性被害の解離から始まる生い立ちと毒親起訴へCPTSD歴35年の『犯免狂子』
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- 0 序: 夢か現か
- 1 あの悪夢
- 2 トリガー「出身はどこですか」
- 3 恵まれてるのに息苦しい家からの転機
- 5 PMDD疑惑:母みたいなDV女に豹変
- 6 潜在意識に働きかける精神治療
- 7 日本のレイヴ〜OZのレイヴ
- 8 L氏との再会と言論の自由
- 9 日本の変態と自分
- 10 冬の養生・補腎・土用
- 11 世界最古の医療アーユルヴェーダ
- 12 大麻農家で働いてみたいけど
- 13 エメラルド・トライアングル冒険記
- 14 ゲシュタルト療法と封印された怒り
- 15 CPTSDによる月経前増悪PME
- 16 父親の弁護
- 17 愛妻家の性的逸脱行動歴
- 18 性被害の証拠・裏付け
- 初診「解離性障害」(更新中)
- 両親と対峙(更新中)
- 弟への性加害などを自覚(更新中)
- 無数のトラウマ症状とCPTSD(更新中)
- 絶交後の両親(更新中)
- 「浮気」で性被害を矮小化(更新中)
- 児童虐待で両親を起訴(準備中)
- 安楽死の準備(更新中)
- 参考資料
💤⚡️💤
0 序: 夢か現か
夢か、現実か。
現実にしては奇妙すぎ、夢にしては鮮明すぎる。
幼児期、家族想いの父親から受けた性器への接触と、厳格な母親の穏やかで不可解な言動。
謎の解明と両親の弁護を全身全霊で試行錯誤してきた女が、安楽死を遂げるまでに伝えたいこと。
やめて、にげて、はなして。
どうか私みたいな狂った一生を送りませんように。
🐑 🐏🐑 🐏🐑🐏
1 あの悪夢
目が開き、またあの悪夢かとウンザリしていると「でも、それならなんでお父さんとお母さんの間で寝ないの?」と挑発的な声がしつこく語りかてくる。
奇妙な夢の記憶と奇妙な声をかき消そうと、私はひつじを一匹づつ数えてみたりする。
なかなか寝付けないでいると、両親の寝息に気づいて……。
寝落ちするまでのこの流れ、物心つく頃から実家を出る直前まで続いた。
深夜、仰向けで目を瞑っていると突然、あの悪夢と同じ映像が脳裏をかすめ、目を開けてしまう。
これは未だに続いている。
🌲🏡🌲
2 トリガー「出身はどこですか」
「出身はどこですか?」
あいかわらず苦手な質問。
「…東京…です」
テキトーにはぐらかして、話を広げない工夫をする賢さは身についてきたけど。
最近までバカ正直に答えては、神経をムダにすり減らしてきた。
「えっ、とー……〇〇です」
すると反応は十中八九
「え!かっこいー!ってことは英語ペラペラなんですか?!」
「あぁ、はい」
「すごーい!」
「ハハハ」
「え?ハーフ?帰国子女?」
「二重国籍です」
「かっこいー!」
リアクションに困る。
笑って誤魔化しても、間が持たない。
嗚呼、憂鬱。
もう消えていいですか。
この複雑な心境、私の性格が捻くれてるからなのは百も承知。
でも一旦冷静になりましょ。
生まれ育った国の言語を話せるのってフツーじゃないですか?
そこに気づけないのはハリウッドの洗脳力が「すごい」から。
日本語でこんな皮肉をいうと性格悪く聞こえるかもしれないけど、
みんなが必死で目指してる
「生きた英会話」は
「ほぼ皮肉で成り立ってる」
と言っても過言じゃないので、
悪しからず。
素直にいうと、お世辞でも「かっこいい」と言われると辛い。
かっこ悪い、恥の多い人生を送ってきたので。
私が生まれたのはCityで、確かにかっこいい要素「も」あるけど、育ったのはSuburbia。
ジャパニーズでいう郊外の住宅街。
緑が多くて、都心より治安は良く、退屈だった……。
いや、稀にあったっけ、楽しいことも。
ある日本人家族と、年に一度くらい会えた頃とか。
優しいおねえちゃんが2人いて、憧れの存在だったのは覚えてる。
でも4歳くらいからかな。
どんよりした気持ちがずーと続いて、楽しかったはずの記憶がいつの間にかスッポリと消えていた。
覚えてても余計に辛くなるだけだからなのか、メモリの容量オーバーになったからなのか、解らない。
代わりにと言ってはなんだけど、ショックを受けた悲しい記憶なら幾らでもある。
2歳の弟と戯れていた際、弟の頭を壁にゴンとぶつけた時のこととか。
「やめなさい!お姉ちゃんでしょ!」
おねえちゃんの険しい顔。
注目して欲しくてワザとやったのに。ショック。
自分の力に感心してもらいたかったのに、否定されたのが想定外だった。
不満を埋めるためにその後、意地になって開き直った。
「これからは『お姉ちゃん』って呼んで」
弟たちにに命令し呼び捨てを禁じた。
それから一年くらい後のこと。
例のおねいちゃん達から無条件に可愛がられる無邪気な弟たちに混ざって遊ぶことができなくなっていた私は、
お母さんたちの会話を近くで立ったまま聞いていた。
話題は男性アイドルから恋愛話に移っていったが、母は黙って座っているだけ。
私は会話に参加したくてウズウズしているというのに。
小学1年生の私は、同級生の男子ルークに片想い中で、タイムリーなネタも持ち合わせていた。
痺れを切らして「あ」と言った瞬間
「大人の話ッ!」
ピシャリと言い放った鬼の目に、背筋が凍った。
ゆっくりと後ずさりしたものの、他人の広い家で居場所を失い、その後の記憶がない。
こういう特別な日以外は、自宅と学校の往復。
母が学校まで迎えにきて、一緒に歩いて家に帰る。
帰宅したら、家事の手伝いをしてた気がする。
変わり映えのない日々だと大した思い出もない。
そんなある日の帰り道、私はついに思い切った行動に出た。
母の目を盗み、迷子になったテイで、近所に住むルークの家に向かった。
ドキドキしながら、頭の中で何度もリハーサルした道を迷いなく進むと、家の前に彼がいた。
笑顔で私の名前を呼び“Pass me the ball”と言った。
準備していたボールを投げると、彼はそれをバウンスパス。
そういうパスもあるのかと閃いた瞬間、雷が落ちた。
振り向けば鬼相の母。
涙だけは流すものかと歯を食いしばった。
……
「ルークが教科書、借りにきたって〜」
後日、母の呑気な声に対する苛立ちと、好きな人の前で怒鳴られた屈辱から、私は彼にそっけない態度をとった。
そんな自分が嫌いで嫌いで仕方なかった。
……
ブーーーン
彼がよく近所を乗り回していた電動スクーターの音。
我が家の近くを通り過ぎるのが聞こえるたびに、胸がギュッと苦しくなる。
こんなにも近くにいるのに、一緒に遊べない。
私が意地っ張りだから悪いのかな。
でもお母さんが快く遊びに行かせてくれるなんて想像できない。
……
成績は悪くなかったというか、全体的に良い方だった。
宿題は授業中に終わらせたし「勉強」をした覚えがあんまりない。
「時計」と「九九」を除いては。
ッパァーン!
「なんでこんなこともわからないの?!」
いきなり頬を引っ叩かれた。
なんで分からないかなんて、分かるわけない。
「答えは?!」
理解できていない算数の正解を、顔を叩かれながら尋問されることで導けたら世話がない。
でも、それが私の母の教え方。
なんで怒られてるんだろう。
算数ができないことって、そんなに罪なんだろうか。
子どもの顔を、大人の大きな手で思いっきりぶっ叩くことは正解なのだろうか。
理解できないことばかり。
……ヒック……ヒック……
涙と鼻水を啜りすぎて、呼吸と体が勝手に痙攣。
こんなに惨めな音も体も止められない自分を恨んだ。
バン!
テーブルを叩きながら、何かに取り憑かれたような目で、容赦なく怒鳴り続ける母。
あぁ、私、この人に嫌われてるんだ。
そう思ったら、なんだか気持ちがスーッと軽くなった。
……
平日通ってた現地校に友達と呼べる人はいなかった。
土曜の日本語学校には2年生から女友達が1人できたけど、遊べたのはせいぜい週に一回、放課後の数時間だけ。
弟たちは2軒隣の男子同級生の家を行き来して、毎日ゲーム。
普段は静かで冴えない男子がゲームの時だけキャーキャー騒いでいる。
私は家事の合間、男子を通り過ぎる度に心の中で呪っていたが、なんの効果もなかった。
……
早く大人になりたい。
大人になれば、話を聞いてもらえるし、やりたいことが自由にできる。
まずは絵本をほとんど捨ててもらった。
胸の辺りがチクッとしたけど、子どもっぽい物はこの際、邪魔。
大人と子供の違い......。
年齢は時間の問題だとして、今からでもできそうな大人っぽいことがしたかった。
「お父さんの店で、働かせてください!」
父の足元で土下座をし、額を床につけながら、心がざわついた。
けど時代劇で見た侍を必死に真似した甲斐はあった。
自分では10歳の誕生日から大人の仲間入りしたつもり。
唯一学校のない日曜は毎週、朝から夜18時くらいまで店を手伝った。
身長が足りない分は、レジの真下に台を置いたりして。
夕方になると客が引いて暇疲れしたけど、家にいるよりマシだった。
初日の仕事終わり、父から5ドル札を渡された。
お小遣い制度なんてなかったので有り難かったし、
大人に一歩近づいた気がしたことが何よりも嬉しかった。
願いが叶っているはずなのに、日本語学校の友達が買い物にきた時はサッと身を隠した。
ローラーブレードのまま入店し、何かを買っていく後ろ姿が眩しかった。
ローラーブレードのままで怒られないんだ。
一人で買い物に行かせてもらえるんだ。
同級生なのに、別の世界に住んでいる人みたい……。
ちなみに彼女は今や国内外で活躍するDJ。
ド派手な髪色と媚びないハスキーボイスで「両親を尊敬している」とインタビューに答えてた。
やっぱり異世界の人だった。
……
14歳。
法的な労働許可が降りる年齢になるとすかさず、常連客のユダヤ人からスカウトされた。
出勤は土日祝に増え、拘束時間も深夜にまで延び、休憩時間もなかったけど、父の店での暇つぶしより楽しかった。
元旦の深夜に帰宅して、母親のおにぎりを一口含んだ途端、涙がツーっと流れて、びっくりした。
実感のない空腹を無感情な涙に伝えられたことは、ちょっと切なかった。
でも母は、バイト時間において制限をかけることは一度もなかったので、
この抜け穴を最大限に活用しない手はなかった。
とはいえ平日の放課後は相変わらず、母親の手伝い。
だけど「飴と鞭」でいうところの「飴」もちゃんとあったから、
理不尽に怒られたりしない限りはさほど苦だとも思っていなかった。
母は毎年、塩辛を仕込んだのだが、烏賊の口(「トンビ」という希少部位)の唯一無二なコリコリ食感を味わせてもらえたのは毎回、5人家族で私だけだった。
このような雑用兼味見当番の特権は、食いしん坊な私の自尊心を保ち、
弟たちに対して優越感を持つこともできた。
毎晩7時頃みんなで一斉に「いただきます!」と合掌してから食べるのが日課だった。
戦後ひもじい想いをした父の話や、今も飢えに苦しみ、餓死する子供たちが世の中に大勢いる話を何度も聞いた。
「ハゲワシと少女」という有名な写真があって、私はこの子をいつも想い浮かべていた。
あの子と比べたら、自分は恵まれている。
だから、不満を感じるのは罰当たり。
八十八の過程を経てご飯になった米をひとつ粒残らず、有り難く頂いた。
「食べさせ甲斐のある娘だ」と、父は私を褒めた。
ご飯を何杯おかわりしても、母に嫌な顔をされたことはなかった。
合掌して元気よく「ごちそうさまでした!」というと、
2階のトイレに駆け込み正露丸を飲む。
なんでお腹を壊すまで食べてしまうんだろうと毎晩考えた。
痩せるために嘔吐する「拒食症」でないことは確かだ。
ご飯が美味し過ぎて「痩せの大食い」だから仕方ない、と腹痛が治る頃には同じ結論に至っていた。
……
中2になって、現地校にようやく友達ができた。
放課後、友人宅でお喋りする時間が楽しくてたまらなかった。
でも17時頃、母の車が現れると、ズーンと気持ちが重くなる。
夕食の後は「もう暗いから」という理由で遊びに行かせてもらえない。
お泊まりは「この前したでしょ」と許可がなかなか下りない。
門限を破るようになると、帰るたびに母親から長時間の説教とビンタを食らった。
頬を叩かれる度に、同じ映像が脳裏をかすめた。
昔から「悪夢だ」と思っていたけど、もしかして私が体験したことの記憶.......?
そう思ってしまう節があった。
でも万が一そうだとしたら「墓場に持っていく」と、顔をぶたれるたびに決心が固くなった。
📖⚡️🏡 🛫🌏🇯🇵
3 恵まれてるのに息苦しい家からの転機
楓の大木が自生する芝生の庭に建つ、地下つき4LDKの2階建て一軒家で育った。
物理的には恵まれた面も少なくなかったが、母の過保護・過干渉・罵倒・体罰なども日常茶飯事。
「自由の国」で暮らしていることが皮肉なほど息苦しく、どう足掻いても神経がすり減る一方の日々にようやく転機が訪れた。
21歳。
私が頑張って応えようとしてきた「日本人像」が砂上の楼閣だったことに気づく。
ニューヨークタイムズ・ベストセラー “The Rape of Nanking: The Forgotten Holocaust of World War II(邦題:『ザ・レイプ・オブ・南京:第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』)”を読み、
大日本帝国による戦争犯罪の詳細を初めて知り、幾重にも衝撃を受けた。
軍人たちが侵略したアジア諸国で、幼児から老婆まで輪姦して市民を大虐殺。
731部隊(疫病対策を目的とした医務および浄水を代表するライフライン確保を目的とした部隊)が裏では、生きた人間に人体実験などし細菌兵器を開発。
しかも冷戦中、アメリカとの裏取引で大勢いの軍医らが免罪になり、日本の医療業界などに天下りして現代に至っている。
日本人としてのアイデンティティが、私の心中で音を立てて崩壊した。
それほど衝撃的なのに、同時に点と点が結ばれてゆき、妙に腑に落ちることが多かった。
現地校の保育園で、人種差別の歌「チャーニーズ・ジャパニーズ・インディアンチーフ」を白人の同級生に唄われたこと。
父親がいきなり中国人を小馬鹿にした発言をすることがあったこと。
母親がとつぜん韓国人に対する軽蔑的な言葉を使ったりしたこと。
人種差別発言に悪気が感じられず、面白いことを言っているつもりのようなところ。
私の発言に「そういうとこアメリカ人っぽいよね」と母や日本語学校の友達からイヤミを言われてきたこと。
「日本人はそんなことしません」と、私の行動を母が否定すること。
現地校の中学で「あなたが日本人だから友達になりたくない」と面識のないアジア人生徒が言っていたとのことを、別のアジア人生徒から聞かされたこと。
“Japanese imperialist invasion” という単語は教科書で見たことがあったので、日本の帝国時代の侵略を指しているんだなとピンときた。
でも色んな国が侵略戦争を起こしていたし、住んだこともない先祖の祖国の昔のことを私にどうしろと?と嘲笑った。
けど理屈では理解できない、その想定外な執念深さへの驚きはその後も、心の奥で引っかかっていた......。
欧米に対しては過剰なコンプレックスを抱き、うわべでは謙虚さを装いながら実は非常に自惚れていて、少しでも異論を唱える者は同じ日本人でも仲間外れにし、他のアジア人のことは当然のように見下すことで無意識的に優越感に浸る。
この劣等感とナルシシズムの塊ともいえる歪な国民性は、日本の歴史的加害の免罪と忘却とタブー化よって助長されているよう。
そしてその影響は、異国の現代社会に生きる私個人にまで及んでいた。
私は仲間と認識してもらうために、身近な邦人の言動を見よう見まねしてきたが、孤独になる一方だった。
私はこの因果関係を知らなかったため、原因不明の苦しさを覚えてきたのだと初めて理解でき、ずっと疑問だったことも肯定された気がした。
日本人としての誇りを持ちながら、嫌味や体罰で「日本人らしくない人」を否定する言動自体、日本人という以前に非人道的じゃない……?
