「あなたは鬱じゃないと思う」と知人から何度か言われたことがモヤモヤしていた。その原因について考えていたら「躁的防衛」という言葉を知り、少しスッキリした。「躁的防衛とは、悲しみに直面するのを避けるべく、自分を常に躁状態(ポジティブでハイテンションな状態、気分が高揚した状態)に保とうとするもの」*1。私の場合、躁的防衛は、幼児期から家庭内で虐待を受けていた頃は私を守ってくれたのかもしれないが、今となっては私を苦しめている。もっと「等身大の自分」でいられたら楽になるのかもしれないと考え始めてみたものの、その「等身大の自分」というのが一体どういう感覚なのかという新たな謎に突き当たった。
背景
私は「幼児期から始まった近親姦被害(父親からの強制猥褻)がトラウマの発端で、複雑性心的外傷後ストレス障害(複雑性PTSD/C-PTSD)を発症し、月経周期によって症状が悪化する月経前増悪(PME)も併発し、慢性的な躁鬱状態になる」という話を以前からその知人に打ち明けていた。
しかも、その知人も似たような幼児体験をしたといい、原因はわからないけど成人してから鬱になり、医者からの処方箋で薬漬けにされて鬱が十何年も無駄に長引き、薬をやめたら鬱症状はなくなったという。彼女も近親姦被害や鬱を経験をしているため、私は多くを語らなくても理解し合える仲だと勝手に思っていた。
そのため、私のうつ病のことを知人から何度か否定された時は、耳を疑いたくなったのと同時に、それ会話をするのが面倒くさくなって、会うのも億劫になってしまった。
一方で、その人が「あなたは鬱じゃない」と思ったのもわからないでもない。私は「心身ともに調子が良い時(或いはそのように振る舞う気力がある時)」にしか他人(彼氏以外の人)と会わないと決めているから。だからその知人と会う時も、もちろん元気に振る舞っていた。でも、元氣を装うことができることなんて1ヶ月のうち、よくて数日間程度のことだったりする。その知人は私が鬱な状態を見たことがないから「私のうつ状態を想像できないだけ」なのだろう。
知人のことも自分のことも、頭では理解しているつもりでも、モヤモヤは続いた。
「躁的防衛」
その後、ある心理カウンセラーが「躁的防衛」について語られていて、その言葉が心に響いた。
「躁的防衛とは、悲しみに直面するのを避けるべく、自分を常に躁状態(ポジティブでハイテンションな状態、気分が高揚した状態)に保とうとするもの」
『「これでいい」と心から思える生き方』野口嘉則・著より*2
確かに、私は他人と会う時、無意識的に「躁的防衛」が作動していたと思える場面が多い。むしろ「鬱な自分は自分ではない」と否定し、「躁状態の自分こそ本当の自分だ」と思っていた節がある。躁状態の時は、幼女に戻ったような、ふわふわ浮いているような、地に足がついていないような感覚があったが、頭のどこかでそれが突然終わることにも気づいていたり、気づかないふりをしたりしていた。
思い返せば「躁的防衛」は、私の幼い頃から習得した知恵であり、習慣だった。私は自分の感情や感覚を両親から否定され続けて育ったので、その悲しみに直面しないように躁状態に保とうしていたのか、と考えると、不可解だった記憶が意味を持ち始める。
4歳の時、寝ている間に父親から性被害を受け、必死に逃げた翌朝、母親から「お父さんからメゴメゴしてもらったんだって?良かったねぇ」と言われて抱きしめられた。あの夜から朝にかけた数時間の間から、私の感覚や感情、住んでいた世界が壊れ始めた。
父はよく、私が生まれた時の思い出を嬉しそうに話した。どれほど私が生まれることを待ち望んでいたか、生まれたときの感激や、生まれた後の話もよく聞かされ、私は「愛されてきたのだ」と思っていた。こういう時、父親から受けた性被害の記憶は不思議となかった。当時は今より性被害の記憶が新しいはずなのに、記憶がなかったということは、相当、意識の奥底に仕舞い込んだということになる。フラッシュバックはあったが「ただの悪夢」として処理していた。
