが受けた性被害の話は、昔からよく聞いてきたので、慣れていたというか、麻痺していたというか、麻痺をするために利用していたとも言える。

女友達が打ち明けてくれた時、私は自分の話をしようなんて思いもよらなかった。

「私はレイプ/性的挿入をされた訳ではない」

と自分が受けたかもしれない猥褻を矮小化したり、

「あなたの加害者は親族であって、私みたいに実の父親(直系家族)ではない」

と、時には深刻さの度合いに優劣をつけようとすることで、

自分の話をしなくていい言い訳を頭の奥の方で、ほぼ無意識に作っていた。

もし同僚が女性だったら、いくら境遇が似ていてもきっと話していなかっただろう。

それは私の頭で「女性が性被害に遭うのは特別珍しいことではない(+加害者は男性)」と思い込んでいた部分が強かったから。

だから男性も性被害に遭うということが当時は衝撃で、麻痺した自分の心を揺さぶったのだった。

(この時、自分が弟に性加害をしていた自覚はまだ表面化していなかった)。

同僚に自分の記憶を打ち明けた矢先、悪夢として否定していたことを認めたようで戸惑い、涙が少し出た。

「でもただの悪夢かもしれない」とすかさず、疑いの余地を残した。

私はその後、当時交際していた男性にも話してみた。

その男性は「I’m mad that you told me. (打ち明けてくれたことを怒っている)」と言った。

言わない方が良かったのかと思うと、良い気持ちはしなかった。

その男性と別れた後、別の男性にも打ち明けたら、その人は話したことを肯定してくれた。

この男性と交際に発展するのだが、新たなる地獄の始まりだとこの時は想像だにしていなかった。

両親と初めて対峙したのはそれから10年後の35歳の時。この話は後述する。


性的虐待の四つの前提条件:

 

  1. 加害者には何らかの動機がある。
  2. 加害者は、その動機に基づく性的行為をしてはならないと思う内的抑止力を失っている。
  3. 加害者は、その動機に基づく性的行為を様たける外的抑止力のない場所を選ぶ。
  4. 加害者は、子どもからの抵抗がない状態を作る。
  5. 加害者の動機: なぜ父は、娘の私の陰部に触れていたのか?


子どもに何らかの性行為をしたいと思う動機には、三つの要素があるといわれていますが、父親の場合は少なくともそのうちの一つである「阻害(子どもしか性的満足を得る対象がない。たとえば成人女性と対等に人間関係をもてない男性)」に当てはまるようです。

娘の私からすると母親は生真面目で短気な性格で、快楽に対してマイナスな印象を強くもっているようにみえる人でした。新婚当時に性行為を1日に三回求めた際に母親から白い目で見られたと自嘲していた父の話が、幼い頃の私の記憶の中にあります。私が思春期の頃、目の前で父親が母親の頬に無理矢理キスをした時、母親は顔を顰めて抵抗していたのを覚えています。私が成人した後「母親と性行為をしたい」と父親から話されたことがあります。おそらく、弟たちが生まれた後、母親は育児や家事に追われ、性生活は一切なくなったということが安易に想像できます。私が性被害にあった時、一番下の弟は少なくとも2歳くらいにはなっていました。

  1. 内的抑止力が働いていない: なぜ父は、それが犯罪だということが分からず、私が拒んだ際も執拗に追求したのか?


厳格な母に比べると父の方が穏やかに見え、家庭の実権は母が握っているように見えました。しかし、父親から度々「男尊女卑」な発言が伺えたのも事実です。「父親の権力の絶対化、父親のすることはすべて正しいという考え方、子どもの気持ちへの共感や理解を持てない男性」という要素が父親にもあったのでしょう。そのように認知が歪んでいるから、娘のパンツに手を突っ込んで陰部を触れたのでしょう。嫌がって逃げた娘の気持ちを無視できたのでしょう。母親に「お父さんからメゴメゴしてもらったんだって?よかったね」と言わせるような先回りして発言ができるのでしょう。

また父親がエロ本やアダルトビデオを毎日観ていたことによって、犯罪と妄想の判別がつかなくなるほど感覚が麻痺していたのではないだろうかとも思います。

 

  1. 外的抑止力のない場所を選ぶ: なぜ父は、私が寝ている夜間に犯行に及んだのか?