もっと広い世界を観たいと幼い頃から切望していた私はこんなことも思った。
加害の歴史も知らずに被害国へのこのこと行き、先祖の仇だと言われて首を締められたとしたら、訳もわからず相手を恨みながら死ぬかもしれない。
でも、その動機に少しでも共感できたら、自分の先祖が犯した罪を、代わりに子孫としてせめて謝罪することができるかもしれない。
そもそも知識と共感力を持ちながら生きるのと、全く無知で無神経なのとでは相手と交わす言葉も態度も関係性も変わってくるはず......。
平日は現地の保育園から義務機を経て短期大学にまで通学し、
土曜は保育園から中学卒業まで日本語補習校に通い、
私は比較的恵まれた教育環境にいる自負があったのに。
日本人は「教育熱心」なんていわれるれど、誰ひとりとして、加害の歴史を私に教えようとしなかったのが一番の衝撃。
広島・長崎に原爆を落としたことを知らないアメリカ人はいない。
ナチスのホロコーストは否定することの方がタブーで、聞いたことがない人に会ったことがない。
現地校ではアドルフ・ヒトラーが歴史上最も残酷な人だと教え込む。
ならば人体実験の極悪な機密情報をソ連に渡すとアメリカを脅迫し、免罪符を得てしまうほどの手札を切れた石井四郎はどういう位置付けになってしまうのだろうか。
「丸太」扱いされたのがアジア人ではなくユダヤ人だったら、南京虐殺や731部隊を知らない人はいないと断言してもいい。
歴史は勝者によって作られる。
日本の教育は一体どうなっているのだろう。
今日に続くアメリカ先住民や黒人迫害の歴史を、米国でまともに教えないのと似た感覚なのだろうか。
被害や誇れる部分だけを強調し、加害の歴史を矮小化し反省せず、幻想の中で愛国心を唱える風習は万国共通のようだ。
でも私は、ご近所様とその先祖に、多大な迷惑をかけたことを全く知らず、土足のまま家に上がらせてもらうのは恥ずかしい。
私は白人が大多数であるアメリカの国籍を持ち、英語も母国語だけれど、見た目から常にアジア人扱いされ、その中でも日本の独特な教育や文化の恩恵と損害を受けてきた日本人の子孫。
生まれ育った国や地域で生涯を遂げ、外界との交流が最小限の人は世界中にいるが、幸か不幸か私にはその道が最初からない。
出身地や生い立ちとは関係なく、世間からは主に日本人的要素を注目され、日本のことを世界中の人から聞かれる私は、先祖の祖国のことを包括的に知らない訳にいかない立場にある。
急遽、東京にある大学への進学に向けて舵を切った。
母が反対しなかったのは意外だったが、安心材料が揃っていたからだろう。
渡航先は彼女の母国、進学が目的で、滞在先は父方の両親宅。
晴れて、実家から脱獄する念願も一石二鳥で叶った。
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4 過保護・過干渉な両親
地球の反対側まできたとて、母の基本姿勢は変わらず、電話やメールで攻撃は続いた。
貯金と奨学金の他バイトをいくつも掛け持ちし、学費も生活費も全て自分で賄っていた。
それでも母は私の選択する科目にまで文句を言ってきたので、自分のことを徐々に話さなくなった。
日本の政治学が専門の教授と出会い、私は政治を専攻。
保守派の一大政党が、歴史教科書から戦争犯罪の内容を隠蔽し、
憲法9条や教育基本法などの改定を企み、
あの手この手で再び戦争ができる国にしようとしてきた経緯を学んだ。
しかも官僚や政治家や大企業に忖度して重要な情報ほど報じない記者が多く、市民は知る機会が少ない。
危機感を覚えた私は、教育基本法改悪反対のデモに参加したり、
憲法9条を守る勉強会や政治の討論会などの課外活動をしたり、
日本外国特派員協会(FCCJ)の学生会員になったり、
外国人記者のフリーランス通訳として個人事業を開業したり、
米新聞社の日本支局でインターンをしたりした。
初の通訳は奇しくも、南京大虐殺を全否定する映画の監督のインタビュー。
ホロコーストを否定するドイツ人を見つける方が難しい。
対照的に、南京大虐殺などを否定する日本人が一定数いて、知らない人も大勢いることが一番の悲劇だと改めて痛感した。
自由研究では、先住民のアイヌ民族、穢多・非人と呼ばれた被差別部落民、
本土の捨て石にされた沖縄や米軍による人権侵害などについて調べた。
声が届きづらいマイノリティの課題を深掘りする度に、当事者以外には複雑で分かりにくい壁に直面した。
そして自分自身も「女性という最大のマイノリティ」であることにハタと気づき、
ズンと心身が一瞬重くなったが、その感覚に留まることは避けた。
大学4年生になって、卒業所要単位として選択できる授業が限られるうえ、
尊敬する教授が一年間のサバティカル休暇に入ってしまい、魅力的な授業がなかった。
卒業証書だけのために、全財産の70万円を使い果たしてしまうのは、
身が引きちぎられる思いだったが、母は援助してくれる訳でもなく否定するだけ。
日本ではバイトを禁じている学校があるからなのか、
学費は親持ちで、生活費の仕送りまでしてもらう大学生が少なくないと聞く。
親から自立するため、学校以外の時間は仕事で埋めてきた私には無縁の世界。
それに米国の大学などと異なり、日本の大学は入学が難しく、卒業が比較的に簡単だから、遊びに走る学生が多いのだとか。
日本では有名な大学というわりに、授業の質は学費の額に見合わず、
真面目に学ぶために自腹を切って海外からわざわざ来てる私からすると、
「通い甲斐がなくて迷惑している」と毒づいた。
「季節性鬱(SAD)かもしれない」と毎週通っていた大学の心理カウンセリンセラーからは言われた。
冬は確かに苦手。南国の常夏生活なら幸せを感じられるのだろうか。
悩んだ挙句、一学期だけ休学(休学するだけで10万円くらいかかった)。
沖縄に約2ヶ月間滞在し、冷静に考えた末、退学届を提出した。
知らない世界を見たいと私が幼い頃から切望してきたのは、
元バックパッカーの父が世界を放浪した数年間の話をよく聞いていた影響もある。
「世界一幸せな国」ブータンに行けば、幸せというものを感じることができるのだろうか。
高校3年の時、世界一周クルーズのPEACEBOAT(ピースボート)の存在を父が教えてくれた。
乗船できるほどの貯金は蓄えていたが、母に反対され、仕方なく短大に進学。
興味深い授業が多く、脱獄への鍵となった運命の洋書と出会うきっかけにもなったので後悔はしていない。
でも今度こそ、ずっとやってみたかったことに自分で稼いできたお金を使ってみたい。
たまたま訪日していた父に退学届の話をした。
すると後日、父が退学届を停止させたことを事後報告された。
父に打ち明けてしまった自分の詰めの甘さを後悔した。
仕方なく、やる気を感じられない教授の授業を受け、単位だけ取得。
私の意に反してまで卒業を望むなら、交換条件として経済的な支援を親にさせるべきだった。
でも短大の頃から、成績を保つことで受けられる返済不要の給付型奨学金で賄っていた。
学費を頼むどころか、自発的に家賃を毎月入れていた。
少しでも一人前の人間として扱ってもらいたいという打算からだが、そんなに甘い話があるわけなかった。
「これが本当に最後の親孝行だ」と自分に言い聞かせながら、形だけの卒業式に出た。
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5 PMDD疑惑:母みたいなDV女に豹変
「遅い!なんでもっと早く帰ってこれないの!?」
大学4年の頃、彼氏のYと出会ってから数ヶ月後、私の日常的な罵倒やパワハラ加害が始まった。
「私と仕事どっちが大事なの?!」
かつてトレンディードラマで聞き、子ども心にダサいと思ったセリフが自分の口から出てくるとは。
「誰のお陰で今の仕事ができてると思ってるんだよ?!」
バイト先のひとつであった蕎麦屋の助っ人としてYを誘ったのは私。
Yは毎日出勤してトントン拍子で正社員になり、生き生きと仕事をしていた。
ただ拘束時間が長い立ち仕事のため、帰宅する頃には疲れ切ってずっとゲーム。
出会いたての頃のように一緒に散歩する気力も残ってないYに私の不満は爆発。
反省して謝って泣き崩れるも、またすぐに怒りが勃発する。
取り憑かれたように怒り狂う自分は、まるで母のよう。
気づくのに時間はかからなかったけど、ショックで受け入れ難かった。
お母さんみたいには絶対ならないとずっと思ってきたのに。
私は大卒一年後、蕎麦屋のバイトを辞め、都心のオフィスで外国人向け英字雑誌から業務委託を受け編集アシスタントや翻訳・通訳をしていた。
蕎麦屋は家族経営で人情味があり、賄いも美味しかったけど、女性は結婚して夫を支えて子育てをして一人前という暗黙の空気が窮屈だった。
一方で国際色豊かで個人主義な社風の編集部には、すぐに馴染めた。
仕事にやり甲斐を感じ、イライラも軽減してきたと思った矢先、
Yから「退職したから引越し先を急いで探して」と言われた。
突然のことに驚いたが、Yからしてみれば私から受けいた2年間半の罵倒に耐えられなくなったのだろう。
Yがやり甲斐を感じ、職場での人間関係も良好だったので、嫉妬はしていたが、辞めてほしいとは思っていなかった。
まさか辞めるとも思っていなかったのだが、それほどまでにYを追い詰めてしまったことに気づき、
私の罪悪感と自責の念は益々重くなる一方だった。
蕎麦屋まで自転車通勤できる距離にあった男性社員宅の一部屋を借りて同棲していたが急遽、都心の賃貸を私名義で借りた。
この男性社員の目線や言動が気持ち悪かったので、その家から出られたことは良かった。
それでも、怒りの衝動は収まらなかった。
Yがなぜ私と別れないのかも謎だった。
怒り方が母親そっくりだったので、自分の女性性に問題があると考えた。
女性ホルモンが生理周期によって変動する関係で情緒不安定気分になる月経前不快気分障害(PMDD)が原因だと踏み、婦人科に行った。
私の推測を鵜呑みにした男性医師から、目当てだった保険適用の低容量ピルYAZを処方してもらった。
「副作用はありませんので」と自信に満ちた男性医師の言葉に驚きつつ、聞き流した。
避妊目的で低容量ピルをとっていた親友が中学の頃から副作用に悩んでいて、
血栓による死亡リスクがあることも知っていたので、私はそれまで飲むのを躊躇してきた。
でも怒りをコントロールするために、背に腹は変えられないと腹を括ったうえで受診していたのだ。
ある日、SNSの迷惑メールのインボックスに気づき開いてみると、香港の大手メディア会社から台湾支局での正社員として求人が来ていた。
英字雑誌で私の名前を見て、通訳及び新規事業の発足チームの一員として連絡してきたらしい。
その頃、福島原発事故による放射能汚染が蔓延し、爆心地に近い東京では安心して食べられるものが限られ、ノイローゼになっていた私は日本から早く脱出したかった。
年齢的にワーキングホリデー最後のチャンス。
中国語圏で「親日派」と言われる台湾が第一候補だったが、キャリアが義勢になることを懸念していたので、正に渡りに船。
面接を受け、二つ返事でオファーを受けた。
仕事が決まったことをYYに伝えた途端、離れ離れになることに気づき、泣いてしまった。
Yはそんな私を優しく支えてくれた。
Yはいつも優しすぎる。
約2ヶ月後の年明けから台湾勤務が始まった。
待遇は良いが仕事は無駄にハードだった。
慣れない業務の他、指示が下手なのを棚に上げて部下に文句を言う上司から猥褻な発言がチャットで送られてくる。
私は唯一英語と日本語ができる者として上司の通訳も兼ねて雇われていたが、あまりにも理不尽なので承諾を得て降りた。
家にいる時間はベッドに横たわり、Yと会話が終わった後も、生活音からお互いの存在を感じられるように、ビデオ通話を長時間繋げながら、私は毎日涙を静かに流していた。
入社約1年後、これまでに経験したことのない酷い偏頭痛が数ヶ月続いていた。
仕事中に偶然「YAZを服用し急死する女性が続出」と伝えるニュースを発見し、
自分の症状と酷似していたので、服用を辞めたら頭痛はすぐに引いた。
当時、私は社会的には成功していたはず。
なのに、後悔と虚しさしかないことに向き合わされた。
このままでは早死にしても、死にきれない。
生き方を根本的に変えないと。
正しいこととして教わってきたことをアンインストールして、潜在意識を塗り替えないと。
自然治癒力を促す代替医療に趣をおいた生活習慣の改善や、
潜在意識に働きかける古今東西の精神治療を手当たり次第に試し始めた。
🧠🌱🧘☕️🫖
6 潜在意識に働きかける精神治療
6-1:漢方・ヴィパッサナ瞑想編
思い返せば、低容量ピルは気休めにはなっていたけど、怒りのコントロールができていた訳でも鬱が緩和した訳でもなかった。
台湾に越した後、Yに怒ることは一時的に減ったけど、私はひとりの同僚男性から「あの人はああゆう性格だから」と言われていた。
どうやら私が「馬鹿なんじゃないの?」と漏らしたらしい。
覚えてないが、確かにその同僚のことを無能だと思ってイライラしていたし、私が嫌っていることは上司も知っていた。
全員ではないが、他の同僚男性にも上から目線で強い口調になっていた。
致命的な副作用のリスクもある西洋医学の強い薬とは対照的に、
東洋医学の漢方は効いているのか分かりにくい印象があった。
けれど、何かを服用していないと不安でたまらなかったので、藁をもすがる思いで漢方を始めた。
台湾では漢方薬局がそこら中にあり、会社を通じて健康保険に入っていたので通院は安価にできた。
漢方医は私の手首を指で軽く抑えて心拍を測り、舌の状態を確認し、1週間分の漢方を処方。
問診だけでなく、体の状態をちゃんと確認したうえで、私に合わせた薬を調合してくれたことに感動した。
案の定、怒りや鬱への即効性はなかったけど、生活習慣が必然的に改善されたのには驚いた。
1日3回食前に白湯と飲むという処方だっため、仕事が忙しすぎて疎かになっていた食事を意識して取るようになった。
宅食サービスで1日3食分を配達してもらい、規則的な食生活を取り戻した。
次に挑んだのが、ヴィパッサナ瞑想。
10日間、毎朝4時から夜9時まで(朝食、昼食、午後の喫茶、夜の法話以外)ひたすら瞑想する合宿。
スマホは初日に没収され、会話をすることも、目を合わせることも、メモを取ることも、本を読むことも禁じられている。
ヴィパッサナのことを初めて知ったのは5年前。
大卒直後、貯金が尽きても世界を見るという夢を叶えるために、ボランティア通訳としてピースボートに乗船した際。
瞑想リトリートには興味をそそられたけど、まとまった休みが取れたら、娯楽・現実逃避に走りたくなるのが人情。
私も国内外を飛び回ってきた。
でも地球を一周してみても結局、心の奥底で暗くて重い何かが悶々としているのが浮き彫りになる一方だった。
今いる場所からは一時的に逃げられても、自分自身からは一生逃げられない壁にぶち当たった。
ならば自分の中に潜るしかない。それには瞑想しか考えられなかった。
いざ予約をしようとしたら、人気なため空きが出るまで待たなくてはならなくて、イライラした。
事務局からのメールの結びに“be happy”とあり、喧嘩を売ってんのか!?逆撫でされた気分。
待つこと約60日間、瞑想合宿への扉がようやく開いた。
会場は台中の自然豊かで静かな場所。
薄暗い広場に他の参加者と座りながら、私はうたた寝ばかりしてしまう。
寝てばかりでは意味がないじゃないかとツッコミながら睡魔と闘う。
朝と昼は白米と味の薄い野菜のスープなど。夜はフルーツとお茶。
毎晩ある法話の時間が唯一の楽しみだったが、ミャンマー(ビルマ)訛りの英語が聞き取りづらく3割くらいしか理解できない。
束の間の休憩時間、近くに座っていた白人女性が、よく文句を言ってきた。
「ヴィパッサナは素晴らしいとサイクリング仲間から噂に聞いてきたけど、退屈」
その人は9日目の雨が上がった日に飛んだ。
私は絶望の末、無二無三で挑んでいたし、幼少期の退屈さに比べたらなんてことなかった。
閃きもあった。
ある日、片目から涙が出て驚いた。
無感情だったので、あくびのときに出る類いだろう。
とにかく手で拭う衝動を抑え、ゆっくりと頬を伝っていく肌の感覚を観察した。
涙はすぐに拭いたり啜ったりしてきたけど、流しっぱなしにしたら、どうなるか今度やってみよう。
不信もあった。
質問がある場合、古参の瞑想者(アシスタント・ティーチャー/AT)と面談ができる。
「私は、現在と過去の怒りが掛け算になって、肥大化した感情のコントロールが効かなくなっていると思うんですが、これも無常で、いずれはなくなったりするのでしょうか」
そうですと想像通りに答えたATの言葉を私はどうしても信じられなかった。
6-2:マイクロドージング編
台湾支局でリストラにあったのは入社2年半目のこと。
31歳の時で、9歳以来の初無職。
ようやく仕事も板についてきてやり甲斐が感じられるようになっていたけど、心も体も悲鳴を上げていた。
夏でもダウンを着込まずにはいられないほど私にはクーラーが効き過ぎた極寒オフィス、
夜勤が数ヶ月ごとに回ってくる24時間体制のシフト、
ミーティングや締め切りが1日に何度もある多忙なスケジュール、
猥褻とパワハラ発言が多い上司複数人ともおさらば。
私はこれを期に台湾で最も美しい海岸があると言われる花蓮へ向かった。
ある4人家族との再会も兼ねて。
彼らとは台湾で初めて行われたバーニングマンのディコンプレッションで出会った。
(バーニングマンはアメリカ・ネバダ州ブラックロック砂漠で毎年1週間ほど開催される祭典。
ディコンプレッションは、バーニングマン終了後、参加者がその経験をそれぞれの地域や国に持ち帰り、振り返るイベントのことをいう。)
現代社会のアンチテーゼ的要素を含むバーニングマンは、私が小学生の頃から憧れていて、死ぬ前に一度は参加すると決めている自己表現の実験場。
ディコンプレッションでは流石に同類の人が多い印象だったけど、私は一人遊びをしていた。
私が登っていた木から落ちそうになったのを助けてくれたのがZというアメリカ人男性で、台湾人女性Dとの間に男女の幼児がいた。
再会したZがバイクで花蓮駅まで迎えにきてくれた際「ルーシーにあったことある?」と聞いてきたので、私は「まだ」と答えながら期待が膨らんだ。
どうやら本家のバーニングマン帰りのアメリカ人女性が連れてきたらしい。
中学生の頃から、ルーシーを知っている人が周りにはいて、話を聞く度に自分もいつかはご縁があることを確信していた。
唯一不安だった「バッドトリップ(恐怖体験)」や「フラッシュバック(トラウマの記憶が蘇ること)」は高校時代、同級生の意外な答えで払拭された。
「俺は自分の意識をコントロールできるからバッドトリップにならないし、フラッシュバックもしない」
意識さえコントロールができれば恐れることはないのかと目から鱗だった。
そのような豆知識と、経験豊富なZの紹介のもと、私の念願は叶った。
まず用量用法が重要だということを教わった。
作用は個人の耐性や用量によって異なるけれど、12時間に及ぶこともあるから、必ず朝一番の食事前に摂取すること。
空腹時が最も効きやすく、摂取のタイミングが遅いと夜眠れなくなってしまい、日常生活に支障が出てしまう。
最少量から始めるのも鉄則。
多すぎると効果に圧倒されてしまい、意識のコントロールが難しくなり、いわゆるバッドトリップになり易くなる。
少量でしか経験できない効果を妨げてしまう可能性も高くなる。
それに耐性がついてしまうと、より多い量が必要になり、コスパも悪い。
一口約50~150マイクログラム(μg)とされていているものの、用量もさることながは品質にも差がある。
数μgでも個人差によって効果がまちまちだから、知らずに適量以上をとってしまうリスクは常にあると考える方が現実的。
そのため、1回分でも多すぎることは往々にしてあり、半分や4分の1から始める手がある。
更に精製水などに浸して、少しづつ飲み、心身の変化を慎重に観察しながら様子を見るのが無難。
ピークは1~3時間と時差があるから焦らず、瞑想でもして気持ちを落ち着かせた方が、快適な旅になる確率を上がる。
英語圏では「マイクロドージング」と言って研究や文献も多く、サイケデリック界隈では「サードウェイブ」などと言われ一般化しつつある療法だが、その概念を和訳するなら「足を知る」だろうか。
娯楽というよりも、自己成長やセラピー、トラウマ治療を目的とした場合が多く、1960年代に流行ったやり方の反省や反動とも言える。
