「やめて」・にげて・はなして。身内から子どもへの性犯罪:被害者から加害者になった私・犯免狂子が精神治療から学んだこと

4歳から父の猥褻・母の体罰が「愛情表現」と教わり、混乱の吐口としてきょうだいに性的・精神的な加害をしていことを治療中に自覚。3つの気づき:①家庭内で子どもへの性犯罪が、加害者の「無自覚」のうちに起きている。②性被害を否定することは、自己防衛本能が正常に作用しているからだが、否定し続けても苦しみは増す一方である。③被害を認めて精神治療を初めないと、被害者も「無自覚」のうちに自他を傷つけ加害者になってしまう可能性が高い。精神疾患「複雑性心的外傷後ストレス障害(C-PTSD)」歴35年以上。

【6】ナウシカ・レクイエムとトラウマの克服

スタジオジブリのアニメ映画『風の谷のナウシカ』を初めて最初から最後まで観て、トラウマの一部が解消された。


子供の時に初めて観たとき、のっけから「難しい」と感じ、多分途中で寝たのか、内容をほとんど覚えていなかった。なのに、「ナウシカ・レクイエム」のメロディーは鮮明に覚えていて、「怖い歌が流れるアニメ」という印象が強く残っていた。

 

ナウシカ・レクイエムが流れるシーンは、主人公のナウシカが幼少期、友達として遊んでいた王蟲の子どもが、父親をはじめとする大人たちによって連れ去られて行く悲しい場面。「ランランランララランランラン」という一見楽しそうなメロディーの中に絶望を感じるエンドレスループ。人生の中で避けて通れない「幸せの直後に訪れる不幸」を怖いほど忠実に表現しているように感じる。

 

私はなんとなく自身のトラウマ体験と深い結びつきを感じていた。それだけに、ジブリ映画の中で唯一、観なしたいとは思えない作品だった。

 

幼児期からのトラウマが原因で私は、同性12年の彼と長年すれ違いをしていた。そして今年の春、ふたりの関係が限界に達していた頃、私は失うものは何もないと思い、彼に真実を初めて語った。すると思いも寄らず、彼は私を許してくれた。私は等身大の自分を受け入れてくれた彼に、話の流れで「ナウシカのレクイエムのメロディーがトラウマだ」と話した。その際、彼がそのメロディーを最初から最後まで口ずさんだ。でも驚いたことにその時は、全く怖くなくて、彼と一緒に映画を観れば、映画に対する不可解な恐怖心は緩和されるのではないかと直感的に思った。私は彼と「一緒に映画を観たい」と言っていて、半年後の今日やっとその願いが叶った。

 

映画を見終えた後、意外に感じたのは、ハッピーエンドで終わるストーリーだったということ。王蟲を恐れて攻撃するのではなく、味方だということを理解すれば人間に害を与えない。腐海は人間が汚した土を浄化しているのだということ。

 

私の幼児期のトラウマ体験とも相通じるものがあると感じた。私は幼児期に父親から性的侵害を犯され、30年以上経った今も複雑性心的外傷後ストレス障害(C-PTSD)および月経前増悪(PME)の症状に悩まされている。

 

私は長年、月経周期による不調や鬱が、私を苦しめていると思い、女性に生まれた自分を憎んでいた。自分自身を追い詰めて、命を落としかけたこともある。が、それから人生をやり直そうと、自分を少しづつ労わるようになった。そして自分を大事にすればするほど症状は和らいでいった。完全には改善されていないが、徐々に良くなっている。

 

また複雑性PTSDや月経前増悪PMEの症状によるフラッシュバックは苦しいが、私が幼児期に受けた性被害を自覚させてくれた。近親姦被害の当事者として、自分のような人間を増やさないために、どのような意識と行動が必要なのかということを考えさせられた。

 

自分のように性的虐待を受けた人間が実は、年齢問わず女性にも男性にも大勢いるけれど、タブー視されている問題だから、ほとんどの人が誰にも話せず泣き寝入りし、記憶が辛すぎるために自覚さえなくして、理由もわからず苦しんでいるということ。

 

被害者が加害者になるということ。

 

「母親が息子に与える加害」などの事例からもわかるように、男女などジェンダーの問題だけでなく、「力が強い立場の者が、力の弱い立場の者に対するマウンティング」が構図として根底にあるということ。

 

性教育の基本が、相手が自分より力が強い相手であろうがなかろうが、自分の境界線を侵害した者に対して、はっきりと「やめて」「NO」と言えるということは全ての人に許され、憲法でも守られている「人権」だということ。

 

しかし、人権を守るということは、時には自分より力が強い相手に抵抗することであり、弱肉強食の世界では、それは命に関わるという危険性と隣り合わせだから、性教育はなかなか浸透しずらいということ......。

 

それでも人間らしく生きるためには、必要な知恵であり知識だということ。

 

それなら、その知恵や知識をどのように活かせばいいかを考え実践すればいいかということ。

 

私のトラウマは私を苦しめるためだけにあるのではなく、私を含め世の中をより良い方向に導くために利用することができるということ。

 

トラウマ体験は望ましくないけれど、当事者としてそれを身をもって理解しているからこそ、それを防ぐために何ができるかということを深く考え提案できる立場にいるということ。

 

私は自分をより良い方向に変える力を持っているということ。