「特殊な例外を覗いて大半の性的虐待は加害者と被害者しかいない場で発生する」らしいですが、私の場合は両親の寝室のベッドの上で、私の隣に母親が寝ている状態でした。本来、母親の存在は大きな抑止力となるそうですが、父親の場合は、母親が熟睡中だったことが「特殊な例外」に該当するのでしょう。

 

  1. 子どもからの抵抗がない状態を作る: なぜ父は、自分の犯行を正当化するような言葉を母親に吹き込んだのか?


犯行が起きた深夜から翌朝までの数時間の間、父親は三度にわたり、私が抵抗できない状況を作ろうとしました。性被害当時、①就寝中で意識のない私を狙いました。私は下腹部に不快感を覚えて目覚め、抵抗(手を払おうと母の方に寝返り)したにも関わらず、②父は私のパンツを握りました。その執拗さに恐怖と混乱を覚え、私はベッドから脱出して逃げました。

「子どもの小さな抵抗も、性的虐待の場合は、加害者の行動を止める効果を発揮しうる」という理論もあるそうですが、父親の場合はそうではありませんでした。翌朝、母親は私に「お父さんからメゴメゴしてもらったんだって?よかったねぇ」と言いました。ということは、そのような言動をさせるようなことを③父親は先回りして母親に吹き込んだということになります。罪の意識があれば謝るのが筋ですが、己の言動を正当化できるという時点で確認犯です。

このように冷静に検証すれば、幼少期から30年以上フラッシュバックする性被害の記憶が、「虚言に基づくもの」なのか「事実に基づくものなのか」すぐわかりそうなものです。

でも当時まだ4歳くらいの私には難易度が高過ぎました。

年齢の低さも大きな要因ですが、それだけではありませんでした。幼少期から家庭内で子供が自分の身体を大切に思えるような性教育を受けていませんでした。

もし、私が言葉を理解できる年齢になったときに、母親から「水着ゾーンは貴方だけの大切な場所だから、誰にも見せたり触らせたりしたらダメなのよ。誰か見たり触ったりしてきたら、嫌だ!って大きい声で言って、逃げて、必ず話してね」と教わっていたら、私は30年以上もひとりで思い悩むことはなかったし、必要以上に苦しむことはありませんでした。

しかし、我が家では成人した後もそのような教育は一切ありませんでした。

その代わり、家の中には子供の目につく場所にポルノ媒体が複数箇所(トイレ、クローゼット、父の机、テレビの周辺、地下室、リビング)にありました。子どもに「ク○ヨンしんちゃん」や「バ○殿」「変○おじさん」を平然と見せるような親でした。父親からは、女を買って散財した自慢話や「女は受け身」という謎の口癖を幼い頃から聞いていました。

......。

自分で書きながら改めてドン引きしますが、これはまだ序の口です。私は被害を受けてから家庭から脱出することに成功するまで約18年間かかり、父親と縁を切るまで更に14年かかりました。それからまだ約2年しか経っていません。回復への道のりはまだまだ続きます。おそらく一生かかっても後遺症は残ることを覚悟しています。しかし、自分の人生で起きたことを否定し続けきた32年間より、肯定しはじめてからの方が「生きている」実感があるのは確かです。だから、私は自分の感覚や感情を肯定することにこれからも挑戦していきます。




④夢ではない証拠はある?

夢は時間が経つと内容を忘れてしまう。

私が「悪夢だと思っていた感覚つきの映像」の内容が時間と共に薄れることはなく、まるで再体験しているかのように鮮明だ。

しかし色んなことに気づいてしまった今、両親にどう接すればいいだろう。

ゲシュタルトセラピーのワークショップに参加した1週間後、『しんどい母から逃げる‼︎いったん親のせいにしてみたら案外うまくいった』という新刊のコミックエッセイを購入。

タイトル通り、田房永子さんのまたもやタイムリーな作品のお陰で、一旦両親のせいにしてみて、彼らの連絡を一切無視してみることにした。


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初診「解離性障害」(更新中)

ゲシュタルトセラピーのワークショップ参加後、個人セッションを数ヶ月後に予約した。

その間、精神科医を初めて受診。

医師はイライラしながら「あなたの話を聞くつもりない」「私の本を読みなさい」と診察中も著書ばかり勧めてきた。

問診票をみて診断したのか分からないが、「解離(解離性障害)はあるね」と言われた。

再訪する気にならかなったどころか、お陰で鬱が悪化した。

ゲシュタルトセラピーの個人セッション当日、エンプティ・チェアという方法を使った。

私が一人二役で、「小さい頃の自分」と「今の自分」として対話をした。

私がずっと「小さい頃の自分」を責めていたことに気づいた。

「なんでもっと早く助けを求めなかったの。」

小さい頃の私は、当時からできることは全てしていたという。

「抵抗して、逃げた。でもお父さんからされていることが怖すぎて、お母さんを起こせなかった。お父さんから怖いことをされていると認めたくなかったのかもしれない。パニックになっていた。翌朝のお母さんの言葉に混乱して声が出なかった。それにお母さんが嬉しそうだったから、なおさら否定できなかった。