効果は、摂取量や個人の心身の状態や環境、ガイドによっても大きく左右される。
私の場合、体験を長年心待ちにしていて、その間に不安要素を取り除いた状態であったこと、
晴れた初夏の朝、経験豊富なガイドから基礎知識を教わりながら少量から始め、
効果がピークに達した時には池と芝生のある静かな公園にすぐ行けるという恵まれた環境だったので、精神が非常に癒された。
いわゆるセット・セッティング・ドースが適切だった。
芝生の緑をはじめ公園全体がキラキラと輝いていて美しく、ワクワクした。
靴を脱ぎ、恐る恐る芝生を素足で踏むとふかふかで「怖くないんだ」と思った。
自然と膝と両手をつき、腰を下ろして大地に額をつけると「ただいま」と声が漏れ、嬉涙が溢れた。
生まれ育った土地でさえ感じたことのない懐かしさを覚えた。
家に戻ると、有機で完熟のパパイヤやドラゴンフルーツなどでDが作ってくれたスムージーを頂いた。
摂取量を最低限にすると、食事も普段通りに摂れるというのも利点の一つと知った。
⚠後にも先にもあらゆる物質が登場するが、時代や地域によって法律の定め方が常に変動しているため注意が必要。
⚠︎私が自分の狂った精神状態をどうにか改善しようと、死に物狂いで我武者羅になって試してきたことも含めて自己成長の過程とするならば、伏せることができない過去ではある、けれど。
⚠︎次の章からも引き続き分かるように、合法・違法に関わらず、薬物を摂り入れることには致命的・精神的リスクが伴う可能性があるため決してマネされないことを願う。
⚠︎低容量ピルみたいに合法でも致命的リスクがあることもあるし、違法薬物だから必ず死ぬという訳でもなけど、場合によって致命的なリスクもある。
⚠︎重要なのは、時代と地域の合法性だけでなく、用量・用法・品質・目的・環境などの課題はついてまわるという心得。
⚠︎私が命をかけた試行錯誤の末、薬物よりも安心安全かつ効果的で、どんな治療においても基本となる対話を用いたセラピー(14 ゲシュタルト療法と封印された怒りを参照)についても順を追って後述する。
6-3:Ayahuasca編
後日、ZとDを通じて独自のアヤワスカ儀式(セレモニー)をしている台湾人女性Eとイギリス人男性のカップルと知り合った。
台湾にはDMT(人間の脳細胞を始め自然界で生成されている幻覚物質)を含む木が自生しているとのこと。
その根っこを長時間煎じた液体を、MAO阻害薬となる種を長時間煎じた液体の後に飲む。
するとアヤワスカ(南米ペルーやボリビアなどの先住民族が用いる伝統医療)のような精神に作用する効果を得られるという。
意識レベルでは言動を変えることが如何に困難で、潜在意識を塗り替えないと根本的な変化が望めないということを痛感してきた私にとっては願ったり叶ったり。
セレモニーは日を改めて、台中にあるビーチで行われた。
Eの案内通り、定めた場所を清め、キャンプファイヤーを作り、参加者は瞑想して気持ちを落ち着かせた。
陽が落ちてから輪になって、MAO阻害薬をお猪口一杯、口に含む。
この茶色い液体を「お茶」と言ったりするが、苦くて胃液のような不味さ。
30分くらい瞑想してからDMTの液体を飲む。これも滅茶苦茶不味い。
再び瞑想するのだが、しばらくすると、胃の辺りから気持ち悪さが込み上げてくる。
座っていられなくなり、横になって少し嘔吐する。
するとサポーターとしてボランティア参加している知人たちが水を手渡しにきてくれる。
そのような状態で一晩過ごしていると、いつの間にか陽が昇っていた。
サポーターの中に、子連れの台湾人女性とデンマーク人男性がいた。
台湾のレイヴで度々見かけていた富裕層オーラが醸し出されていたカップル。
このデンマーク人男性は、象や馬の鎮静剤として使われるケタミンが大好物のようで
「Kホールも体験してみなよ」と自宅に招待してくれた。
Eはアヤワスカとのチャンポンは勧めないと尤もらしいことを言ったが、
未知なる向精神薬が目の前に現れると試さずにはいられない私の好奇心には逆らえなかった。
高校時代、かつて大型動物の鎮静剤などとして使われていたPCPの液体をタバコに浸して着火し吸引したことがあった。
”Be careful(気をつけて)”と言いながら液体を差し出すディーラーの言動の矛盾が気になった。
しばらくして一緒にいた友達の顔が大きくなったり小さくなったりしたあと、気持ち悪くなって噴水のように嘔吐した。
個人的にはエンジェルダルトという隠語には似つかわしくない怖い体験だった。
ケタミンがPCPの強い副作用を緩和したものだということはその時は知らなかった。
ラインを一本鼻から吸い、ソファで目を瞑っていると、まるで空に浮いているような感覚になった。
ただ、アヤワスカの余韻のせいなのか、ときどき気持ち悪さがぶり返しそうにもなった。
途中、南米で本場のセレモニーを経験したことがある白人女性が訪れ、イカロを唄ってくれたお陰で助かった。
イカロとはアヤワスカのセレモニーで歌われる治療のための歌。
吐きそうになってもう限界と思っても、彼女の心地よい歌声に意識を集中させると、浮遊感を持続できた。
氣持ち悪さと心地良さの狭間で揺れながら、私はいつの間にか意識を失っていた。
翌日、会話の中で、アヤワスカと食べ合わせが悪いものが沢山あることを知った。
腐敗した物はもちろん、熟れすぎたものや発酵食品、青果でもアボカドや柑橘類、チョコレートやコーヒーなどの刺激物もNG。
アヤワスカの前に摂取したら死に至るリスクがあるものもあるという。
おいおいおいおい、初耳だぞ。
調べてみると事前に食べていいものと食べてはならないものの長いリストがありdieta(ディエタ)という。
最低でも1週間から1ヶ月前は刺激的な情報や性行為なども控えた方が良く、セレモニーを成功させるためには事前準備が肝心であることを知った。
精神の治療をする上で、致命的な危機感は低容量ピルでも経験したが、またもや死に物狂いなことをしていた。
ディエタを独学し、準備を万全にして数ヶ月後、セレモニーに再び挑んだ。
2回目はEたちの家がある丘で行われた。
間接照明で落ち着いたリビングで瞑想し、陽が落ちた後に2種類の液体を順番に飲む。
その不味さを記憶した体が強張り抵抗する。
ため息まじりの深呼吸をし、目を瞑り、鼻をつまみながら飲んでみるが、何度やっても飲む瞬間が一番辛い。
まさに苦行。
如何にもヒーリングを意識した詠唱がスピーカーからずっとループ再生されていて、その機械的な気持ち悪さに耐えられなくなり、屋外へ逃げた。
晩夏の涼しい空気と虫の音が心地良く、アスファルトの地面に仰向けになった。
嘔吐してしばらくすると、感謝の気持ちが湧き出た。
そして自分が他人と物事を共有することに強い抵抗があることに気づいた。
自分の器の小ささ、ケチなところにも繋がっている気がして、そんな自分が嫌いだけれど、裏切られたくないからだということまでは理解できた。
6-4:Iboga編
後日、再びZとDの家を訪れた。
先客にJというニュージーランド人男性がいて、2回目のイボガを久々にやりに来ているという。
イボガとは、アフリカ西部ガボンなどに自生する木で、根っこに幻覚剤イボガインが多く含まれる。
元々ブウィティという部族が通過儀礼などで使用してきた。
欧米ではヘロイン中毒者の治療薬として活用されるほど、潜在意識に働きかける精神作用が強いことで知られる。
アヤワスカがサイケデリックスの「母」とすると、イボガは「父」に値すると言われ、比較対象にされることが多い。
ただ後者の作用は24時間と、他のサイケデリックスに比べても長く、体が動かなくなり、意識も飛ぶので前者より扱いが難しい。
ZもJもイボガを経験してから人生が劇的に好転したと絶賛した。
夢の中でイボガに質問すると、なんでも教えてくれ、作用が終わった後、生まれ変わったかのように新しい習慣を始めることができるという。
想像できなかったけど、ならば自分も試さない訳にはいかなくなった。
Jに次いでイボガを注文したが、業者の不手際があり届くまでに1月以上の時間がかかった。
その間、Z宅で居候させてもらい、対価も払っていたのだが、次第に居心地が悪くなっていた。
イボガがようやく到着したら、Zがその日の夜にセレモニーを始めると言い出した。
私は急に不安になり、ちょっと待って欲しいと言ったけど、聞き入れてもらえなかった。
しかもなぜかセレモニーをする小屋に子犬9匹を持ち込み、最悪な環境にされた。
至る所に糞尿をされ、掃除をした後も悪臭が取れない状態。
さらに私が寝るはずだった畳を直前に取り払い、どこからか持ってきた古い蜘蛛の巣を纏った木のベッド2台を水で適当に洗い流し、乾いていない状態で隣り合わせに並べ、薄いゴザを敷きそこで寝るように言われた。
中心に凹凸があり心地の悪い状態だった。
薬が作用している間は動けなくなるので、果物ダイエットをしてから浣腸をし、尿瓶が用意された。
夜になると、吐き気止めを飲んでから、カプセルに入れておいたイボガの粉末3グラムを一気に飲んだ。
これはかなり多い量だということは後で知る。
Zは”rabbit hole(ウサギの穴)”に集中しろと言い続けたが、何のことを言っているか分からない。
深夜になってZがいなくなり、目を瞑っていたが、ハエの音が耳元で聞こえ、怖くて気持ち悪かった。
外灯も気になってしまい、体を起こしそうとしたけど、力が入らない。
目を開けると蚊帳の中にZが入っていて私の内ももをさすっている。
気持ち悪い。やめろ。
声が出たかどうか分からない。
意識を失い、微かに覚えている夢は、はっきりとした映像ではなかったが、赤と黒の邪悪な世界。
日本人がアジア諸国を侵略し、残虐な人権侵害を繰り返してきたことに対する罪悪感と羞恥心の表れのようだった。
目覚めると窓の底から晴れた空が見えた。
体が動き、吐き気がしたので嘔吐した。
Zが現れ「よくやった」と言ったが、憎悪が湧き上がり、彼の顔に唾を吐きかけたい衝動にかられた。
間もなくアヤワスカも飲むように強要され、私は拒否しきれなくて、仕方なく少しだけ飲んだ気がする。
一刻も早くその場から逃げたいことしか考えられなかった。
偶然Eとその彼氏が訪問していて、私がヒロイックドース(マイクロドーズの真逆)を果たしたことに関心していたが、私はZとDに対する嫌悪感で満ち溢れていた。
翌日にはZ宅を後にし、台北で知り合いと会ったが、愛想笑いもできないほど人間不信に陥っていた。
私は数日後、衝動的に台湾を後にした。
向かったのは、彼がいるアパート。
台湾勤務中、私は年に数回帰っていたが、毎回数ヶ月分の汚れを数日間通しでディープクリーニングする羽目になっていた。
彼は真面目に働いて家賃や光熱費は払うけど、掃除をする習慣は皆無。
モラハラ上司の機嫌を伺いながらやっと取った休暇なのに、帰宅のたびにハウスダストでくしゃみが止まらず、ひたすら掃除。
タバコのヤニやカビや埃や抜け毛などが目に付く度に怒りが勃発。
怒りのスイッチが入ると、頭の奥の方で辞めたい自分がいても、口が止まらない。
私が掃除の仕方を彼に上手に教えられれば、下手でも優しく褒めてあげられれば......。
私だってダメなところが沢山あって、他人を批判できる立場ではないのに……。
自己嫌悪に陥っては、謝りながら泣き崩れる。
けどまたすぐにブチギレることを一日中、毎日繰り返す。
5年前と本質的に何も変わっていなかった。
🌅🎶🕺🌈🦘🧘
7 日本のレイヴ〜OZのレイヴ
台湾に行く直前まで業務委託を受けていた外国人向け雑誌のよしみで専属ライターからフジロックのチケットをもらった。
野外音楽フェス会場で偶然、ピースボート繋がりの知り合いと再会したことがきっかけで、晩秋に離島で行われるレイヴのことを小耳にはさんだ。
伊豆諸島の1島で開催とのことでピンときて、ひとりで行くことを即決。
幼い頃、父親とふたりで訪日した際に訪れた記憶が微かにある島で、
常夏生活に希望を抱き、沖縄移住も検討していた私は以前から気になっていた。
開催前日、夜行フェリーに乗って約10時間後の翌朝到着。
3日間の開催なので、まずはテントを設営。
あとは音楽に踊らされるもよし、海岸で遊ぶのもよし、山に登るのもよし。
大人も子どもも自由に遊べる楽園。
フジロックのような大規模なフェスもいいけれど、サイズ感、手作り感、アングラ感、
どれをとっても小規模なレイヴが個人的には好みだ。
台湾でデビューしたレイヴと共通するものがあり、日本では初めてだったにも関わらず懐かしい感じがした。
似たもの同士の集まりだからか、出会った人たちとはすぐに意気投合した。
その分あっという間に感じられ、ほとんどの人は直ぐに本島に帰った。
あんなに羽を伸ばして自由を満喫していた人たちが急いで戻って行った日常はどんなだろう。
私は日常にはなるべく戻りたくなくて、幸か不幸かすぐに戻る必要もなかった。
時間や場所に縛られてない一握りの同類と台風の様子を伺いながら、
一緒に温泉に浸かったり、ハイキングをしたりしつつ、各々気ままに本島へ帰った。
次なるパーティーへハシゴする強者もいた。
私は彼氏の元に帰り、苦手な冬が来る前に、温厚な気温を求めて南半球へ渡ることを企んでいた。
ニュージーランドには友達や知り合いがいたし「女性が議会選挙で投票権を持った世界で初めての国」という政治的な面でも気になっていた。
しかも翌年の春は日食パーティーがインドネシアで開催される予定だったので一石二鳥と思っていた。
でもクリスマス前夜、頭痛があったのに無理して出かけた日から予定が狂い始めた。
伊豆諸島でできた友達Mの誘いを断れず、下北沢のバーに出かけたのだ。
そこでMの友人がオーストラリア(OZ)で開催される巨大レイヴに行くと知り、社交辞令でSNSのいいねを押した。
するとそれを見たMから一緒に行きたいなと言われ、断れない心境に。
全くピンときてなかったのだけど、北半球の冬をしのぐことには変わりないし、まぁいっか……。
会場の最寄りの街メルボルンの冬は真夏日和で、米ブルックリンや英ショーディッチのような馴染みのあるヴァイブスが心地よかった。
心ここにあらずだったからか、4日間の記憶があまりない。
一つの出会いを除いては。
不思議の国のアリスに登場するマッドハッターのような出立ちの男性が「レインボーサーペントは初めて?」とOZ訛りの英語で聞いてきた。
「そうだよ」というと「じゃあコレ僕が作ったんだけど、初めての人にあげてるんだ」とガラスの小瓶を差し出された。
DMTの結晶をMAOI系のハーブにまぶした「チャンガ」というものらしく見た目は美しい。
有り難く受け取ったけど、イボガとアヤワスカの強烈なチャンポンを強要されて以来、DMTは正直お腹いっぱいだった。
Mを通じて知り合った日本人グループの男性が興味を示したので、ミニパイプに詰めてやらせてあげた。
男性は着火して吸引するやいなや仰向けになり、白眼になった瞼が痙攣し、予想外の反応に私は驚いた。
数分すると、男は元の状態に戻ってきて、初めての経験にビビった様子。
アヤワスカとは形状だけでなく作用も全く別物だということを察した途端、私も興味をそそられた。
でも賑やかなフェス中はやる気は起こらずお預け。
最終日の夜、みんなとキャンプをしていた際、私はチャンガを試してみた。
するとMの顔がうごめく幾何学模様で覆われ、次第に視界が真っ暗闇に包まれたと思ったら、
フューシャピンクや白などのケミカルな模様が現れ、ものの数分の間に消えていった。
いわゆる「幻覚剤」と呼ばれるサイケデリックスは後にも先にも色々試してきたが、目の前に明らかに無いはずのモノがハッキリ見えたのはその時が初めて。
上手く説明できないけど、クソ真面目に向き合ってきた人生や世の中が「うっそぴょーん」と茶化されたような感覚があった。
チャンガは美味しい訳でもないけど不味くもないし、ほんの少しで強烈な幻覚が見える割に一瞬で終わるから気軽にやろうと思えばできるかもしれないけど、私は一回で十分だった。
想像を絶したので正直、怖かった。
Mが帰国した後も、入れ替わり立ち替わりする日本人グループと連んでいた。
英語も母国語の私は色々な場面で引っ張りだこ。
面倒な手続きの通訳・翻訳というか雑用を昔から両親に頼まれていたから朝飯前ではあった。
紆余曲折を経てヒッピーの多いビーチタウン・バイロンベイに辿り着いた。
日差しが降り注ぎ、無料のテント場があり、健康志向で芸術的なワークショップや店が集まっていて開放的な町。
ニンビンにも寄った。
大学時代に英会話講師をしていた頃、同僚のオーストラリア人男性から一押しされていた。
そこは豪州のカウンターカルチャーの聖地で、環境への配慮や代替医療などを実践している人が多く住んでいて、大麻合法化の祭り「マルディ・グラス」が有名。
ニンビンの町にも警察署があって、巡礼してきたけど、特にお咎めがないから面白い。
嗜好大麻は違法だけど、ちょうど私の滞在中にオーストラリアでも医療大麻が合法化された。
当時はそんなことも分かっていなかったけど、いとも簡単に安く大量に手に入り、急にジョイントを巻くのが忙しくなったことは覚えている。
その時、初めて吸い過ぎて「二日酔い」になった。
翌朝もずっとボーッとして、スッキリしない感じ。
これで私、大麻も卒業かな、と思った。
色んな意味で理想的な環境なのに、虚しさが紛れることはなかった。
1ヶ月以上経ち、自分が何をしているのか益々分からなくなっていた。
そして現状から逃げるように、ヴィパッサナ瞑想のボランティア・スタッフとして応募。
ヴィパッサナ・センターは世界中にあり、登竜門となる10日間の瞑想を完了すると、スタッフになることができる。
生徒として参加するより空きが早いので救われた。
豪クイーンズランド州にある会場に到着すると、野生のカンガルー親子に出迎えられた。
スタッフも瞑想に参加するけど、一日3回ある食事の準備の合間のみ。
驚いたのは、食事が豪勢だったこと。
スパイスもふんだんに使い、デザートもあり、ホテルのビュッフェ並みの充実度。
連日、薄い塩味のスープと白米だけだった台中とは対照的。
だけど残飯も多く、どちらの方が良いと一概には言えない。
詳細は覚えていないけど、女性スタッフから乱暴な扱いを受けたり、別の女性スタッフから嘘をつかれたりした。
平常心を保つため瞑想をしに世界中の人々が集い、一見平和そうだけど、
蓋を開けてみると人間同士のイザコザがここにもあった。
それでも10日間の内観を経て、ふわふわしていた足元が少し地に着いた気がし、ようやく日本に帰る気になった。
⛩🗣📢
8 L氏との再会と言論の自由
約3ヶ月間にわたるオーストラリアでの迷走を経て、東京にいる彼氏の元に戻ったが、翌月には京都にいた。
L氏から連絡があったからだ。
京都の街並みは歩いてるだけで和み、東京より品質が格段に高い和食が手頃にいただける食事処が多いことに感動した。
そして歩いてると日本語より外国語を耳にする。
そのためか、東京人より京都人の英語力が断然高いのには感心した。
ただ言動の端々に感じられる棘というか、裏表の激しさも気になる。
落ち着く街並みとは裏腹な、そこに住む人たちの殺伐とした空気が表裏一体となり、
穏やかに暮らせるかはさておき、魅力的な街であることには違いなかった。
そんな京都市内で桜や紅葉の名所にもなってるのに、人気が少ない静かなエリアにL氏の別荘はある。
出逢いは台湾で働き始めた頃。
当時の私は、冷蔵庫のように寒いオフィスで多忙なスケジュールの中、実力以上の仕事を求められていただけでなく、
上司から猥褻やパラハラ、マイクロマネージング、理不尽な文句を言われたりしていた。
待遇がよく、勢いのあるジャンルのプロジェクトに携わっていたため、飼い慣らされた同僚たちが鼻につき、私は余計に「いつでも辞めてやる」という心境だった。
その頃、親会社である香港大手メディアグループ創業者のL氏が、新しく発足した私たちのチームに挨拶をしにきた。
会社の理念などが語られたが、私には綺麗事にしか聞こえなかった。
「なにか質問ありますか?」と聞かれた際、私だけ手を挙げた。
「視聴者がほぼ中年男性なので、もっと女性向けのコンテンツを増やした方がアクセス数も稼げると思うのですが……」
するとL氏は「うちではニッチなことをするつもりはない」と言った。
はぁ?
人口の約半分のジェンダーに向けたコンテンツを増やすことのどこがニッチなんですか(今やってることはニッチじゃないわけ)?