母親は短気な人で、暴言や体罰を加えてくる人だった。どこに地雷が落ちているか分からない彼女に振り回されないよう、私は自分の気持ちに蓋をしたり、無になろうとしたり、嫌われていると思って納得しようとしたり、色々な工夫をして平常心を保とうとした。
家族5人揃っで遠出のドライブに行く度、私は決まって1人で大声で戯けて場の空気を盛り上げようとした。普段は静かな性格なのに。父親が母親に対して「この娘、こんなにひょうきんだったっけ?」と聞いた時のことを鮮明に覚えている。性犯罪者である父がいる閉鎖された狭い空間(本来ならとても居心地の悪い空間)で、「幸せな家族の一員」を演じなくてはという強迫観念が、無意識に働いていたのだろう。あの頃の自分でも不思議だった行動の意味が、今になってやっと解けた気がしている。
子供の頃、解離性同一障害者(DID、いわゆる「多重人格」)のドキュメンタリーを見て興味を掻き立てられたことも思い出した。でも「憧れるのは不謹慎だ」という感覚があり、その願望を誰にも話さなかった。でも密かに「自分も多重人格になれたらどんなに楽だろう」と思ったのはハッキリと覚えている。同時にそんなことを思う自分は「変」なのだろうかとも思った。だから、30歳半ばになって精神科医から「解離性障害」と診断された時は正直、先生の診断を疑った。
「解離性障害は幼少期に性被害を受けた人に多い」という研究報告や本などを読むと腑に落ちる部分もあるが、それでもまだどこかで信じられない自分もいる。
そりゃあ幼児の時に、自分を守ってくれるはずの父親から性被害を受けたうえに、それを否定されたら、自分や世の中がグッチャグチャになるのは当然だと今なら思う。しかも、父親から言いくるめられたことに気づかない母親から「躾」という名の体罰や暴言を受ける日々を送る中、一体何が正しくて何が悪いのか全く理解できず、自分の頭や心を正常に保てなくなるのは、普通な反応だと今なら思える。私は自分の存在を呪うことでしか、状況を飲み込めなかったし、そのためか自分が自分ではない感覚をずっと持ち続けてきた。今もその感覚は根強く残っている。道理で同姓同名の誰か別の人間の人生を送ってきたような感覚になっているわけだ。
他人と一緒の空間にいると、相手の機嫌をとることや、場を盛り上げることが優先されて、自分の感情は置き去りにしてしまう癖はいまだにある。そして一人になって初めて疲労感を覚える。躁的防衛からの鬱。躁鬱を繰り返す。
だから、私のごく一面だけを見られて「鬱じゃない」と知人から判定されると、やっぱり私は他人からも理解されないと思い凹む。それは仕方のないことで、実際は自分が自分を理解できないことが問題だけなのは頭ではわかっている。
それだけ他人から自分の鬱なところを隠すことに長けているとも言える。そうやって私は自分が虐待に遭ってきたことを誰にも(自分にも)バレることなく生きてきたのだから。
私の躁も鬱もどちらの状態もよく知ってるのは彼氏だけ。「鬱じゃない」って知人に言われたことを彼に話すと「いや、鬱でしょ」と即答した(「やっぱりそうだよね」と思う私と、「え?即答するほど?」と思う私もいることは否めない)。彼は私が自分自身を理解するより早く、私のことを理解しているように思うことが多い。客観的に私のことを見てくれているからだと思う。それに、私も彼には自分を曝け出しているからだと思う。それができるのは、彼がどんな私をも否定はしない人だからだ(と思いたい)。
でも怖いのは、私はそんな彼に、押し殺して溜まった負の感情を衝動的にぶつけてしまうこと。私の暴言や裏切り行為を受けて、彼が精神的に病んでいくのを見るのは苦しい。両親のような加害者になってしまった自分はなるべく早く死んだ方がいいと思う(だから安楽死を目標にしているのだが、それまでには準備があるので、まだ生きないとならないジレンマがある)。
大事なのは、他人との適切な距離感。そのためにも他人の機嫌を取ろうとせず、なるべく等身大な自分であるように心がけてみる。
しかし「等身大の自分」ってどんな感じなんだろう。
謎解きは続く。