【24】適切な距離感
人間関係において重要なのは、適切な距離感だと思う。その「適切な距離感」を具体的に感じられる事例を3つ挙げてみる。
①ブログを始めてから初めてスター通知が届いたとき、私はちょっと嬉しかった。私の記事が読んだ方の心に届き、星を押すという行動を招いたということなんだろうと思うから。
でも皮肉なことに私は、リアルの世界での友達や知り合いからフォローをされたり、「ブログ読んだよ」などと言われる度に恥ずかしくなり、アカウントを何度も削除している。
知らない人からの好評価と、知り合いからの好評価にどのような違いがあるのか。それは発言の自由度と、私のメッセージが無条件に他人の心に届いたということへの感慨深さだと思う。
私は先日も、SNSのアカウントを出会って間もない人に聞かれたため、うっかり教えてしまった。その人から私の発信についてコメントされる度に恥ずかしくなり、または監視されているような感じさえ受けた。私の発信はその知り合いを意識した内容になり、次第に投稿をしなくなり、とうとうアカウントを削除した。
今度こそ誰にも教えないし、まだバレてもないアカウントを新たに作った。そして不思議なことに、顔も名前も知らない人からの好評価を受け、満更でもない自分がいることに気づいた。
それは、私が誰からの目も気にせず正直に綴った文章が、私が書いたとは知らない誰かの心に(ごひいきなしで)響いたということだからだと思う。
それは、ありのままの私が受容されたような感覚。これを自分自身でもできるようになるためにこのブログも始めたんだ。
②吾妻橋を歩いていたら、隅田川のクルーズ船に乗っていた女性が手を大きく振っているのに気づいた。女性が手を振る勢いが次第に落ち着いてきたころ、私は控え気味に手を振った。すると、女性はそれに反応するようにもう一度勢いよく手を振った。私はなんだか面白いと思った。
船に限ることではないが、遠くにいる不特定多数の人に向かって無差別に手を振る行為は、SNSの裏アカウントで発信することと似ている。
例えば公園やカフェなど同じ空間で手を振るのは、知り合いがいる場合か、「勘違いな人」のどちらかだろう。要するに知らないとわかってる人に手を振ったりはしない。
でも船などから、別の船の乗客や陸にいる見知らぬ人に手を振るのは、お互いが別の空間にいるという、ちょうどいい距離感があるから成立するのではないか。遠いところから不特定多数に手を振るって、仮に応じてもらえなくても傷つかないけど、応じてもらえたらなんだか嬉しいという心理。裏アカで発信することと似ているように思う。
③もう一つ例がある。日本人の俳優が一駅分散歩するテレビの長寿番組がある。ある収録の中で、俳優が赤信号で待っていると、反対側に自転車に乗った母親と幼児がいた。人懐っこい俳優が母子に手を振ると、幼児がニコッとしたらしい。信号が青になると、俳優は母子に近寄り、幼児の顔を両手で撫で回しながら「なんで笑ってくれたのかな?ん?」と言った。
しかし顔を撫で回されている幼児の顔から笑顔は最早、引いており、むしろ引きつっている。それでも俳優は幼児の顔を頬をさわり続けた。母親は有名な俳優に我が子が可愛がってもらっていて、ご機嫌だ。俳優がようやくその幼児から手を離した後も幼児の表情は凍りついていた。
私はこの場面を見て、幼児が母親と一緒にいたにも関わらず、自分より大きな見知らぬ人からいきなり断りもなく顔を執拗に撫で回されたことによるトラウマを抱えていないことを祈った。
きっと幼児は信頼する母親と2人きりの時に、離れた距離に俳優がいて、母親も俳優に対して良い印象を持っていて、それが幼児に伝わり、気持ちの余裕から笑顔がでたのだろう。でも、いくら母親が俳優を知っていたとしても、幼児からしてみれば見知らぬ人であり、自分の境界線を飛び越して侵入する不審者同然。そりゃあ、顔も凍りつくわ、と私は思った。
こんなことを考えながら、その人気番組を観る人は私くらいだろう。でも私は幼児期に父親から性被害を受けた経験があるから、幼児の気持ちが手にとるようにわかる気がした。
有名な俳優だろうが、父親だろうが、関係ない話だ。人と人の間には見えなくとも境界線があり、その距離感が保たれることで、安心感や心地よさが感じられる。でもそれが脅かされると、たちまち不安で不快な感覚を覚える。
この距離感を一番わかりやすく説明できるのは、性教育だ。「嫌なことは、相手が誰であっても嫌だと言って逃げて誰かに話すこと」。この自分の人権を守る方法がなかなか浸透しないのは、自分より「力がある」とされる相手には無条件に従わなければならぬという真逆な教育が優先されているからだろう。