当時、性犯罪のニュースを過剰に取り上げ、中国人女優のプロモーション動画を積極的に配信していた。
全く納得がいかなかったけど、議論する時間も設けられていなかった。
その後、L氏の付き添いをしてた男性に「L氏が君のことを関心していたよ」と言われた。
後日、香港にあるL氏の自宅に私だけが行くことになった。
日本からお客さんが来るとのことで、日英通訳を頼まれたのだった。
到着すると、豪邸の螺旋階段から奥様が降りてきてお出迎え。
壁の至るところに無数の絵画が飾られ、庭には孔雀が優雅に歩いている。
お抱えシェフによるコース料理に、送迎はロールスロイス。
ヨットで香港湾をクルージングしながらランチビュッフェをいただき、夜は老舗レストランでフルコース。
小学生の息子は豪華な料理に見向きもせず、ずっとお絵描きしている。
私は常にお腹が一杯で、胃が苦しかった。
それは私が通訳として最低だった証。
生理中で、ただでさえ全機能が低下してるのに、冷房が効きすぎた空調の中、
円卓で自由に話す人々の会話に気を利かせて通訳することができず、フリーズしてしまった。
自分の至らなさを押し込むように、自分の存在意義そっちのけで食べた。
状況が好ましくなかったことを差し引いても、自分は通訳に向いてないと悟った瞬間でもあった。
なのに、L氏は以降も度々台湾の別荘に招待し、私の食べっぷりを褒めた。
私はやはり胃が苦しくなるまでそれに応えた。
日本での再会は私がリストラされて以来、初めてのことだった。
京都の邸宅は、月の満ち欠けを描いた屏風などが数点のみ装飾された風流な内装。
中庭には筧と巨大な蹲が鎮座し、神社仏閣を彷彿とさせる侘び寂びも感じる。
近況報告を交わしながら食事をした。
私がトイレから戻ると、L氏が「眠くなったからまた今度」と言った際、すでに着替えていた白いTシャツが穴だらけで驚いた。
世界中に5軒の豪邸を持つ大富豪になっても、ボロボロになるまで着続けたい服ってあるんだ。
等身大の姿を見せちゃうL氏の人間らしさを目の当たりにし、この人の過去の話を思い出した。
元々は中国本土で極貧生活を送っていたが、子供の頃に客からもらった一口のチョコから、もっと広い世界があることを知り、
貨物船に隠れて香港へ渡り、事業を成功させ、中国政府に対して唯一異論を唱える中国メディアを築いてきたという過程を。
L氏とはその後も何度か京都で会い「君をサポートすることもできる」と言ってくれたことがあった。
私は何をどのようにサポートしてもらったらいいのか分からず、気持ちだけ受け取った。
L氏とは以来会ってないが、彼から言論の自由を実践する勇気を与えられた理由となる世界情勢をこの頃はまだ想像するすべもなかった。
新緑の過ごしやすい気候だというのに、しばらくエンジンがかからず、京都は左京区にあるゲストハウス周辺で過ごしていた。
伊豆諸島で出会ったWと、オーストラリアでも一緒だったMと3人で再会し、バーベキューなど夏っぽいこともした。
🪢🪢🪢🪢🪢🪢
9 日本の変態と自分
秋になり、通訳の依頼が入ったので東京に戻った。
会社からリストラされても、フリーランスという肩書きは自分が辞めない限り残る。
今回は日本のフェティシズムやエロチズムなどを含む性科学(sexology)について、フランス語で本を執筆し、和訳もされてる学者のAからの依頼。
私は英字雑誌で働いていた頃、アンダーグラウンドのシーンに興味を持ち始め、
性的に変態な絵画などに特化した銀座のとある画廊に通っていた時期があり、Aとはそこで出逢っていた。
Aの今回の研究テーマは、日本でラブドールなどに使う多種多様な「匂いのローション」。
私は毎回、彼女が関心を寄せる対象が変わってると思っていたけど、
海外では発想もしないような性的に変わった物事が単純に日本は多いからなのだろう。
私自身、変態的な性行動に惹きつけられ、ハプニングバーで働いていた時期もあるからわからなくもなかった。
きっかけは中村うさぎさんのエッセイ『セックス放浪記』。
彼女がハプニングバーという公然の場で性行為をした体験などが書かれていた。
その本の内容が私には衝撃的で、1日で読み終わるとすぐに「日本最大」と謳っていた会員制のハプニングバーにスタッフとして応募した。
オーナーで国内外で活躍する緊縛師が面接してくれた隣の部屋では女性の激しい喘ぎ声が聞こえてきた。
「自分のことを変態だなと思うことは?」と質問され、実体験を話した。
「私、昆虫恐怖症で特に芋虫が苦手なんですけど、大の食いしん坊でもあるので、ナマコとかは大好物なんです。だから昆虫が食材として見れたら克服できるかもと長年思っていたところ、昆虫食を普及する会の人たちと偶然出会った際に色々食べたら想像以上に美味しかったので、苦手意識が少し緩和しました。」
「変態だね〜」と言われ、貴方様に言われるほどでは……と思いながら、その場であっけなく採用された。
ハプニングバーは、性的なことが起こりうるバーで、私は主にカウンターでドリンクを作りながら、雑用もこなした。
バーカウンターは赤と黒を基調とした広いスペースに面していて、奥に外から見通せる空間がいくつかある。
「警察が来たら照明のスイッチと、部屋の仕切りを下ろすスイッチを押して、裸の人に着ぐるみを配って......」
法に触れる要素が多いので、摘発時の対応から説明された。
初日は、緊縛用の縄を馬油で鞣す地味な作業から始めた。
私は最初、昼から夜9時までのシフトだったので、客入りは少ない方だったけど、色んな人が来店しにきた。
「胎盤の刺身を醤油と山葵につけて食べる」と話す男性医師。
(胎盤は人の臓器となるため、現代では医療廃棄物として処理することが義務付けられていて、原来は体力を回復するために妊婦が食べてきた)
ポールダンスの練習をしにくる若いダンサーたちや、AV女優。
「自分よりSな男に会ったことがない」ことが悩みな女王様に連れられた白人のM男。
私も一緒になって低温蝋燭をかけた後「目を見ながらやってくれたことが嬉しかった」と恥ずかしそうに言った。
甥っ子に性的なことをしていると話す中年女性。
いつも一番端の席に座り無言でゲームをする中年男性。
手の平を揉まれるだけで体をくねらせながら喘ぎ声を漏らす若い女性と、明らかに謎のテクニックを持つ若い男性。
カウンターで肛門に遺物を連れの男性に入れられるところを見られにきた中年女性。
床に落ちていた便をティッシュで拾った時「自分はノーマルだ」と確信した。
「あんたは変わっている」「オカシイ」と小さい頃から母に言われてきたけど、
私の周りには昔から異次元レベルの変人が普通にいた。
血管にジャックダニエルを注射してみたり、分厚いフックを背中に通して空中に吊らされるサスペンションをする人がいたり……話し始めればキリがない。
だから私ごときが変わっているなら、この人たちはどうなっちゃうんだ? と本気で思っていた。
母や日本語学校の友達から同調圧力を受けてきたので、日本人たるもの個性を持つべからずなのかと思わされてきた。
けど日本に来てからも、変わっていると思う人に大勢会ったら、自分は別にそこまで変ではないと安心できることが増えた。
ピースボートのボランティア通訳に合格したため、ハプニングバーは一年も続かなかった。
後者は履歴書の経歴として書いたことは一度もないけど、視野を広げる社会科見学となった。
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10 冬の養生・補腎・土用
日本の性科学を研究者Aの通訳業務が終わった頃、新たなクライアントが現れた。
英字雑誌で編集長をしていたイギリス人男性のD。
彼はこの頃、ロンドンで雑誌作りをしていて、東京の特集を組むため、著名人へのインタビュー記事を依頼してきた。
このプロジェクトに関わった流れで、英字雑誌の元営業だった日本人女性Oからも翻訳やバイリンガル記事の執筆を頼まれ始めた。
23歳から本格的に始めた通訳者・翻訳家としてのキャリアも10年が経った頃だが、フリーランスだけで月収18万円得ることができたのは初。
台湾で正社員をしていた頃よりは低いが、個人授業主として専門職で食べているという感覚は、正社員やバイトとして稼ぐよりも自信がついた。
ただ、締め切りが短かい依頼が多すぎて毎朝、目が覚めると首が痛くて起き上がれない状態。
寝ながらできるヨガの動画を真似して、ようやく体が動くようになる日々を送っていた。
秋を迎えた頃「冬の養生・補腎セミナー」というものに参加した。
主催者は、伊豆諸島で出会った漢方医。
3日間のレイヴともなると、終盤の頃にはハメを外しすぎて生気を失ってる人が目立つ中、
その漢方医は活力が回復する漢方を売り歩いていて、めちゃめちゃ元気でキラキラしていたので私は彼のSNSをフォローしていた。
私は一年で最も苦手な冬の寒さと、それに伴う気分の落ち込みへの手立てがなくなり路頭に迷っていた。
南半球に逃避して寒さは回避できたけど、虚しさは強まる一方で、常夏生活にも限界を感じていた。
冬の養生なんて考えたこともなかったが、自分に必要だということは直感的にわかった。
セミナーで学んだことは初めて知ることばかりだったけど、腑に落ちることばかり。
冬は心身を休めて、春・夏・秋に思いっきり遊べるためにエネルギーを溜め込む時期。
冬に冬眠、充電しないと春夏秋に調子を崩す。
少食を心がけ、早寝遅起き、夜10時には眠くなくても身体を横にするだけで体力を温存できる。
黒い食べ物を積極的に摂取し腎臓を補い、暖房に頼りすぎず身体を温める服装と飲食をする。
中でも四季の変わり目である「土用」という「五つ目の季節」の一つである「冬土用」期間は、一年で最も注意が必要。
1月下旬から立春までの新年を迎える直前に当たり「陰が極まる」ので、心身への負担が一最もかかりやすい18日間。
災いの元となるから、なるべく言葉を慎む方が良いとまで言われている。
年に4回訪れる土用の期間は、次の季節の準備期間。
心身を休め、大きな決断や行動は新しい季節になるまで待ちながら、地道な計画や準備などをコツコツと積み上げる。
なるほど、私は冬の養生や土用中にやってはならないことばかりをしてきたのだ。
365日年中無休、時には24時間営業。しかも地球上どこでも需要があれば飛んでいく。
退屈な家事と母の癇癪から逃れつつ、一刻も早く一人前の人間として認めてもらおうと10歳から外でも働き始め、14歳からは週末や祝日はバイトが基本。
父の店でもクリスマス・イヴから大晦日までは一年で最も忙しいかき入れどき。
みんなが休んでいる間に稼ぐのはサービス業として当たり前。
日本に引っ越した後も、自立するために、複数の仕事を常に掛け持ち。
蕎麦屋でもバイトしていたから毎年、大晦日から元旦は寝ている場合じゃない。
台湾でも24時間営業だったので数ヵ月置きに夜勤シフトが回ってきた。
経験を積むために仕事は断らない主義だったので、どんなに忙しくて大変でも引き受けてきた。
休まないといけない時も、フル回転が通常運転のライフスタイルを33年間続けてきたのだった。
セミナーの後、漢方医のクリニックで診察してもらったら「気虚」「臨死状態」と診断された。
大袈裟だなと嘲笑しながら、どこかで妙に安心した。
それから「補腎」を意識した冬の養生を始め、冬の土用を慎ましく乗り越え、
春を迎えた頃には心身が例年より安定しているのを実感した。
しかしこれは嵐の前の静けさにすぎなかった。
🇱🇰💧🌪🔥🇮🇳
11 世界最古の医療アーユルヴェーダ
東洋医学を実践しているうちに、5000年の歴史を持つ世界最古でインド・スリランカ発祥の伝統医療「アーユルヴェーダ」もかじり始めた。
頭部にオイルを垂らされているシロ・アビヤンガを思い浮かべるかもしれないが、
私が実践していたのは日常の中で取り組む「ディナチャリア」というルーティーン。
まず自分の体質を調べ、それに合う食事と生活習慣を実践する。
私は「ヴァータ・カパ」体質で、風と水の性質が優勢で特に冷え易いから、身体を温める工夫が必要。
目覚めに好ましい時間も決まっていて、数あるデトックス法は午前に集中している。
全部やるのは難しいから、できることからやってみた。
陰陽五行説に基づく「補腎」「冬土用」に加えアーユルヴェーダの智恵も暮らしに取り入れ、
はじめて地に足のついた冬を越すことができたと思ったのも束の間。
再び歯車が狂い始めたのは3月、伊豆諸島の後に京都で再会したWからの熱心な誘いを受けてしまった日。
「一緒に海外へ行こうよ」と以前からWに誘われていた。
私は単独行動は得意でも、他人と足並みを揃えて行動することが苦手のようだ。
Mからオーストラリアへ誘われた時のように、気乗りしなかった。
それに冬を乗り切った達成感から、どこかへ行かなくても満たされていた。
「どこか行きたいとこない?」とWに聞かれ、どこにも行きたくなかったけど、
せっかくできた友達を突き放すようなことは言えない。
行きたいところ、行きたいところ......強いて言えば、台湾?
いや、台湾はまだ行ける気がしない......。
アメリカの西海岸はずっと行きたいけど、この人と一緒に行く場所ではない......。
アーユルヴェーダのデトックス療法「パンチャカルマ」をいずれは受けたいと思っていたので
「んー......スリランカとか?」と適当なことを言ってしまった。
するとWは目を輝かせて「スリランカ!いいね!」と言った。
あーやばいやばいやばいやばい。
相手のペースに飲み込まれる、この感じ。
案の定「一緒にスリランカ行きたいな」と言われ、
相手の期待にズルズルと応えてしまういつものパターンに陥り、私の鬱が再発した。
気候はどんどん暖かくなって陽気が満ちてゆくのに、私の心は日に日に暗く重く病んでいく。
気合を入れようと、パンチャカルマについて予習しようとするが内容が入ってこず、ディナチャリアをする気さえ起こらない。
「スリランカでパンチャカルマ受けてみたいって思ってたじゃん。叶ってよかったじゃん」と頭の中の声に言われる。
そうだ、その時が来たんだから、楽しみに思わないと。
結局、6月中旬から7月上旬の21日間、アーユルヴェーダリゾートを予約。
けど全貯金30万円を使い果たしてしまうことになる。
悩みに悩んで直前にキャンセルしようかと思ったけど、キャンセル料約6万円をしぶって、強行。
コロンボ空港に到着し、活気のある市場を抜けて、安宿にチェックイン。
スマホの充電器が使えなかったので、街に繰り出したが、何がどこにあるか分からない。
まずは腹ごしらえに飲食店でカレーを頼んだ。
店を出ると、英語で声をかけてきた白いシャツと黒いズボン姿のスリランカ人男性に、充電器を買える場所を聞いた。
男性はオート3輪の小型タクシー・トゥクトゥクを呼び、電気屋に案内してくれた。
狭い店に男性客が数人いて、ちょっと高くない?という額の充電器代を払い店を出た。
再びトゥクトゥクで元の場所に戻ると、男性が握手を求めてから合唱してサンキューと言った。
宿で充電器を使ってみると壊れていて、怒りが込み上げた。
スリランカの約3週間の滞在は最悪なスタートを切り、その後も低迷することになる。
Wと落ち合い、2日目は安宿からアーユルヴェーダのリゾートホテルへ移動。
雑多な外界とは対照的に、敷地内は静かで、平坦に舗装された広い道をランドカーがゆっくりと進む。
前日スリランカ人に騙されたことによる人間不信から心は穏やかでない。
ビーチとプールを見下ろす客室に到着してもしても違和感を覚えた。
普段なら低予算のドローカルなひとり旅を好むことからも、自分らしくない感じ。
朝8時頃から午後13時頃まであらゆるデトックスのトリートメントがあり、その後は自由時間。
心ここに有らずだったからか記憶は断片的。
まず良かったことは、ビュッフェが非常に美味しかったこと。
連日でも飽きないレンズ豆のダルカレーに、マンゴスティンやランブータンなど好きな南国のフルーツが食べ放題。
食べ過ぎて胃が苦しいし、デトックスとしても好ましくないので、途中からおかわりを我慢したほど。
オイルマッサージが毎日あるのだけれど、指圧が弱過ぎたり、強過ぎたりする人ばかり。
中には砂粒を混ぜながらマッサージをする人もいたので指摘したら、ワザとらしく驚いたと思ったら、大きなため息をつかれた。
後から指圧がちょうどいいベテランのマッサージ師に当たり、自分の感覚がおかしいわけではないんだと思った。
それからはその人をできる限り指名したけど、大勢いる中のほんの1人だった。
老舗リゾートだから選んだのに、全体的なクオリティーは金額に見合うとは到底思えなかった。
さらに同室のWが終始語りかけてきて、静かに過ごせる自分の時間がなくてストレスが溜まっていた。
最後の週だけ、内観したいのでなるべく話しかけないで欲しいとお願いした。
そうやって長い3週間がやっと終わった。
帰りの飛行機の中で、離れた席に座っていたWから「食べる?」と差し出されたケンタの大きな紙袋を開けると、
食べかけというよりも食べ残しというか、ポテトフライが3本のほぼゴミ。
なんでこんな扱いを受けないとならないんだろう。
Wからの連絡はその後、未読スルーしていたが、ある日ばったり自宅の近くで会った。
それからもう一度だけ会うことを承諾した。
私の考え過ぎかもしれない。
けれどゴミの印象がどうしても拭いきれず、もうこれ以上つきあう義理は
ないとようやく思えた。
🌳💭🌳💭🌳💭🌳💭🌳💭
12 大麻農家で働いてみたいけど
スリランカから日本に帰った後、父も帰省しているとのことで都内で会い、悩み事を相談した。
その年の秋こそカリフォルニアの大麻農家で働きたいと思っているけど、コネも勇気もない。
大麻農家でのトリミング(大麻草の花穂から枝と葉をハサミで取り除く作業)という季節労働のことは、5年前の台湾時代に同僚のアメリカ人男性Gから聞いていた。
その時ピンと来て「天職だ」と思った。
自分は大麻と相性がいいのを熟知していたし、手先の器用さが試される仕事は向いているし、3ヶ月で一年分稼げるという。
すぐにネットで手当たり次第に情報収集したけど、実行しかったのには理由がある。
山奥で一年中、独りで作業している大麻農家が秋の収穫期になり、季節労働者の女性を餌食にするという性被害を警告する記事が目立っていた。
自ら性被害に逢いに行くようなことは、いくらなんでもできなかったけど、やってみたい仕事の一つとして頭の奥でずっと燻っていた。
そんな時、既に医療大麻を合法化したカリフォルニア州が翌年2018年から嗜好用大麻も合法化することになり、大麻の価格が暴落しているという情報が入ってきた。
大麻で一攫千金のチャンスは今年の秋までに間に合うか否かの瀬戸際。
少なくとも、大麻生産量全米ナンバーワンで嗜好大麻が合法化されることで、社会がどのように変わるのかを肌で感じたかった。
こうなったら一か八か試さずにはいられない。
でも仕事くださいと書いた段ボールを掲げて道端で待つという王道のやり方は論外。
そこで降りてきたのが、8月に開催されるオレゴン州の日食パーティー。
バーニングマンも日食パーティに合わせて開催日が直後になるよう調整したほどで、参加者が被ることは明解だった。
ただバーニングマンは砂漠で行われ、寒暖の差が激しく砂嵐があるような過酷な環境で1週間過ごすための装備が必要で、会場ではお金が使えない他、参加者全員が自己表現をしながら与える場なので、色んな意味でハードルが高い。
日食パーティーも1週間の野外イベントだけど、湖のある草原で行われ、お金は使えるし、自己表現をしながら与えるというルールもない。
いずれも私と似た感覚の人が多く、大麻好きはもちろん大麻農家も多いはずなので、気の合う人と出会える確率が高く、安全な農家で仕事ができるイメージが湧いた。
ただ、うまく行く保証はどこにもない。
”Go for broke(一か八かやってみろ)”
父の答えは相談する前から見当がついていた。
父がバックパッカー時代から大麻をやっていた話をよく聞いていたので、
私も大きくなったらやるんだろうと物心つく頃から思っていた。
我が家では未成年のうちから正月のお屠蘇は頂いたし、
アメリカではタバコや酒が違法だった時代があると現地校で学んだ。
文化や時代や国によって風習が違い、法律も変わることを学んでいたので、
現在の法律がどうであるかは情勢を知るための参考程度にしか思っていなかった。
一方で母親は大麻未経験者なのに、めくじらを立てるタイプ。
私の部屋で乾燥大麻を見つけた際、通報されるのかなと一瞬期待したのに
「信じられない!」という驚嘆だけで終わった。ビンタもなし。
そこまで悪いと信じているなら、なんで通報しないんだろう。
逆に共犯になっちゃうんじゃないのかな。
潔癖ぶりながら、人並みに矛盾だらけの母。
かつて追っかけをしていたというバンドは、奇しくもドゥービー・ブラザーズ。
ドゥービーは大麻を巻いたものの隠語だけど、この人は分かってファンをやっていたのだろうか。
別にドゥービー・ブラザーズに限らず、ミュージシャンやアーティストに大麻やドラッグ好きが特に多いのは世の常だと思うが。
ちなみに父親が大麻を辞めたきっかけは私。
乳幼児の私を抱えながら、回ってきたジョイントでハイになっていたら、私の頭を壁にぶつけてしまったことを反省して辞めたらしい。
タバコは何度頼んでも辞めてくれなかった父が。
そういう話も聞いていたから、大麻は中毒になると言われてもプロパガンダだということをすぐに察してしまう子どもだった。
しかし「大きくなったらやらせてやる」と豪語していたわりに、私が二十歳過ぎても父から誘われることは一向になかった。
私は中2の頃、親友のSから洗礼を受けて以来とっくにデビューして10年来の愛煙家になっていたのに。
その間、敢えて大麻をやらなかった時期もあるから、中毒性がないことも実証済みだった。
ただ久しぶりにやる度にやっぱりいいもんだなとは思った。
でも「眠くなるから好きじゃない」と親友Sのように相性がよくない人がいることも知っていた。
痺れを切らした私は22歳くらいの頃、父にやる気があるのか確認してから、ジョイントを回したことがある。
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13 エメラルド・トライアングル冒険記
13-1 オレゴン日食編
さて、父に背中を押してもらい、大麻農家での仕事を見つける旅に出る決意ができたものの、その手段である日食パーティーのチケットは既に完売していた。
そこでオーストラリアで仲良くなった日本人カップルのタクとナツに連絡すると、チケットが1枚余分にあるという。
正確には他の人に譲ろうとしていたけど、私と一緒に行きたいと言ってくれたのだ。
私は有り難くチケットを彼らから購入し、10年ぶりのアメリカ本土への準備をした。
しかも向かうのは、子供の頃から憧れていた西海岸のオレゴンとカリフォルニア。
私は東海岸で生まれ育ったのだが、断然カウンターカルチャー発祥の地である西海岸の文化に共鳴していた。