自分に起きたことがお母さんが言ったように『良かった』訳ないと気づいた後も、話さなかったのは、不安だったから。

また否定はされても、信じてはくれないだろう。

仮に信じてもらえたとして、両親の仲が悪くなって離婚することにでもなったら、お母さんが一人で子ども3人育てるのも大変だろうし、弟たちと離れ離れになってしまうかもしれない。

私が何もなかったように振る舞えば、このまま仲良し家族として暮らせると思った。」

あの家族の中で、私の居場所を確保するために、当時できるベストを尽くしてくれたのだった。

私は「ありがとう」と言った。

心がこもっていたとは言い難いが、小さい頃の自分にお礼を言ったのは初めてだった。

セラピー終了後、セラピストが驚いた表情で私に言った。

「小さい頃のあなたとして話す時に毎回、正座に座り直していました。」

無自覚だった。

小さい頃、常に感じていた緊張感が座り方にも現れてたのかと思うと納得できた。

数日が経ち、セラピーで感じたことを形にして残したいと思い、ペンを取った。

すると、小さい頃の自分あるいはインナーチャイルド(IC)と思える少女の顔に喜怒哀楽豊かな表情が描けた。

過去にもこの少女の絵を描いたことは何度もあったけど、仮面をしていたり、後ろを向いていたので、大きな変化だった。

次にICと今の自分の似顔絵から吹き出しを描いて会話をさせてみた。

会話のリレーが続き私が「そろそろ幸せな人生を歩みたいんだけど、いいかな」と聞くと、ICは何も答えてくれなくなった。

その後もイライラや鬱、彼氏に突然ブチギレるDVも続いた。

晩秋になったら仕事上、再訪したい渡航先がり、行けるかギリギリまで不安だったけど、土壇場で実行に移した。

私は昔から、働くことになると、仕事モードに切り替えられてきていたので、そういう意味では通常営業。

解離性同一症でなければ、少なくとも「High-Functional Depression(微笑みのうつ病や、社会順応型境界性パーソナリティ障害と和訳されている)」に通ずるものがあると言える。

渡航先の詳細は世界情勢上、今はまだ多くを語れないのが残念だけど、この話を完結する前には書く予定です。)



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35歳〜両親と対峙・絶交(更新中)

憧れていた場所で、仕事で成果を上げていたのに、精神状態はどん底を突いていた。

秋から始まった業務がひと段落した後、私は見晴らしの良い標高約1000メートルの山嶺にあるログハウスで独り、暮らしていた。

完全にオフグリッド(電気と水は太陽光蓄電、暖房は薪ストーブ、台所はプロパンガス)なのだけど、水不足な環境で、なぜかお湯が出なかった。

他の従業員兼前テナントが既に上司に伝えたのに、改善されなかった。

上司が気分屋なのと、お願い事が元々苦手な私は、改めて念を押すということをしなかった。

けれど、私は「バケツ・バス」という洗浄方法を女性従業員に教えてもらっていたので、これで乗り切れると思った。

寸胴の鍋でお湯を沸かして水で割り、コップを使って、体を部分的に洗っていく原始的なやり方だけど、どこでも生きていける自信がつく。

(つづく)

水も凍結で出ないことがあり、車も雪で動かない状況で、真冬の3ヶ月を越した。

自分の個人的なニーズのことになると、それが生死に関わることでも、周囲に助けを求められず、意思疎通が上手くできないことに気づかされた。

(つづく)

人生が狂い始めた時点からやり直さないと、何も変わらないと悟り、死より恐れていたことをした:両親と対峙。

結果、動揺しながら責任逃れする両親と絶交。

(つづく)

4歳〜弟への加害を自覚(更新中)

更に私は弟に同類の加害をしていた事も自覚し、謝罪。

弟は許すと言ってくれたが、加害の破壊力を認められるようになった私は自分を許せない。

(つづく)


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「浮気」を肯定しようとした理由(更新中)