8月中旬、オレゴンの都市ポートランドの空港に到着。
タクとナツは仲間たちとカナダのバンクーバーからキャンピングカーで南下し、私を拾ってから日食の会場に向かう予定だった。
台湾で大麻農家の仕事を教えてくれた元同僚のGに、事情をSNSで伝えたら、ポートランド在住の男友達Pを紹介してくれた。
Pとレストランで出会い、用事があるからと家の鍵を渡された。
Pの実家はノースウェスト・ノブヒルというブティックやレストラン、ビクトリア調の家が立ち並ぶ一際洒落で落ち着きのあるエリアにあった。
その中でも、黄色、青、緑、紫、赤、緑、桃色等と色違いの原色で塗装されたタウンハウスの一棟だった。
絵本に出てきそうな、カラフルな集合住宅の外観に、子供心をくすぐられ恐縮する。
ドアを緊張しながら開けると、明るく清潔で奥行きのあるモダンな内装。
しばらくするとPの母親が現れ、挨拶とお土産を渡した後、Pの寝室に案内してくれた。
息子が不在だというのに、突然訪れた私にPの両親は親切に接してくれて有り難かった。
翌日の夜、Pが帰宅して間もなく、タクとナツたちの迎えが来て、私は慌ただしくキャンピングカーに乗り込んだ。
タクとナツの他、女性1人と男性4人、私を含めた8人で、会場があるアンテロープ市のビッグ・サミット草原へ4時間かかけて移動。
到着したのは夜中で、車中泊した。
朝になってキャンピングカーの横に個人用のテントを張ったものの、キャンピングカーの中から出る気にならなかった。
予定通り生理がきたので、ゆっくりしたい気分だった。
会場には人が大勢いて、広さに圧倒されたみんなの反応から「絶対、迷子になりそう」とも思った。
そんな状況下でもできる限りのことはした。
各々色んな薬物を欲していたらしかったので、ドラッグの名称を連呼しながら近くを通りかかったプッシャーを呼び寄せたら、みんな大喜び。
「英語ができるだけじゃなくてドラッグも買えるからスゴイよなぁ」とタクから感心され、デジャヴ。
オーストラリアでも全く同じ言葉をMがつぶやき、私は褒められているはずなのに、なんだか凄くモヤモヤしたことを。
確かに英語圏の人が全員ドラッグに関心があるわけではない。
けど、私が自分のために積極的に求めたこともない。
自分から求めに行くなんてカモられそうで怖いし、ご縁と捉えて気長に待つスタンス。
だからか、いつでもどこでもドラッグの方から私の目の前に自然と現れた。
そんな私が今ドラッグを意図的に引き寄せているのは、英語力でも購買力でもなく、
親切にしてくれるみんなの希望を叶えて恩返ししたい気持ちが働くからだ。
当時はこの絶妙な感覚を言語化できず、友達の言葉を上手く受け取れなかった。
会場を初めて満喫できたのは生理明けと重なった日食の当日。
大きな湖には大勢の人やユニコーンなどの形をした浮き輪が目立つ。
ぞろぞろと大勢の人が移動している方向に歩く途中、日食観測用メガネを配っている人から受け取った。
だだっ広い荒地で腰を下ろし、メガネをかけて空を見上げる。
太陽の右上から欠けていくけど、ずっと観てるにはちょっと飽きるほどゆっくり。
そして幼少期からずっと観てみたかった皆既日食がやっと体験でき感動した。
神秘的な感想を言いたいところだけど、イメージしていたより実際はとても小さく見えるというのが正直な印象。
太陽が再び徐々に右上から表れ、三日月のように見えてくる。
太陽が完全に表れると同時にビートルズの “Here Comes the Sun”が流れ、会場は大盛り上がり。
その後は英サイケデリックバンド・シュポングルがステージで演奏。
観測前に仕込んでおいたシロシビンがちょうど効いてきて、音楽との相性も流石で、多幸感を覚えた。
同時に心は常に焦りを感じていた。
日食パーティーが終わる2日後までに麻農家と出会わないと、という焦り。
絶対に出会えることを信じて、その場を楽しみながら、常にチャンスが来る心の準備をしていた。
でも、脈があるかどうかを探るために、いきなり見ず知らずの人に話しかける度胸もなかった。
とうとうなんの手がかりも掴めないまま最終日を迎えた。
友人7人は日本へ帰国するということで、彼らを乗せたキャンピングカーを見送った。
周りにはまだテントやキャンピングカーがあるが、徐々に帰って行く。
帰国組の友人らを通じて知り合っていた日本人男性が「荷物を預かってあげる」と言ってくれたので、私はお言葉に甘えて、撤収中の会場に繰り出した。
歩いていると、笑顔が穏やかな若い男性と目が合ったので、
“Do you know the way to the Emerald Triangle?”と変化球を投ることができた。
すると彼が意味が分からないというので “I’m looking for a marijuana farm. (大麻農場を探しているの)” と単刀直入に説明。
すると彼は合点し「友達を紹介してあげる」と言った。ビンゴ。
そうしてカリフォルニア州グラスバリーで麻農場数件を運営しているイスライル人男性Iと出会い、連絡先を交換した。
Iと一緒に農場へ移動するため、自分の荷物を取りに行ったら、目を疑った。
荷物があった場所になくなっていて、周辺を見渡すと、荷物の一部が無造作に捨てられている。
「預かってあげる」と言っていた日本人男性を見つけたので、何が起きか知っているかと聞くと、謝罪された。
なんと私の荷物の中から欲しいものだけ盗んで、あとは捨てたらしい。
私は混乱し、怒る気にもならなかった。
急いで捨てられた荷物を集め、駄目元でIのもとに向かったが、姿はなかった。
会場は電波の入らないところにあったので、連絡の取りようもなかった。
ヨギとは連絡が取れるタイミングで連絡をすることにした。
でも万が一予定通りにいかなかった時に備えてプランBも必要だと思った。
それにどの道、足もなかったので、しばらく会場にいて今後の計画をゆっくり立て直すことにした。
会場ではごみの収集や分別などの作業があって、大勢の参加者がボランティアスタッフとなっていた。
大量のゴミが捨てられていたが、その中でも特に驚いたのは放棄されたソファーの数。
数十個はあったように記憶している。
ごみ収集係りの登録をしに行こうとする途中、「あなたはキッチンで」と言われ、スタッフの食事を作るケータリング会社の手伝いをすることになった。
お祭りは終わったというのに、スタッフの賄いを作る厨房は大量の料理を朝から晩まで作り続けていた。
スタッフは三食の食事ができるのでありがたかった。
私は長年の飲食業経験もあることからすぐに慣れ、他のスタッフとも直ぐに打ち解けた。
毎日顔を合わせているスタッフとは身の上話がし易く「実は麻農家を探している」ということを話しやすかった。
同じことを企んでいる人も少なく心強かった。
パーティー最終日から1週間ほど過ぎた頃、ボランティアスタッフも退場を言い渡され始めた。
仲良くなったスタッフたちと車でポートランドを目指し、そこで解散することになった。
私は再びPに連絡。Pは食用の平茸を栽培していて、その作業を少しだけ手伝った。
Pが借りている作業小屋がある場所は広い芝生の裏庭になっていた。
私はPからそこにテントを張る許可を得て、Iに電話。
ちゃんと繋がり、私のことも覚えてくれて、安心した。
時期的にちょっと早いから1週間後くらいを目処に来てくれと言われた。
グラスバリーは小さな町で、ポートランドより南に車で10時間ほどかかる場所にあるため、移動手段を考える必要があった。
ヒッチハイクはリスクが高いと思い、クレイグズリストという地域の掲示板で、サンフランシスコまでのライドシェアを探すことにした。
そんなことをしている際、Pの作業部屋の家主が「家の中に入りなさい」と言ってくれた。
私は遠慮したが、彼女は「煙が蔓延していて健康に良くないから」と説得。
この煙は、カリフォルニアの山火事による煙だと教えてくれた彼女の名前はエリンで、看護婦をしている。
エリンはフレンドリーで身の上話を沢山話してくれた。
私がただ相槌を打ちながら聞いていると “I should pay you (こんなに聞いてくれるんだからお金を払わないとダメね)” と言った。
見た目に寄らず寂しがりやのようだった。
エリンとは食の趣味も合い、オススメの中東料理の店に2軒ほど連れて行ってくれたが、どこも印象に残るほど美味しかった。
ポートランドはグルメな街として有名らしいが、本当にそうだった。
ポートランドで約1週間ほど滞在した後、サンフランシスコ(SF)までのライドシェアを募集している女性アナと連絡がとれた。
アナはポートランドに住んでいるが、入院している父親に会いにSFへ行く必要があるという。
私が「グラスバリーを目指している」とだけいうと彼女は昔グラスバリーにある麻農家でマネージャーをやっていたことがあるそうで、話が早かった。
なんならグラスバリーで麻農家をしている友達と会うから紹介する、とまで言ってくれた。
このような出会いや会話は西海岸ならではだよなぁと関心した。
「サンフランシスコでの宿泊先は決まってないけど、公園でテントを張るから大丈夫」と私が伝えるとアナは心配し、友達ジョンの家にいる泊めてもらえるようにお願いしてくれた。
アナは以前、日本に招待されたことがあって、その時に日本人から宿泊先などいろいろな面でお世話になったから恩返しだと言う。
SFまではひとり5時間づつ運転し、夜に到着した。
パンハンドルに面し、側面に鮮やかな紅天狗岳が描かれていたビクトリア洋式の住宅。
出迎えてくれたのは家政婦の老婆。ジョンは後に帰宅。口数は少なめで穏やかな年配の白人男性だった。
リビングでアジア人の若い女性がジョンにある本について熱心に話していた。
私は長旅で眠くて記憶も朧気だったが、目力が強い白人男性の大きな似顔絵が立派な額縁に入った状態でソファーに立てかけてあったことが特に印象に残った。
宛名がアナの苗字と同じだったことから、アナの父親の絵かも知れないと思った。
翌朝、目が覚めやはりのその似顔絵が気になった。
名前をネットで検索してみると、グレイトフル・デットの歌詞を提供した有名な詩人でネット権利主張の著名な活動家で、やはりアナの父親だということがわかった。
私はどうやら人類の意識を変えるほどすごい人たちが集まるところに来たことに気づき、度肝を抜かれた。
ジョンにお礼を言いたかったが、朝からヨガに出かけているようだった。
家政婦さんは「まだいるわよね?」っと言ってくれたが、そこにいるのが申し訳ない気持ちになり、早くお暇しなきゃという強迫観念からJの家を後にした。
私は所詮トリミングでひと稼ぎしようと考えている人間だ。
こんなに志の高い人達が集まる場所にいていいはずがないという気持ちになった。
ジョンの家がある一等地から、ネットで見つけた安宿のある治安の悪そうなエリアに移動し、貧富の差を実感した。
翌朝、アナとグラスバリーで農業を営んでいるクリスとブランチをした。
クリスはジョンのことを「確か、かなり著名な人」と形容した。
そのことが気になった私はその後、ネット検査したが、ジョンの苗字を間違えて覚えていたため検索結果が出てこなかった。
フリーソフトウェアの開発者でアナの父親と共にネット上の権利を守る団体の設立者になり、
大麻やサイケデリック治療を大々的に支援もしている凄い人だということは2年後に判明するのだが、この時はまだ知らなかった。
13-2 グラスバリー編
クリスはグラスバリーに帰るついでに私を一緒に連れて行ってくれると言ってくれた。
そしてSFから東へ約2時間半ほど車で移動し、クリスの自宅兼農場に到着。
そこではクリスのビジネスパートナーでペルー人男性パブロが働いていた。
初めて麻畑の実物を目の当たりにして感動した。
フロリダから働きに来ていたパブロは働き者で農場の実質的な仕事をしていた。
私はヨギのところが受け入れてくれるまでクリスのところで働きたいと言ったが、トリミング作業はまだ先の10月からで、既に人手は間に合っていると言われた。
クリスの友人のニコラスが巨大な農場をいくつも運営しているからと聞いてくれたが、あいにく募集していないということだった。
私はヨギから連絡が来るまで、パブロと一緒に収穫前の作業を二人三脚でやった。
パブロはこの二、三年間ずっと独りで作業してきたので、私が手伝うことをとても歓迎し喜んでくれた。
またパブロは麻アレルギーを発症し喘息が悪化していたので、精神的だけでなく肉体的にも楽になったそうだ。
1週間くらい経ったある日、ヨギから連絡があり、日程が決まった。
クリスからヨギのことを聞かれ、ユダヤ人だということしか知らないと言ったら、クリスは懸念する言葉を発した。
「なにか気をつけた方がいいことがあるのか」と聞いたら、「給料はいつのタイミングで支払われるのか事前に確認した方がいい」と注告された。
アメリカでもいまだにユダヤ人はケチだなどという偏見が残っているのは知っていたが、
トリマーに給料が支払われないことから事件になった記事を思い出し、私は少々不安になった。
クリスとパブロと別れて、ヨギと落ち合う日。トラックレンタルの駐車場に呼び出された。
そこにはヨギ、若いユダヤ人男性ミカエル、ユダヤ人女性のヤラ、中年のアメリカ人女性スー、若いフランス人女性フランソワがいた。
スーはとてもおしゃべりで、何年もヨギのもとで働いてきたという。
彼女の言葉を聞いて安心したが、クリスのアドバイス通り事前に給料のことを聞いておかないとという思いで落ち着かなかった。
そして私は大失態をする。
トラックレンタルの受付で、他の客も2人くらいいるような場所でヨギに報酬について聞いてしまった。
温厚そうなヨギはたちまち怒りだし、私は我にかえり謝罪し、その場を離れた。
公共な場所で大麻の仕事に関連することを聞くなんてもっても他だ。
カリフォルニア州は医療大麻を合法化しているが、ヨギが育てている麻は医療大麻として栽培できる量を超えていて、そのうえ連邦法ではまだスケジュール1の危険な薬物扱いなのである。
ヨギが受付を済ませて出てくると、私は再び謝った。
そしてヨギは怒りがおさまらない様子で「売れたら支払う」と言った。
トリミングした時点で給料が払われるのではなく、それが売れるまで待たなくてはならないということだった。
大失態をしてしまったことの後悔もあり、私はそれ以上何も言えず、大人しく信頼を回復するしかないと思った。
現場に着くと、赤くて小さな二階建ての木造の家があった。
そこにはヨギが運営する農場を管理する若いユダヤ人の男女カップルが住んでいた。男性はミゲ、女性はヤラ。
スーとフランソワは早速、敷地にテントを張ってくつろいでいた。
私がテントを設営しているとヤラが「何か必要なものはあるか?」と聞いてくれた。
私は「いつから仕事は何時から始まるのか」と聞いた。
トリマーの朝は早いと聞いていたので、確認しておきたかった。
しかしヤラはまだ麻の乾燥が終わっていないからまだわからないと言った。
彼女の答え方からなんとなく自分の意欲との間に温度差を感じた。
しばらく仕事ができないと知り、焦らされた気持ちになった。
しかし、その日の夕方、たまたまスーに誘われ作業している現場を見学することができた。
コンテナのドアを開けると、電灯の光と共に一気に麻の香りにブワっと包み込まれた。
中にはミカエルの母親ダフナ、オーストリア人女性のチーリ、ペルー人女性のペリが椅子に座りながら作業をしていた。
ペリはとても気さくで、トリミングの仕方を説明してくれた。
数日後、この窓のないコンテナの中に女性6人が同時にトリミング作業をすることになった。
ミカエルはヨギの右腕のようで、それから現場で見ることはなかったが、かわりに彼の母親がトリマーとして働いているのが、ちょっとしたカルチャーショックだった。
親子で麻を嗜む光景はニューヨークの友人宅でも見たことがあったが、嗜好大麻産業に親子で携わる光景はこの時が初めてだった。
待ちに待ったトリミングがやっとできることに心が躍ったのも束の間だった。
十何時間やっても数十グラムくらいしか加工できなかった。
自分の腕が悪いからなのかと思ったが、どうやらスーたちによると麻のできがかなり悪いらしかった。
確かにカビや種や雌雄同体が多く、一日12時間トリミングしても100グラム前後の量にしかならなかった。
単価も1パウンド$135まで目減りしていたので、どんなに頑張っても1日$40も稼げなかった。
しかし長年ヨギの元で働いてきたスーが「今までこんなことなかったのに」と文句を言っているということは、
今やっている物が悪いだけで、この後はできの良い物がくるかも知れないという希望を私は持ち続けた。
私は既に不安な思いからヨギの信頼を傷つけてしまったので、心配し過ぎないよう “Don't worry be happy”と常に自分に言い聞かせていた。
しかし、来る日も来る日も、状況は変わらなかった。
私たちはトリミングをしているというよりも、いかに種がないようにみせかけたり、カビの部分だけを取り除いて誤魔化したり、バッズが売り物になるように細工していた。
しかし、本来はこういうバッズは捨てられるべきもの。
全部が粗悪なバッズだから、誤魔化さないと商品として売れるものがないということだ。
詐欺行為をしている気持ちだった。
しかし、誤魔化にさえなっているのかも怪しかった。
こんなものが本当に売れるのだろうか、誰が何のために買うのか不思議でたまらなかった。
当然トリマーは次々と辞めていった。
途中でユダヤ人の男女が入ってきたが、彼もやめて行き、とうとう私だけが残った。
私は1人、最後の最後まで希望を持って作業を続けたが、始めて1ヶ月半くらいがたったハロウィンの頃、一気に気温が落ちて、コンテナの中で作業するにも指がかじかんで作業ができなくなった。
暖房は麻の乾燥を早めるからという理由でつけてもらえなかった。
指が動かせないなら、仕事もできないので、私はとうとうクリスに連絡をした。
クリスの現場に自分が入る余地はないだろうと思っていたが、駄目元で聞いてみた。
すると返事を待ってくれと言われたが、翌日、来ても良いと言われ、救われた。
「寒くなってきて仕事ができなくなったのでここを出たい」と伝えるとヨギは心なしか残念がってくれたので、信頼関係は回復できたようだった。
麻は案の定、売れていないようで、いつお金が支払われるのかも定かではなかったが、万が一支払われるとしても1000ドル分くらいしかトリミングができなかったので、あまり期待しないことにした。
私はそれより、そこから解放され、クリスのところに行けることが嬉しかった。
クリスのところでも、色々な人間トラブルがあったらしい。
スペイン人女性4人をトリマーとして雇ったそうだが、パブロが「寿司に連れて行くから」などと釣らないと作業に取り掛からないほど全くやる気がなくずっと喋っていて、困っていたそうだ。
なんでもっと早く連絡をしてこなかったんだと責められた。
近くで麻の盗難や銃の事件もあったそうで、以前記事で読んだようなことが本当に起きているのだと思った。
クリスの農場でもトリミング作業はコンテナの中でやったが、窓が付いていて明るいし、足元にファンヒーターもつけてくれた。
現場によって雲泥の差があるのだと思った。
トリマーの人数も少なめで3人。ペルー人女性のマヤ、オーストラリア人男性のガイと私。
マヤもやる気がない人だったので、私が来るとパブロに早々と解雇され国へ帰っていった。
その後、アメリカ人男性ピートが参加してきたが、コンテナーを広々と使えて快適だった。
パブロが育てたバッズは大きくて密度が高く、少なくともトリミング作業をするには最高なできだった。
香りもよくネタとしても上出来だったのだろうけど正直、吸い比べをしたわけでもないので味などの評価は難しい。
作業中に摂取するのは基本的にどこのトリムシーンでも自由だが、吸っている人はあまりいない。
一服だけでキマリすぎたり、品種によっては倦怠感を覚えて作業に支障をきたり、
同じ品種を吸っていたりしていると耐性がついて効かなくなったりするし、調節するのが難しく、安定的なパフォーマンスの妨げにもなる。
いつでもできる環境にいると、さほど欲しがらなくなるものみたい。
指に着くフィンガーハッシュも海を渡れば希少品扱いされるが、ベタベタして色んなものに付着するので煩わしく、油とアルコールで落としていた。
それまで乾燥大麻といえば大事に大事に嗜んでいたもの。
だが、トリムシーンでは、普通に売っているようなでっかいバッズが床にコロコロと落ちていたりする。
見つけたらなるべく拾うが、気づかれずに埃を被っていたり、踏まれてペッチャンコになったものは箒で掃く。
日本ではきっと、あり得ない光景に、色んな意味でぶっ飛ばされた。
朝から夜までトリミングを毎日続け、1週間半が経つとネタ切れになり、仕事は強制終了になった。
単価$130(約1.4万円)の1バウンドを1日に何袋できたか数えていなかったが、約10日間で約$3,500(約49万円)分できたので、1日2.5パウンド以上(1キロ強)という計算になる。
1ヶ月働いていたら$10,000(約147万円)以上。3ヶ月で$30,000(約440万円)なので、3ヶ月で1年間分の生活費を稼ぐことができるという裏付けは取れた。
ただ、数ヶ月前までの単価は1パウンド$200だったことや、1日に私の倍以上の量を叩き出す強者もいると考えると、実際はもっと稼げたということになる。
ヨギのところで1日100グラムしかできないというのは、やっぱりおかしかったのだ。
しかしオピの農場ではもう仕事がない。
私はやっと軌道に乗ってきたのに、ここでゲームオーバーになることに物足りなさを感じた。
しかも数日前には、ガイから猥褻をされ強姦されそうになり、血の気もよだつ思いで内心、殺気立っていた。
そんなとき、幸運が訪れた。
クリスが誕生日の食事会に誘ってくれ、パブロと一緒に参加した。
私以外はみんな男性で中には同業者のニコラスもいた。
二次会にバーに行った際、私が端っこの方でフラメンコのダンスを見ていた際、
バーの方に視線を感じるとニコラスと目が合い「飲もう」と手で合図をするので、近くに行った。
ニコラスが「もし時間があるなら、うちの方に来たら?」と言ってくれて、一瞬なんのことかわからなかったが、
以前クリスが求人の確認をしてくれた巨大な農場をいくつむ運営していると噂に聞いていた凄腕の人だということに気づき、翌日からお世話になることにした。
どうやらパブロがニコラスに私のことを口コミをしてくれたから、誘ってもらえたらしい。
13-3 ノース・サン・ホワン編
翌日クリスとお別れし、ニコラスの農場へパブロに車で連れてってもらった。
パブロはニコラスの現場で働きたいけど、麻アレルギーが辛いから来年はどうなるかわからないと言い、間も無く地元のフロリダに帰るそうだった。
ニコラスの家があるノース・サン・ホワンで落ち合い、広い敷地を案内してもらった。
絵本に出てくるような芸術的な建物が点在していた。
ここにテントを張って寝てもいいし、この中で寝てもいいし、と色々と選択肢を提示してくれる。
私としては寝れる場所があるだけで嬉しかった。
最終的にデッキが船の先端の形をしている二階建ての一軒家に連れて行かれ、ここでゆっくりしてもいいし、別の場所で働いてもいい、好きにしていいよ、と言ってくれた。
デッキはユバ川を見下ろせる見晴らしの良い場所だった。
実は私は再び生理になっていて、本音を言うと働きたいというより、体を休ませたかった。
だから、ゆっくりしてもいいという選択肢があることは有難かった。
その日の夜、二階のマスターベッドルームのクイーンベッドで眠った。
目が覚め、ベッドの真上にある窓の外を見るとスーパームーンが煌々と輝いていた。
しかも、デッキの下には雲海が広がっていて、まるで船に乗って穏やかな大海原を進んでいるような光景だった。
夢を見ているかのようで私は興奮したが、疲れもあったので寝落ちした。
再び目が覚めると、雲海があたり一面、東雲色に染まっていて、その美しさで、宇宙から祝福されている感覚になった。
実はその日は、34回目の誕生日だった。
誕生日なんだから、生理なんだから、仕事を休めばいいじゃんと今なら思うが、
当時はまだワーカホリックのマインドが抜けきっていたなかったので、出勤した。
むしろこんなに素晴らしい場所にいさせてもらって働かないなんてバチが当たると思った。
でも、職場に行くとそこには、フランス・イギリス・オーストラリア・スペインなどから季節労働のためにきた若いトリマーたちが大勢いて、あくせくと作業に取り掛かっている。
ネタがなくなって暇している人もいるのに、新人の私にはなぜか特別に大量にネタを与えられた。
私はみんなの仕事を横取りしてしまったような申し訳なさから、自分に分け与えられた分を「どうぞどうぞ」と分けた。
その日のネタは底をついたということで、みんなはサッカーをしに解散したが、私は船の家に戻ることにした。
戻る途中、個性的な家が目に止まり、ステンドグラスの窓から中を覗くと、おとぎ話に出てくる妖精が住んでいそうな内装だった。
一体、ここにはどんな人が住んでいるんだろうと思いながら、後にした。
翌年、自分がここの住人になるとは想像だにしていなかった。
船の家に戻ると、見知らぬ女性がいて、ニコラスの彼女リズの友人エムだということがわかった。
エムはアメリカ人で、夏頃にトリミングをしていたが、しばらく海外旅行に行って帰ってきたという。
だからか、海を渡って出稼ぎに来ているトリマーたちのようなガツガツとした感じはなく、落ち着きのある人だった。
トリミングは長いことやってきたそうだけど、大麻はやらなくて、もっぱら稼ぐためだという。
トリマーはたいがい麻好きだが、そういう割り切った人もいると知り、印象深かった。
リズのことはエムから初めて聞いたのだが、こんな巨大な農園をいくつも牛耳っているニコラスの彼女は、一体どんな人なんだろうと興味も湧いた。
でも、この年は会えなかった。会う努力さえしなかった。
というのも「ここにいてはいけない」という思いが強まっていたからだ。
ここにいても、私は他のトリマーの仕事を横取りしてしまうことになるし、シーズンも終わりに近づき、やることも行くあてもない。
とにかく早く、ここを出ないと。強迫観念に駆られてた。
そんな時、日食パーティーでお馴染みのタカから年末のパーティーに誘われた。
行くところができて少し安心した私は急遽「お世話になりました。年末につき、そろそろお暇します」という旨をニコラスに電話で伝えた。
農場から最寄りのバスまでは、ニコラスの右腕で弟のマルコが送ってってくれた。来年はまたここに来たいという思いは、マルコに伝えた。
帰国した私は一旦、彼氏と同棲していたアパートに荷物を置き、年末の集まりに向かった。
誘ってくれたタカとナツは、日本のトランジッションタウンに住んでいた。
環境破壊をしている従来の生活から、持続可能な生活に移行している町の一つで、波長が合う人が多く暮らしている。
車で地方を旅をしながら生活するのが夢だった私に、タカはもう使わないワゴン車を無料でくれると言ってくれていた。
私はありがたく車の保険を払い、12月の中旬、寝袋ひとつで車中泊を試みた。
日が暮れてやることもないため、眠ろうとしたけど、余りの寒さに耐えられず、時間を見るとまだ21時だった。
このままでは凍死すると思い、電車に乗って、彼氏がいるアパートにとんぼ返りした。
でも彼氏が住む私名義の部屋は、大通り沿いにあって、昼も夜も自動車やバイクのエンジン音やパトカーのサイレンがうるさい。
しかも南側にタワーマンションが二棟も立ち、昼間は1時間しか日が当たらず、夜はマンションの街灯が明るすぎる。
彼は掃除をしないので、相変わらず、私が家を開けた分だけ汚れが溜まっている。
私はその空間にいるだけでイライラして、毎秒ブチギレては自己嫌悪を繰り返し、引越し先もなかなか見つからず、八方塞がりで鬱も悪化していた。
一念発起してオレゴンやカリフォルニアに行く前と同じ状態に戻っていた。
そんな中、自分をどうにかしたいと思って買ったコミックエッセイ『キレる私をやめたい〜夫をグーで殴る妻をやめるまで』が転機となる。
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14 ゲシュタルト療法と封印された怒り
過保護・過干渉な母親に悩んできた田房永子氏のコミックエッセイ『キレる私をやめたい〜夫をグーで殴る妻をやめるまで〜』で、
心理療法ゲシュタルトセラピーを知り、直感的にコレだと思い、たまたま近日開催のワークショップを予約した。
ワークショップには15人くらいが参加。
ゲシュタルト療法の、ありのままを観察する練習をして概念を理解。
最後に1人だけ全員の前でセラピーを受けられる時間が設けられた。
手を挙げた複数人でジャンケンしたら私が勝った。
「……下腹部に違和感を覚えて目が開くと真っ暗闇のなか、隣で眠っているはずの父の方から伸びる手が、私のパンツの中で動いていて、くすぐったいような気持ち悪さ。お父さんは寝ぼけているんだと思い、ならその手を振り払おうと閃いて、母の方に横向きになった瞬間、下着の後ろを握られた。背筋が凍り、混乱し、お母さんを起こしてはいけない気がして、なるべく静かに、でも素早く両親のベッドと寝室から抜け出して、咄嗟に近くのトイレに駆け込みレバーを下ろし、静寂の中で勢いよく流れる水の大音量に焦り、みんなが起きてしまわないようにと願いながら、自分のベッドに入って眠りにつこうとした。翌朝『お父さんにめごめごしてもらったんだって?よかったねぇ』と母にギュッと抱き寄せられて、混乱のあまり声が出なかった……。」
……という奇妙すぎて「ただの悪夢かもしれない話」をした。
涙と鼻水を滝のように垂れ流しながら。
「では、お父さんへの怒りを声にしてみて」とセラピストから言われ、戸惑った。
私は、この話が仮に事実だった場合、助けてくれなかった母に対する怒りに取り組みたかったので、想定外の指示に言葉が詰まった。
私の話、ちゃんと聞いてました?と一瞬苛立ちさえ覚えた。
仕方なく、仮に事実だった場合の父に「怒り」の言葉を言ってみた。
何を言ったか覚えてないけど、私自身が発声しているというのに、自分の声ではないような感覚があり「無理やり言わされている感」が心地悪かった。
ワークショップ終了後、私は慌ててセラピストに向かうと「でも、父からは虐待を受けたと思ってないんです」という言葉が出た。
セラピストは一瞬だけ、目が点になって絶句し、すぐに何か言った。
でもその瞬間的な反応から、私は何かおかしなことを言ったのかもしれないと思った。
全く予想外な展開となったものの、涙と鼻水を初めてすすらずにたくさん出したからか気分もスッキリし、参加前より足元も軽く感じた。
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15 CPTSDによる月経前増悪PME
「生理前に感情的になるっていうけど、生理関係なくない?」
確かに、彼氏のいう通りだった。
生理前から最中の計2週間は体のダルさと共に情緒が特に不安定になり易いけれど、
調子が比較的に安定する傾向にある生理後2週間も大差ないことが少なくなかった。
新たな気づきについて調べていると、Prementrual Exacerbation(PME/月経前増悪)という精神症状を知った。
正式に認められた病名ではないけれど、英語圏では研究と認知が徐々に進んでいた。
月経前に気分の落ち込みが起こるPMDDと似ているため、混合されるが大きな違いがある。
PMEは、既存の精神疾患が、月経前に悪化すると考えられていて、
PMDDのように女性ホルモンの変化が根源ではないため発症が不規則。
更に2014年9月の「ジャーナル・オブ・ウィメンズ・ヘルス」誌には次のような記載も。
「PMSやPMDDを訴える女性の間では、過去に虐待を受けていたことが一般的だということが複数の小規模な研究で報告されている。
例えば、PMDD患者の方が性的・身体的虐待を受けている可能性が対照群に比べて極めて高く、初めて虐待を受けた年齢も低いという研究報告がある。
別の研究では、PMDDを経験している女性は児童性的虐待を受けている可能性が、対照群に比べて6.7倍高いという結果が出ている。」
児童性的虐待の被害者に顕著なのが、あらゆる精神症状を網羅するComplex Post Traumatic Stress Disorder (CPTSD/複雑性心的外傷後ストレス障害)。
私は単にPMDDなのではなく、潜在的なCPTSDによってPMEが発症しているのかもしれないと仮定すると、腑に落ちるものがあった。
⚖️ ⚖️ ⚖️
16 父親の弁護
ただの悪夢かもしれないと思っていたことが事実かもしれなくて、私は虐待を受けてきたのかもしれない、となると頭の中が渋滞した。
結論に至る前に、色々と情報の整理が必要になった。
まず虐待の話でよくあるのが両親の不仲、離婚、片親、継親、DV。
中高時代にできた友達の家庭に多かった。
我が家では、夫婦喧嘩は見たことなく、父は母のことを愛している旨を言動で表現していた。
それに私は待望の第一子で、幼い頃から父から溺愛されていた。
ずっと娘が欲しかったという父が婚前に旅先で見た景色から私の名前を閃いた話や、
両親が南国の島で蜜月中に授かった「ハネムーンベビー」が私だともよく言っていた。
まだ母のお腹の中にいたとき、クラシック音楽をレコードで聴かせ、
生まれた日はどれほど興奮したかという話も父からよく聞いた。
「家族揃ってご飯を食べるのが夢だった」という父の意向で毎晩、
家族全員で元気よく「いただきます!」と合掌してからいただいた。
両親は食事中、向かい合って定位置に座り時事ネタなどについて話し合っていた。
ご飯は母の手料理が基本だったが、父も刺身の盛り合わせ、すき焼き、鍋などの得意料理をたまに作ってくれた。
父が私に言った口癖の一つに「お前を飲兵衛にするのが夢なんだ」があった。
乳児の頃、祖父母と伯父らに囲まれ、父と一緒に日本を初めて訪れたことがわかる写真がある。
既に固形物を食べられる歳だったらしく、刺身などをペロリと食べるのを面白がった親族が私に惜しみなく与えたらしい。
父の母が料亭の娘という影響もあったのか、父の兄(伯父)は板前や魚屋をやっていた。
伯父が実家に居候していた頃、魚の食べ方を色々と教えてくれた。
大きい魚の目玉の裏にあるゼラチン質などの希少部位や、皮や骨の周りの美味しさ等。
なまこ酢、鮑の肝、鰻の肝、蟹味噌、帆立のひも、ロブスターの刺身など、磯香りや苦味の中の旨み、コリコリ食感などを求める通好みな味覚を持つ子供に育った。
海外でこのような食材が手に入ったのは、現地の日本食レストランでの父のキャリアや、独立してからの日本食料品店経営が大きい。
自営を始めた理由も、家族との時間を増やすためだと聞いている。
毎年ではないが、国内外へ家族旅行にも連れて行ってくれた......。
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17 愛妻家の性的逸脱行動歴
17-1 猥褻媒体
そんな家族想いな父、母と仲良しの父、私を溺愛する父が、自らの手で我が子の人生を意図的に狂わそうとするとは思えなかった。
同時にあの父なら、悪夢かもしれない話のようなことを平気でやりかねないと思う節も仰山あった。
私が「初めてウソを理解した日」まで遡る。
現地校の保育園から帰宅すると、ダイニングテーブルに作りかけのホールケーキが置かれていた。
私は人差し指を突っ込んでホイップクリームを舐めた。
穴にすぐ気づいた母は、既に怒りまじりな声色で私を問いただし、私は咄嗟に「ううん」と言った。
バッチーン
「嘘つきに育てた覚えはありません!」と頬を、初めてビンタされた私は、母の反応に驚いた。
泣きわめく私を母は2階のクローゼットの中に閉じ込め、1階に戻った。
真っ暗で何も見えない。
鍵のかかっていないドアを少し開けたが、母に見つかったらと思うと怖くて出られず、電気をつけた。
細長く奥行きのある空間を見渡すと、何かを覆っていた布から中身が少しだけ覗いていた。
気になって開けると、肌を露出した女性が苦しそうな表情で見上げている写真の表紙で、似たような写真が満載の雑誌が山積みになっていた。
そういう物を見たのは初めてなはずなのに一目で「あ、おとうさんのだ」と察した。
ショックと恐怖で泣いていたのに、頭がスーッと冴え、途端に馬鹿馬鹿しくなった。
「私がお母さんのケーキを無断で触ったことや、叱られることを恐れて咄嗟に答えたことは『ウソ』といい、悪いことなんだ。なら、こういう隠れた趣味のあるお父さんが、アノトキ私の体にシタコトは咎められなくて、ソノコトについてお母さんアノヨウナコトを言ったのは『ウソ』ではないのか。お母さんは『よかったね』と言って喜んでいたじゃないか。私のシタコト・イッタコトが『お仕置き』に値するなら、お父さんのシタコト・イッタコトは?お母さんは騙されていることに気づいてもいないのに、自分が正しいと信じてしまっている。こんなにも当てにならないお母さんの何を信じればいいというんだろう。」
純粋無垢だった私に「嘘」の概念が無意識にインストールされた瞬間が思い出され、いとも簡単に騙されてしまう母に幻滅し、埋まっていた不信感の種が発芽した。
私がクローゼットで見つけた物は、家中の色んな場所で目につくようになった。
まず、クローゼットの隣にあるトイレのトイレットペーパーの真下の床に新刊が常に置いてあった。
このトイレは、子供たちの寝室と両親の寝室の中間にあった。
父の机の一番下の深い引き出しの中にも、猥褻な雑誌やマンガも沢山入っていた。
いつからが、この引き出しだけ、片方のレールから外れた状態だった。
映像も沢山あった。父の店では複製したVHSのレンタルもしていて、
大半がドラマやバラエティやアニメだったが、猥褻なビデオもあった。
立派な著作権侵害だが、ネットが普及する前、
日本の大企業の駐在員であるお客さんには人気商品だった。
店の入り口の右手にビデオ棚があって、猥褻物は一番下の段に陳列していた。
猥褻物だと一目でわかるのは、ビデオのラベルに記載されたタイトルが、ピンクの蛍光ペンでハイライトされていたから。
ラベルをワープロで作るのは母の内職で、ピンクの線を引くのは父がやっていた。
猥褻物とは俗に「ポルノ」「エロ」「アダルト」と言われたりするが
、ポルノやエロは「性的興奮を刺激する」という意味が含まれ、アダルトは「成人」という意味があるので、語弊がある。
興奮するのは一部の人であり、嫌悪感を示す人が大半だ。
それに相手の意に反する表現が当然のように含まれる内容が主流で、性犯罪の現場を撮影しているものが少なくないため、
何歳になっても許されない言動を「大人」という言葉で正当化するのは危険。
「猥褻」と思わない人が一定数いても、猥褻だと思う人口が非常に多い現実と、
私もその一員であることを示すため、「猥褻物」を採用している。
とは言うものの。
猥褻な表現が、ドラマやバラエティ、子ども向けのマンガやアニメにも蔓延っているのも事実。
年代が古いものほど倫理観が狂っているものが著しいけど、
現代にもその伝統が引き継がれていることが少なくない。
私が未成年だった1980~90代も、親に見させてもらっていたバラエティやマンガ・アニメに猥褻表現が少なくなかった。
小学5年生の少女が入浴中、いきなり扉が開き、同級生の少年に裸を見られ不快感を覚える。
少年に悪気がない設定の割には、頻繁すぎるほど定番なシーンなことから作者の逸脱した性的嗜好が垣間見られる。
現実で起きたらトラウマ必須な表現を、子どもに繰り返し見せ続けた超国民的マンガ・アニメ。
子どもの頃から違和感を覚えいた一部シーンを除けば、シリーズ自体は面白く好きだっただけに残念だ。
いまや同じく超国民的アニメといえば、性器などのプライベートパーツを露出したり、
猥褻な発言を母親にしていた5歳の保育園児が主人公のものがある。
こちらも同様に「ギャク漫画」が原作で、要するに「面白いもの」とされている。
アニメ放送開始は私が小学3年生の頃で、日本語学校に子どもを通わせていた母親たちの間で「教育に悪い」と眉を顰められていた。
私の母親もそれを禁止するのかと思いきや、レンタル用のビデオとしてダビングされていて、簡単に観れた。
個人的に、このまんが・アニメの主人公には心底迷惑をしているのだが、その話は後述する。
猥褻な表現を「ギャグ」「面白い」とするのは、バラエティにも頻繁に見られた。
お笑い芸人が、知能の低い殿様として、女性複数の上半身を露出させ、強制わいせつをする。
また同芸人は一風変わった男性として、女性がシャワーに入っている間などに部屋に侵入して、女性を驚かせる。
父がある日、同芸人のことを「しょうもないなぁ」と言いながらが失笑した。
「しょうもない」という感覚が父にもあったのかという驚きと、
そう感じながらも子どもにそんな映像を見せ続ける神経がどう結びづくのか不思議だった。
コントなどは笑いが映像の外から聞こえたりするので、自発的に笑えなくても
「今は笑うタイミングなんだな」ということが、子どもでも分かる。
最初のうちは目新しさからか、面白いと思ったりもしたが、変わり映えしない芸風に子どもながら流石に飽きた。
17-2 猥褻な発言・露出・覗きなどなど
父は自身の性体験に関する話も、惜しみなく堂々と話した。
その都度、誰に話していたか覚えていないが、私に直接話していたこともある。
少なくとも幼い私の耳に入るような場所、大体はダイニングで話していた。
例えば、若い時に、年上の女性から性的な手引きを受けたこと。
バックバッカー時代、女性を買い過ぎて、お金がなくなってホームレス同然になったこと。
結婚したての頃、母に性交を一日に3回求めたら、白い目をされたということ。
父の行動も性的に明け透けなことが多かった。
私が小学校低学年だったある夏の日。
「もう!お父さんったらいやらしい!娘の胸を覗くなんて!」と母が突然、声を上げた。
私は突然のことにびっくりし、反射的に父の方に目をやると、父は罰が悪そうに動揺している。
私はノースリーブを着ていただけで、何も悪いことをしていないのに、なんだか恥ずかしく、気持ちが悪かった。
私はある時から2階の子ど部屋から、1階の寝室に移動したのだが、風呂兼トイレの斜向かいの位置にあった。
父は毎晩、風呂に入る前、既に全裸の状態で、私の部屋の前を堂々と通った。
父は仕事中も性的なことを考えていたようだ。
作業場の周りに、原稿用紙が挟まれたクリップボードがあり、そこに現れていた。
まともに読んでもいないのに、子どもの私が性的だと一眼でわかったのは、喘ぎ声を表す波線が多用されていたからだ。
短大生の頃、父が仕事に失敗した時期があった。
正面玄関を開けて右手にあるリビングの床で毎日、父は横になりながらテレビを観ていたのだが、ズボンの中に手が必ず入っていた。
短大の時にできた彼氏と、自室で会話をしていたら、ノックも声がけも何も突然ドアが開き、
父が無言で顔を覗かせ、ドアを半開きにしたまま立ち去ったことがある。
父の性依存の様子は、他の成人男性が発した言葉からも確認された。
父の友人のIさんが我が家に居候することがたまにあったのだが、Iさんが父に言った。
「検索歴を奥さんが観たらマズいと思うから消しておいた方がいいよ。」
実家の地下にあった家族全員で共有していたパソコンのことである。
実家の地下といえば、ずっと謎なことがあった。
天気が優れない日は、洗濯物を干していた地下のボイラー室。
棚の上部に、女性のものと思われる乳房だけの画像と、英字の大文字9字の綴りが鏡にプリントされた木枠の盾が、立てかけられていた。
綴りを大人になって調べてみたら、過激な猥褻表現を含む欧米の男性向けライフスタイル雑誌で、
未成年も起用していたことで問題になっていたという。
たまにしか行かない地下の一室の隅にあったにしても、物心つく頃から目についていた盾。
「なんであんなところにあんなものがおいてあるんだろう」と不思議でたまらなかった。
お母さんはアレが気にならないのだろうか……。
私が進学のために実家を出て、日本に引っ越した後も、父の性的逸脱行動は続いた。
父は度々、祖母の様子を見るために訪日し、その度に連絡があり、会った。
短大生時代、父と神保町を歩いていて、雑居ビルのエレベーターに入る父の後について行った。
どこに行くんだろうと思ったのも束の間、ドアが開いた瞬間、そこは猥褻媒体専門の本屋。。
エラベーターから出たかどうかも覚えていない状態で、本をまじまじ見たわけでもないのに解る。
ピンクや赤を過剰に使うあの異様な世界観が空間から溢れ返っていた。
なんでこんなとこに連れてきた?と思考が追いつく前に、父はどこかへ消え、私は呆然と立ち尽くしていた。
すると何事もなかったかのように父が現れ、一緒にエレベーターで降り、世界に戻った。
あまりにも唐突で、奇妙な出来事に、自分の正気さえ疑ってしまう。
実際、鮮明に覚えているのは、不快でしかないわずか数分のことで、その前後の記憶は欠如している。
また別の日、SNS上で父から友達申請が来ていたことに気づいた。
LinkedINというFaceBookのビジネス版みたいなサイトで、肩書きや経歴などが強調されている。
父のそれを見ると「官能小説家」とだけ書かれていた。
流石に見なかったことにしたが、一体何が目的なんだろうと、全く意味がわからなかった。
FaceBookは既に繋がっていた。
ある時から父が私のタイムラインに頻繁に投稿するようになり、
私のページなのか父のページなのか分からない状態になっていたので、
プライバシー設定で父の閲覧に制限をかけたら苦情を言われた。
気持ちが重くなり、Facebookを益々開かなくなった。
17-3 男尊女卑
父は「女好き」なんだと思っていた。