鬱状態の時に出会った男から裏切りや猥褻をされたのに、好意を感じ、彼氏に伝えたうえで、男と海外出張。

早い段階からDVを受けるも、コロナ禍になり海外租界を共にした。

男にレイプされたことを彼氏に相談したら、別れを告げられ困惑するも、コロナで日本に帰るのも困難で、関係が双方で悪化。

ようやく日本に帰国し、DV男をブロックできたが、常に身の危険を感じている。

彼氏との関係は辛うじて続いているが、彼氏の心を深く傷つけてしまったことがやるせないのと、同時にそこまで怒るほど私を好きでいてくれたのか?と思うと後悔し、でも本気で好きだったら「浮気してもいいよ」なんて言わなかっただろうと考えたり、結果的に彼の態度が失礼になっているので、お互いのためにも別れた方がいいのだろうと思うが、15年以上の付き合いなのでまだ勇気がない。

別れを告げられて困惑したのは「浮気」をすることで、私の彼氏への不満を軽減し、関係を改善できるかもと思っていた部分があるからだ。

DV男に裏切りと猥褻をされたことで、解離性障害と強迫的性行動症が発症し「好き」「浮気を通じて、彼氏との関係を改善してる」と思っていた。

私はもともと一途な性格で、浮気は絶対してほしくないし、浮気がしたかったわけでもないし、浮気を「概念として」肯定しようとする自分が昔からいた。

それは父からされた猥褻言動が母親への浮気行為だと捉えることができたから。

浮気が肯定できれば、自分が父にされたことも肯定、少なくとも矮小化できるかも知れないという思考回路だった。

あらゆるセラピーを経て、父と対峙・絶交した後も、自分に起きた性的加害を認めるのが難しい人格が潜在意識にまだ存在していたことに本人としても驚く。


絶交後の両親の言動(更新中)

CPTSD(複雑性心的外傷後ストレス障害)(更新中)

 

毒親を法的に訴える(準備中)

2019年8月、ニューヨーク州の刑法が改正され、性犯罪に関する時効が延長された。

18最未満?までに受けた被害について、被害者が55歳の誕生日を迎える日までに加害者を訴えることができるようになった。

18歳以降に起きた犯罪についても加害者を控訴することができるようになった。

 

希望:安楽死への準備(更新中)

こんなにもコントロールが難しく、大切な人の心を傷つけてしまう自分は早めに死んだ方がいいと思ってきた。

更なる被害を最小限にとどめるために、私は安楽死の準備をしている。

遺書の代わりに、子供の人権が尊重される社会のヒントになるよう己の経験をこうして綴っている。

子どもに「愛」という名で性的なことをし、孤独や支配欲を満たすことはどのように罪なのか、想像していただけただろうか。

どうか私みたいな人生を送りませんように。

 

………

「何をしてる人なんですか?」

 

これも聞かれると辛い質問のひとつだ。

 

「トラウマ治療と、子どもへの性的虐待予防策と、安楽死について四六時中考え、言語化している者です。」

 

本当のことを胸をはって言えない。

 

相手の反応が怖いから。

 

私の関心事はタブー視されてることばかりだからこそ、無いものとして扱うのではなく、身近なことなんだと気づくことが鍵になる。

 

私はそのきっかけになり得る人間なのに。

 

そういう気持ちも含めて文字起こしして、一つの作品として伝える準備ができれば、実感と自身がつき、いつか声に出すこともできるかもしれない。

 

「児童性虐待予防とトラウマ対策の申し子です」

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参考資料

私の人生を変えた本

①"The Rape of Nanking: The Forgotten Holocaust of WWII" by Iris Chang、(邦題:ザ・レイプ・オブ・南京:第二次世界大戦の忘れられたホロコースト

②『キレる私をやめたい〜夫をグーで殴る妻をやめるまで〜田房永子

③"Toxic Parents: Overcoming Their Hurtful Legacy and Reclaiming Your Life" by Susan Forward (邦題:毒になる親

性犯罪予防おすすめ本

①『うみとりくのからだのはなし』遠見才希子作

②ジュディス・L・ハーマンの著書全て:

真実と修復ー暴力被害者に撮っての謝罪・補償・再発防止策
(原題:Truth and Repair: How Trauma Survivors Envision Justice)

心的外傷と回復
(原題:Trauma and Recovery: The Aftermath of Violence—From Domestic Abuse to Political Terror)

父ー娘近親姦:家族の闇を照らす
(原題:Father Daughter Incest)


③『なぜ少女ばかり狙ったのか(原題:Murder of Childhood)』レイ・ワイヤ著