中高生の頃、私の女友達の前では超ご機嫌で、私の友達とFaceBookで繋がったことを嬉しそうに話したりもした。
でも私の男友達の前ではムスッとし、男友達を家に入れることを怒鳴られたことがある。
私には弟がおり、性別問わず友達を呼べるのにだ。
父が実は「男尊女卑」だということは徐々に気づいた。
母は物心つく頃から、家事育児の他、父の店の手伝い、アルバイトなど、家でも外でも働いていた。
私は物心つく以前から、家事と育児の手伝いをしていたと母から聞いている。
10歳から学校がない日曜日は父の店で朝から夜まで働いたし、
合法的に働ける年になったら家事に加え、学校の時間以外、極力バイトを入れていた。
「脱いだ服の籠が満タンになったら、地下の洗濯機のところまで持って行って欲しい」
父が仕事に失敗し無職になってから毎日、リビングの床に寝っ転がり自慰行為しながらテレビを観ていた頃、痺れを切らした私が言うと、逆上された。
音量と勢いの割には全く響かない言葉だったが、一家の大黒柱がせっせと働いている間、家でゴロゴロしてる女子供から指図される筋合いはないとでも思ってきたのだろう。
父の男尊女卑が親譲りだということが、父方の両親宅で居候させてもらって直ぐにわかった。
祖母は、私の弟に対して「男の人はすごいね〜」と何かと褒めちぎった。
私に対しては、何をしてもしなくても「女のくせに」が口癖だった。
祖母も女なのに、「女のくせに」と言える神経が謎だった。
私が日本に越してすぐ、祖父が亡くなり、葬式のために父が訪日した時のこと。
私は大学の勉強をしようと、土曜日に図書館に向かおうとしたら、父から止められた。
「階段に埃が溜まっている。掃除をしてからいけ」
私は以前、床に埃が溜まっていることを祖母から高圧的に注意されたことがあるので、たまには掃除をしていた。
一方、弟が掃除をしているのを観たことがなかった。
「勉強があるから、(弟の名前)に言って。まだ寝ているだろうけど。」
そういうと、父親はなぜ怒り始め、私のことを打とうと手を挙げた。
逃げたので叩かれることは免れたが、その後一体どうなったのか記憶が抜けている。
ただ父が男尊女卑である疑惑が決定的に証明された日として印象に深く刻まれた。
ちなみに祖母に掃除が行き届いていないことを注意されてから、私は積極的に掃除をしようとしてきた。
年寄りの祖母の手が届かないだろう家具の下や、狭いトイレの掃除。
でも祖母は私が掃除をするのを見つけると
「なんだい!私が掃除をしていないとでも言いたいのか!」と怒鳴った。
女の私は掃除をしてもしなくても怒られる。
男の弟は掃除をしてもしなくても褒められる。
ノイローゼになり、食事をしても味がしなくて、満腹感も得られず体重が増え、生理が半年以上来ていなかった。
生理が来ないのはラッキーと思ったが、母に言われて、婦人科で薬をもらったらようやく来るようになった。
17-4 盗撮
大学を卒業した後、両親が新居に引っ越し、しばらくしてから訪れた。
そこは南国の島で、両親がハネムーンの時に訪れ、そこで私を授かったという、ゆかりの地。
両親が近くのビーチに連れてってくれて、浅瀬で泳いだ。
父は昔から趣味で写真を撮っていて、その時も一眼レフのカメラを持っていた。
撮った写真を見せてもらっていると突然、私が海に潜った時に水面から尻だけが出ている画像がスクリーン全面に映った。
たまたま遠目に写ってしまっているのではなく、あからさまにお尻だけのドアップが映されていた。
それにいち早く気づいた父は「あ、いけない」と言って、カメラを操作し始めた。
私は呆れて、言葉も出なかったが、実家に物心つく頃からあった分厚い写真アルバムのことがフラッシュバックした。
厚さ5センチ程あるハードカバーの写真集は重量だけでなく、気持ちまでも重くさせるものだった。
このアルバムは各子どもに一冊あって、主に父が撮影して編集したものだ。
一見、両親の愛情の象徴のようにも見えたけど、最初の数ページを開くたびになんとも言えない複雑な気持ちになっていた。
まず最初の写真は母親の腕の中にいる新生児の私。
次のページに首が座ったばかりで、よだれかけをして満面の笑みを浮かべている乳児。
物心つく頃から、この乳児をの写真を見る度に、これが私であることが信じられなかった。
何がそんなに嬉しくて笑っているんだろう。意味がわからない。
そして次のページが最も嫌で、その写真を見なくて済むように、そのページを飛ばしていた。
おそらく母が私のおむつを変えている時の写真で、私の性器だけがドアップで写っている。
子ども頃から、この写真を一体、どのように受け止めればいいのか分からなかった。
父はこのアルバムを愛情込めて作ったつもりなのだろうが、そう思えば思うほど、気持ちが重くなった。
これら一部に過ぎない「愛妻家の性的逸脱行動」に関する記憶は確かで、悪夢と疑ったことはない。
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18 性被害の証拠・裏付け
18-1 性的虐待順応症候群
父親の性的逸脱行動を永遠に挙げることができても、父が性犯罪者であるという結論に至るには早い気がしたのには以下の理由がある。
・「父が性的虐待をするような人間に思えなかったこと」
・「私自身がむしろお父さん子だった矛盾」
主に「悪夢かもしれない話」の信憑性がまだ証明されていない気がしたので、児童性虐待専門の研究者を参考にした。
大前提として、児童性虐待に関する理解は世界的に遅れているが、欧米では日本に比べると研究も議論も進んでいる。
そのため私は英語で情報を得ることが多いが、米国では比較的に安価で簡単に入手できる本などが日本では限られ、一握りの和訳本を利用することも少なくない。
そのような状況下、児童性虐待研究など家庭内の暴力に関する第一人者デイビッド・フィンケルホー氏の著書の翻訳もされている森田ゆり氏の著書『子どもへの性的暴力』も参考にした。
「性的虐待」というと「見知らぬ人から突然、殴る蹴るなどの暴行を受け強姦される」というイメージに限定されていた。
大人が子どもに教え込む「見知らぬ人は危険(英語で”Stranger Danger”)」という誤解に通づる。
母が学校と仕事以外の外出を厳しく制限したのも門限に厳しかったのも「危険は家の外にある」という信念の元。
安心しきっている家庭の中に、子どもに虐待をする人がいるなんて、想像できないのはわからなくない。
でも性犯罪は信頼関係を利用して犯され、加害者は被害者が知っている場合が大半である。
「娘の安全を危惧して躾けている」と主張していた母でさえ、体罰・罵倒・嫌味などのモラハラという虐待を繰り返してきたことに全く無自覚だ。
母の分かりやすい虐待と比較した時、父の猥褻行為はどれも陰湿で、奇妙で、唐突だったので「え?今のって何?本当に起きた?」と信じられない感覚になった。
それに一家の大黒柱だった父を敵に回すことはあり得なかった。
18-2 防衛本能
命の危険を感じた際の防衛反応として4F(Fight・ファイト・闘う/Flight ・フライト・逃げる/Freeze・フリーズ・硬直する/Fawn・フォーン・主体性を失う)がある。
私も4Fを自然と実行していた:父に猥褻をされ手を振り払おうとした(ファイト)、父に下着を捕まれ一瞬硬直し(フリーズ)、逃げ(フライト)、母に翌朝「良かったね」と言われても否定しなかった(フォーン)。
フォーンは、前者の3Fに成功しなかった末に取る場合が多く、虐待が日常的な環境で育った人にみられる。
私が父に必要以上に好意的な言動を続けたのもこのせい。
常に両親の顔色を伺って、喜びそうなことを先回りしていた。
同時に自分の本心や意に反することが「平気」にできるようになっていた。
母が父に騙されていると気づいてから、母に頼る道は断たれた。
母の体罰で深まる確執は、私が母に真実を伝える機会をますます減らし、それによって家族が繋ぎ止められた。
寝る前に感覚付きの映像(フラッシュバック)を見るたびに初めての猥褻を「悪夢」と否定しながら、
体罰を受けるたびにもフラッシュバックする悪夢かもしれない映像が真実なら「墓場まで持っていく」と誓っていた。
母と仲良くできることもあったが、一緒にいると神経がすり減る方が多い。
弟たちのことは「年下の男ども」として見下すことで優越感を保とうとしていた。
家族で安定的に「仲良く」できるのは父だった。
母のようになんでもかんでも否定せず、陽気で冗談をいう人。
冒険心があるという意味でも気が合う部分があった。
「ファザコン」と嘲笑されたことや、他人からそう見られているのを感じることは度々あった。
その最たる例になる、私の無意識な言動や習慣があったのだけど、思い出すのがいまだに辛い。
そのため詳細は伏せるが......父が私に「グルーミング(手懐け行為)」をしていた結果という以外、説明がつかない。
「ジャニー喜多川の児童性虐待多発事件」で日本では認知されるようになった言葉だ。
でもそれは性犯罪者が標的と性的な接触をするうえで有利になる「信頼関係」を築く手法として昔から高確率で行われている。
性的虐待を受けた子供たちの心理状態「性的虐待順応症候群」も「順応」がキーワードになっていて、典型的な反応5パターンが見られる:
①性的虐待の事実を秘密にしようとする。
②自分は無力で状況を変えることはできないと思っている。
③加害者を含めたまわりの大人の期待・要請に合わせよう、順応しようとする。
④暴行を受けたことを認めたがらない。または事実関係が矛盾した証言をする。
⑤暴行されたと認めたあとでその事実を取り消す。
私の場合「性的虐待の事実を秘密にしよう」としたのは父親。
幼児の私は、不快感・恐怖心・混乱は覚えても、父が言動を秘密にするに値するほど罪で恥ずかしい児童性的虐待という犯罪だという認識を持ち合わせていなかった。
でも「お父さんにメゴメゴしてもらったんだって?よかったねぇ」と母親に言われた瞬間、私の気持ちは完全に否定され、父親の「好意的な行動」ということになっていて、混乱のあまり言葉を失った。
天地がひっくり返り、解離して記憶がない期間があるものの、トラウマを思い出すきっかけがある度に脳裏にひっかかっていた。
そんな私が「当時の性的虐待の事実を秘密にしよう」と思ったのは、思春期になってからのこと。
その頃には「男性の性欲を刺激する可能性のあること」が、体罰に値するほど思い罪だということを、母からの唐突な躾によって叩き込まれたから。
でも、それなら、父親が幼児の私にしたことやその直後についた嘘が重罪であるかということになる。
そんな悲惨な事実を、私に体罰を加えることでしか守れないと信じ込んで偽善者になっている哀れな母親に言えるはずがなかった。
母に真実を告白しても、信じてもらえないか、ショックを受けさせるのが関の山。
理不尽と思いながらも体罰を受けた方が、結果が見えているだけ気持ち的に楽だったのだろう。
自分だけが犠牲になればいいという思考回路は既に染み付いていたので。
「自分は無力で状況を変えることはできないと思っている」はその通り。
無力感や絶望感は、父親から植え付けられ、母親に強化された。
私は父親からの性被害に自力で抵抗し、逃げたにも関わらず翌朝には、「お父さんにメゴメゴしてもらったんだって?よかったねぇ」と母親に言われたのだ。
自分の感覚も感情も行動も、信頼していた両親に全否定され、無力以外のなにものでもなくなった。
「加害者を含めたまわりの大人の期待・要請に合わせよう、順応しようとする」
母曰く私は「もともと聞き分けの良い子だった」らしいが、大人の期待や要請に合わせる言動は、性的虐待を受けてから歪に強化された。
自分の生存本能による感覚が全否定され、両親の感覚が最優先されていた環境で、答えを両親の言動から組むことでしか、世の中を理解する手がかりがなくなっていた。
「暴行を受けたことを認めたがらない」
性被害後、両親の寝室で寝る度にフラッシュバックを繰り返し「アレはただの悪夢だよね?」と自問自答し続けたのが最たる例。
「暴行されたと認めたあとでその事実を取り消す」
この思考回路の癖は、父親からの性被害を認めることがようやくできた後も、潜在意識で根強く続き、デートレイプやDV被害に遭うきっかけになっている。詳しくは後に述べる。
18-3 性被害後の兆候
③私が「性的虐待」を受けたことを、行動(悪夢の記憶意外)で証明できるか検証する。
性的虐待の最も明白なサインは二つあるといわれていて、私は両方とも該当する。
・子どもの様子がいつもと違う、と思ったとき。
・子どもが性的被害を受けたことを口にしたとき。
「子どもが次のような兆候を急に示すようになったり、今までとは極端に異なった行動をするようになったら、性的虐待あるいは、性的いじめにあっている可能性があるそうだが、全て該当する。
✔︎特定の場所に行きたがらない
✔︎解離症状(健忘、意識喪失)がある
✔︎性器への関心を見せるようになった
✔︎他の子どもの性器にさわろうとする
✔︎年齢に不釣り合いな、性器や性行為に関する知識を持っている
✔︎過食、拒食など摂食障害がある
✔︎自傷行為を繰り返えす
✔︎多動。落ち着きのなさ、乱暴
✔︎夜尿
✔︎性器に外傷がある
✔︎徘徊、家出、不登校、万引き、虚言、薬物使用、自殺未遂、援助交際など、大人の目からは不良行為、非行、問題行動を見られる行動をとる
わかりやすい例が、両親の寝室で寝るのが、体調不良の時だけに限定され、両親の間で寝なくなったこと(特定の場所に行きたがらない・解離症状)。
事件が起きる前、弟たちと「両親の間で寝るという特等席」の争奪戦になっていた。
それを解決するために、私は「ジャンケン」を提案した。
ジャンケンは、日本語学校の保育園で学んだ。
なのに、ある時から、私はジャンケンをする弟たちを横目に、素通りするようになった。
体調不良という心細さから、やむ終えず両親の寝室で寝る時は必ず、母親を間に挟むようになった。
そして深夜、仰向けで目を瞑っていると突然、感覚つきの映像が脳裏をかすめ、
「またあの悪夢か」とウンザリしていると、挑発的な声が私の嫌がることをしつこく唆してくる。
「でもさぁ、単なる悪夢ならさぁ、お父さんとお母さんの間でなんで寝ないの?昔は2人の間で寝るのを弟たちと取り合いになっていたじゃん。ほら2人の間で寝てごらん。」
フラッシュバックと幻聴をかき消そうと、私はひつじを一匹づつ数えてみたりしたけど、なかなか寝付けない。
両親の寝息に気づいてやっと寝落ちできたのは、両親が起きているかもしれないことがどれほど恐ろしいことに繋がるかということを潜在意識が覚えていたからだろう。
性被害を受ける前の記憶がほとんど消えているのも変化の一つ。
唯一鮮明に覚えているのは、弟たちと両親の間で寝るのを決めるためにジャンケンを提案したことくらい。
性被害が起きた証拠となる記憶だから覚えているのだろうと思わざるを得ない。
私の記憶は、幼少期から抜け落ちていることが多いのに、その中で鮮明な記憶を辿っていくと、初めて父親から受けた性加害の記憶に結びつく共通点があるからだ。
フラッシュバックもその一つ。
実際、私がフラッシュバックをするたびに聞こえていた幻聴は、私の中にいる別人格の1人だった。
この頃私には4人の人格がさまざまな意識レベルで共存していて、整理して命名するとこうなる:
1) 性被害を受ける前の「みつごちゃん」
(記憶はほとんどなく、写真や両親の供述の中で存在する)
2)性被害を完全に忘れている日常の「あさひちゃん」
(モヤの中で生きていて記憶がおぼろげ)
3)フラッシュバックを「悪夢」と否定する「あさひちゃん2号」
(トリガーによって現れ、意識が鮮明)
4)私が嫌がることを挑発してくる「幻聴1号」
(性被害を覚えている風で、その後も形を変えて悪さをしてくる)
注目を浴びるために弟の頭を壁にぶつけるという暴力を振るったことも(乱暴)。
母親のケーキを無断で舐めたことを問いただされ初めて嘘をついたことも(不良行為・虚言)。
猥褻媒体を初めて見たはずなのに「父親の私物」だと察したことも(年齢に不釣り合いな、性器や性行為に関する知識を持っている)。
父親が私にしたことについて嘘をつき、母親を騙したのだと悟ったことも。
弟の性器に突然、興味を持って触ってみたら、弟が笑ったことが衝撃だったことも。
2歳年下の弟は幼児期、よく下半身を丸出しにして走り回っていた。
なぜかはわからないが、当時は疑問にも思っていなかった。
でも私はある日、何を思ったか、両親の寝室のベッドの上に座った状態で下半身を露出していた弟の男性器を指で突っついた。
すると弟はケラケラと笑った。
私はその反応に驚いて、もう一度、指で突っついた。
すると同じように弟はケラケラと笑った。
弟の反応は私にとって衝撃的だった。
性教育は受けていなくても、男の子の性器が女の子の性器に匹敵する場所くらいの認識はあった。
その場所を他人に触れられて笑える神経が不思議でたまらなかった(私が父親に触られた時の反応と真逆だった)。
どれも記憶が鮮明なのは、性被害を受けた直後に私の行動が変わり、周りの反応が予想外で二重のショックを受けたからだ。
父親が食卓に加わる夕食の時だけ毎日、お腹を壊すまで食べ続け下痢を繰り返す「過食症」だったことは、大人になってから「躁的操作」という言葉を知って気づいた。
「性器に外傷がある」と「自傷行為」はセット。
主にセルフネグレクトを通じて無意識に自分の身体を傷つけていた。
体を洗うことも汚れた下着をとりかえることもしないと、性器が炎症を起こして傷になり、たまにシャワーの水が当たると痛みを感じる。
風呂に入らなくなった原因は父の言葉。
バックパッカー時代、女性を買いまくって破産したという父が、ある女性旅行者について「あいつは風呂にも入らないで、あんなのは女じゃない」と言った。
女性であっても不衛生だったら男から色目で見られないのかと閃いた私は、不衛生さに護身術としてのメリットを感じた。
どの道、父親が風呂に入った後はいつも何か白くヌルヌルとしたものが浮いていて気持ち悪く、体が余計に汚れる気がしていた。
気持ち悪い風呂に入らなくていいうえ、身体を守る訓練になるなら一石二鳥だと思い、何日間、何週間シャワーに入らなくてもいいかということをサバイバルゲームをする感覚で始めた。
これは34年繰り返してきて、いまだにシャワーに浴びることに苦手意識がある。
大人の目からは「不良行為」と見られる行動に関して。
私は思春期になると、いわゆる「不良」と呼ばれるような子どもたちと仲良くなった。
その子たちは大概、機能不全家族で育ち、片親、保護者からの暴力、肉親からの性被害、アルコールやドラッグ中毒の親、貧困などあらゆる問題を抱えていた。
友達の過酷な人生を聞くと自分の人生が平凡に思えたので、私はいくらでも聞きたかったが、うちには厳しい門限があった。
門限を破り始めると例のごとく、母親から説教とビンタをされ、父親からの性被害がフレッシュバックした。
無論、私は友達の家で話を聞いていただけでなく「不良行為」もやっていた。
万引き、ドラッグ、性行動。
バイトで稼いだお金を自由に使わせてもらえなかったので、お金を使わずに欲しいものとスリルまで味わえたので、癖になっていた。
ドラッグは、感覚が麻痺した日常の中で、「生きている感覚」を呼び覚ます効果があり、
タバコ以外では特定の物に中毒になることはなかったものの、目の前に現れるものは闇雲に試した。
性行動は「何がそんなにいいの?」という好奇心で試したけど、一向に良さがわからなかった。
盗むことの罪悪感やドラッグや性行為のリスクはある程度わかったうえでやっていた。
ただ門限を破ることがなぜ悪いのかだけは全く理解できなかった。
私にとって夜の野外より、家庭内の方が四六時中よっぽど危険な場所なのに、我が家が正常だということを猥褻と体罰で示され、気が狂いそうだった。
次に「子どもが性的被害を受けたことを口にしたとき」に関して。
私は子どもの頃、性的被害という概念や言葉を知らなかったので、口にすることはなかった。
そもそも、両親の頭の中では「良いこと」になっていたので、自分が感じた「気持ち悪さ」「恐怖」「混乱」は無いこととされていた。
自分の感覚を両親に反して主張するより、両親が正しく自分が間違っていると思った方が自然だった。
でもフラッシュバックする度に「なかったはずのことが」今ここで起きているかのような鮮明さで思い出される。
だから「もしかして事実かのかもしれない」と思わざるを得なくなって、記憶を棒人間で表現してみたりしたこともある。
でも仮に事実だったとしたら「墓場まで持っていく」と固く誓っていた。
そんな私が4歳の時の性被害について他人に初めて打ち明けたのは24歳の頃。
同僚の男性に自然と話せた時は、自分でも驚いた。
きっかけは、彼が受けた性被害について話してくれたことだった。
彼が「男性」というのが最大の要因だった。
女友達らが受けた性被害の話は、昔からよく聞いてきたので、慣れていたというか、麻痺していたというか、麻痺をするために利用していたとも言える。
女友達が打ち明けてくれた時、私は自分の話をしようなんて思いもよらなかった。
「私はレイプ/性的挿入をされた訳ではない」
と自分が受けたかもしれない猥褻を矮小化したり、
「あなたの加害者は親族であって、私みたいに実の父親(直系家族)ではない」
と、時には深刻さの度合いに優劣をつけようとすることで、
自分の話をしなくていい言い訳を頭の奥の方で、ほぼ無意識に作っていた。
もし同僚が女性だったら、いくら境遇が似ていてもきっと話していなかっただろう。
私の頭で「女性が性被害に遭うのは特別珍しいことではない(+加害者は男性)」と思い込んでいた部分が強かったから。
だから男性も性被害に遭うということが当時は衝撃で、麻痺した自分の心を揺さぶったのだった。
(この時、自分が弟に性加害をしていた自覚はまだ表面化していなかった)。
同僚に自分の記憶を打ち明けた矢先、悪夢として否定していたことを認めてしまったようで戸惑い、涙が出た。
「でもただの悪夢かもしれない」とすかさず、疑いの余地を残した。
私はその後、当時交際していた男性にも話してみた。
その男性は「I’m mad that you told me. (打ち明けてくれたことを怒っている)」と言った。
言わない方が良かったのかと思うと、良い気持ちはしなかった。
その男性と別れた後、別の男性にも打ち明けたら、その人は話したことを肯定してくれた。
この男性とは十数年間の交際に発展するのだが、私がDV加害を辞められない相手であり、更なる混乱の始まりであることをこの時は想像だにしていなかった。
両親と初めて対峙したのはそれから10年後の35歳の時。この話は後述する。
いずれにせよ、わずか4歳の時、生まれて最も怖い体験を、親と同じように「良いこと」と思うことに対して意識が追いつかず解離をしていた、と理解するとそれまで説明がつかなかった多くの不思議な現象に納得がいく。
18-4 性的虐待の前提条件4つ
- 加害者には何らかの動機がある。
- 加害者は、その動機に基づく性的行為をしてはならないと思う内的抑止力を失っている。
加害者は、その動機に基づく性的行為を様たける外的抑止力のない場所を選ぶ。
加害者は、子どもからの抵抗がない状態を作る。
一件づつ検証していく。
I. 加害者の動機: なぜ父は、娘の私の陰部を触っていたのか?
子どもに何らかの性行為をしたいと思う動機には、三つの要素があるといわれているが、
私の父親の場合は少なくともそのうちの一つ:「阻害(子どもしか性的満足を得る対象がない。たとえば成人女性と対等に人間関係をもてない男性)」に当てはまるようだ。
私からすると母親は生真面目で短気な性格で、食べること以外の快楽的なこと、とりわけ性的なことに対して嫌悪感を抱いているように映っていた。
新婚当時に性行為を1日に3回求めた際に母親から「白い目で見られた」と自嘲していた父の話が、幼い頃の私の記憶の中にある。
私が2歳になる少し前に弟たちが生まれた。
父親は大層喜んだそうだが、母親は家事や3人の育児に追われ、喜ぶ暇もないほど多忙だったそうだ。
その証拠に、父親が週末のゴルフから帰宅すると、母がゲッソリしていたという話を聞いたことがある。
そんな中、性生活は激減したのではないかということが安易に想像できる。
少なくとも子どもがこれ以上できないように父親はパイプカットしたそうだ。
弟たちが生まれた後、多忙な母から性的な相手をされなくなり、父は欲求不満がピークに達したおよそ2年後、妻がさせてくれなくなったことを、隣で寝ていた娘の私にしてきたのではないだろうか。
私が思春期の頃、目の前で父親が母親の頬に無理矢理キスをした時、母親は顔を顰めて抵抗していた。
照れ隠しというより、本気で嫌がっているように見えた。
私が成人した後、母親と「性行為をしたい」と父親から相談されたことがある。
初めての性加害の後もずっと私に猥褻を続けたのは、子どもが手から離れた後も相手にされることがなかった妻から得られなかった性的刺激を身近にいた娘で満たそうとしたからではないだろうか。
そもそも父親の男尊女卑な言動を、成人の女性が喜ぶ訳がない。
成人女性には相手にされなくても、嫌でも親に依存せざる得ない娘はたやすい獲物に映ったのだろう。
- 内的抑止力が働いていない:なぜ父は、それが性犯罪だということが分からず、私が拒んだ際も執拗に追求したのか?
父親の男尊女卑な口癖の中に「女は受け身」があった。
意味がわからなかったが、父の口から出る言葉だから性的な意味だろうと思わざるを得なかった。
女は男の性欲を受ける立場という意味なら、娘の私は女であり、男である父親の要求に応えるのは当たり前と解釈しかねない。
実際、言動が伴っていた。
また父親は猥褻媒体の世界に日常的に浸っていた。
性犯罪の現場写真や映像とも言える媒体が基準になっているため、道徳や倫理観が機能しなくなるほど感覚が麻痺していたのではないだろうか。
そうでなければ、いきなり娘を猥褻媒体専門の書店に連れて行き、無言でその場に放置して、何事もなかったように振る舞うなんていうことはできないだろう。
父にとって、女を性の捌け口にすることは性犯罪ではなく、猥褻媒体を買うように、お金を払えば簡単にできてしまうこと。
資本主義社会における男性消費者として当然の権利であり真っ当なことだったのでしょう。
III. 外的抑止力のない場所を選ぶ:なぜ父は、私が寝ている夜間に犯行に及んだのか?
「特殊な例外を覗いて大半の性的虐待は加害者と被害者しかいない場で発生する」らしいが、
私の場合は両親の寝室のベッドの上で、私の隣に母親が寝ている状態だった。
本来、母親の存在は大きな抑止力となるそうだが、私の父親の場合は、
母親が熟睡中だったことが「特殊な例外」に該当するのだろう。
- 子どもからの抵抗がない状態を作る:なぜ父は、犯行を正当化するような言葉を母親に吹き込んだのか?
犯行が起きた深夜から翌朝までの数時間の間、父親は三度にわたり、私が抵抗できない状況を作ろうとした。
①就寝中で意識のない私を狙った。私は下腹部に不快感を覚えて目覚め、抵抗(手を払おうと母の方に寝返り)したにも関わらず、
②父は私のパンツを握った。その執拗さに恐怖と混乱を覚え、私はベッドから脱出。
「子どもの小さな抵抗も、性的虐待の場合は、加害者の行動を止める効果を発揮しうる」という理論もあるそうだが、父親の場合はそうではなかった。
翌朝、母親は私に「お父さんからメゴメゴしてもらったんだって?よかったねぇ」と言ったということは、
③父親がそのように母親に吹き込んだ(ガスライティング)ということになる。
罪の意識があれば謝るのが筋だけれど、己の言動を正当化しようとした時点で確認犯だ。
このように冷静に検証すれば、幼少期から35年以上フラッシュバックする性被害の記憶が、「幼児の虚言に基づくもの」なのか「事実に基づくものなのか」判断がつきやすい。
当時まだ4歳そこらの私は感覚的には理解しても、知的に理解するには難易度が高かった。
年齢の低さが大きな要因だが、それだけではない。幼少期から家庭内で子供が自分の身体を大切に思えるような性教育を受けていなかった。
もし、私が言葉を理解できる2、3年齢の頃から「水着で隠れる部分は自分だけの大切な場所だから、誰にも見せたり触らせたりしたらダメだし、誰か見たり触ったりしてきたら、やめて!って言って、逃げて、すぐに話してね」と言われていたら、私は4歳から34年以上もひとりで必要以上に苦しむことはなかっただろう。
でも、我が家では思春期になっても成人した後もそのような教育は一切なかった。
代わりに、猥褻媒体が子供の目につく至る場所(トイレ、クローゼット、父の机、テレビ周辺、地下室など)にあった。
猥褻な表現が面白いとされる「ク○ヨンしんちゃん」や「バ○殿」「変○おじさん」を平然と子どもに見せるような親だった。
気に入らないとすぐに手を上げる凶暴な親だった。
夢ではない証拠?
私が「悪夢」と思い込もうとしていた記憶は、夢より奇妙だ。
夢は時間が経つと内容を忘れてしまう。
私の「悪夢だと思っていた感覚つきの映像」は忘れようとしても、その現場を思い出すような状況に出くわすと、記憶が鮮明に蘇り、再体験しているような感覚になる。
これは「フラッシュバック」といい、あらゆるトラウマ症状の一つとして珍しい現象ではない。
……
色んなことに気づいてしまった今、両親にどう接すればいいだろう。
ゲシュタルトセラピーのワークショップに参加した1週間後、『しんどい母から逃げる‼︎いったん親のせいにしてみたら案外うまくいった』という新刊のコミックエッセイを購入。
タイトル通り、田房永子さんのまたもやタイムリーな作品のお陰で、一旦両親のせいにしてみて、彼らの連絡を一切無視してみることにした。
🌀🌀🌀 🌀🌀🌀 🌀🌀🌀
初診「解離性障害」(更新中)
ゲシュタルトセラピーのワークショップ参加後、個人セッションを数ヶ月後に予約した。
その間、精神科医を初めて受診。
医師はイライラしながら「あなたの話を聞くつもりない」「私の本を読みなさい」と診察中も著書ばかり勧めてきた。
問診票をみて診断したのか分からないが、「解離(解離性障害)はあるね」と言われた。
再訪する気にならかなったどころか、お陰で鬱が悪化した。
ゲシュタルトセラピーの個人セッション当日、エンプティ・チェアという方法を使った。
私が一人二役で、「小さい頃の自分」と「今の自分」として対話をした。
私がずっと「小さい頃の自分」を責めていたことに気づいた。
「なんでもっと早く助けを求めなかったの。」
小さい頃の私は、当時からできることは全てしていたという。
「抵抗して、逃げた。でもお父さんからされていることが怖すぎて、お母さんを起こせなかった。お父さんから怖いことをされていると認めたくなかったのかもしれない。パニックになっていた。翌朝のお母さんの言葉に混乱して声が出なかった。それにお母さんが嬉しそうだったから、なおさら否定できなかった。
自分に起きたことがお母さんが言ったように『良かった』訳ないと気づいた後も、話さなかったのは、不安だったから。
また否定はされても、信じてはくれないだろう。
仮に信じてもらえたとして、両親の仲が悪くなって離婚することにでもなったら、お母さんが一人で子ども3人育てるのも大変だろうし、弟たちと離れ離れになってしまうかもしれない。
私が何もなかったように振る舞えば、このまま仲良し家族として暮らせると思った。」
あの家族の中で、私の居場所を確保するために、当時できるベストを尽くしてくれたのだった。
私は「ありがとう」と言った。
心がこもっていたとは言い難いが、小さい頃の自分にお礼を言ったのは初めてだった。
セラピー終了後、セラピストが驚いた表情で私に言った。
「小さい頃のあなたとして話す時に毎回、正座に座り直していました。」
無自覚だった。
小さい頃、常に感じていた緊張感が座り方にも現れてたのかと思うと納得できた。
数日が経ち、セラピーで感じたことを形にして残したいと思い、ペンを取った。
すると、小さい頃の自分あるいはインナーチャイルド(IC)と思える少女の顔に喜怒哀楽豊かな表情が描けた。
過去にもこの少女の絵を描いたことは何度もあったけど、仮面をしていたり、後ろを向いていたので、大きな変化だった。
次にICと今の自分の似顔絵から吹き出しを描いて会話をさせてみた。
会話のリレーが続き私が「そろそろ幸せな人生を歩みたいんだけど、いいかな」と聞くと、ICは何も答えてくれなくなった。
その後もイライラや鬱、彼氏に突然ブチギレるDVも続いた。
晩秋になったら仕事上、再訪したい渡航先がり、行けるかギリギリまで不安だったけど、土壇場で実行に移した。
私は昔から、働くことになると、仕事モードに切り替えられてきていたので、そういう意味では通常営業。
解離性同一症でなければ、少なくとも「High-Functional Depression(微笑みのうつ病や、社会順応型境界性パーソナリティ障害と和訳されている)」に通ずるものがあると言える。
(渡航先の詳細は世界情勢上、今はまだ多くを語れないのが残念だけど、この話を完結する前には書く予定です。)
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両親と対峙(更新中)
憧れていた場所で、仕事で成果を上げていたのに、精神状態はどん底を突いていた。
秋から始まった業務がひと段落した後、私は見晴らしの良い標高約1000メートルの山嶺にあるログハウスで独り、暮らしていた。
完全にオフグリッド(電気と水は太陽光蓄電、暖房は薪ストーブ、台所はプロパンガス)なのだけど、水不足な環境で、なぜかお湯が出なかった。
他の従業員兼前テナントが既に上司に伝えたのに、改善されなかった。
上司が気分屋なのと、お願い事が元々苦手な私は、改めて念を押すということをしなかった。
けれど、私は「バケツ・バス」という洗浄方法を女性従業員に教えてもらっていたので、これで乗り切れると思った。
寸胴の鍋でお湯を沸かして水で割り、コップを使って、体を部分的に洗っていく原始的なやり方だけど、どこでも生きていける自信がつく。
(つづく)
水も凍結で出ないことがあり、車も雪で動かない状況で、真冬の3ヶ月を越した。
自分の個人的なニーズのことになると、それが生死に関わることでも、周囲に助けを求められず、意思疎通が上手くできないことに気づかされた。
(つづく)
人生が狂い始めた時点からやり直さないと、何も変わらないと悟り、死より恐れていたことをした:両親と対峙。
父の反応
母の反応
(つづく)
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弟への性加害などを自覚(更新中)
更に私は弟に同類の加害をしていた事も自覚し、謝罪。
弟は許すと言ってくれたが、加害の破壊力を認められるようになった私は自分を許せない。
(つづく)
無数のトラウマ症状とCPTSD(更新中)
複雑性心的外傷後ストレス障害
(つづく)
絶交後の両親(更新中)
(つづく)
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「浮気」で性被害を矮小化(更新中)
躁鬱状態の時に出会った男から裏切りや猥褻をされたのに、好意を感じ、彼氏に伝えたうえで、男と海外出張。
早い段階からDVを受けるも、コロナ禍になり海外租界を共にした。
男にレイプされたことを彼氏に相談したら、別れを告げられ困惑するも、コロナで日本に帰るのも困難で、関係が双方で悪化。
ようやく日本に帰国し、DV男をブロックできたが、常に身の危険を感じている。
彼氏との関係は辛うじて続いているが、彼氏の心を深く傷つけてしまったことがやるせないのと、同時にそこまで怒るほど私を好きでいてくれたのか?と思うと後悔し、でも本気で好きだったら「浮気してもいいよ」なんて言わなかっただろうと考えたり、結果的に彼の態度が失礼になっているので、お互いのためにも別れた方がいいのだろうと思うが、15年以上の付き合いなのでまだ勇気がない。
別れを告げられて困惑したのは「浮気」をすることで、私の彼氏への不満を軽減し、関係を改善できるかもと思っていた部分があるからだ。
DV男に裏切りと猥褻をされたことで、解離性障害と強迫的性行動症が発症し「好き」「浮気を通じて、彼氏との関係を改善してる」と思っていた。
私はもともと一途な性格で、浮気は絶対してほしくないし、浮気がしたかったわけでもないし、浮気を「概念として」肯定しようとする自分が昔からいた。
それは父からされた猥褻言動が母親への浮気行為だと捉えることができたから。
浮気が肯定できれば、自分が父にされたことも肯定、少なくとも矮小化できるかも知れないという思考回路だった。
あらゆるセラピーを経て、父と対峙・絶交した後も、自分に起きた性的加害を認めるのが難しい人格が潜在意識にまだ存在していたことに本人としても驚く。
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児童虐待で両親を起訴(準備中)
2019年8月、ニューヨーク州の刑法が改正され、性犯罪に関する時効が延長された。
18歳までに受けた被害について、被害者が55歳の誕生日を迎える日までに加害者を訴えることができるようになった。
18歳以降に起きた犯罪についても加害者を控訴することができるようになった。
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安楽死の準備(更新中)
こんなにもコントロールが難しく、大切な人の心を傷つけてしまう自分は早めに死んだ方がいいと思ってきた。
更なる被害を最小限にとどめるために、私は安楽死の準備をしている。
遺書の代わりに、子供の人権が尊重される社会のヒントになるよう己の経験をこうして綴っている。
子どもに「愛」という名で性的なことや暴力をふるうことに無自覚で悪気がなくとも、どのように罪なのか私はわかった。
どうか私みたいな人生を送りませんように。
………
「何をしてる人なんですか?」
これも聞かれると辛い質問のひとつだ。
「トラウマ治療、子どもへの性的虐待予防策、毒親の起訴、安楽死などについて四六時中考えたり実践しては、言語化している者です。」
本当のことなのに胸をはって言えない。
相手の反応が怖いから。
私の関心事はタブー視されてることばかりだからこそ、無いものとして扱うのではなく、身近なことなんだと気づくことが鍵になる。
私はそのきっかけになり得る当事者なのに。
もどかしさも含め、複雑な生い立ちと生き延び方を言語化して伝えることができれば、すんなり答えることができるかもしれない。
「トラウマ治療と児童性虐待予防策を試行錯誤しています。ご興味があれば『犯免狂子』という私の自伝を覗いてみてください。」
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参考資料
私の人生を変えた本
①"The Rape of Nanking: The Forgotten Holocaust of WWII" by Iris Chang、(邦題:ザ・レイプ・オブ・南京:第二次世界大戦の忘れられたホロコースト)
②『キレる私をやめたい〜夫をグーで殴る妻をやめるまで〜』田房永子著
③"Toxic Parents: Overcoming Their Hurtful Legacy and Reclaiming Your Life" by Susan Forward (邦題:毒になる親)
性犯罪予防おすすめ本
①『うみとりくのからだのはなし』遠見才希子作
②ジュディス・L・ハーマンの著書全て:
『真実と修復ー暴力被害者に撮っての謝罪・補償・再発防止策』
(原題:Truth and Repair: How Trauma Survivors Envision Justice)
『心的外傷と回復』
(原題:Trauma and Recovery: The Aftermath of Violence—From Domestic Abuse to Political Terror)
『父ー娘近親姦:家族の闇を照らす』
(原題:Father Daughter Incest)
等
③『なぜ少女ばかり狙ったのか(原題:Murder of Childhood)』レイ・ワイヤ著